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#あやかし・和風ファンタジー
桜 結夜 (さくら ゆい)
66
井戸の底には、水ではなく、横穴のトンネルが続いていた。
壁は土ではなかった。脈打つような黒い岩肌で覆われ、触れると生温かい。
まるで巨大な生物の食道の中を歩いているような感覚に、強烈な吐き気を催す。
松明(たいまつ)の炎が青白く燃え、一行の影を長く不気味に引き伸ばしていた。
「彰悟くん。……私、ちょっと怖い」
瑠璃羽が彰悟の学ランの裾を掴む。その手は小刻みに震えていた。
彰悟は彼女の手を、力強く握り返した。
「大丈夫だ。俺が側にいる。……何とかなるっしょ」
軽口を叩くが、その掌も汗ばんでいる。
彰悟自身も、恐怖で足が動かなくなりそうだった。
「な、何なのここは……悪夢(ナイトメア)だわ」
先を行くエリザが悲鳴を上げ、財前の背後に隠れる。
最後尾を歩く瑠璃羽もまた、足元の悪さと生理的な嫌悪感に、足がすくんで動けなくなっていた。
「……っ」
瑠璃羽がよろめき、壁に手をつこうとした、その時だ。
「触るな。……岩盤が突起している。危ない」
バシッ、と瑠璃羽の手が空中で掴まれた。
彰悟だ。彼は瑠璃羽の手首を掴むと、そのまま強引に自分の懐へと引き寄せた。
「きゃっ……」
瑠璃羽の体が彰悟の胸にぶつかる。近すぎる。
暗闇の中で、彼の心臓の音が聞こえそうな距離だ。
「さ、彰悟くん……?」
「離れるなよ。……みんなに置いていかれたら、俺たち二人でここを彷徨うことになる」
「う、うん……」
「お前が転んだら俺まで共倒れだ。……ほら」
彰悟はぶっきらぼうに言うと、掴んでいた瑠璃羽の手首から手のひらへと指を滑らせた。
そして、指を絡めるようにギュッと握り込んだ。恋人繋ぎだ。
「えっ……」
「この方が力が入りやすいだろ。……行くぞ」
彰悟は前を向いたまま歩き出す。
その耳が、松明の灯りを受けて微かに赤くなっているのを、瑠璃羽は見逃さなかった。
(……昔と、変わらない)
瑠璃羽は胸が高鳴るのを感じた。
子供の頃、いじめっ子から逃げる時も、こうして手を引いてくれた。
没落して、ひねくれて、道化を演じていても……いざという時、この手は私を一番に守ってくれる。
その様子を、前を行くエリザが振り返って目撃した。
「あらあら。……『空気』な貧乏人同士、随分と仲がよろしいこと」
エリザが冷やかすようにクスクスと笑う。
瑠璃羽は恥ずかしさで手を引っ込めようとしたが、彰悟は逆に力を込めて離さなかった。
「悪いね。幼馴染なもんで、はぐれないように必死なんだよ。……君らみたいなエリートと違って、余裕がないもんでね」
彰悟はヘラヘラと笑い飛ばしたが、その繋いだ手は、瑠璃羽を安心させるように優しく力強かった。
(……あったかい)
暗闇と恐怖の中で、彰悟の体温だけが、瑠璃羽にとっての唯一の光だった。
この温もりがなければ、瑠璃羽はこの異界の空気に飲まれて発狂していたかもしれない。
彰悟もまた、瑠璃羽の手を握ることで、震えを止めているのだと分かった。
二人は互いに支え合わなければ、立っていることすらできない。
この温もりが、間もなく訪れる閻魔との対面で、二人の運命を変える「嘘」の源泉になるとは、まだ誰も知らなかった。
「おい、出口はあるんだろうな!」
エリザと烏丸が叫ぶ。先頭を行く紫門が、足を止めた。
「もう少しだ。……ほら、見えてきたぞ」
トンネルの先に、眩い朱(あか)い光が見えた。
血のような、鮮烈な赤。
一行がトンネルを抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
「…………!」
全員が息を呑み、言葉を失った。
そこは、地下とは思えない広大な空間だった。
天井はなく、どこまでも続く夜空には、見たこともない巨大な赤い月が浮かんでいる。
そして大地を埋め尽くすのは、見渡す限りの彼岸花(まんじゅしゃげ)。
血のような真紅の花が、風もないのにざわめき、妖艶に咲き乱れている。
むせ返るような花の香りが鼻腔を刺激する。
「きれい……」
瑠璃羽が、夢遊病のように呟いた。
恐怖を忘れるほどの、圧倒的な「死の美」がそこにあった。
エリザも扇子を取り落とし、呆然と立ち尽くす。
「嘘でしょう……? 美しい……」
それはこの世のものとは思えない、美しくも残酷な「死の世界」の絶景だった。
