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『────ごめん、エリー。ぼくがもっと強かったら、こんな事にはならなかったのに』
規則正しい機械音が小さく響く室内に一つだけベッドが置かれ、そこには幼馴染が酸素マスクを着けた姿で眠っていた。
その姿を窓に手と額を押し当てながらじっと見つめているのは、顔の彼方此方に傷の手当を済ませたばかりのリアムで、幼馴染の名を呼びながら何度もごめんと繰り返す。
子供達だけでは行ってはいけないと言われていた、街の中を流れる川縁。
そこで他の同級生達と一緒に遊んでいたリアムは、誤って川に落ちてしまった幼馴染を助けようと、幼いながらも必死に手を伸ばしたが、自らも川に落ちてしまい、気が付いた時には病院のベッドから心配そうに見守る両親と医者の顔を見上げていたのだ。
そして、幼馴染の意識がまだ戻らない事、いつもリアムに笑顔でクッキーやドーナツを食べさせてくれていた幼馴染の母親が、見た事がないような顔で睨み、指を突きつけてお前が私の子供をこんな目に遭わせたんだと非難するのを呆然と見つめるしか出来なかった。
いつも優しいおばさんと思っていた幼馴染の母親の変貌ぶりにただ恐怖を感じてシーツを被ってベッドの中で震えていたリアムは、入院が必要な怪我はしなかったことからその日のうちに家に帰れる事になったが、何時間か前まで何時ものように遊んでいた幼馴染は、酸素を吸入するマスクや心拍数などを調べる装置を体につけられベッドで眠っている現実に打ちのめされてしまう。
壁を隔てた向こう側にいる幼馴染に手を伸ばしても届かない事、いつも優しかったおばさんや、少し怖いがそれでも子供に優しいおじさんも無言でリアムを拒絶していた為、迎えに来た両親に連れられて病院を出るのだった。
この時のこの経験が、後にリアムを鍛え上げる事になるのだが、当時はただ涙を堪えながら病院を出て行くことしかできないのだった。
幼い頃の、ある種トラウマともいえる出来事を久し振りに夢に見たリアムは、重い溜息を一つ零し、目が覚めた理由と時間を探ろうと手を頭上に伸ばすが、触れるはずのベッドヘッドの感触と違うものに手が触れ、眠い目を瞬かせながら頭を仰け反らせて正体を確かめる。
そして、今自分が寝ているのがベッドではなくリビングのソファだと気づくと、何があったかを思い出して苦笑する。
ベッドはテレビを見てすぐに眠り込んでしまった慶一朗に貸した為、リビングで寝ていたのだ。
体が凝りを覚えそうだと苦笑して起き上がったリアムだったが、背後から名を呼ばれて思わずソファの上で飛び上がりそうになる。
「・・・リアム」
「!?」
ソファが盛大に悲鳴を上げるほど勢いよく振り返り、幅の広い肘置きに腰を下ろしてじっと見つめてくるのが慶一朗だと気付くと、無意識に安堵の息を吐く。
「ああ、何だ、起きたのか?」
気持ちよさそうに寝ていたからベッドに運んだけれど起きたのかと、己の失態を恥じるように頬を僅かに赤くしたリアムは、そんな軽口に笑うこともなくただじっと見つめられて瞬きをし、どうしたと眉を寄せる。
「・・・どうして」
「ん?」
慶一朗の口から掠れながらこぼれたのはドイツ語で、今でも感情が昂ったりすると英語や日本語よりもドイツ語が先に出てくることを教えられたリアムに、ドイツ語でどうしてそこまで優しいんだと問いを投げかけた慶一朗が俯きながら唇を噛み締める。
「うーん、別に俺にとっては当たり前なんだけどな」
どうしてここまで優しいのかと言われても困ると眉尻を下げるリアムもドイツ語で返すが、今まで付き合ってきた彼女たちにも同じようなことをしたのかと問われて瞬きを繰り返す。
