テラーノベル
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深夜二時。
アパートの外で、重たい足音が止まる。
ガチャ、と乱暴に玄関が開いた。
「……おかえり、ライ」
緋八マナは、できるだけ明るい声を出した。
けれど、返事はない。
伊波ライは無言で靴を脱ぎ捨て、そのままリビングへ入っていく。
スーツはぐしゃぐしゃで、目の下には濃いクマ。
酒と煙草の匂いが少し混じっていた。
マナは急いでキッチンへ向かう。
「ご飯、まだ温かいよ。今すぐ——」
「いらねぇ」
低い声。
空気がぴりつく。
「でも今日、お昼も食べれなかったって……」
「だからいらねぇって言ってんだろ」
ライが机を強く叩く。
ガンッという音に、マナの肩が跳ねた。
その反応を見て、ライの眉が歪む。
「……なんでビビってんの」
「え……」
「俺が悪いみたいじゃん」
「そ、そんなこと……」
「思ってんだろ」
ライは立ち上がる。
一歩近づかれるだけで、マナの呼吸が浅くなる。
怖い。
でも、それを顔に出したらまた怒られる。
「ライ、疲れてるよね。お風呂先入る……?」
「話逸らすなよ」
ぐい、と腕を掴まれる。
「っ……!」
痛い。
細い腕に指が食い込む。
マナは思わず顔をしかめた。
「その顔」
ライの声が低くなる。
「俺が悪いって言いたいわけ?」
「ち、違うよ……!」
「じゃあなんだよ」
掴む力が強くなる。
「いた、ライ、ほんとに痛い……!」
「俺のほうが痛ぇんだよ!!」
怒鳴り声が部屋に響いた。
ライはそのままマナを壁へ押しつける。
背中が強くぶつかり、鈍い痛みが走った。
「っ、ぁ……」
「毎日毎日働いて、怒鳴られて、謝って、寝る時間もなくて……!」
ライの目は完全に余裕を失っていた。
「なのに家帰ってきても、お前はそうやって俺を責める」
「責めてない……っ」
「嘘つけ」
ドン、と壁を殴る音。
マナの身体が震える。
昔はこんな人じゃなかった。
優しくて、いっぱい笑ってくれて、
マナを抱きしめてくれる人だった。
でも今は違う。
帰ってくるたびに空気が張り詰める。
機嫌を間違えれば怒鳴られる。
触れられるのが怖い。
「……泣くなよ」
気づけば涙が零れていた。
「ごめ、なさい……」
「また謝る」
ライは苛立ったように舌打ちする。
その瞬間。
バチン、と乾いた音が響いた。
マナの顔が横へ弾かれる。
何が起きたか、一瞬分からなかった。
遅れて頬に熱が走る。
「……ぁ」
叩かれた。
理解した瞬間、身体が震えた。
ライも一瞬だけ固まっていた。
けれど、すぐに視線を逸らす。
「……お前がイライラさせるからだろ」
その言葉が、胸に深く刺さる。
マナは何も言えなかった。
言葉が出ない。
怖くて。
苦しくて。
「……ごめんなさい」
やっと出た声は、かすれていた。
ライは髪をぐしゃりとかきあげる。
「もういい」
吐き捨てるようにそう言って、寝室へ向かう。
扉が乱暴に閉まった。
静かな部屋に、マナだけが残される。
頬が痛い。
腕も痛い。
でも、それ以上に苦しかったのは。
ライが、自分を傷つけたことに慣れ始めている気がしたことだった。
マナはゆっくり床に座り込む。
テーブルの上には、冷めたままの夕飯。
昔は、
『いただきます』
って笑ってくれていたのに。
ぽろ、と涙が落ちる。
「……ライ」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
マナは震える手で、自分の腕についた痣をそっと隠した。
コメント
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第1話、読み終わりました。この「壊れていく音」というタイトルが、玄関の開く音・机を叩く音・壁を殴る音・頬を打つ音——それぞれの「音」に重なって、じわじわと胸に響きました。とくに「ライが自分を傷つけたことに慣れ始めている気がした」という一文が、構造として巧妙だと感じます。暴力の発生そのものより、関係性の“質的変化”を読者に気づかせる設計ですね。冷めた夕飯の描写も、対比として効いています。続きが気になります。