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翌朝。 名門・平安院学舎の正門前は、いつものように残酷なほど華やかな喧騒に包まれていた。
赤煉瓦の校門をくぐるのは、未来の日本を背負うエリートたちだ。彼らの靴音は高く、自信に満ちている。
そこへ、一台の黒塗りの馬車が滑り込んだ。
馬の蹄が砂利を蹴る乾いた音と共に、御者が恭(うや)しく扉を開けた。
そこから、伊集院エリザが優雅に降り立つ。
「ごきげんよう、エリザ様!」
「今日のドレスも素敵です!」
取り巻きの男子生徒たちが、甘い声を上げて駆け寄る。
だがエリザは扇子でピシャリと彼らを制した。
「……寄らないでくださる?」
エリザは露骨に顔をしかめ、バッスル・ドレスの裾を払った。
彼女からは、フランス製の香水と、高級な石鹸の香りが漂っている。
それは汗と埃にまみれたこの国には不釣り合いな「文明」の匂いだった。
「このドレスはパリ直輸入のオートクチュールよ。埃が舞うだけで価値が下がりますわ」
彼女の言葉は鋭利な刃物のようだ。
「あなたたちの軽薄な称賛よりも、清潔な空間を用意していただきたいものね」
彼女が歩き出すと、生徒たちはモーゼの十戒のように左右へ道を開ける。
続いて一台の人力車が砂利を噛んで止まった。降り立ったのは、財前征一郎だ。
「財前様……かっこいい……!」
「今日もクールでいらっしゃるわ……」
女子生徒たちの黄色い声援が飛ぶ。
しかし財前は彼女たちに目もくれず、懐中時計を取り出した。
「……予定より遅れている」
低い声。
「車夫の交代に無駄な動作があった。……君たちの黄色い声援を聞く時間は、今日のスケジュールには組み込まれていない」
財前は冷徹に吐き捨て、カツカツと靴音を鳴らして校舎へと消えていく。
彼にとって他人は、時間を浪費させる「ノイズ」か、利用すべき「リソース」でしかない。
そんな「選ばれし者」たちのパレードの脇を、影のように通り過ぎる二人がいた。
日下部彰悟と、穂積瑠璃羽だ。
彰悟は使い古して革が剥げた学生鞄を抱え、瑠璃羽は継ぎ接ぎを隠すように袖を合わせている。
すぐ横を生徒たちが通り過ぎるが、誰一人として二人に気づかない。ぶつかりそうになっても、謝りもしない。
まるで、道端の石ころか、透明人間であるかのような扱いだった。
「……今日も平常運転だな」
彰悟が自嘲気味に呟く。
自分たちからは、カビ臭い古畳と、安っぽい防虫香の匂いがする気がして、彰悟は思わず身を縮めた。
「……うん。行こ、彰悟くん」
瑠璃羽が小さな声で促す。 二人は誰とも目を合わせず、ひっそりと校門をくぐった。
放課後。終業の鐘が鳴り響く。
「えー、では今日はここまで。……あー、それと」
担任教師が、黒板を消しながら言った。
「財前、伊集院!」
名前を呼ばれた二人が顔を上げる。
「お前たち二名は、このあと校長室へ行くように。校長がお呼びだ」
クラス中がどよめいた。
「すげえ、選抜メンバーか?」
「何かの表彰だろ」
「さすがエリートは違うな」
称賛と羨望の声。教室の空気が華やぐ。
しかし教師は続けて言った。
「それと……日下部」
彰悟は、荷物をまとめて帰ろうとしていた手を止めた。心臓が嫌な音を立てる。
「……はい?」
「お前もだ」
一瞬の静寂。次の瞬間、クラス全員が一斉に彰悟を振り返った。
「は?」
「なんで日下部?」
「聞き間違いじゃね?」
「怒られるんじゃね?」
嘲笑と困惑の視線が、針のように彰悟に突き刺さる。居心地の悪さに、胃液が逆流しそうだ。
(……嫌な予感しかしないな)
彰悟は胃を押さえながら、渋々立ち上がった。
校長室。 重厚な扉の奥には、マホガニーの家具で統一された重苦しい空間が広がっていた。
革張りのソファ、磨き上げられた床、そして微かに漂う高級な珈琲の香り。
執務机に座っているのは、校長の花山院雅房(かざんいん まさふさ)
62歳になる元公家の子爵だ。
柔和な垂れ目と、立派な白いカイゼル髭が特徴的な人格者である。
