唇が離れたあとも、二人の距離はほとんど変わらなかった。ヴィクトールは目を伏せたまま動かず、ハイネもまた、そのまま言葉を失っていた。
「……」
心臓の鼓動が、耳に響く。
こんなにも、感情が乱れるのは、いつ以来だろう。
ハイネはゆっくりと視線を上げ、目の前の男の顔を見つめた。
月明かりの中で、国王の睫毛が震えているのが見えた。
「……愚かですね、陛下」
ようやく口を開いた彼の声は、どこかかすれていた。
しかし、それは怒りでも軽蔑でもなく──むしろ、何かを堪えているような、優しい響きだった。
「私などに、気を許しては。立場を忘れるとは……愚かだ」
ヴィクトールの肩が、僅かに震えた。
「ならば…拒めばよかった」
「……できませんでした」
その答えは、ハイネ自身が一番驚いていた。
こんなに胸が熱くなるとは、こんなに唇の感触を思い出してしまうとは──
あり得ない。あってはならない。けれど、心はもう知ってしまった。
「私も……愚か者です、ヴィクトール」
その言葉と同時に、静かに顔を伏せた。
長年、誰にも見せなかった表情を、ただひとりの男にだけ、許した夜だった。