六角紫門が彼岸花の海を割って歩く。
「ここは『賽(さい)の河原』の特別区。閻魔王庁(えんまおうちょう)への正面玄関だ」
庭園の中央に、見上げるほど巨大な黒塗りの門がそびえ立っていた。
その威圧感だけで、押し潰されそうだ。
紫門が門に手を当てる。
「開けろ。客を連れてきた」
紫門の手から青白い「念」が放たれる。
ゴゴゴゴ……と地響きを立てて、巨大な門がひとりでに開いた。
中から、強烈な威圧感(プレッシャー)が暴風となって吹き出してくる。
「くっ……!」
彰悟は思わず腕で顔を覆った。
肌が粟立ち、本能が「入るな、死ぬぞ」と警鐘を鳴らしている。
門の奥は、朱塗りの柱が並ぶ広大な部屋だった。
その最奥。一段高い玉座に、一人の美青年が座っていた。
年の頃は20代後半。豪奢な狩衣(かりぎぬ)を纏い、長い黒髪を緩く束ねている。
その周囲には、うず高く積まれた巻物の山。
彼は一心不乱に筆を走らせていた。
「連れてきましたぜ、大王様」
紫門の声に、美青年――閻魔大王の手が止まる。
「…………」
衣擦れの音と共に彼がゆっくりと顔を上げる。
長い睫毛が持ち上がり、その瞳が露わになる。
血のように赤く、宝石のように硬質な瞳。
この世の者とは思えない、凍てつくような美貌。
閻魔の視線が、彰悟たち全員を舐めるように動く。
ただ見られただけで、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。空気が鉛のように重くなる。
瑠璃羽も、エリザも、白川も、思わず小さく悲鳴を上げて硬直した。
彰悟は蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「ここまでくると……信じるも信じないもなくなったな」
「思ってたのと違う。……若くて美しい方ね」
彰悟とエリザが、乾いた唇で呟くのが精一杯だった。
閻魔が、薄い唇を開く。
「……遅い」
低く、よく通る声。
その一言が、絶対的な審判として響き渡る。
「報告が遅れるごとに、貴様の寿命を縮めるぞ、紫門」
冗談には聞こえないその言葉に、六人は息をするのも忘れて立ち尽くした。
閻魔庁の広間を支配していたのは、重力にも似た沈黙だった。
朱塗りの柱が林立し、その間をぬって、うず高く積まれた巻物の山が壁のようにそびえている。
そして一段高い玉座に座る、絶世の美青年。
その青年――閻魔大王が放つ冷気は、物理的に六人の肌を刺していた。
彼岸花の甘い香りとは裏腹に、そこには死を司る者特有の、絶対零度の威圧感があった。
伊集院エリザが、扇子で口元を隠しながら漏らす。
「なんて……『お美しい』殿方……」
恐怖よりも先に、美への感嘆が漏れるほど、その姿は浮世離れしていた。
閻魔は手元の筆を置き、ゆっくりと六人を見下ろした。
「貴様らを呼んだ理由はひとつ。……私の仕事を減らすためだ」
「仕事を……減らす?」
財前征一郎が、喉を詰まらせながら問い返す。
閻魔は、まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるように、不機嫌そうに語り始めた。
「人間どもが愚かなせいで、地獄は定員超過(オーバー)だ。特に明治になってからの死人の増え方は異常だ」
「そこで、貴様ら『冥界調律官』の出番だ」
聞き慣れない言葉に、白川紗代子が恐る恐る口を開く。
「ちょっと待ってください。そもそも……冥界調律官って何?もう少し説明を」
「そうです。前提条件が不明確です」
烏丸玄五郎も同調する。
閻魔は「やれやれ」と首を振り、あからさまに面倒そうな顔をした。
「歴史を知らぬというのは罪だな」
閻魔の紅い瞳が、遠い過去を懐かしむように細められる。
「始まりは約千年前――平安の世。初代冥界調律官・小野篁(おののたかむら)との契約だ」
「千年も前から……? あの迷信どおりね」
白川が息を呑む。
閻魔は笏(しゃく)を持ち直し、語気を強めた。
「いいか? 私は長い時を見てきた。……時の権力者だけに任せていても、世の中は決して良くならん」
財前の眉がピクリと動く。
「奴らは己の欲や体面のために争い、民を飢えさせ、私の仕事を増やすばかりだ。……今の明治政府とやらも同じだろう?」
「……確かに、貧富の差は拡大する一方です」
烏丸が苦渋の表情で認める。
閻魔は玉座から身を乗り出し、笏をビシッと生徒たちに向けた。
「だが、冥界の主である私が、ノコノコと現世(そっち)へ出向くわけにもいかん。そこで、小野篁が必要になったってわけだ」