その前には、財前とエリザに加え、上級生の烏丸玄五郎(17歳)と白川紗代子(17歳)が並んでいる。
彰悟は、その煌びやかなラインナップから一人だけ浮くように、すみっこに居心地悪そうに立っていた。
自分の着ている学ランの袖口が擦り切れているのが、この部屋ではやけに目立つ。
「校長。……これは何かの冗談ですか?」
口火を切ったのは烏丸だった。
「そうですわ。私たちと……その彼(日下部)が同席だなんて」
白川も扇子で口元を隠し、露骨に嫌悪感を示す。
財前は、冷ややかな目で花山院を見据えると、懐中時計をパチンと閉じた。
「不愉快です。この無駄な問答で、僕の生産性は著しく低下しました」
財前の視線が、氷の矢のように彰悟を射抜く。
「なぜ、そこにいる薄汚れた男まで呼んだのですか?我々と同列に扱われる謂(い)われはない。時間の無駄だ」
「私も同感ですわ。彼の服、何日洗っていないのかしら?部屋の空気が汚染されます」
エリザがハンカチで鼻を押さえる。
その仕草一つ一つが、彰悟の自尊心をやすりで削るように傷つけていく。
(……ほんと、帰りたい。こいつらと一緒とか地獄だろ)
彰悟は心の中で悪態をつきながら、表面上は「すんませんねえ、臭くて」と卑屈に縮こまってみせた。
「おや、財前くん。京都という街は、公家や財閥だけで出来ているわけではありませんよ」
花山院は穏やかに微笑むと、ステッキを突いて生徒たちの前に歩み出た。
「ここに集まってもらったのは、『天』『地』『人』……この街の全ての要素を背負う若者たちです」
花山院の視線が、財前と烏丸(天・権威)、エリザと白川(地・富)を順に巡り、最後に彰悟で止まった。
「そして……」
花山院は、真っ直ぐに彰悟を見た。
「日下部くん。君はかつて、初等部の頃、誰よりもこの学舎で輝いていた。……そして今は、誰よりも『痛み』を知っている。違いますか?」
「……あ……は、はい。多分」
彰悟は自嘲気味に笑い、頭を掻いた。
「……買い被りすぎですよ、校長。俺はただの血筋だけの貧乏人です」
「ふふ。その『地を這う目線』こそが、今の京都には必要なのですよ」
花山院は表情を引き締め、本題に入った。
「さて。今から話すことは、他言無用です」
「君たちも聞いたことがあるでしょう。『六道珍皇寺』の伝説を」
「ええ。地獄への入り口があるとかいう、迷信でしょう? 非科学的ですわ」
エリザが肩をすくめる。
「実はあれ、迷信ではありません。……真実です」
「!?」
生徒たちの顔色が変わる。財前が眉をひそめた。
「……は? いつも権威のある校長先生が、何を言い出すんですか?」
「校長。ふざけたことを言わないでいただきたい」
烏丸も抗議するが、花山院は真剣な眼差しを崩さない。
「まあ聞きなさい。この国には平安時代から代々、現世と冥界の均衡を保つ役職が存在します。
名を『冥界調律官(めいかいちょうりつかん)』」
「その第三十九代目が、先日引退を宣言されました。……そこで次代の冥界調律官を選ぶことになったのです」
室内が静まり返る。あまりに荒唐無稽な話に、誰も言葉が出ない。
「はあ? 何を馬鹿な……」
「おとぎ話はお嫌いですわ」
「この明治京都の超名門校、平安院学舎の選抜された生徒、つまり君たちに次世代の冥界調律官登用試験を受けてもらう」
花山院の言葉に、彰悟はため息をついた。
「本当だったとしても、そんな面倒なことやりたくないですよ」
「日下部、初めて意見が合ったな。試験など非生産的だ。そんな暇はない」
財前が冷たく言い放ち、帰ろうとする。
花山院は、慌てず騒がず、最後の一手を投じた。
「この話が真実だと、君たちにもすぐにわかります」
「私たちに何かメリットがあるのですか?」
白川が尋ねる。
「見事、第四十代目に選ばれた者には、閻魔大王より特別な『報酬』が与えられます」
「……報酬?」
彰悟の目の色が変わった。
「内容は私も知りませんが……過去、その報酬を手に入れた一族は、代々、末永く繁栄しています」
「……!」
(繁栄……?)
