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夜、夢の中で誰かが名前を呼んだ。
——ゆき。
それだけだった。
暗い闇の中、風のように優しい声が、どこか懐かしい響きで私の名前を呼ぶ。
私は振り返ろうとする。でも、その姿は見えない。
起きたとき、胸の奥がきゅうっと締めつけられるような感覚だけが残った。
記憶はない。昨日のことも、一昨日のことも。
でも、“その声”だけが、心に残っていた。
⸻
朝。教室に入ると、私の隣の席にいた男の子がふわっと笑った。
「おはよう、雨宮さん」
あ、と思った。
その声だ。
夢の中で私の名前を呼んだ声と、そっくり。
でもおかしい。今日が、初対面のはずなのに。
私たち、どこかで会ったことがあるの?
「……あの、もしかして……」
私が言いかけると、彼は少し驚いた顔をした。でもすぐに、やさしく笑う。
「“どこかで会ったことある気がする”って言いたかった?」
「……え、うん。なんでわかったの?」
「よく言われるからさ」
彼はそう言って、少しだけ目を伏せた。
嘘だ。きっと彼は、本当に知ってる。私の中にある、“昨日”の私を。
でも、どうしてそんなことを知っているのか、聞く勇気はなかった。
「佐倉……くん、だっけ?」
「うん。佐倉海翔」
「名前、いい響きだね。なんか……どこかで、呼んだことがある気がする」
彼の目が、一瞬見開かれるのがわかった。
だけど、それはほんの一瞬で、すぐにやわらかい笑顔に戻る。
「そう言ってくれて嬉しいよ。じゃあ今日も、よろしくね」
「……よろしく」
私がそう言ったとき、自分でもわからない涙が、ほんの少しだけにじんだ。
理由はわからない。悲しくも、苦しくもないのに。
でも——あの声に、あの名前に、
私の心が、少しだけあたたかくなっていくのを感じた。
⸻
放課後、ノートをめくっていたら、最後のページに自分の字で小さく書いてあった。
「夢の中で誰かが名前を呼んだ。
その声が、怖くないと思ったのは初めてかもしれない」
私はその文字を見つめながら、胸に手を当てた。
誰かのことを、忘れてる。
たぶん、何度も何度も、同じ“はじめまして”を繰り返してる。
そして、そのたびに——私は、この人に恋をしてるのかもしれない。
記憶が戻るのが怖いのに、
それでも、今日という日が、
“ただの今日”じゃなかった気がしていた。
⸻
夜。
夢の中でまた、あの声が聞こえる。
——ゆき、明日も会えるかな。
私は、夢の中で、ゆっくりとうなずいた気がした。