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春の風が窓から吹き込んで、ノートの端をくしゃりとめくった。
始業式から一週間。新学期の空気も、ようやく肌に馴染んできた。
高校2年の教室には、新しい担任と、見知ったクラスメイトの顔と、そして一人——見知らぬ姿があった。
「じゃあ、自己紹介、お願いします」
先生に促されて、黒板の前に立つ少女が小さくうなずいた。
その瞬間、教室全体がすこし静まった気がした。風の音さえ遠ざかるように。
「……雨宮ゆきです。よろしくお願いします」
声は透き通っていて、それでいてどこか、遠くにいるような響きを持っていた。
笑顔を浮かべながらも、彼女の視線は誰とも目を合わせない。
それが、なぜだかとても印象に残った。
席は僕の隣だった。
静かに椅子を引き、鞄を机の横にかけ、教科書をそろえる動作。
何ひとつ無駄がなく、それでいて、どこかぎこちなさを感じるのはなぜだろう。
「……佐倉海翔(かいと)です。よろしく」
僕は小さく声をかけてみた。
彼女は一瞬だけこちらを見て、首をかしげた。
「……あの、どこかで会ったことありますか?」
「え?」
「なんだか……声が、耳に残ってるような気がして」
そう言って、ふわりと笑った。
まるで夢から目覚めたばかりのような、ぼんやりとした笑み。
「……いや、今日がはじめましてだよ、たぶん」
「そっか。……じゃあ、改めて、よろしくね」
そのとき、僕の胸の奥がずくんと痛んだ。
きっと、それは「初めてじゃない」と知っているから。
雨宮ゆき。
彼女は、毎晩、記憶を失う。
それは、本人さえ知らない。いや、知ろうとしないのかもしれない。
朝になるたび、昨日のすべてが白紙になる。
僕の名前も、顔も、会話も、笑ったことも、ぜんぶ。
でもなぜか彼女の心には、ほんのかすかに“痕跡”が残る。
耳に残る声、夢の中の景色、名前の響き。
それが、僕の救いだった。
僕は、これで58回目だ。
彼女と「はじめまして」を交わすのは。
⸻
放課後、教室には誰もいなくなっていた。
窓から射し込む夕陽が、黒板を赤く染めている。
僕はゆっくりと立ち上がり、彼女の机に近づいた。
椅子の上には、一冊のノートが置きっぱなしになっていた。
名前を書く欄には、「雨宮ゆき」と、丁寧な文字。
その隣に、小さな付箋が貼ってある。
そこには——
「このノートを開いたとき、私は私を思い出せるでしょうか」
そう書かれていた。
僕は静かに付箋を閉じて、ノートを机に戻した。
彼女は、無意識に自分の“欠けた記憶”に気づいているのだろうか。
忘れることが「痛み」から守る手段だとしても、
それが「何かを大切にしたい」という思いを、完全には消し去れないのかもしれない。
だからこそ、僕は何度でも声をかける。
——「はじめまして、佐倉海翔です」
いつか、彼女の記憶のどこかで、その名前が灯りますように。
次の日の朝。
彼女は席に座ると、僕の方を向いて、首をかしげた。
「えっと……はじめまして、かな?」
「うん、はじめまして」
僕は笑って答えた。
59回目の、初恋の朝だった。