彰悟の心臓が早鐘を打つ。 没落した家を、元に戻せるのか?
莫大な借金を返し、かつてのような生活を……
そして、瑠璃羽を守れるだけのアドバンテージを手に入れられるのか?
それは、喉から手が出るほど欲しい「蜘蛛の糸」だった。
その時、校長室の扉がガラリと乱暴に開いた。
「おいおい、花山院の旦那。話が長えよ」
入ってきたのは、着流し姿の中年男だった。
室内に入った瞬間、むせ返るような安酒の臭いが充満した。
無精髭に、だらしない帯。神聖な教育の場に最もふさわしくない男だ。
「……貴様は誰だ。部外者は出て行け」
財前が鋭く睨む。
男は悪びれもせず、校長の革張りの椅子に勝手に座り込んだ。
「俺か?名乗ってやる。六角紫門(ろっかく しもん)
俺がその『引退したい三十九代目』だよ。……あー、肩凝った」
六角紫門(55歳)は懐からキセルを取り出し、弄びながら言った。
その瞳は濁っているようでいて、底知れぬ凄みを宿している。
「要するにだ。閻魔の旦那の使いっ走りをして、京都を救ってみせろってことだ」
「やる気のある奴は、地獄へ連れて行ってやる。閻魔大王に会わせてやるよ」
「地獄……閻魔……。狂っていますわ」
エリザが呆れ果てたように首を振る。
「時間の無駄だ。失礼する」
財前が背を向け、部屋を出て行こうとする。
紫門が、低い声で言った。
「明日の夜二十二時。六道珍皇寺」
その声には、有無を言わせない重圧(プレッシャー)があった。
酔っ払いの戯言ではない。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、血の匂いがした。
「来なければ不合格。……一生、その『退屈な日常』で満足してな」
財前がピクリと眉を動かす。彼は何も言わず、部屋を出て行った。
「登用試験の詳しい内容は、地獄で話す。絶対来いよ~」
紫門がひらひらと手を振る中、エリザたち他の生徒も不満げに出て行く。
最後に、彰悟が一礼して部屋を出ようとした時だ。
「……おや」
花山院が、開いたドアの向こう――廊下に目を向けた。
そこには、心配そうに待っていた瑠璃羽の姿があった。
廊下の陰にひっそりと佇む彼女は、どこかこの世の者ではないような静謐な空気を纏っていた。
「あ、すみません。こいつは俺の連れで……すぐ帰らせます」
「……いいえ」
花山院は、瑠璃羽をじっと見た。
怯えているようでいて、その瞳の奥にある「強さ」を感じ取るように。
あるいは彼女の背後に視える「何か」を見定めるように。
「名簿にはなかったが……ふむ。君もいいだろう」
「え……?」
「六角さんなら、君のような『静かな客』を歓迎するでしょう」
「どういうことですか?」
瑠璃羽は戸惑い、彰悟を見る。彰悟は小さく頷いた。
「詳しくは日下部くんから聞いてください。六角さん。いいですよね」
「ああ。お嬢さんの参加、大歓迎だ」
紫門がニヤリと笑った。
その笑顔は、どこか獲物を見つけた獣のようだった。
帰り道。夕暮れの鴨川沿いを、二人は並んで歩いていた。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしている。
川のせせらぎが、日中の喧騒を洗い流していくようだ。
「……どう思う?今の話」
彰悟が切り出した。
「嘘には……聞こえなかった。校長先生も、あの着物の人も」
「信じられないな。迷信だと昨日も馬鹿にしていた話だ」
「でも、騙されてみるのもいいんじゃない?」
瑠璃羽が、静かに言った。
彰悟は自分の掌を見つめる。豆だらけで、ささくれだった手。
「ああ。『家が繁栄する』って話……もし本当なら、これは千載一遇のチャンスだ」