「奴は、私の部下が現世で勝手に選んで、強引に連れてきた。……しかし、奴は承諾してくれた」
「奴は生きたままこの井戸を行き来し、私の『手足』となって現世の乱れを鎮めた。それが初代・冥界調律官だ」
「それ以来、私は有能な人間を選び、現世の掃除を『委託』してきた」
そこで、横に控えていた六角紫門が、一升瓶を傾けながら口を挟んだ。
「特に今の京都は酷い。……死人が増えるのも無理はねえよ」
「うむ。……明治維新とやらでこの国の形は変わった。だがその代償として……京の都は『死に体』となった」
閻魔がパチンと指を弾くと、虚空に巨大な京都の地図が幻影となって浮かび上がった。
美しい碁盤の目をした地図。 だが、それは所々がドス黒い瘴気(しょうき)に覆われ、腐り落ちていた。
「帝(みかど)が東京へ移り、この地は首都としての機能を失った。それだけではない。
帝を追って、公家や役人、御用商人までもがこぞって東京へ流出した」
「金持ちがいなくなれば、当然、そいつらを相手に商売してた連中も食いっぱぐれる。
職を求めて、多くの人間がこの街を捨てた。……武士たちもな。幕府がなくなって、故郷へ帰っちまったよ」
紫門の補足に続き、閻魔が冷徹な事実を突きつける。
「結果、どうなったか。わずか数年で、京の人口は約三分の一も減少した。三十四万いた人間が、今や二十三万だ」
「……!」
烏丸が絶句する。
「三分の一」
数字として突きつけられると、その減少幅は絶望的だ。
街の機能不全を意味する。
「人が減れば、街は荒れる。先の戦火や大火で焼けた野原も、そのまま放置されている。
さらに『廃仏毀釈』などという愚行で、歴史ある寺院まで破壊された」
閻魔の視線が、冷ややかな光を帯びて六人を見下ろした。
「今の京都は抜け殻だ。……誇りも金も人も失った廃墟だ。
このままでは、遠からずこの街は消滅するだろう。……物理的にな」
重苦しい沈黙が広間を包む。
彰悟は拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込む。
「廃墟」その言葉が、没落した自分の家と重なる。
主を失い、雨漏りする屋根の下で震える自分たちの姿そのものだ。
「……だから、復興させろってことか」
彰悟が呻くように言った。閻魔が鷹揚に頷く。
「そうだ。私の代わりに現世を少しでも良くして、生きやすい世を作る。そうしてここへ来る『客(死者)』を減らす」
その時、隣にいた瑠璃羽がおずおずと手を挙げた。
「あの……質問です」
「なんだ」
「小野篁様は、普通の人間ですよね。そんな大きな事ができたのですか?」
閻魔は、真っ直ぐな瞳の少女を見て、少しだけ表情を緩めた。
「冥界全土を挙げて、冥界調律官が活躍できるよう支えてきたからな。世の中を良くして死者を減らす。……これが仕事だ」
「さあ、名誉に思え。貴様らは、その四十代目の候補者リストに載ったのだ」
エリザが扇子を閉じて尋ねる。
「その冥界調律官の仕事は、具体的に何をするのですか?」
「現世で人々の苦しみを取り除き、寿命を延ばし、正しい天寿を全うさせる。……それが貴様らの任務だ」
閻魔は立ち上がり、六人を見渡して声を張り上げた。
「率直に言う!生きやすい世をつくれ!」
あまりの直球に、一同は呆気に取られた。
「定義が広すぎます。あまりにも漠然としている」
財前が抗議する。
「そんなこと私たち学生にできるの?」
白川も不安げだ。紫門がニヤリと笑った。
「我々は、できそうな奴だけを、ここに連れてきている」
「その冥界調律官になるためには?」
彰悟が問うと、紫門が答えた。
「言っただろう。登用試験がある」
「課題を与える。――衰退した京都を復興させよ」
閻魔が宣言する。
「期間は一年。最も成果を上げた者一名だけを、次期、冥界調律官に任命する」
一年。たったそれだけで、死にかけた街を救えと言うのか。
無茶だ。だが、彰悟の喉はカラカラに乾き、心臓は早鐘を打っていた。
聞かなければならない。一番重要なことを。
「……報酬は」
彰悟の声が震えた。
閻魔が口元を歪め、ニヤリと笑う。
それは人の欲望を試す悪魔の笑みだった。
「……良い質問だ」
「冥界調律官に選ばれた一族には、私が『特別な加護』を与える。
それは金ではない。地位でもない。だが……正しく使えば未来永劫、その一族が滅びることはない」
「……!」
(永遠の繁栄……だと?)
