テラーノベル
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明け方の白っぽくなった空を見ると、いつだって何かよくないことをしているような気になって落ち着かなかった。
目が覚めたついでにもそもそとベッドから這い出て、キッチンまで音を立てないように歩く。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをゆっくり口に含み、俺はぼんやりと昨晩のことを思い出した。
間接照明だけに照らされた薄暗い寝室の中で、夢中で身体を重ねるその行為の記憶は、いつもひどく曖昧で途切れ途切れだ。もっとも、セックスとは本来そういうもののはずだった。少なくとも、事細かく鮮明に思い出せるようなものではない。
昨晩の記憶も、やっぱりぼんやりと頼りなかった。覚えていることといえば、熱に浮かされた自分の掠れ声と、二人の荒い呼吸、そして肌に触れる目黒の手のひらの、指先の、唇の、その感触だけだ。
そんなおぼろげな記憶でも、思い出せば身体の奥がじわりと熱くなるので、思わず首を振って、もう一度ミネラルウォーターを呷る。喉を通り過ぎていく水の冷たさが少しずつ熱を冷ましてくれる。飲みかけのボトルを冷蔵庫へと戻してから、俺は立ったままゆっくりと瞼を閉じた。
不安、というには大袈裟だけれど、長い年月をかけて石を穿つ雨垂れのような、微かな微かな痛みが、常に俺に付きまとっていた。それはもうクセみたいなものだった。誰と付き合ったって、否、誰かと付き合えば付き合うほどに、きまってその痛みは俺へと忍び寄ってくるのだ。
どうせいつか、愛なんて枯れるのに。と、心の中に生まれた小さな思考が、楽しいはずの日常にふと影を落とす。どれだけ愛したって、愛し合ったって、いつかそんな日々は嘘みたいに、消えてなくなってしまうのに。
かと言って、俺は“別れ”を恐れているわけではなかった。付き合うとか、別れるとか、そういうのはとても曖昧な口約束で、はじめから心を傾けているにはとても頼りないものなのだ。それよりも俺は、ただ確かにそこに存在したはずの“愛”が消えていくことの方が恐ろしかった。
何かが、気が付かないうちに消えてなくなっていくというのは、とても怖いことだ。愛情の反対は無関心だと誰かが言っていた。俺に対して無関心になる相手を見るのは耐え難い苦痛だったし、反対に相手に無関心になってしまう自分にも、決して気付きたくはなかった。
「……っ」
突然後ろから抱きすくめられて、俺は思わず息を止めた。
「めめ…」
ゆっくりと息を吐きだしながら、小さな声で名前を呼べば、まるで答えるかのように、ほんの少し腕の力が強くなる。その腕に手を添え、俺は首を傾げた。
「こんな時間に起きてくるなんて、珍しいね?」
「隣に人の気配がないから、目が覚めた」
「俺のこと、探したの?」
「そういうわけじゃないけど」
じゃあ、どういう…言いかけた唇が横から塞がれる。
「んん…」
はじめ、ぴったりと隙間を埋めるように重ねられたそれはすぐに開かれ、ぬるりと滑らかな舌が口の中へと入ってきたかと思えば、たちまち俺の舌を絡めとり思うままに動き回ってくる。あまりに展開が急すぎて一瞬混乱したけれど、少し遅れて、俺もそのキスに応えることにした。
しんと静まり返った部屋に響く、くぐもった吐息と、舌と舌とが絡まり合う濡れた音。
「っ、めめ、…ん」
時間にしたら一体どれくらいの間キスを交わしていただろう。長い長いそれに呼吸もままならなくなってきたので、右手で軽く目黒の胸を押すと、渋々といった風に唇が離れていった。
肩で息をしながら、まだ至近距離にある目黒の、寝起きでも変わることなく整った顔を見つめる。頬が、熱い。鼓動が早い。急に、涙が出るかと思うくらい鼻の奥がつんと痛んだ。
今こうやって触れ合っている瞬間のことも、いつか、忘れてしまうのだろうか。もしも、忘れてしまうのだとしたら。気にもかけないような、無関心な出来事になってしまうのだとしたら、“今”なんて無意味なんじゃないだろうか。愛し合うこと、なんて…。
俺は色褪せた“いつか”を想像する度に、笑顔で振り返った先に誰もいなかった時のような、小さな羞恥と虚無感に襲われた。
「また余計なこと考えてる? 阿部ちゃんの悪い癖だ」
口の端を持ち上げ、目を細めた目黒が言った。それはずいぶんな言い草だったけれど、きっと俺の考えていることなんて目黒の言うとおり余計なことでしかないのだろう。
何も言い返せないで目を逸らすと、そっと伸びてきた手のひらに熱い頬を包み込まれた。親指が、優しく目の下あたりをなぞる。
目黒の手は冷たかったけれど、俺の頬の上で次第に温かくなっていった。まるで、目黒の手のひらに熱を吸い取られていくようだ。それなのにまだそこは熱いままで、吸い取られていった熱が、そのまま俺たちの身体を巡っているみたいだった。
