二人は、公園からマンションへ戻ってきた。
部屋に戻ると、元貴はソファーの端に勢いよく座り込む。少し外を歩いただけで、体力も気力も使い切ったようだった。
「元貴、夕飯どうす…」
荷物を置いた若井が振り向きながら尋ねると、元貴は既にソファーに横になっていた。手話をしかけた手を静かに下ろす。
「なんか作るから待ってて」
若井は、そう口だけで言い、キッチンに向かった。元貴の体調を考え、消化に良いものをと考える。
若井が冷蔵庫を開けた、その時だった。
机に置かれた元貴のスマホが、ブー、ブーと振動する音が聞こえた。LINEは何件も続いて送られてきているらしく、少し離れている若井にも振動がうるさく感じるくらいだった。
若井は冷蔵庫のドアを閉め、元貴の方を振り向く。机に伏せられたスマホから、ピカピカと光が出ている。元貴には音は聞こえないが、光で気づいたのだろう。顔面蒼白になり、横になったまま、慌てて手を伸ばしスマホを掴む。
(あぁ、職場か……)
元貴の反応から、若井は察した。しかし、何故あんなに焦るのか。何かが引っかかる。
元貴は、そのまま無視しようと、慌てて電源を切ろうとしている。
「待てよ」
若井は元貴の元へ急ぎ、その手を掴んで止めた。
「職場からだろ?」
元貴は黙ったまま、目を泳がす。”焦っています”と顔に書かれているような反応。分かりやす、と若井は思った。
「なんで返さないんだよ、無視はやばいだろ」
その強い手話に抵抗するように、元貴は首を横に振った。その瞳には、恐怖と拒絶が宿っている。
「いい。関係ないし。」
スマホが訴える光から目を逸らすように答える元貴。
「関係なくないだろ。…一応聞くけど、会社に休むって連絡はしてるよな?」
休んだ時に会社から連絡が来て焦る理由なんて、数に限りがある。休んだことを怒られたか、そもそも連絡をしてないか…。まさかな、と思いながらも若井がそう尋ねると、元貴はギクリとした表情を浮かべ、すぐに目を伏せた。
「……してない」
血の気が引いた。疑問が頭に浮かぶ。何故連絡しなかったのか理解が出来ない。連絡する気力すらなかったのか、そもそも忘れてたのか。当然連絡ぐらいは自分でするだろうと考えていた自分の甘さを憎む。
「はぁ!?無断欠勤だろ!何考えてんだよ!」
「うるさいな、若井には関係ないじゃん!」
お手本のような逆ギレをしてくる元貴に怒りが湧いてくる。
「関係なくないだろ!早く謝れよ!」
「うるさい!!いいんだって別に!」
「はぁ?何言ってんだよ、」
とにかく謝罪をしろ、ともう一度伝えようとしたその時だった。
元貴は若井の手からスマホを無理やり引きはがすと、腕を振りかぶる。
「おい、なにして」
元貴は、それを躊躇なく放り投げた。
ゴンッ、という鈍い音が、若井の耳に届く。
光と振動が止んだ。
一瞬、時が止まったように感じた。
リビングの端に落ちたスマホを見つめる。視界の端で元貴が肩で息をしているのが分かった。
「………」
若井はゆっくりとスマホが落ちた所まで行き、拾い上げた。角から落ちたのかヒビが入っていた。
買い替えだなこれは、とぼんやりと思う。
振り向くと、元貴がビクッと肩を揺らすのが分かる。目を合わせる気にもなれずに、そのまま通り過ぎて、キッチンに戻った。
怒りよりも、悲しみに近かった。
若井は、自分と元貴の間に、厚い壁が立ちふさがったのを感じた。
その夜、若井は元貴に背を向けながら、眠りについていた。別に癇癪を起こすことなんて初めてじゃない。不安や苛立ちから物を投げて壊すことなんて、前はよくあった。ただ、最近は収まっていたのに。フォローするだけの余裕が若井にはなかった。虚しくて、悲しかった。言葉で表せない疲労感が押し寄せていた。
不安定な元貴を放っておくのはまずい。そう思うのに、結局お互いがベッドに入るまで、ほとんど話すことなく眠りについた。
ベッドに入ってからも悶々と今日のことを考えてはいたが、疲労のせいか、若井はすぐ眠りに落ちてしまっていた。
ふと、寒気を感じて目が覚める。
ぼんやりと目を開けると、隣にいたはずの元貴がいない。
若井の心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。全身に冷たい汗が噴き出す。
(まずい、)
若井は飛び起き、すぐに部屋中を探した。リビング、キッチン、バスルーム。どこにも元貴の姿はない。ハッと思い立ち、ベランダに向かうも、ドアは閉まっており、外にいる気配もない。
(どこだ、どこに行ったんだ……)
若井は混乱しながらも、最後の望みを込めて玄関に向かった。
これで靴がなかったら。最悪の想像が頭に浮かぶ。
荒い息のまま、バッと玄関を見ると、
元貴のスニーカーはあった。
しかし、置かれたままの元貴と若井の靴がバラバラになっていた。確か揃えていたはず。
まるで踏みつけられたような…。
まさか、裸足で。若井はもう考える余裕がなかった。急いで寝室に戻り、枕元のスマホを掴む。リビングに置いてある財布も取り、パジャマのままスニーカーをつっかけて、ドアノブに手をかけた。
その瞬間、若井のスマホが、けたたましく着信を知らせた。
(誰だよ、こんな時に!)