直前まで付き合っていた彼女には盛大に振られた結果、忘れ去りたい存在になっていたが、それでもそれ以前の彼女たちにここまで優しくしていただろうかと過去を振り返ると、こんなにも優しい-それはどちらかといえば甘い-行動はしてこなかったと気付く。
「いや、お前が初めてだな」
「・・・どうして?」
「そうだな・・・お前が好きだからじゃ答えにならないか?」
今までの彼女たちとはうまく言えないが何かが違うと自分でも思っているが、きっと初めて男を好きになったからだの何だのが理由ではないと思うと素直に告げると、慶一朗が腿の上で手を握り締める。
「俺は・・・お前に相応しくない」
多分気付いているだろうが、一昨日遊んでいた友人は、お前が使う友人とは意味合いが違うと、傷パッドがまだ覆っている手の甲を逆の手で撫でながら自嘲する。
慶一朗の言わんとする事を理解し、確かに意味合いが違っているなと苦笑したリアムに、そんな俺をお前のような真面目で未来のある男が好きになるなんて一時の気の迷いだと笑った慶一朗だったが、リアムがソファの上で距離を詰めるように移動し、突然近寄られた事に驚いて座っていた肘置きから落ちそうになる。
それをリアムの手が慶一朗の腕を捕まえて引き留めるだけではなく、鍛えられている分厚い胸板にぶつけられるように引き寄せられ、咄嗟に何も言えず出来なくなる。
「・・・そんな顔で、笑うな・・・っ!」
慶一朗の顔を己の胸に押し付けるように後頭部に手を回したリアムが、この時初めて聞く怒りが籠ったような声でどうしてそんな顔で笑う、辛いときにまで笑うなと怒鳴り、慶一朗がただ驚きに目を丸くしてしまう。
「辛いときにまで笑うな。辛いなら、苦しいなら笑う必要なんてない」
癖だと言っていたが、そんな癖なんか忘れてしまえとも叫ばれ、今まで慶一朗に笑うなと言った人は二人だけだったが、ここまで怒った人はいなかった。
それを思い出した慶一朗の脳味噌が冷静になれと囁くが、それを無視したように腕があがり、リアムの広い背中へと上がるとシャツをきつく握りしめてしまう。
「・・・そんなこと、今まで誰にも、言われなかった」
「そんな不自然な笑顔を見て誰も何も言わなかったのか?」
お前の周りの人たちはお前の何を見ているんだと、声に冷たさや呆れを滲ませながら勢いを止められずに言い放ったリアムに、慶一朗の手に無意識に力がこもってしまう。
慶一朗に笑うな-というよりは笑っている理由を問い質したのは二人で、一人は中高一貫校で毎日一緒に過ごしていた同級生、島村ともう一人は総一朗の恋人、一央だった。
『何で笑ってるんや? 笑い続けるのもしんどいやろ?』
『ケイさんが笑ってる理由、多分やけど分かる。でも・・・いつか無理に笑わんでもええ人が出てくればええなぁ』
慶一朗の脳裏に、二人が辛そうな顔で口にした当時の様子が蘇り、いつか笑わなくても慶一朗自身を理解し受け入れてくれる人が出てくることを祈っていると一央が髪を撫でた事も思い出し、リアムがその人であればいいのにと強く思うと同時に、お前のような社会不適合者が前途有望なリアムと付き合えるはずがないだろうというこの世の全てを嘲る様な声も響いてきて、背中に回していた手を離してしまう。
「離すな」
慶一朗の手の動きに気付いたリアムが一言、離すなと強い口調で命じた結果、己の中で響く嘲笑より逆らえない声だと気付いたように慶一朗が再度手を回し、シャツを今度は遠慮がちに握りしめる。
「・・・今まで誰にも言われなかったんだな? じゃあこれかは俺が言ってやる」
