焙られた兎肉のようなものを咀嚼するベルニージュの横顔をユカリは見つめる。
しばらくしてベルニージュが話をまとめる。「怪物は宝飾品を身につけた生贄の美女をわざと見逃して、外から命知らずの肉を誘き寄せている。知ってか知らずかこの街の人々はその仕組みを利用している。そういうことね」
「知らないと思います」とユカリは間髪入れずに否定する。
「それは」ベルニージュは、ユカリを挟んで反対側に座る焚書官を気にする。「エイカの願望でしょう?」
「そうですけど、この喜びようを見ればベルニージュさんだって確信してるはずです。生き残るためとはいえ外の人間を利用していたなら、後ろめたさで苛むはずです」
ベルニージュは松明の火影に揺らめく微笑みを浮かべる。「そうだね。ワタシもそう思う。でもエイカ、この町の人々が仕組みを理解していないと仮定したら、残り二体の怪物の役割が決まってくる」
「そもそも怪物の役割っていうのが初耳なんですけど」相手を称賛したいユカリの気持ちが現れた途端に霧散してしまう。「先にそっちを話しておいてくださいよ」
「むしろ気づいておいて欲しかったんだけど、まあ、いいや。一体はおそらく入り口に陣取っているはず。一人として逃さないようにね」
ユカリは背筋が凍るような気分になる。「それってつまり私たちはその怪物のすぐそばを通ったってことですか?」
「そういうこと。魔女の愛玩怪物の中でも、おそらく老翁の大蛇が最も強くて、最も大喰らいなんじゃないかな。だから優先して外から来た生贄を食べ、入り口の亀裂に陣取っている奴は逃げ出そうとする者を食べる」
「なるほど。それが、私たちが入り口を素通りできて、そして入った者は誰も戻って来れない理由なんですね」ユカリははっとして宴を見渡す。喜びを歌い、幸せを踊る人々を眺める。「つまり、この町の人々が仕組みを理解していなかったなら分かってくる残りの一体の怪物の役割は、誘導?」
ベルニージュもまた視線を方々へ向ける。「そうなるね。全てがかの古代の魔女が用意したものだとしても、伝承や言い伝えなんて曖昧なものだけでは綻びが出る。確信をもって誘導する監督者を用意するはず。でもそれなら怪物に命じるより、人間たちを動かした方が……」
水を飲むユカリの視線の先、英雄たちの車座の向こうでシュビナがまっすぐにユカリとベルニージュを見つめ、称えるように拍手していた。人間にはとても真似できそうもない邪悪な笑みを浮かべて。
「グリュエー!」
そう叫ぶと共にユカリは隣席の焚書官の剣を抜き取り、シュビナに向かって投げつける。
シュビナは飛来した剣を容易くかわし、人ごみへと紛れた。
「話を聞かれた! ベルニージュさん! シュビナです! あいつが監督者、怪物です!」
ユカリの怒鳴るような言葉を聞いて、ベルニージュの他にグラタードと何人かの焚書官、そしてサクリフが立ち上がり、抜刀する。
グラタードの声が響き渡る。「総員戦闘態勢! 戦えぬ者は屋内へ退け!」
残りの焚書官も一斉に立ち上がる。しかし町の人々はしんとして、強張った笑顔でグラタードに視線を向けるだけだった。広場中央に据えられた焚火台のぱちぱちと爆ぜる音だけが聞こえる。日常がまだ胡坐をかいて居座っていた、すぐそばで非日常が牙を剥いていることに気づかず。
そこへ広場の外から大きく弧を描いて飛んできた何かが焚火台に叩きつけられる。薪が散乱し、火の粉が舞い、突然の事態に悲鳴が上がる。飛んできたのは人だ。この町の者だ。赤い服は火を弾くようだが白い髪に火がついて、苦しみの声を絞り出し、逃れるように地面に転がる。