若井は苛立ちながらも、反射的に電話に出た。
「もしもし!」
『夜分遅くに失礼します。警察署の者ですが、大森元貴さんという方に心当たりはありませんか』
若井の足が、その場で縫い付けられたように動かなくなった。
「…はい、元貴が、どうかしたんですか」
『実は、今、裸足で歩いているところを保護しましてね。職務質問させていただいたんですが、全く応じていただけなくてですね。お名前と緊急連絡先だけはメモに書いて教えていただいたので、こうして連絡しています。今、署で保護していますので、すぐにお迎えに来ていただけますか』
若井は、「裸足」「反応がない」という言葉を聞いて、元貴の身勝手さに怒りが込み上げると同時に、安堵した。
「すみません、すぐ行きます!」
若井は頭を下げ、急いで玄関を出た。
深夜の道を全速力で走る。若井が警察署に到着したとき、時刻は午前三時を回っていた。
受付で名前を告げると、中から制服姿の警察官が2人出てきた。若井が頭を下げた瞬間、警察官の背後にいる元貴に気づく。背中に手を当てられながら、誘導されている。歩き方がふらふらしているからだろう。若井は心配と怒りでぐちゃぐちゃだった。
「大森さん、良かったですね、お迎えですよ」
警察官が言うが、元貴は若井を見ない。思わず、大股で元貴に駆け寄る。
「お前さぁ!!!どれだけ…!!」
肩を掴み、前後に揺らした。元貴の頭がガクガクと動く。
大声で叫んだあと、声で言っても無駄だと我に返り、声と共に手話で怒鳴りつける。
「裸足で出歩くって何考えてんだよ!!いい加減にしろよ!!俺がどれだけ心配したか…」
若井はその勢いのまま、警察官に深々と頭を下げた。
「こんな夜遅くに、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ。…ああ、耳が聞こえないから、こちらの声が聞こえなかったんですね」
警察官は、若井が元貴に手話をしているのを見て、ようやく事態を理解したようだった。
「…すみません、少し事情をお伺いしても?失礼ですが、精神疾患などお持ちだったり…」
警察官はチラりと元貴を見た。虚ろな目で足元も覚束無い。ボサボサの髪にパジャマのままの姿で真夜中歩いていたら、自分が警察でも事情を聞くだろうな、と若井は俯瞰して考える。
警察官に向き直り、口を開いた。
あらかた説明したあと、警察官に解放され、二人は帰路を辿っていた。一人で歩かせたら、どこかに行ってしまいそうな元貴の手を握り、少し引っ張りながら歩く。
「なんで、何も話さないんだよ。警察官に耳が聞こえないって、手話で伝えればそれで分かってくれるだろ」
若井は、声だけで呟いた。当たり前だが、元貴は何も答えない。
元貴の手を引っ張る力が強くなる。自分が怒っていて早歩きになっているからなのか、元貴の歩くスピードが遅く感じる。
それにしても遅すぎる。元貴の全体重を引っ張っているような気がしてきた。我慢出来ずに、振り向く。
「お前、ちゃんと歩…」
ゾクッとした。元貴の目が、まるで死んでいるような目だったからだ。
焦点があっていない瞳。
思わず手を握る力が弱まった途端、スルッと若井の手をすり抜け、脱力する。
「…元貴」
なんと声をかけてたらいいのか分からない。理由は分かっている。明らかに昼間の一件で不安定になっているのだろう。しかしあれは元貴が連絡していなかったのが始まりだし、とモヤモヤと考えていると、突然元貴がその場にしゃがみ込んだ。
「…はぁ…」
ため息をつき、若井もしゃがみこみ、目線の位置を合わせる。顔を覗き込んだが、前髪で表情が見えない。その時、肩の動きがおかしいことに気づいた。
「…元貴。息浅くなってる。ゆっくり、」
と、背中を摩る。しかし声だけで言っても伝わらない。どんどん早くなる呼吸。
「元貴。大丈夫だから。」
「……ぁ、か…」
苦しそうな呼吸音から漏れ出た、小さく消え入りそうな声。
「…ん?」
「…わ、か…ひゅっ…ひ…っ…」
「大丈夫だって。ここにいるから」
背中を摩っていても、若井、若井とうわ言のように繰り返す元貴。耐えきれず、若井は元貴の顔に手をやり、無理やり上を向かせ、目を合わせた。
「ひゅっ…はぁ、はぁ…っ…ひ…っ」
顔を上げた元貴の目からは、涙が溢れ出ている。泣くほど苦しいんだなと思い、「だいじょーぶ」と口の動きだけで伝えた。すると、元貴は目を伏せ、首を振った。
「…ぉ…えん、ぁ…ひ…っ…ひゅっ…」
「喋んなくていいから。息吐いて。」
「…ひゅっ…ひっ…ぉ、えん…ぁ…」
「なに!いいから!」
