テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「んー、おはよぉ。」
「おはよ。」
「…おはよう。」
昨日とは打って変わって、エアコンの効いた、ひんやり心地良い空気の中で、ぼくはゆっくりと目を覚ました。
昨日までの、暑さで目が覚めるような最悪な朝とはまるで違う。
涼しい空気が、布団の中にまでじんわりと染み込んでいる。
ただ、一つだけ。
いつもと違うのは、まだ布団の中にいるのに、部屋の中から朝の挨拶が聞こえてきたことだ。
昨日、バイトが決まり、意気揚々とエアコンのリモコンに手を伸ばしたぼく達だったけど、浮かれた気分もそこそこに、現実的な話し合いをする事にした。
バイトが決まったとはいえ、先月のようにエアコンを使い放題にしてしまえば、今月末にはまた電気代に青ざめる羽目になるのは目に見えている。
暑さに負けて、同じ失敗を繰り返す訳にはいかない。
なので、ぼくは考え、自室のエアコンは禁止し、エアコンの解禁はリビングだけと言う新たな宣言をする事にした。
と、言う事で就寝前、みんな暑苦しい自室を抜け出し、物置に置いてあった来客用の布団を引っ張り出し、エアコンが使えるリビングに集まったという訳だ。
涼ちゃん、ぼく、若井の順番に布団を3つ並べて、なんだか修学旅行やお泊まり会みたいな雰囲気にワクワクしてしまった。
他の二人も同じように思っていたのか、いつもよりちょっとだけテンションの高い、若井と涼ちゃんと一緒に、電気を消した暗いリビングの中、ごろごろ布団に転がりながら、つい深夜遅くまで、くだらない話や内緒の話に花を咲かせてた。
笑ったり、しょうもないことで突っ込み合ったり、少しだけ真面目な話をしてみたり。
そんな時間が心地よくて、夜が更けていくのが惜しいとさえ思った。
まあ、おかげで少し寝不足なぼく達は眠たい目を擦りながら布団から出てそれぞれ準備をし始める。
涼ちゃんは、寝ぐせのままキッチンに向かい、朝食の準備。
ぼくと若井はというと、昨夜、布団の上で話していた時に、今日、バイトで着る海パンがないことに気付くと言うプチハプニングがあった。
だけど、その場で涼ちゃんが『僕、何着か持ってるよ〜』と頼もしいひと言をくれて、一瞬で問題解決。
というわけで今、ぼく達は物置部屋をがさごそと漁って、涼ちゃんの海パンを探しているところだった。
「…あった!」
窓のないこの部屋は、どこの部屋よりも蒸し暑く、空気が肌にまとわりつくようだった。
額の汗が首筋をつたって背中に落ちる頃、ようやくぼくは奥のタンスの一番下、湿気で少し重たくなった引き出しの中に、それらしいものを見つけた。
「おっ、見つけた?」
すぐ後ろから若井の声がして、振り返ると、思った以上に近くてびっくりした。
ぼくは慌てて捻った身体をタンスの方に戻すと、適当に目の前にあった1枚を引っ張り出した。
「うわ。ヤシの木とパイナップル…凄いセンスしてんな…涼ちゃん。」
さっきの“びっくり”が吹き飛ぶくらい、派手な柄に、ぼくは思わず苦笑した。
「やば…あ、これは良さそうじゃない?…て、わぁっ!」
後ろに居た若井が、黒っぽいあまり派手そうじゃない一枚を引っ張り出そうと、手を伸ばした瞬間、バランスを崩したのか、ぐらりと傾いて、ぼくにドンと倒れ掛かってきた。
「わっ、あぶな!」
「あ、ごめ…っ、」
反射的に受け止めようとしたぼくの手が、若井のシャツの裾に触れる。
濡れた布越しに、うっすらと腹筋の感触が伝わってきて、心臓が変な音を立てた。
「……っ、な、なんで鍛えてんの?」
「え?あぁ、いや、なんとなく…夏だし?」