ユカリを含む何人かが地面に敷かれていた絨毯を広げて飛び掛かり、覆いかぶさって鎮火を手伝う。
同時にどこからともなく鐘の打つような音が響いてきた。何度も何度も、打ち鳴らされ、その拍子は少しずつ早くなっていく。烈しい怒りのように、何かを警告するように、焦燥感を掻き立てる音が轟く。
囚われの町が安寧の崩れるを知り、悲鳴と雄叫びをあげ、大混乱が巻き起こる。人が人を押し倒し、長い裾に蹴躓き、用意された豪勢な食事を踏み潰す。
グラタードがユカリのもとに走り寄る。あの時の巨大な矛ではなく、他の焚書官同様に剣を構えていた。
「エイカ! 怪物はどこだ! どんな奴だ!」
「シュビナです! 最初に泉のそばで出会ったあの女。あちらの方へ人ごみに紛れました」
シュビナの消えた方向、人が飛んできた方向をユカリは指さす。人々はまだ見えざる脅威から、あるいは青銅の鐘のような威圧的な音から逃げ惑っている。
どこから襲い掛かって来るか分からない。戦士たちは耳障りな鐘の音に苛立ちつつ、シュビナの消えた方向へとじりじりと進んでいく。
焚火台に投げ込まれた者が暴れるのをやめる。火が消えたのだと分かり、絨毯を取り除く。しかし真紅の衣ばかりでなく、真白の髪にすら焦げ跡の一つも無かった。
「シュビナ!」と叫んだユカリは軽々と突き飛ばされる。
ほとんど同時にベルニージュが火を象った四足の獣をシュビナにけしかける。
しかしシュビナは物ともせず、火の獣を蹴り飛ばして消し去った。その足は青銅で出来ていた。両腕もまた青銅になっている。鐘の音の正体が明らかになる。シュビナはその青銅の手を上品に叩き、しかしそれだけで青銅の鐘を力任せに殴りつけるような音が辺りに響く。
勇敢だが愚かな焚書官の何人かが鬨の声とともにシュビナに躍りかかる。しかしシュビナがくるりと回転すると、長い裾の中から伸ばした戈のような青銅の尾に引っ掛けられ、焚書官たちはいとも容易く投げ飛ばされた。
再びシュビナはあの邪悪な笑みを浮かべ、手を打ち鳴らす。すると今度は風もないのに裾が大きくはためいたかと思うと、中から青銅の馬が二頭、絶望を誘う嘶きと共に飛び出してきて、次いで現れた青銅の戦馬車にシュビナは乗り込んだ。馬に鞭を打ち、禍々しくねじ曲がる戈の尾を振り回す。怪物であることを隠していた時の涼やかな声は失われ、鎚で殴りつけてくるような嘲笑を魔女の牢獄にこだまさせる。
驀進する戦馬車に狙われたグラタードが身をかわしつつも青銅の馬に切りつけ、しかしあっけなく剣を弾かれ、取り落し、車輪に踏み折られてしまった。戦馬車は抵抗に気づかなかったかのように、少しも速度を緩めることなく新たな獲物に突撃する。
血の呪いを受け、体の硬化が進んでいる者から犠牲になってゆく。青銅の蹄、青銅の車輪が無慈悲に倒れた戦士たちを踏み潰し、打ちのめす。運よく逃れた者もシュビナの尾の戈に捕えられて宙を舞う。
怨嗟の悲鳴が幾つも重なった。戦馬車は何者にも止められず、広場を何度も巡る。轍の環の内と外に分かれた戦士たちは、しかし手立てもなく逃げ惑うばかりだ。
ユカリは逃げ遅れた者、怪我した者、退けられなかった戦えぬ者を次々と屋内に放り込む。グリュエーの力で多少乱暴なやり方だが、その場に放っておくよりははるかにましだろう。