若井は眉をひそませた。呼吸を整えるのに集中すればいいのに、頑なに何かを訴えようとする元貴に苛立ちを感じる。ただえさえ発音が不明瞭なのに、呼吸も整わない状態で言われても何を話しているか分からない。泣き続ける元貴からは変わらず喉がすり減るような呼吸音がする。若井は、たまらなくなり元貴を抱きしめた。
驚いた元貴が体を固まらせたのが分かる。ゆっくり体を離し、元貴に見えるように手話をする。
「大丈夫。怒ってないから。ゆっくり、息、吐いて。」
そう言うと、何故かさらに激しく泣き出す元貴。若井は困惑し、焦ってさらに伝える。
「なんだよ、怒ってないって。なんで…」
「ごめん、なさい」
荒い呼吸をそのままに、手話をする元貴。
あぁ、と納得した。それが伝えたかったのかと。その顔はとても苦しそうで、若井の方が謝りたい気持ちになった。
「…いいって。そんなこと」
口の動きを読んだのか、また首を振る元貴。
「怒って、壊した。ごめんなさい。」
「…いいよ。買い替えれば済むことだし」
と、今度は若井が目を伏せて言う。その様子を見た元貴が、顔を歪ませる。
「…きらいになったよね」
思わず目を見開く。元貴は、この世の終わりかのような顔をしていた。若井はすぐに首を振った。
「んなわけねぇだろ、こんくらいのことで」
なんでもないかのように返したが、本当は若井の方が不安を感じていた。自分が少し素っ気ない態度をしただけで、ここまでになるなんて。すぐに崩れそうな元貴にとてつもない恐怖を感じた。
「元貴、俺に合わせて、呼吸して。」
元貴の背中をトントンと叩いて、自分もゆっくりと呼吸をする。
いち、に、とリズムを教えるとだんだんと肩の動きが穏やかになっていく。青白かった顔色も血色が戻ってきた。
元貴の呼吸が落ち着いたあと、二人はまた歩き出した。
「なんで、出てったんだよ」
分かりきってはいるが、聞いておきたかった。自分の不安をぶつけたい欲が出たからだ。
「……嫌われたと思ったから」
「スマホのやつで?」
「…うん」
元貴の言葉は、若井の心を抉った。それだけで、という言葉を飲み込む。
「嫌うわけないだろ。…俺、目が覚めて、元貴いなくて、めちゃくちゃ焦ったんだからな」
少し泣きそうになりながら、それを怒りで隠すように咎める。
そんな若井を見て、元貴は、傷ついたように顔を歪ませた。
「…ごめん」
部屋に戻ると、若井は元貴をリビングのソファに座らせた。そして、すぐに洗面所に向かい、濡らした温かいタオルと救急箱を持ってきた。
若井は元貴の前に膝をつき、元貴の冷え切った足に触れた。足の裏は真っ黒に汚れ、小さな擦り傷がいくつかできていた。
若井は温かいタオルで、まず優しく元貴の足を拭いた。元貴は、されるがまま、何も言わずに若井の顔を見つめている。
元貴は、黙って若井の作業を見つめていたが、突然、若井の髪を触ってきた。
「疲れたよね」
若井はタオルを傍に置き、投げやりな手話で返す。
「…疲れたよ。もう元貴に会えなくなったらと思って、気が気じゃなかった」
若井はそう正直に伝えた。
「……でも」
元貴がここにきて初めて反論した。少し迷ったように手つきで話し始める。
「若井が、俺のこと、無視するから」
消毒液を机に置いた。
「無視はしてないだろ」
無視はしていない。元貴が話しかけたそうな雰囲気は感じてはいたが、若井が話しかけなかっただけだ。しかし、元貴は納得しない様子で続ける。
「ううん、無視した。無視したから、俺、不安になって…寝てる時も、嫌われたと思って、どうしようって…」
だんだんと目の焦点が合わなくなってきた。これはまずい。また過呼吸になる。そう思った若井は、
「そうだよな。ごめんな。」
と、元貴の隣に座って抱きしめた。背中を摩った後、もう一度元貴を見ると、表情は落ち着いていた。若井はこっそりと安堵した。
「もうしないから。な?」
背中を撫でながらそう言うと、安心したように頷く元貴。そして、若井の首元に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
これで良かったのかは分からない。何となく腑に落ちない感じはある。しかし、若井は元貴が落ち着いてたらなんでもいいや、という気持ちになっていた。
若井は元貴を抱きかかえたまま、眠りに落ちていった。
〜〜〜
めちゃくちゃ更新遅くてすみません!
テスト期間+風邪で寝込んだせいです!!
いつも読んでいただいてありがとうございます…!!これからも頑張ります!
コメント
6件
もぉぉぉぉ…っっ なんでこんな最高な話なんですか…っっ!! もう今一番楽しみにしてる話です 泣きたいですもう泣きたい 感動すぎて泣きたい

初コメ、失礼します〜…! ひよりさんの作品素敵でだいすきです… お身体お大事になさってください…😢更新楽しみに待ってます…!