1ヶ月前、一緒にシャワーを浴びた際に見た時より、服の上からでも明らかに分かるその腹筋。
涼しい顔でそう言う若井に、ぼくは内心ますます混乱していた。
暑いのか、恥ずかしいのか分からない火照りが全身に広がって、何気ないふりをしながら、ぼくはそっと手を離した。
「…どこでこんなの売ってるんだよ。」
若井は何とも思ってないようで、体制を整え、お目当ての一枚を引っ張り出すと、引きつった顔でそれを眺めていた。
結局若井は、体制を崩しながらも手にした黒地に金の龍がプリントされている、本当にどこで売ってるのか分からない海パンではなくて、時間をかけて漁った末、消去法で、ヤシの木がカラフルに描かれているものに決めたようだった。
正直、全然納得した顔はしていない。
完全に“これしかなかったから”という諦めの表情だ。
一方のぼくはというと、タンスの端から、フード付きの薄いピンクのラッシュガードを発見した。
日焼けは絶対に避けたいぼくにとって、これは必須アイテムだった。
問題は、これに合わせる海パン。
色味的に、難易度が高すぎる。
悩んだぼくは、潔く判断を放棄して、三人の中で一番おしゃれな若井に選んでもらうことにした。
正直、ぼくも全然納得はしていない。
でも、確かにこのラッシュガードに合いそうな柄は、若井に渡されたコレしかないと、渋々受け取り、その頃には変な音を立てた心臓も、落ち着きを取り戻していた。
「二人とも遅いよ〜。」
選んだ海パンをリュックに詰めて、キッチンに向かうと、準備満タンの朝食を前にして、涼ちゃんが少しだけ頬を膨らしていた。
「ごめんごめん。色々あったから迷っちゃって。」
「でしょ〜。可愛いのばっかだもんねぇ。」
決して、“柄がヤバくて”とは言わない若井を大人だなと関心しつつ、相変わらずのふわっとした笑顔で、あの強烈な柄の数々を“可愛い”と断言する涼ちゃんに、 いや、ほんとに? とぼくは思いながらも、笑顔だけは貼り付けて、内心で静かにツッコミを入れた。
(いやいや、可愛いって言い切るのすごいな…金の龍のどこが…)
「「「いただきまーすっ。」」」
今日はバイト初日。
家を出るまで時間があまりなく、初日から遅刻する訳にはいかないぼく達は、海パンの話もそこそこに、朝食を食べ始めた。
ちなみに、メニューはいつものスクランブルエッグ。
期末試験初日依頼、目玉焼きは一度も出てこず、どうやらあの日の完璧な目玉焼きは“まぐれ”だったらしい。
本人は、『いやぁ〜、あれは奇跡だったね!』と笑っていたけど、悔しそうな顔をしていたのをぼくは見逃していない。
「なんかさ、制服じゃなくて海パンでバイトって…いまだに変な感じするよね。」
ぼくがそう言うと、若井はトーストをかじりながら軽く頷いた。
「分かる。でも、夏って感じでワクワクするよね。」
「僕、流れるプール好きなんだよねぇ。」
「ちょっと、涼ちゃん。遊びに行くんじゃなくて、仕事しに行くんだからねっ。」
そうツッコみながらも、どこかみんな楽しそうで、眠気がちょっとずつ晴れていく。
慌ただしく朝食を終え、支度を整えたぼく達は、家を出る前にリビングで並んで深呼吸をひとつ。
「いってきます。」
「元貴、いつも家出る時、それやってるよねぇ。」
「え?」
「ほら、手を合わせるやつ。」
ぼくが顔を上げると、『いってきます』と手を合わせてる姿を、涼ちゃんは不思議そうに見ていた。
「あぁ、これ?実家でもやってたからなんか癖になってるんだよね。」
「それって、誰に手を合わせてるの?」
「んー…ご先祖?かな。」
「そうなんだぁ。なんかいいね!」
「そう? 」
「僕もやろうっと!だって、今のこの楽しい生活が出来てるのは、この家を僕に残してくれたおじいちゃんのおかげだし。」
