大学での講義を終えた若井は、急いで駅前の補聴器店に向かった。元貴の壊れた補聴器を見せ、修理の見積もりと、新しい補聴器のカタログをもらう。修理には時間がかかりそうだ。
「はぁ……」
ため息をつきながら、マンションへ急ぐ。大学が終わってすぐに向かったが、時刻はもう夕方だ。
ドアを開け、静かに部屋に入った。
「ただいま」
声をかけるが、返事はない。聞こえないとわかっているが、習慣だ。
リビングに入ると、元貴がソファで膝を抱えて座っているのが見えた。場所が少し移動しただけで、朝と全く同じ体勢。ダイニングテーブルの上には、若井が作った朝食の皿が、手つかずのまま残されていた。
「おい、マジかよ」
若井はカバンを床に置き、ズカズカと歩いていって、元貴の前に立つ。
「なんで飯、食べてないの」
若井が手話で尋ねると、元貴は目を逸らした。その目は、昨日と同じように虚ろで、言われた言葉を咀嚼するのに時間がかかっているように見えた。
「……食欲ない」
元貴はそう答え、すぐに目を伏せた。
「食欲ないじゃねぇよ。食べろって言っただろ」
若井は怒りを抑えきれず、少し荒めの手話になった。
元貴は、それを見て、少し体を縮こまらせる。
「……また怒ってる」
元貴がそう手話で言う。その手つきには、また泣き出しそうな動揺が混じっていた。
「怒ってる。自分の体を大事にしないお前に、怒ってる」
若井は、さっきよりも少し落ち着いた手つきで、はっきりと伝えた。そして、補聴器の件を話す。
「補聴器、修理に出した。新しいのも、カタログもらってきたから、後で一緒に見よう」
元貴は、補聴器の話には興味を示さなかった。ただ、若井の顔を見つめている。
「何?」
と尋ねるも、元貴は黙って首を振るだけ。
「なんか食べないと。何なら食べれる?」
若井は、空気を断ち切るように勢いよく言った。
「……重いのは、いらない」
「じゃあ、お粥は?それなら食べれる?」
元貴は黙って頷いた。
若井がキッチンでお粥を煮ている間、元貴はソファでぼんやりと虚空を見つめていた。若井は鍋を見ながら、元貴の様子をちらりと見る。その視線に気づいた元貴が、若井に向かって手話をした。
「ちゃんと、直るかな」
「直るよ。でも、時間がかかるって。新しいのも、すぐ買える。明日、一緒に店に行こう」
若井は穏やかに返した。元貴はまた、目を伏せる。
「……若井、怒ってないの」
暗い表情をしている元貴に、若井は呆れて答える。
「壊されたのに、なんで俺が怒るんだよ」
若井は再び鍋に向き直った。
しばらくすると、お粥ができた。若井は元貴の前に熱々のお粥を差し出す。元貴はゆっくりとスプーンを持ち、一口、また一口と口に運んだ。若井はそれを見届けてから、自分の分の夕食を作り始めた。
夕食を終え、食器を片付けた後、風呂に入った。その後二人で寝室へ向かう。
ベッドに横になった元貴は、今夜は若井に背を向けることなく、若井の方を向いていた。
若井は元貴の額に手を当てる。熱はない。
「もう、寝よう」
そう言うと、元貴は若井の方に少し体を寄せた。そして、ゆっくりと手話をする。
「……若井」
「なに」
「俺が、明日死んだら、どうする」
またか、と思った。あと何回この質問をされるのか考えたこともある。死ぬなんてそんなこと言うな、と言ったこともあった。しかしいつも元貴は返答を聞いても黙ったまま、なんの反応も示さない。そしてまた同じ質問をする。終わらない試し行動。しかし聞いてくる理由はわかっている。
若井は元貴の目をまっすぐ見つめた。
「俺も一緒に死ぬ」
若井はそう手話で返し、元貴の体をきつく抱き寄せた。
「でも、死んでほしくないから、ずっと一緒にいる」
そうすると元貴は若井の胸に顔を埋め、若井のパジャマをぎゅっと掴んだ。
その夜、元貴は若井の腕の中で、一度も自傷することなく、静かに眠りについた。だが、若井は知っている。この平穏は、明日も続く保証などない。元貴のコレは、補聴器一つ、仕事一つで治るものではないのだ。
若井は元貴の髪をそっと撫でながら、目を閉じる。元貴をしっかりと抱きしめたまま、眠りについた。
翌朝、若井が目覚めると、元貴はすでに目を覚まし、若井の胸元でじっとこちらを見上げていた。
「おはよ」
若井はそっと手話をする。
「…おはよ」
元貴も静かに返した。いつものような虚ろさはなく、昨夜よりも少し落ち着いているように見えた。
若井は起き上がり、伸びをした。
