アイヒェンドルフの招待でのコンサートとその後の食事の時間を過ごしてから週が明け、また今日から仕事だと気怠げに出勤したリオンは、ヒンケルに呼ばれて彼の部屋にはいるといつものように椅子に腰掛けて足を組む。
「おはようございます、ボス」
「おはよう。・・・先週末にこれが届いていたようだ」
「へ?」
ヒンケルのデスクの抽出から取り出された飾り気も何もない封筒を手に取り、矯めつ眇めつしながら合わせるように首を傾げたリオンは、中身を見てみろと言われて何の疑問も抱かずに開封されている封筒を逆さまにし、出てきた便せんに目を通していくが、最初は疑問だけが浮かんでいた青い目が次第に細められ、読み終える頃には情けなさと怒りにも似た色が混ざって浮かんでいた。
「・・・ボース」
「これが会長が言うところの何らかの法的な手段、と言うことだろうな」
ヒンケルが椅子の背もたれを軋ませながらぼそりと呟く前ではリオンが足の間に上体を埋もれさせるようにがっくりと肩を落としていて、その手からひらりと便せんが床に舞い落ちる。
「これって・・・」
「ああ。今回の警備責任者は護衛としてはまだまだ未熟すぎて頼りにならない、だからもっと今以上に厳しく鍛え上げておけと言うことだろうな」
便せんに印字されている文章は、今回の弊社会長の護衛についてとその最中に起きた襲撃事件への対応の素早さへの謝意とが表現されていたが、その後の文章はと言えば責任者の未熟さから襲撃を未然に防げなかった事、警察が護衛という仕事に対して今以上に重きを置く必要がある事などが淡々と的確に記されていて、その一文一文がリオンの胸にぐさぐさと突き刺さる鋭さを持っていた為、ヒンケルの言葉に止めを刺されたリオンが一声吼えて頭を抱える。
「だから護衛は苦手だって言ったのに・・・!」
「何事も仕事だろうが」
部下が吼える事など今に始まったことではないためかヒンケルが超然とした態度で答え、こんな風に外部から指摘をされるのがイヤならばもっと仕事に励めと尻を叩くようにデスクを一つ叩く。
今回、経験を積ませるつもりでリオンを護衛という慣れない業務に就かせたが、この失敗からもっと成長してくれる事を密かに期待しているヒンケルが内心で苦笑し、お前ならば大丈夫だろうと信頼感を滲ませた声で発破を掛ける。
「良い経験になったな。そう言う意味ではバルツァー会長に感謝だな」
「ちくしょー!!」
「うるさいから吼えるな」
「あー!あーもー親父のくそったれ!!」
リオンが己への憤りと事実を告げるヒンケルに対する憤りと感謝の思いを総て綯い交ぜにしたものを拳に宿し、言葉にしては今はここにいない人物を罵る言葉を吐きながらデスクにぶつけると、背中に北風の様に冷たく厳しい声が投げ掛けられる。
「誰がくそったれなんだ」
「げっ!!」
「・・・おはようございます、バルツァー会長」
ヒンケルの言葉にレオポルドが素っ気なく頷き、丸椅子から飛び上がって部屋の壁に背中をぶつけているリオンを一瞥すると、先程までリオンが座っていた椅子ではなく、部屋の隅にある椅子を引っ張り出してきてゆったりと腰掛ける。
「ああ、おはよう」
「・・・おはようございます」
「おう」
葉巻を銜えるか手に持つかすればさぞかし絵になる姿で足を組み、ヒンケルの言葉には笑顔で答え、リオンの挨拶にはじろりと一睨みを付け加えたレオポルドだったが、顔を青くして壁に張り付くリオンがおかしかったのか、この姿を妻と息子に見せてやりたいから写真を取らせろとにやりと笑ってリオンの顔から血色を完全に無くさせる。
「ちょ・・・っ!!」
「冗談だ」
「んがー!だから親子揃って笑えねぇ冗談は禁止!!」