「そっか…そうだね。」
ぼくは、涼ちゃんが三人での生活を“楽しい”と言ってくれたのが、すごく嬉しくて。
胸の奥がじんわりとあたたかくなって、ぼくは少しだけ目を伏せた。
「若井もやろうよ~。」
ぼくと涼ちゃんのやり取りを見てた若井に、涼ちゃんは一緒にやろうと誘うけど、若井は『おれはいいよ。』と少しだけ笑って先に外に出ていった。
ぼくは、涼ちゃんと一緒に、今度は涼ちゃんのおじいちゃんに向けて手を合わせた。
「「いってきます。」」
・・・
まだお客さんが入る前のレジャープールに着くと、社員さんが出迎えてくれて、まずは一通り施設内を案内してもらった。
小さい時に、家族で来た覚えがあるけど、その時は人が沢山居て、凄く騒がしかったのに、誰もいないプールって、こんなにも静かで、こんなにも広かったんだと思う。
水の表面は鏡みたいに静まり返っていて、どこからともなく聞こえてくる水音が、やけに大きく響いた。
ぼくは少しだけ緊張しながら、初めて“裏側”に足を踏み入れたような気がして、きゅっと指先に力が入った。
「わぁ~っ。元貴、それにしたんだぁ。めちゃくちゃ可愛い~。」
案内が終わり、従業員用の更衣室に案内され、早速ぼく達は持ってきた海パンに着替える事にした。
着替えは基本的に更衣室に併設されているシャワールームで行うらしく、ぼく達はシャワールームへと向かった。
そして、既に着替えを終えて更衣室に戻ってた涼ちゃんが、着替え終わったぼくを見た第一声がそれだった。
ぼくは、更衣室に設置されていた全身鏡の前に恐る恐る立ってみた。
薄いピンクのフード付きラッシュガードに、白地に濃いめのピンクでプリントされた沢山のフラミンゴ。
白とピンクの二色構成とはいえ、中々のインパクトで、鏡に映る自分を見て思わず絶句する。
「元貴、肌白いからピンクが似合うねぇ。」
涼ちゃんは本気で褒めてくれているらしく、にこにこと無邪気に笑っていた。
ぼくは、どこかむず痒い気持ちになりながら、鏡の中の自分から目をそらした。
そのとき、後ろからガラッとシャワールームの扉が開いて、更衣室にTシャツを忘れていった若井が海パンだけの姿で出てきた。
「…ふっ。」
ぼくのピンク姿を見た若井が、堪えきれずに小さく吹き出した。
「笑うなー!若井が選んだんだからなっ。」
笑われたぼくは、顔を赤くして、若井の肩にパンチを食らわせる。
いや、でも正直、若井の反応が正常なのであって、涼ちゃんがおかしいだけなんだけど。
「ま…でも、似合うんじゃない?」
ぼくにキレられても尚、ニヤニヤしている若井は、どこか楽しそうだった。
やっぱり、前に見た時よりも引き締まった身体に、派手ではあるが意外と似合うカラフルな海パンと言う装いに、普段とは違う雰囲気を纏っていた。
(なんか…チャラい。ていうか、なんでそんな似合ってんのさ。)
視線を逸らそうとしても、気がつけばまた目で追っていて、 そのたびに胸の奥がざわついた。
ちなみに、涼ちゃんはというと、青い髪に合わせたのか、青いヒョウ柄の海パンで、どっからどう見ても、平成の世を生きた懐かしのギャル男でしかなかった。
普段から派手な服を好む涼ちゃんではあったけど、今日、改めて、涼ちゃんのファッションセンスとは一生分かり合えないと確信した。
とにかく、準備が出来たぼく達は、予め支給されていた防水ポーチに携帯や貴重品を詰めて、更衣室を出る事にした。
先頭の涼ちゃんに続いてぼくも出ようとしたその時、後ろから回された腕が、ふいにぼくの肩を引き寄せた。
「さっきは茶化しちゃったけど、可愛いと思うよ。」
耳元で、低く、柔らかく囁かれたその声に、心臓が跳ねる。