再び、目黒の唇が近付いた。
「ん、…」
角度を変えながら、幾度となく繰り返される深いキス。身体は壁へと押し付けられ、目黒の手がパジャマの下に潜り込んで俺の肌を辿りはじめる。少し触れられただけで、いとも簡単に押し寄せてくる快感の波。
「あ、あ…」
「阿部ちゃんは、こうしてる時が一番素直だよね」
「……っ、そういう…っ」
そういうことを、言わないで欲しい。羞恥で頬が赤くなったのがわかった。
言いかけた言葉はとうに目黒の唇の中に吸い込まれていて、頭の中が溶けた蜜で侵されていく。思考はどろどろに歪んで、何も考えられなくなる。気が付けば俺は、彼のシャツを掴んで、必死な途切れ途切れの声を上げることしかできなくなっていた。
声はすぐに枯れ、その頃にはベッドが良いとお願いしたとおりに真っ白なシーツの上に組み敷かれていて、俺は小さく軋むマットレスの音とともに、ただ目黒の腕の中で揺らされるだけだった。
俺の口からは消え入りそうな声で何度も、好き、という二文字が零れ落ちた。
一体俺は何を言っているのだろう。そんな風に頭の片隅の冷静な部分が呆れた声をあげる。けれど、その冷静な部分ももう爪の先ほどしか残っていなかったので、やがて霞んで消えてしまった。
俺は目黒の首にしがみついたまま、何度も何度も馬鹿みたいに好きだと言って、どうしてか泣きそうになったけれど、その涙はいつも零れる前に目黒の舌に吸い取られていた。目尻にそっと触れる唇の感触。それだけで、身体は更に熱を上げ、指先は震えた。俺は絶頂に向かって駆け上がりながら、目黒の唇をねだった。俺たちは昨晩から何度も交わしているはずのキスを、飽きることも知らないみたいに繰り返していた。
「ん、阿部ちゃん…阿部ちゃんっ」
「あ、めめ…、俺…、あ、あっ…!」
意識が真っ白に弾ける瞬間、胸の中にじわりと湧き上がる感情があった。
そうだ。いつも不思議に思っていた。何度愛し合っても、キスをしても、変わらないということを。
どうして、目黒とは飽きることも、褪せていくこともなく、こうしているのかと。否、むしろ日に日にその嵩を増していくくらいなのだ。胸を締め付けるような思いも、快楽でさえも。常に、それまで感じていたものを凌駕していた。
俺のちっぽけな痛みだって、いつの間にか目黒に吸い取られていた。俺は彼の唇が触れる度に、底なんてまるで見えないくらいに、愛情が深まっていくのを感じていたのだった。
次に目を覚ますと、カーテンの隙間からは眩しい日の光が差し込んでいて、室内が白くぼやけて見えた。目黒の腕の中で微かに身じろげば、その気配に目黒も目を覚ましたようだった。
誰に言うのでもなく、俺はポツリと呟いた。
「…俺、恋愛なんて、実ったら、あとは枯れてくだけだと思ってた」
そう、そんなものだって。一度始まった恋愛の行きつく先は、どうやったって終わりしかないのだと思っていた。恋が、始まった時に咲きはじめる花なのだとしたら、しばらくして満開になったそれは、やがて終わりに向かってゆるやかに枯れていくものだって。だけど、そうじゃないのだと、増えて、育っていくこともあるのだということを知ってしまった。
こんなに、もっと、愛しいと思うことがあるなんて。そんなの、誰もが思い描くけれど辿り着けない、理想のラブストーリーの中でしかないと思っていたのに。
俺はおもむろに顔を上げて、目黒の黒曜石みたいにキレイな瞳を覗き込んだ。目黒は黙ったままこちらを見つめ返していた。その瞳の中に、自分の姿が映るのを確認する。しばらく見つめ合った後、目黒が微笑んで、そっと俺の髪を撫でた。愛おしさをいっぱいに湛えた、柔らかな眼差しで彼は言った。
「阿部ちゃんが、好きだよ。出会った頃から、俺はずっと、愛しい気持ちが募るばっかりだ」
と、言い終えてから、少し照れた様子で視線を逸らす。そんな姿が可愛らしくて思わず俺は笑ってしまった。
俺も、同じだよ、お前と一緒にいると、愛しさが募っていくよ。そう答える代わりに、そっと指先でその精悍な頬に触れ、顔を寄せる。この次の俺の行動に気が付いたのか、小さく笑って顔を傾けた目黒へと、俺は引き寄せられるように口付けた。
ゆっくり、確かめるように重なる俺たちのキス。
それは優しい、とても、優しい、キスだった。
コメント
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あーーーこの不安な💚を🖤が包み込んでそれすらも愛してあげる感じがもう…すき。🤦🏻♀️🖤💚
なんか、ちゃんとえrの方もあってしかもこのほのぼの感が出せるの凄すぎます〜!! もう最高超えて神超えて宇宙ですね(?)次も楽しみにしてます😊
激重な愛好きですー(何でも好き😂) 完全にお互いしか見えてない感じも、どこか青くて可愛いです🥺