お前が嫌だと言おうが、これから先何があっても俺だけは言い続けてやると、頭の形を確かめるように髪を撫で、頬を軽く押し当てたリアムの言葉が慶一朗の耳からすとんと胸に落ちた後、音もなくそれが弾け、痛みにも似た何かが全身を駆け巡る。
「無理に笑うな─────お前が嬉しいと、楽しいと感じた時にだけ、笑ってくれ」
いつだったか車の中で見かけた、子供みたいなあの嬉しそうな笑顔、それだけを見せてくれと頭を強く固定されて告白され、そんなこと無理だと震える声で返すと、プライベート以外では今更無理だろう、だから俺と二人きりの時だけでいい、無理に笑わないでくれと、さっきとは打って変わった優しい口調で懇願するように訴えられ、それでも出来ないと拒絶してしまう。
「分からない。分から、ないんだ・・・」
自分がどんな顔をしているのか、総一朗にもケネスにも言われたが分からないと、リアムのシャツを握り締めながら自嘲した慶一朗は、リアムの両手が己の頬をそっと挟んで真正面から見つめて来ることに気付いて軽く息をのむ。
「今まで、こんなこと、考えたことがなかった・・・」
笑っていれば皆何も言わなかった、だから考えることもなかったと、困惑を顔中に広げて情けないがと素直な思いを口にすると、それを褒めるような優しいキスが目尻に一つ。
「今まで分からなかった事をするんだ、情けないなどと言うな」
必要以上に卑下するなと優しく諭しつつもう一度目尻にキスをされ、全身から力が抜けていく感覚に捕らわれた慶一朗だったが、前と同じように奥歯を噛み締めて感情の崩壊を防ぐと、お前の言葉は本当に嬉しいし勇気づけられる。だけどその気持ちにはやはり応えられないと、力を籠めすぎてみっともなく震える歯の根で三度拒絶の言葉を伝えると、間近にあった顔に驚きと呆れが綯い交ぜになった感情が浮かぶが、感情の混沌を制したのは、晴れ渡る夏空を連想させるような笑顔だった。
「ケイは頑固だな。・・・でも、そういう所も好きだ」
慶一朗がいつも浮かべている笑顔とは比べられない、心底からのそれを目の当たりにした瞬間、頑なだった心がまるで解凍されたようにリアムへの思いを脳味噌の中で響かせ始める。
脳内に溢れかえる言葉の中、いつもは心の奥深くに潜んでいる筈なのに、慶一朗の行動を見えない鎖で縛っている感情が不意に沸き起こり、それに気づいた背筋に嫌な汗が伝い落ちる。
それは、今の環境が大きく変化をする、それに対する恐怖だった。
その恐怖を慶一朗は今まで何度か経験してきたが、その経験がリアムへの自覚した感情を抑え込み、今までの自分にとって都合の良い世界に身を置けと足止めしてくる。
恐怖を感じた時を思い出せ、何があった、心身ともに痛い目に遭っただろうと囁かれ、その恐怖に項垂れてしまう。
だが、目の前で惚れ惚れするような笑顔を浮かべる彼に対し、自覚してしまった思いを抑えることは難しかった。
だから、自ら拒絶しておきながら何て勝手なんだと己を嘲りながら逆にリアムの顔を両手で挟むと、その笑顔を何があっても忘れないでいよう、一生己の中に残しておこうと決めて薄く開く唇にそっとキスをする。
「ケイ・・・!?」
慶一朗からのキスは初めてで、それに驚いて顔を赤くしたリアムに一つ頷いた後、もう一度キスをし、リアムの腕から抜け出してしまう。
「・・・美味しい食事と気持ち良いベッドをありがとう」
「これぐらい、どうということはない」
「うん・・・でも、ありがとう」
変な時間に起こしただけでなくお前の気持ちを無碍にする様な事ばかり言ってしまったと反省しているのかどうなのか、俯いたままくぐもった声が謝罪をし、気にするなと返すとゆっくりと顔が挙げられる。