本当にこの似たもの親子がと罵倒するリオンを鼻先で笑い飛ばしたレオポルドは、足を組み替えて先日抗議文と嘆願書を提出したが目を通したかと問いを発したため、二人の表情が一瞬にして切り替わり、つい今し方その件について当事者と話し合っていたところですと咳払いをしたヒンケルにリオンが真面目くさった顔で頷いて丸椅子に腰掛ける。
「当方の希望は総てそこに書いておいた」
レオポルドの言葉にリオンが歯を噛み締め、己の未熟さ故の悔しさを噛み殺していると、レオポルドの碧の瞳が好意的に細められる。
「今回は無理を言ってそこにいるケーニヒ刑事に護衛を頼んだが・・・」
その結果、予告通りにパーティ会場で狙撃されてしまったと顔の前で手を組み合わせてにやりと笑う顔にリオンもヒンケルも何も言えずにただ頭を上下させる。
「けが人も出ていないから特にこちらとしてはその嘆願書以外に訴えることはしない」
法的な手段についてはあの夜気が向けば訴えてやると本気なのか冗談なのかがなかなか判別しにくい言葉を言われていた為、腹を括っていたリオンにとってはどちらでも良いことだし、何よりも嘆願書の内容は刑事としての姿勢を正してくれる事ばかりで逆に感謝したい程だったが、それを口にすれば一生その事でからかわれそうで口を閉ざしてしまう。
「今回のことはお前に頼んで良かった、そう思っている」
3日間—実質一日だけ—の護衛をありがとうと真正面から礼を言われて面食らったリオンは、護衛という仕事から考えれば失敗と評される仕事ぶりだったのにまさかそんな言葉を聞けるとは思ってもおらずに驚きのあまり身体を仰け反らせ、その結果椅子から見事に落ちて床に尻餅をついてしまう。
「いてぇ!」
「警部、刑事のノウハウを教え込む前に落ち着きを教えた方が良いんじゃないか?」
「・・・・・・・・・ご忠告、ありがとうございます」
リオンが慌てて椅子に座り直す姿を額に手を当てて大きく溜息を吐きながら見つめていたヒンケルが、レオポルドの言葉に十分な沈黙の後に諦めの溜息混じりにそっと礼を述べる。
「今回はまあ・・・大雑把な所もあったし詰めも甘いところが目に付いたが、もしもまた護衛を頼むことがあれば頼むつもりだ」
レオポルドが何故そこまで自分を信頼してくれるのかが分からなかったリオンはその言葉に最大限の感謝の思いを込めて一礼するが、自分にはまだまだ護衛など務まらないのでその際には手慣れた同僚にお願いすると真剣な顔で告げた後、片目を閉じて肩を竦める。
「スーツに穴を開けたくねぇし?」
「・・・それにウーヴェの気持ちを考えると、か?」
リオンが茶目っ気に隠した本心を告げるとレオポルドが口ひげを指で撫でながらひとつ溜息を零し、息子に嫌われたくないからかと問いかけると即座に陽気な声が否定をする。
「や、見くびらないで欲しいですねー。例えオーヴェが反対しようがどうしようが仕事ならば俺はやりますよ」
もしも次に親父ではなくバルツァーの社長、つまりは兄の護衛であったとしても自分が持てる限りの力で仕事に向かう事を陽気さと力強さを絶妙な配分で混ぜ込んだ声で宣言すると、視界の端でヒンケルが己の部下を自慢するかのように唇の端を持ち上げ、レオポルドが対照的に面白くなさそうな顔で口の端を下げる。
「────お前がそれだけの男ならさっさと別れろと言えるんだがな」
公私の区別が付けられないような器の小さな男であれば親としては到底許せない事を呟くレオポルドにリオンが無言で肩を竦める。
「例え親父が実力行使をしても別れません」
この件に関してははっきりとお断りしますと笑みを浮かべ、もう一度レオポルドが指で髭を撫でるのを見つめたリオンは、何かを吹っ切ったような顔で頷く恋人の父の言葉を待つが、耳に流れ込んできたのはお前ならば任せられるかも知れないと言う小さな、だが大きな意味を持つ言葉だった。