「今日は、補聴器、見に行こうな」
そう言うと、元貴は小さく頷いた。
若井が簡単な朝食を準備し、二人で食べた後、元貴を連れて補聴器店へ向かった。
店員に補聴器を見てもらっている間、元貴は若井の隣で不安そうに立っていた。若井は、元貴の背中にそっと手を回し、安心させるように抱き寄せた。元貴は抵抗することなく、若井に凭れかかった。
店員が新しい補聴器の調整をしている間、若井は元貴と向かい合った。
「元貴。昨日、なんで、いなくなったらどうするって聞いたんだよ」
若井は、昨夜の元貴の質問の意図を尋ねる。理由はあらかた分かってはいるが、敢えて元貴に自覚させようとした。
元貴は、目を泳がせ、逃げるように視線を外そうとする。
「……別に、意味ない」
「嘘つけ」
若井は優しいが、譲らない。
元貴は観念したように、ゆっくりと手話をした。
「……ちょっと、不安だっただけ」
元貴の言葉に、若井は心の中で頷いた。やっぱりそうだ。自分の存在価値を、若井の反応で確認しようとしている。
「俺が、本気だってわかった?」
若井がそう尋ねると、元貴は小さく頷いた。
これでも完全に理解したわけではないだろう。今後もきっと、同じ質問をするのだ。しかし、その度に何回も伝える、改めてそう決意し、若井は元貴の手を両手で包み込んだ。
元貴は若井の表情を見て、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、若井から視線を逸らした。
その時、店員が新しい補聴器を持ってきた。元貴が新しい補聴器を耳につけると、若井は手話で話しかけた。
「聞こえる?」
元貴はゆっくりと頷いた。若井は、その表情を見て、心底ホッとした。
「よかった」
若井はそう伝えると、元貴の肩をポンと叩いた。
補聴器を付けても完全に聴こえるわけではないが、やはり、あるのとないのとでは違うらしい。元貴は声で話すのが好きじゃないので、補聴器を付けても手話をすることが多い。しかし、壊れてしまったものが新しく直ったことの安心感は大きいだろうなと思った。
補聴器店を出た後、二人は若井の通っている大学の近くにある公園のベンチに座っていた。先ほどまで検査を受けていた元貴は、時折、自分の耳をそっと触っている。
「新しいの、買えてよかったね」
若井が手話で尋ねると、元貴は顔を上げた。
「……うん」
そう答えたが、その表情は晴れない。補聴器が直ったからといって、元貴の中の痛みが消えるわけではないと知っていた。
「元貴。仕事のこと、どうする」
若井が切り出すと、元貴はまた俯いた。
「……わからない」
「佐藤のことは、法律サークルの先輩に聞いてみる。なんかアドバイスもらえるかもしれないし」
若井は、元貴のために何かできることはないかと、必死で提案する。
しかし、元貴は首を横に振った。
「いい。余計なことしなくていいから」
若井は元貴の頑なさに、少し苛立ちを感じた。しかし、元貴の自尊心と、これ以上若井に迷惑をかけたくないという気持ちが混ざり合っているのも理解できた。
「わかったよ。じゃあ、しばらく休んでろよな」
若井は少し投げやりにそう伝え、目の前の風景を見つめる。しかし、元貴からの視線を感じて顔を向けた。
元貴は若井をまっすぐに見つめている。なに?という顔をすると、影のように暗い笑みを浮かべたまま、口を開いた。
「…若井はさ、いつまで俺に付きまとうわけ」
またこれ系の質問だ。わざとこちらを突き放すような質問。若井は目を閉じ、深く息を吐いた。
「…いつまでって、ずっとだよ。元貴が、もう大丈夫だって俺を必要としなくなるまで」
若井がそう手話で返すと、元貴は小さく笑った。それは、諦めと、ほんの少しの安堵が混ざったような複雑な笑みだった。
「……そんな日、来ないよ」
元貴はそう手話で言い、若井から視線を逸らして、目の前の噴水を見つめた。
「来なくてもいい」
そう口だけで言うと、若井は元貴の手を握った。元貴がこちらを向く。
「来なかったら、ずっと元貴のそばにいるだけだから」
元貴は何も返さなかった。
「……若井」
「なに」
「………なんでもない。帰ろ、」
「うん、帰ろ」
若井は、そう言って立ち上がった。
〜〜〜
大切なお知らせ、ドキドキしましたね…
フェーズ3がどうなるか楽しみです!
コメント
4件
ふふふ🫢 もうすっごい好きですこの話! 表現が綺麗すぎてもはや神
それななな