ユカリはサクリフがまだ広場にいることに気づく。戦えぬ者というのは血の呪いを浴びて体が硬化しつつある者を含んでいるはずだ。
「サクリフさん」ユカリはそばへと駆け寄り、肩を貸そうとするが拒まれる。「ここから離れてください。もう体がほとんど動いてないじゃないですか」
サクリフは微笑みを浮かべて否定する。「関係ないよ、エイカ。英雄は、怪物を打ち倒す存在なんだからさ」
「ユカリ!」と叫んだのはベルニージュだ。
青銅の轟音が迫り、ユカリはサクリフを押しやる。シュビナの戈が迫り、咄嗟に構えたのは不意に奪い取ってしまったサクリフの兜だった。戈は兜に食らいつき、ユカリを軽々と弾き飛ばす。訳も分からず広場をごろごろと転がりながら、しかし盾になった銀の兜を抱えて離さなかった。
「その場を動くな!」と言ったのはグラタードだ。
いつの間にか広場の中心にいたグラタードの持っていた矛が瞬時に伸び、巨大化して広場を半分に区切る。大蛇に突き刺さった時よりもさらに太く壁のように立ちはだかった。長いために通りの方までずっと伸びている。矛の壁が強い衝撃で揺れる。戦馬車がぶつかったのだ。
壁のようになった矛にすがるようにしてユカリは這う這うの体で立ち上がる。シュビナもグラタードもベルニージュもサクリフも矛の壁の向こうだ。落ちていた焚書官の剣を拾い、グリュエーの風に乗って矛の上によじ登る。
青銅の馬と戦馬車は横転し、シュビナは放り出されていた。しかし青銅の乙女は立ち止まることなく新たな犠牲者を求めて笑いさんざめき、舞い踊るように尾の戈を縦に横に振るう。青銅の腕で焚書官の剣を真正面から受け止め、青銅の戈を引っ掛けて放り投げる。その度に鐘を転がすような音が辺りに響く。逃げ惑う者を追い詰めるような恐怖を煽る音色だ。
ユカリはその音に違和感を覚えた。グラタードの巨大化した矛の上から見下ろしているために、シュビナの纏う赤い裾に隠れて見えないが、その足もまた青銅であったはずだ。あのように走れば、その青銅の足音が聞こえなくてはおかしいというものだ。
舞い踊るシュビナの裾がふわりと膨らみ、その足が普通の人間と同様の足になっていることに気づき、確信を得た。
ユカリは焚書官の剣をしっかりと握りしめ、青銅の馬の真上へと移動する。そして巨大矛から飛び降り、倒れた戦馬車から逃れるように暴れる青銅の馬に、体重と渾身の力を込めて剣を突き刺す。
青銅の鐘の如き悲鳴があがる。しかし悲鳴をあげたのは馬ではなくシュビナだった。シュビナはよろめき、赤の裾の下から血が流れる。ユカリは更にもう一頭にも突き刺そうと振り下ろすが、弾かれる。体重を借りなければ力が足りない。もう一度矛の壁の上へ登ろうと考えたその時、剣をグラタードに奪われる。
「私に任せたまえ。さっきの仕返しだ」
グラタードが剣を振り上げ、もう一頭の首を叩き切る。
シュビナは更に悲鳴をあげて足から崩れ落ちた。その隙にとどめを刺そうと動いたのは、兜を失って白髪を振り乱す青紫の瞳のサクリフだった。呪いの体で無理をしてシュビナに駆け寄る。
そうしてサクリフの剣はシュビナの胸を刺し貫いた。怪物の胸から血が噴き出す。噴水のように、鉄砲水のように。とてもその体に収まるような量ではなかった。血は瞬く間に洪水のように氾濫し、広場に倒れる戦士たちに襲いかかる。
間一髪のところで【微笑みを浮かべ】、ユカリは血の洪水に押し流されながらも魔法少女の衣によって呪いを受けなかった。その広場にあってただ一人呪いを受けずに済んだ。