その言葉を聞いた瞬間、彰悟の脳裏に電流が走った。
没落した実家。借金取りに頭を下げる母。
そして日陰で生きるしかない瑠璃羽。
これがあれば全てが変わる。日下部家は復活し、借金は消え、瑠璃羽を一生守り抜くことができる。
財前もまた、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
閻魔は続ける。
「ここでは詳細は伏せる。だが絶対に損はさせん」
「衰退した京都を復興させよって、話が大きすぎて見えてきません」
烏丸が困惑して訴える。
「それぞれが何をするか?考えろ。そこも含めての登用試験だ」
紫門が手を叩いた。
「は~い!これで質問終わり。お利口な名門校の学生なんだ。てめえで考えろ」
閻魔が冷徹な瞳で締めくくる。
「私が求めているのは『変革』だ。これ以上、私の閻魔帳を『無駄死に』した愚か者の名前で汚させないプランを持ってこい」
「やるか、やらぬか。一週間以内に決めて、紫門に申し出ろ」
「早く決断して、早く始めたほうが有利だぞ~~~」
またまた紫門が補足する。
一瞬の静寂。
誰よりも早く、彰悟が一歩前に出た。
「……なるほど、面白いですね。要するに、破産寸前の『京都』という看板を、俺のハッタリで再生してみせろって商談てことですね?」
彰悟は震える膝を気力で抑え、ニヤリと笑った。
「大王様。あなたは最高に質の悪い投資家だが、俺は最高に腕のいい仕掛人です。
この死に体の街を、世界中が嫉妬する極上の都市に塗り替えてみせます。……一年後の報告を楽しみにしていてください」
「そんなわけで、俺が……俺たちがやります!」
「……俺……『たち』?」
財前が冷ややかに眉をひそめる。
彰悟は、隣にいる瑠璃羽の手を咄嗟に掴んだ。
華奢な指先が、冷たく震えている。
このままでは、彼女は「役立たず」として切り捨てられるかもしれない。
それだけは絶対に避けたかった。
日下部家と穂積家、どちらも再興させたい。
「俺は、こいつ……穂積瑠璃羽と二人で組んで、コンビで試験に挑みます!」
「えっ……!?」
驚く瑠璃羽。
しかし閻魔は冷ややかに首を横に振った。
「……却下だ」
「なっ……!?」
「冥界調律官登用試験は、あくまで『個人の資質』を問う試験だ。
徒党を組むことは認めん。一人で成果を出せぬ者に、冥界調律官の資格はない」
絶対的な拒絶。 財前が鼻で笑った。
「当然だ。……没落同士で傷の舐め合いなど、見苦しいにも程がある」
「そうね。一人じゃ何もできないと認めているようなものですわ」
エリザも扇子で口元を隠して嘲笑する。
彰悟は唇を噛み締めた。
ここで引いてはいけない。一人での参加となれば、何の力もない瑠璃羽は間違いなく脱落する。
穂積家も再興させるためには、何としても「二人でひとつ」であることを認めさせなければならない。
(……くそっ。こうなったら)
(ハッタリをかましてやる!)
彰悟は腹を括った。
震える膝に力を込め、瑠璃羽の手を痛いほど強く握りしめる。
だがその手が震えているのは、瑠璃羽だけではなかった。彰悟自身の手もまた、恐怖で微かに震えていた。
これを言ってしまえば、もう後戻りはできない。
十年続いた「幼馴染」という心地よい関係は、二度と戻らない。
もし失敗すれば、俺は瑠璃羽を一生縛り付ける鎖になる。 ――それでも。
「はん。分かってねえな、大王様も、お前らも」
「なんだと?」
「こいつはただの幼馴染じゃねえ。……俺の婚約者(フィアンセ)だ」
「えっ……!?」
瑠璃羽が目を見開き、顔を真っ赤にして彰悟を見る。
(彰悟くん、突然、何を言い出すの?)