「日下部家を再興できる。借金も返せる。……もう一度、一族が這い上がれる」
だが、すぐにその手から力が抜けた。
「でも……勝てるわけないよな」
「相手は、財前家に伊集院家だぞ?金も人脈も桁違いだ。俺には本当に何もない」
弱音を吐く彰悟。
すると瑠璃羽が立ち止まった。
「……あるよ」
「え?」
「彰悟くんには、私にはない『話術』がある。人を動かす魅力がある」
瑠璃羽は彰悟の背中を、トン、と押した。
その手は華奢だが、温かく力強かった。
「それに……一人じゃないもん」
「……瑠璃羽」
「行こう、彰悟くん。私も一緒よ。……地獄の底まで付き合ってあげる」
彰悟は驚いた顔をした後、ニッと笑った。
かつての自信が少しだけ戻ったような顔。
「……ああ。やってやるか」
翌日の夜。時計の針は二十二時を指している。
闇に包まれた六道珍皇寺の山門前。彰悟と瑠璃羽が並んで立っている。
門の奥からは、この世のものとは思えない冷たい風が吹き出していた。
「……行くぞ」
「うん」
二人は意を決して、常世と幽世の境目へと足を踏み入れた。
それが、もう二度と引き返せない運命の入り口だとは知らずに。
明けて翌日。文明開化を急ぐ街の喧騒も、二人にとっては地獄の刻限(こくげん)を告げる砂時計の音に過ぎなかった。
丑三つ時にはまだ早いが、古都の夜は漆黒の闇に支配されていた。ガス灯の青白い光も届かぬ松原通の突き当たり。
「六道の辻」と刻まれた石碑が、亡霊のように白く浮かび上がっている。
六道珍皇寺。
この世とあの世の境目とされるその場所には、湿度を含んだ重苦しい静寂が張り詰めていた。
カエルの鳴き声すら聞こえない、真空のような静けさだ。
「……えっ」
山門をくぐった瑠璃羽が、小さく息を呑んだ。
闇に沈む境内には、すでに四つの人影があったからだ。
財前征一郎、伊集院エリザ、そして上級生の烏丸玄五郎と白川紗代子。
昨日の昼間に、校長室で顔を合わせた「選ばれしエリート」たちが、全員揃っていた。
「お前ら……結局、全員来たのかよ」
彰悟が呆れたように声をかける。
財前が懐中時計をパチンと閉じた。月明かりの下、その銀縁眼鏡が冷ややかに光る。
「勘違いするな。オカルトを信じたわけではない」
財前の声には、一切の揺らぎがない。
「だが……調べたところ、花山院校長の実家は代々、朝廷の祭祀を司る家系だ。
彼が『真実』と言うなら、確認する義務(タスク)がある。もし詐欺なら、その場で警察に突き出すだけだ」
徹底した合理主義。
だがその瞳の奥には隠しきれない好奇心と、得体の知れない利益への嗅覚が光っている。
リスクを恐れず、一縷の可能性に賭ける貪欲さ。それが財閥を率いる者の資質なのだろう。
「私もよ。パパに話したら『一%でも利益になる可能性があるなら、ドブの中でも拾いに行け』と言われたわ」
エリザが扇子で口元を隠しながら、不快そうに周囲を見回した。
「万が一、本当に『繁栄』が手に入るなら、みすみす逃すわけにはいかないもの。……もっとも、こんな不潔な場所だとは思わなかったけれど」
彼女はドレスの裾が地面につかないよう、神経質に持ち上げている。その表情には、泥臭い場所への生理的な嫌悪感が滲んでいた。
「わ、私は……財前くんが行くと言うから、見届け人としてだな……」
「わたくしもですわ!」
烏丸と白川も、不安そうにしつつも帰ろうとはしない。
(……なるほどな。こいつら、抜け目がない)
彰悟は鼻を鳴らした。
プライドは高いが、利益のためなら泥水でもすする覚悟がある。その執着心だけは、認めざるを得ない。
(偉そうなだけじゃない。彼らは貪欲なんだわ)