鼓膜に触れた吐息が熱を孕んでいて、ぞくりと背筋が震えた。
「っ…なっ…?!」
思わず肩をすくめるぼくに、若井は軽く笑って、そのままぼくの前をすり抜けていく。
まるで、何事もなかったかのように。
(…え、なに、今の…)
数秒遅れて、顔がじんわりと熱くなっていく。
鼓動は速くなるばかりで、まだ涼しい室内に居るはずなのに、なぜか暑苦しい。
そんなぼくを振り返りもせず、若井は涼ちゃんの後ろに並びながら、 ひょいっと片手を上げて、『元貴ー!置いてくよー!』 と、いつもの調子で言った。
ぼくは、それに返そうにも言葉が出なくて、 ただ俯いて、ラッシュガードの裾をぎゅっと握りしめた。
・・・
屋外に出ると、ぼく達三人はそれぞれ指定の配置につかされた。
昨日、若井からは監視員の仕事と聞いていたのに、監視員に抜擢されたのはぼくだけで、若井はウォータースライダーを滑る入口でゴーサインを出す係で、涼ちゃんはフードコーナーの窓口を担当する事になった。
因みに、ウォータースライダーの高さはビルで言うと7階相当の高さで、高所恐怖症の若井は半泣きになりながら担当するスタッフさんに連れていかれていた。
ぼくは、指定された流れるプールの近くにある監視台(有難いことに屋根が付いていた)に座り、お客さんが入ってくるのをのんびり待っていた。
それから30分。
老若男女、沢山の人があっという間に地面や水の中に溢れ返り、さっきまで静かだった園内が、一気に夏の喧騒へと変わっていった。
ぼくは、事前に教わった通り、目の前の流れるプールで、トラブルがないか監視する。
なにかトラブルが起きていないか、水の中で誰かが沈んでいないか。
目を凝らして見ているけど、当然そんな簡単に“溺れる人”なんて現れるわけもなくて、ただ、水の音と、はしゃぐ声と、日陰になっているとはいえ、暑い日差しの中、 時間だけが淡々と過ぎていった。
お昼の12時を過ぎた頃。
日差しがますます強くなり、水面がきらきらと眩しく揺れていた。
監視台の下を、同い年くらいの女子たちが数人で歩いていくのが見えた。
その姿に特に興味があったわけじゃないけど、暇を持て余していたぼくは、ふと耳に入ってきた会話に、なんとなく意識が向いた。
「さっきのフードコーナーの青髪の人、素敵じゃなかった?」
「分かるー!笑顔、めちゃくちゃ可愛かったよね!」
「てか、それで言うと、ウォータースライダーの赤髪のお兄さんめちゃくちゃクールでカッコ良くなかった?!」
「分かる分かる!滑る瞬間、背中押されて、めっちゃドキドキしちゃったんだけどっ。」
「えぇー!いいなぁ!私、そっちのレーンに行きたかったぁ。」
「じゃあ、後でもっかい行こうよ!」
「行く行く!あと、フードコーナーにも!」
青髪と赤髪。
彼女達の話を、聞いて直ぐにピンときた。
涼ちゃんと若井の事だ。
二人とも話を聞く限り仕事の方は順調なようで、しかも女の子にモテている。
なんていうか…羨ましいにもほどがある。
ぼくなんて、誰も目にしないようなこんな高いところに座って、ただ平和に流れていく人達を見ているだけ。
…まぁ、仮に二人と同じポジションだったとしても、陰キャのぼくは見向きもされないんだろうけど。
ぼくは、今もきっとモテているであろう二人に、言葉にはしない小さな嫉妬を抱えながら、休憩時間までの残りの数分をただ静かに過ごした。
ただただ暇だった(トラブルはない方がいいのだけど)前半を終えたぼくは、お昼を食べに涼ちゃんが居るフードコーナーに向かった。
やっぱりどこに居ても目立つあの青髪はすぐに見つけられて、ぼくは自然と小走りでカウンターに近付いていた。
