『螽斯』
冬が近づいていた。
螽斯である彼にとっての 冬とは季節的な意味合いでの冬ではない。
肉体的な、精神的な、(虫にこの表現を使うのは恐らく適切ではないが)経済的な終わりが近づくのを、螽斯は予感していた。
螽斯は脳は足りないが聴覚が優れていた。
故にここら一体の食べられる植物があらかた
枯れ尽くし、他の螽斯達の間で共食いが起きるほどの生き地獄が現実問題として起こっていることを螽斯は理解していた。
螽斯の夏は既に終わっていた。
音楽こそが彼の全てだった。
全てを懸けて全てを捨てて奏でた音楽で得たモノは、嘲笑と、侮蔑と、わずかばかりの称賛であった。
誰かと繋がるために音楽を奏でる虫達と、
誰とも繋がれなかったから音楽を奏でた螽斯
の音楽は、そもそも前提が大きく違っていた。
誰にも愛されなかった虫の鳴き声は、当然
そこまで愛されないまま風と共に消えてしまった。
それでも螽斯は不思議と後悔はしていなかった。
誰かに褒めて欲しかったわけじゃない。
ただ何もかもが最低だったんだ。
何もかもが最低で自分には誇れるものも守りたいものも何もなくて、だからと言って蟷螂やら烏のように強くはなれないから螽斯は 音楽に縋った。
たびたび螽斯の近くを通りすぎる 蟻達に螽斯は歌ってみせた。
蟻達の多くはそもそも聞いていないかひどく
不愉快な態度をとるかだったがたまに妙な蟻もいた。
「ほらよ、この蛙の肉、やる。」
蟻の内の一匹がそう言って小さく切り刻まれた 蛙の肉を螽斯に差し出した。
螽斯は蟻の言葉が分からなかったが恐らく彼は、あるいは彼女はそんなことを言った。
「いいのか?」
螽斯は驚いた。
「いいよ別に、うちの女王様てきとーだし、
スズメの肉と蛙の肉の区別もつかねーんだぜ?うけるよな。」
そのようなことを言って蟻は蟻達の列の中に戻っていった。
この螽斯は肉を食わなかった。
しかし彼は不思議と報われていた。
冬が近づいたからと言って螽斯の暮らしは
これといって変わらなかった。
ふらふらと跳んだり跳ねたりして食べられそうな草を探すのも、もげてしまった後ろ脚の痛みも時々ものすごい音がして近くにいた虫が ぺしゃんこに潰される怪現象も螽斯にとっては日常であった。
季節は秋の終わりだった。
まだ冬ではなかった。
螽斯は歌った。
懐かしい歌を歌った。
あの時蟻を立ち止まらせた歌を歌って、
新しい歌を一番まで歌った。
続きは明日歌おう。覚えていたら歌おう。
もし明日生きれていたら歌おう。
そんなことを思いながら螽斯は蛙やらヘビやらに食べられないように枯れ草の茂みで浅い眠りについた。
雪が、降り始めた。
(最後まで読んでくださりありがとうございます。)
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