瑠璃羽もまた、冷めた目で彼らを見ていた。
(あなたたちが欲しいのは『更なる富』でしょうけど……私たちが欲しいのは『生存』なのよ。覚悟の次元が違うわ)
その時、山門の外から、調子の外れた鼻歌が聞こえてきた。
「六道の~辻~♪ 酒の~入り口~♪」
千鳥足で現れたのは、六角紫門だった。
片手に一升瓶をぶら下げ、顔はほんのりと赤い。完全に出来上がっている。
酒臭い息が、境内の張り詰めた空気を一瞬で緩ませた。
「……来たわね。昨日の『酔っ払い』」
「指定時刻に遅刻とは。……これが『冥界調律官』の規律か?」
エリザと財前が詰め寄るが、紫門は悪びれもせず一升瓶を振った。
「んあ?……おー、揃ってる揃ってる。悪いな、現世の酒が美味すぎて、つい一本空けちまった」
「ふざけるな!やはりタチの悪い悪戯だったか。帰るぞ!」
烏丸が激昂して踵(きびす)を返そうとする。
「ま、疑いながらも全員来たわけだ。……その『欲深さ』こそが、冥界調律官の第一条件だぜ?」
「なんだと?」
「帰るのか?……ハッ、こいつを見てから言いな」
紫門の目が、一瞬で鋭く細められた。
彼は本堂の裏手にある古びた井戸の前に立った。
苔むした石組みの井戸からは、冷蔵庫を開けたような冷たい風が吹き上げている。
紫門は持っていた一升瓶を傾け、中身の酒をドボドボと井戸の中へ注ぎ込んだ。
「清めの酒だ。……開(あ)けろ」
ボウッ!!
井戸の底から、突如として青白い鬼火が吹き上がった。
化学的な炎ではない。肌に触れれば魂ごと凍りつきそうな冷たく禍々しい霊気だ。
「なッ……!?」
「きゃあっ!」
白川が悲鳴を上げて尻餅をつく。
財前さえも、論理を超えた現象に後ずさった。
「さあ、来な。地獄への片道切符だ」
紫門はニヤリと笑うと、躊躇なく井戸の中へ身を躍らせた。
ドプン、という重い水音もなく、男の姿が闇に消える。
波紋が消えた後には、底知れぬ闇を湛えた水面だけが残り、鬼火がゆらゆらと手招きしている。
「こ、ここに入るんですの? 泥だらけになりますわ……」
「嫌なら帰れ。誰も止めねえよ」
井戸の底から、紫門の声が反響して響く。
顔を見合わせる生徒たち。誰も動けない。
足が竦(すく)んでいるのだ。
未知への恐怖と、生理的な嫌悪感が彼らを縛り付けている。
「……行くぞ」
沈黙を破ったのは、彰悟だった。
彼は震える脚を叱咤し、迷わず井戸の縁に足をかけた。
「正気か、日下部?」
財前が信じられないものを見る目で問う。
彰悟は、強がって不敵に笑ってみせた。
「チャンスが底にあるなら、肥溜めだって潜るさ。……貧乏人は失うもんがねえからな」
彰悟に続いて、瑠璃羽も小さく頷いて降りる。
瑠璃羽は、後ろで泥と闇を恐れて足踏みする財前やエリザを、肩越しに冷ややかに一瞥した。
(あら、おフランスの布きれを汚すのが、死ぬことより恐ろしいのかしら。彰悟くんの覚悟を「賑やかし」だと笑ったあんたたちが、
いざ地獄を前にして無様に震えている姿、最高に滑稽よ。泥にまみれる覚悟もない腰抜けの分際で、
二度と彰悟くんをその汚い尺度で測らないで。あんたたちの空っぽなプライドごと、三途の川の洗濯板で洗い流してあげたいわ)
それを見て、財前が舌打ちをした。
「……チッ。行くぞ」
彼らのプライドと欲望が、恐怖に勝ったのだ。次々と井戸へ飛び込んでいく。
「……あなたたちも全員が狂人ね。信じられませんわ」
最後にエリザが、ドレスの裾をまくり上げて井戸に入っていく。
泥濘(ぬかるみ)の闇が、彼女の姿を最後の一片まで飲み込んだ。
ガス灯の光も文明の喧騒も届かない、深淵の底。六人の少年少女を乗せた運命の歯車が、音を立てて逆回転を始めた。