思えば、大学でも家でも、若井か涼ちゃんのどちらかはいつも傍に居て、二人と離れて過ごすのはルームシェアを始めてから初めてだったんだと気付いた。
そんなことを思っていたところで、涼ちゃんがこっちに気付き、いつもの笑顔で手を振ってくれた。
たった数時間。
たったそれだけなのに、ぼくはずっと、少しだけ寂しかったんだなと、そのときやっと気が付いた。
「おつかれー。」
と、言っても、寂しかったなんて恥ずかしくて言えないから、ぼくは出来るだけいつも通りに、涼ちゃんに話し掛けた。
「元貴~。なんかめちゃくちゃ久しぶりに会った気がしちゃう。寂しかったよ~。」
なのに、涼ちゃんはあっさりとそれを口にしてしまうのだから、本当に敵わない。
だけど、ちょっとだけ胸がふわっとあたたかくなって…
ああ、涼ちゃんも、同じふうに思ってたんだな。
そう思うと、嬉しくなって。
ちょっとだけ、照れくさくなった。
「お腹減ってるんですけどー、お兄さん、どれが人気ですかー?」
ぼくは照れ隠しに、小芝居でお客さんの真似をしてみた。
「え~とですねぇ。僕はカレーが好きですっ。」
すると、ノリのいい涼ちゃんはノってくれる。
だけど、返ってきたセリフが、あまりに涼ちゃんらしすぎて、ぼくは思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「それじゃ、人気メニューじゃなくて、涼ちゃんが好きなメニューじゃん!」
ツボに入ったぼくはケラケラと笑いながらそうツッコんだ。
すると涼ちゃんも『あ!そっかぁ!』なんて言って、一緒に声を上げて笑い出す。
そんなぼく達の、様子を見てた他のスタッフさんが、『少し早いけど、藤澤君休憩入っていいよー。』と声を掛けてくれたので、お言葉に甘えて、ぼく達は仲良くカレーを注文して少し遅い昼休憩に入った。
前に涼ちゃんが『夏ってなんかカレー食べたくなるんだよねぇ。』と言っていたが、目の前のカレーを一口食べた瞬間、その気持ちがなんとなく分かった気がした。
特に凝った味でも、特別な具材が入ってる訳でもない。
それでも、今この瞬間に食べるこのカレーが、これまで食べたどのカレーよりも美味しく感じたから。
もしかしたら、空腹と暑さと。
…隣にいる誰かのおかげかもしれないけど。
「夏ってなんかカレー食べたくなるんだよねぇ。」
なんて思っていた矢先、涼ちゃんがあの時と同じセリフを、目の前で口にしたもんだから、 ぼくはもう、たまらず吹き出してしまった。
休憩時間が終わる頃、食べ終わった空の食器をカウンターに返しに行くと、さっき『休憩入っていいよ』と声をかけてくれた年配のおばさんが、にこやかに言った。
「仲良しだねぇ。ここまで楽しそうな声、ずっと聞こえてきたよー。」
涼ちゃんには、よく『若井と仲良しだよね』なんてからかわれるけど、
“涼ちゃんと仲良し”って言われたのは初めてで、 それが、なんだかとても嬉しかった。
後半も、幸いな事にプールで溺れる人はおらず、ぼくの出番といえば、プールサイドの道で転んで泣いてる子供を助けた事くらいで終わった。
シフトは前半・後半・通しの3パターンがあり、今日のぼく達は前半のシフトだった為、日が暮れる前に上がる事になった。
更衣室で今朝ぶりに会った若井は、一足先に着替え終わっていて、更衣室に設置されている ベンチに腰を下ろしていた。
その横顔は、朝見た時とは打って変わって、どこか暗く沈んでいて、静かに、負のオーラをまとっているようにも見えた。
少し戸惑いながら、ぼくは遠慮がちに声をかけた。
「お疲れ。」
すると、若井はゆっくりと顔をこちらに向けた。
眉尻は下がり、どこかうるんだような瞳がぼくを捉える。
(えっ、嘘でしょ。泣きそう…?)