その顔は、今までリアムが見たことがない、感情の発露を辛うじて堪えている様な顔で、思わず手を伸ばすが、その手を逆に両手で包まれ、押し戴くように額に宛てがわれる。
「・・・ダンケ、リアム」
こんな手を持つお前に会えた、そして好きと言ってもらえた、それだけで満足だと泣き笑いの顔でリアムを見つめた慶一朗は、家に帰ると告げつつ手を離すと、リアムの返事も聞かずに家を出て行くのだった。
帰っていった慶一朗が初めて見せた、笑顔以外の表情。
それがまたリアムの脳裏に焼き付いた結果、髪をガシガシと掻き毟ってしまう。
いくつも表情を持っているのにどんな顔をしているのかが分からないという、自分で自分を分かっていない様子も気になるが、それ以上にただ慶一朗には心の底から笑ってほしいだけだった。
極論、己の好意を差し引いた上でも、その笑顔を見ていたかった。それが叶うのならば恋人という関係にあってもなくても良かった。
だが、あんな顔を見せられ、しかも食事を一緒に食べているから美味しく感じるとまで言われたのに、好きになってはいけないと言われてしまえば、その根底にあるもの正体を知りたくなってしまう。
慶一朗が短く語ってくれた己の過去。それが今でも彼の人生に影を落としているのは明白だった。
ならば、今まで最も近くにいてその影に気づいているだろう人に話を聞くのが一番だった。
その思いからスマホを手に玄関の戸締りを確認したリアムは、さっきまで寝ていたソファに腰を下ろし、真夜中にメッセージを送って悪いとまず謝罪のメッセージを送る。
朝になって返事があれば良いと願いつつキッチンから水をもってリビングに戻ってくると、テーブルに置いておいたスマホに着信があり、己の行動を棚に上げてこんな時間に誰だと舌打ちをしつつスマホを手に取る。
「ハロー」
『・・・リアム? メッセージをもらったから起きていると思っていた』
こんな時間の電話で驚かせてしまうなと、少しの申し訳なさを滲ませた声にリアムがヘーゼルの目を見張り、まさかすぐに返事があるなんて思ってなかったと素直に驚きを表してしまう。
『俺も、こんな時間にメッセージが来て驚いた』
「ああ・・・ちょっと確かめたいことがあったんだ」
お互い真夜中のメッセージに驚きつつ微苦笑でそれを収めると、リアムが溜息混じりに聞きたいことがあると口を開き、電話の向こうに先を促す沈黙が生まれる。
「・・・ケイの事だ」
『どうした?』
きっと世界中の誰よりもお前があいつのことを理解しているはずだと前置きをすると、単刀直入に聞くが、今でもケイはお前のボディパーツ扱いなのかと声を潜める。
『────!!』
「ケイがそう言っていた。俺はイチローのスペアだ、だから人を好きになってはいけないんだって」
今でもそうなのかと、家族の形は家族の数だけ存在するだろうが、お前とケイの関係はそんなある意味歪な関係なのかと、素朴な疑問に何割かの怒りを混ぜて問いかけると、さっきとは違う重い沈黙が流れ、どうなんだと問い詰めてしまう。
『ケイが、話をした?』
「ああ。教えてくれた」
少し前、勤務先の病院に虐待による頭部の負傷で救急搬送されてきた子供がいたが、その子供を救うことが出来ずに感情を爆発させたこと、その時に家族のことを少しだけ教えてくれたと伝え、なあどうなんだとせっつくように言葉を続けると、少し待ってくれと溜息をついた後、何かを決意したような声が、ケイがそれを話したのならお前は本当に信頼されていると安心したように小さく笑う。
「信頼されている?」
『ああ。今まであいつの隣近所の人が家に来たことなんて一度もなかったし、その話をしたなんて聞いたこともない』