エリザと財前も、虚を突かれたような顔をした。
「没落した両家の再興を賭けて、夫婦(めおと)になる二人だ。一蓮托生、二人で一人なんだよ」
彰悟の声が、広間に朗々と響く。
それは自分自身さえも騙すための、必死の演技だ。
だがその言葉は、瑠璃羽の未来を人生を、日下部家に巻き込むという「罪」の告白でもあった。
「たとえ試験でも、夫婦を引き裂くなんて野暮な真似……地獄の王ともあろうお方が、なさるんですか?」
彰悟は閻魔を睨みつけた。 心臓が破裂しそうだ。
もし逆鱗に触れれば、この場で殺されるかもしれない。
隣の瑠璃羽の手が、汗ばんでいるのが分かる。
彼女もまた、この「嘘」の意味を瞬時に悟ったのだ。
瑠璃羽は否定しなかった。
ただ彰悟の手をギュッと握り返し、無言で彼に寄り添った。
その体温が「私は共犯者になる」と告げていた。
彼女もまた、この一瞬で「ただの幼馴染」であることを捨てたのだ。
閻魔はじっと、繋がれた二人の手を見下ろし……そして、興味深そうに口元を歪めた。
「……ほう。夫婦か」
その深紅の瞳が、一瞬、瑠璃羽を見て細められる。何か値踏みをするように。
あるいは、彼女の中に眠る「何か」に気づいたように。
「……よかろう。特例を認めてやる」
「!」
「愛だの恋だので、凡人がどこまで足掻けるか……興味がある。貴様のそのハッタリを信じたわけではないがな」
彰悟は膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
通った。 ハッタリが神(閻魔)に通じたのだ。
するとその空気を切り裂くように、財前が一歩前に出た。
「フン。……僕も参加する」
眼鏡の奥の瞳が、冷たく光っている。
「公爵家の責務(ノブレス・オブリージュ)としてな。この街を最も効率的に、最も合理的に再生させてみせよう」
「私もよ」
エリザも扇子をバチリと閉じた。
「こんな血筋だけの貧乏人(日下部)に京都を任せられないわ。
日本の泥臭さを一掃し、私の美意識でこの街を文明化してみせますわ」
「俺もだ! 古き良き京を取り戻す!」
「まだよくわかってないけど、私もやるわ!」
烏丸と白川も続いて声を上げた。
全員が参加を表明したのだ。賽は投げられた。
「ただし、日下部。……勘違いするなよ」
財前が、冷たい瞳で彰悟と瑠璃羽を見下ろす。
「君は僕と同じ土俵にすら立てていない。ただの『賑やかし』だ」
「そうね。せいぜい、私たちの引き立て役になりなさい」
エリザが嘲笑する。
「君らごときの没落士族に何ができる?」
「実質は四名だけの勝負ね」
エリートたちの容赦ない言葉。彼らの背後には、圧倒的な財力と権力がある。
彰悟は唇を噛み締め、何も言い返さない。
言い返せるだけの「武器」が、今の自分には何もないからだ。
あるのは、口から出まかせの「婚約」という設定だけ。
だがその時。
瑠璃羽の手が、彰悟の手をさらに強く握りしめた。
彰悟はハッとして隣を見る。
瑠璃羽は俯いていたが、その横顔には強い怒りと決意が滲んでいた。
(負けない。……絶対に、見返してやる)
(この人たちに、彰悟くんを馬鹿にしたままにさせておかない)
声には出さずとも、その思いは彰悟に痛いほど伝わってきた。
紫門がパンと手を叩いた。
「おー決まりだな。全員参加だぜ!」
紫門はニヤリと笑い、煙管を吹かした。紫煙が彼岸花の上を流れていく。
「とっとと始めようか!地獄への入学試験の開幕だ」
こうして、六人の若者たちによる、京都の命運を賭けた「復興合戦」が始まった。
そして同時に、彰悟と瑠璃羽の運命を縛る「嘘つき婚約」もまた、地獄の底で静かに幕を開けたのだった。
死臭漂う古都を染め上げるのは、絶望の泥か、あるいは狂おしいほどの桜か。
繋いだ手の体温だけが、二人の吐く「嘘」を、唯一無二の真実へと変えていく。
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