思わず口を開いた。
「な、なにがあったの?」
若井はほんの数秒、沈黙したあと、小さくため息をついて、ぽつりと答えた。
内容は…確かに、若井にとっては死活問題だったのかもしれない。
でも、はっきり言って、あまりにもしょうもない。
深刻そうな顔で語られるその“情けない理由”に、ぼくは思わず噴き出しそうになってしまって、慌てて口元を押さえた。
まさか、いつもカッコイイ若井に、こんな一面があるなんて。
少ししてから、涼ちゃんも更衣室に入ってきて、ぼくと同じく若井の様子に驚き、心配そうな表情を見せた。
そして、『何があったの?』と聞く涼ちゃんに、項垂れている若井の代わりに、ぼくが答えてあげる事にした。
「高い所が怖くて今日一日ずっと震えてたんだって…!」
言い終えた瞬間、もう限界だった。
堪えていた笑いが一気に爆発して、ぼくは思いきり吹き出した。
若井が高所恐怖症だという事は聞いた事はあったけど、まさかここまで重症だとは思っていなかった。
「えぇ~、嘘でしょぉ?!」
涼ちゃんも、目を丸くしたあと、ぼくと一緒になって笑い出す。
まるで信じられないと言いたげに、肩を揺らしながら。
そんなぼくたちの様子を見て、若井はムッとした顔で口を尖らせた。
「…笑うなよ…ほんと、こっちは命がけだったんだから…。」
いつものクールな若井からは想像もできない拗ねた声に、ぼくはまた笑いが込み上げてきて、今度は声を出さないよう必死にお腹を押さえた。
そこで、ぼくは、思い出さなくていいものを思い出してしまった。
昼間、監視台の上からこっそり耳を澄ませた、あの女子たちの会話。
『てか、それで言うと、ウォータースライダーの赤髪のお兄さんめちゃくちゃクールでカッコ良くなかった?!』
『分かる分かる!滑る瞬間、背中押されて、めっちゃドキドキしちゃったんだけどっ。』
これだ。
あの時は、そういう雰囲気を出せる若井って、やっぱりすごいなって、ちょっと羨ましく思ってた。
でも今になってわかる。
…それ、ただ怖くて表情筋が固まってただけじゃん!!
気づいた瞬間、もうダメだった。
こみ上げてきた笑いが止まらなくなって、ぼくはまた声を出して笑い出した。
『なんだよ…!』と、不満げな若井が言ったけど、それすらもまたツボに入ってしまう。
きっと、昼間の女子たちが言ってたことを教えてあげれば、若井の機嫌も少しは良くなるのかもしれない。
『クールでカッコイイ』なんて、あの若井が聞いたら、きっと得意げな顔をするだろう。
でも、今だけは、この貴重な“情けない若井”をもう少し眺めていたくて。
ぼくはその話を、こっそり胸の内にしまっておくことにした。
コメント
3件
めっちゃ青春って感じがしてこのお話大好きです😭 高所恐怖症で泣きかけてる若様が可愛すぎる、、おすすめ聞いて自分の好きなカレー紹介してる涼ちゃんも天使ですか?😇