あの時、一緒にケイの部屋で食事をしたが、それは初めての事だったと教えられて目を丸くしたリアムは、不思議だと弟と同じ声で笑う兄にそうなのかとしか返せなかった。
『お前が今言ったボディパーツの事だけど・・・あれは、ケイを縛り付ける呪いだ』
そんな呪いなど本当は存在しないし、またあってはならないことだと思っていると、口調を不意に変えた声にリアムが呪いと呟くと、もう聞いているだろうが十歳の時に初めてケイの存在を知った、その時からずっとあいつが抱えている呪いだと教えられ、本来ならば庇護し愛されるはずの家族によって、己の将来を双子の兄の為にだけ生きるように決定づけられたのかと、己にとっては俄かに信じられない事だと力なく呟くと、俺も信じられなかったと当時の驚きを思い出したように苦く笑う。
「お前も、辛いときに笑うんだな」
『え?』
「・・・辛いときに笑う必要なんてないと思うんだけどな」
自嘲であれなんであれ、辛いときにどうして笑うんだと、ついさっき目の当たりにした胸を掻き毟りたくなるような笑顔を思い浮かべつつつい呟くと、電話の向こうで驚いたような気配が伝わってくる。
『・・・お前もヒロと同じことを言うんだな』
「ヒロ?」
突然出てきた固有名詞らしきものに戸惑いつつ先を促せば、己の恋人だと教えられて微苦笑する。
『昔、ヒロに同じことを言われた』
「そうか」
『ああ────なあ、リアム、一つ教えてくれ』
「何だ?」
一つでなくてもいくらでも答えるぞと笑って返すリアムに小さな笑いが届けられ、ありがとうとドイツ語で礼を言われると、お前はケイが好きなのかと同じくドイツ語で問われて限界まで目を見張る。
『・・・久しぶりにドイツ語を使うから、この言葉であっているか?』
違っていたら恥ずかしいなと笑う声にリアムがあっていると返し、慶一朗の心からの笑顔を思い浮かべる。
ただそれだけで口角が上がり、声も弾んでしまうことを自覚したリアムは、その声のまま好きだとしっかりと返すと、愛しているのかとも続けられて激しく瞬きを繰り返す。
好きだとは思っているが愛しているのかと言われれば正直明確にそうだとは言えなかった。
ただ、独りきりで部屋で暴れたり、美味しいと感じることのない食事をしている姿を想像するだけで辛くなるのは愛しているからではないかと自問し、もしかするとそうかもしれないと自答する。
『リアム?』
「まだ、はっきりとは分からないけど」
今までの彼女たちにはそれなりに愛情を感じていたはずだが、ケイに対しては何かが違う、それがまだ分からないと素直に返すと、お前は本当に素直だなと好意的な笑い声が聞こえてくる。
「・・・幼馴染にもよく言われる」
素直で馬鹿正直でいつも誰かの事をまず考えて行動するお人好し。
お人好しのマッチョマンとケイにも言われたことがあると笑うと、その素直さや真っ直ぐさをきっとケイも好きになったんだろうと教えられ、そうだと良いなと笑い返す。
『────リアム、お願いがある』
「ん? なんだ?」
咳払いをした後に口調がまた変わり、何かに気づいたリアムも表情を引き締めると、ケイを頼むと、弟の事を誰よりも案じている兄の声が、未だに呪いに縛られているあいつを頼むと繰り返す。
「・・・ケイは、ボディパーツなんかじゃない?」
『当たり前だ。ケイは壊れた部品を交換するために育てられた人形じゃない!』
リアムの言葉に即座に強い否定の声が返ってきて、その語気の強さに軽く驚くと、俺の大切なただ一人の家族だ、その家族の体を奪ってまで生きるつもりもないし、そんなことは絶対にさせないと、きっと今まで弟に何度も伝えていたが正確に伝わってなかったであろう言葉を、リアムという赤の他人-端的に言えば弟の同僚で隣人というだけの己にそれを告げた意味を考えた途端、見えない何かが海底ケーブルを伝って遠く離れた日本から届けられたような気持になる。
届けられたそれはきっと己が想像できないほど重く辛いものを内包しているだろうが、この身体は容易く倒れることもないだろうし、友人が好意的に素直なバカと称してくれるこの性格も、きっと簡単には心折れないだろう。
己のある種の気楽さを自覚し、何が来ても大丈夫だと確信を得たリアムは、口元に太い笑みを浮かべて見えない相手に大きく頷く。
「安心しろ、イチロー」
例えケイが何をしたとしても俺は傍を離れないし、ひとりにしない。
自然と流れ出した慶一朗への思いを短く伝えたリアムは、電話の向こうから沈黙が伝わった後に、同じく短い、ああという返事を聞き、じゃあ後はケイの思い込みを解消すればいいだけだと朗らかに笑う。
『思い込み?』
「ああ、今お前が言っていた呪いか?」
このデジタルが幅を利かせている現代で呪いなどというのは相応しくない、どちらかといえば古くから言われ続けている為にその通りだと思い込んでいるだけだろうと頷くと、何かに気づいたようにリアムがもう一度頷く。
「お前もだ、イチロー」
『・・・俺?』
「そう。ケイがその呪いに掛かっているのなら、お前も同じじゃないか?」
慶一朗はスペアとして、お前はそんな彼に申し訳ないとずっと思い続けているんじゃないのかと、短期間の付き合いの後、こうしてメッセージのやり取りをする関係になって理解したのは、兄の弟への罪悪感と弟の兄への複雑な感情だった。
それを、お前自身も思い込みから解放されてもいいはずだと伝えると、短く息を飲む音が聞こえて通話が切れたのかと思ってしまう長い沈黙の後、感情が滲んだ震える声が小さく返ってくる。
『・・・ダンケ、リアム』
「どういたしまして」
『お前なら・・・本当にケイを任せられる』
だから頼む、あいつをその思い込みから解放してくれ。そして可能ならずっとあいつのそばにいてやってくれと、悲痛な思いが伝わる声にリアムが無意識に表情を改めて頷くと、もちろんと力むことなく返し、必ずあいつを守るとスマホを持たない手を握りしめる。
『・・・ケイは守らなければならない、からな』
その言葉は今まできっと弟をただひたすら守り続けてきた兄の言葉だったが、うんと頷いたリアムは、今度からは俺も守る、だけどケイにも守ってもらうと続けると、意外そうな声が小さく上がる。
「お互い相手を守る」
守り方は人それぞれだが、その心が体が傷を負わないように、もし負ってしまったら少しでも早く癒えるように傍にいることを伝えると、安心したような声が三度頼むと答える。
『こんな時間に電話をして悪かった、リアム』
「大丈夫だ。────イチローの許可も得たことだし、もう一度ケイに当たってみるか」
砕けたとしてもきっと大丈夫、ケイは優しいから破片を集めて組み立ててくれるはずだと、己の告白を嬉しいと笑い、でも受け入れられないと泣きそうな顔で拒絶した慶一朗ならわかってくれる筈と能天気気味に笑うと、その兄がもちろんと請け合ってくれる。
それに力をもらったと笑ってお休みを伝えると、向こうもお休みと返して通話が切れる。
慶一朗の事をその兄、総一朗と話し合った余韻がリアムの中にあり、このままベッドにもぐりこんでも寝られないかもしれないと思いつつベッドルームへと階段を上っていく。
隣の部屋に帰っていった慶一朗が少しでも心安らかに眠れますようにと願い、さっきまでその彼が寝ていたベッドに飛び乗ると、己の予想に反してすぐに眠りが訪れたようで、穏やかな寝息が室内に小さく響くのだった。