「・・・お前達の交際にこれ以上口を挟むつもりはない」
息子の人生が誰のものでもないのと同様にお前の人生もお前のものだと、誰もが見惚れる太い笑みを浮かべて頷いたレオポルドにリオンがぽかんと口を開けつつ己へと伸ばされる大きな掌を目で追いかけると、それはいつかの様に己の頭上にさしかかると同時に落下し、わしゃわしゃと髪を乱されてしまう。
「っ!!」
「今回はご苦労だった。────警部、本当に助かった。次の機会などない方が良いが、あればまた頼む」
「分かりました」
「職場に押しかけてプライベートな話をしてしまったな。許せ」
乱された髪を整える為に頭に手を宛がって口を尖らせようとしたリオンはその言葉に軽く目を瞠った後、椅子に腰掛けたままの姿でびしっと背筋を伸ばし、次は今回のようにならないように十分に気をつけますと謝罪と次回への反省を込めた言葉を告げ、お仕事お疲れ様ですと本来ならば自分ではなくウーヴェに言って貰いたいだろう言葉を告げると、リオンの気持ちを酌み取ったレオポルドが寂しそうに笑みを浮かべて目を細める。
「今度は仕事以外で会いたいものだな、リオン」
「あ、良いですね。親父の招待でメシなんてどうですか?」
「馬鹿野郎、この間は俺が奢ったんだ、今度はお前だ。警部、こいつの給料日はいつだ?」
二人の会話に呆気に取られてただ耳を傾けていたヒンケルに突然の問いが発せられ、慌てて給料日を告げると給料が入ったその週末にメシに行くぞと命じられてリオンががっくりと肩を落とす。
「ガストシュテッテでもクナイペでも良いが、インビスは食事とは言わないからな」
「くそー。駅前のインビスにしようと思ってたのに・・・!」
お前の懐具合などとっくに見通していると鼻で笑われたリオンが悔しさに歯噛みをし、ゲートルートで一番豪勢なコース料理を食わせてやると一声吼えた時、期待しているとレオポルドが全く思っていない声で頷き、ゆったりとした動作で立ち上がる。
「これからもますます仕事に励んでくれ、ケーニヒ刑事」
「Ja.ありがとうございます」
差し出された大きな手をしっかりと握り、同じ男として羨望することしか出来ない恋人の父と握手をしたリオンは、踵を返して立ち去る背中が見えなくなるまで見送り、ドアが閉まる音が響くと同時に丸椅子に腰を落として足の間に頭を落とす。
仕事での失敗を責めすぎる事もなくより一層大きく成長することに期待もし、一度の失敗で総てを否定しないその態度にはただ頭が下がる思いを抱くが、それと同時にもしも己が部下を持った時、同じような態度で接することが出来るのかと考えると、到底敵わないとごく自然に溜息が出る。
そしてその結果、今の未熟な自分を信頼して仕事を任せてくれているヒンケルの度量の大きさにも気付いてしまうと、いつかこの二人の男のような人間に成長したいと不意に思いつき、目標とする人が初めて出来た嬉しさと気恥ずかしさ、何か言葉に出来ない熱さを伴った思いがリオンの胸で渦を巻いた後、羨望の色を纏って口から流れ出す。
「どうした、リオン」
「んー、や-、どうすればあんな男になれるのかなーって・・・」
「・・・お前がこの仕事を満足するまでやり遂げればなれるかも知れないな」
ヒンケルの言葉になれるのだろうかと自問自答したリオンは、結果は分からないがそれを目指してみても良いはずだと決めて頷き、唇の両端をしっかりと持ち上げる。
「ボス、今回は本当に手を焼かせて心配を掛けました」
これからはこんな事がないように気をつけるのでこれからも指導をよろしくお願いしますと年に一度あるか無いかの殊勝さで告げると、ヒンケルが椅子の背もたれを壊す勢いで身体を仰け反らせる。
「あ、なんだそれ。気分悪ぃなぁ・・・」
「お前がそんな事を言う方が気味が悪いぞ!」
「あー、ひでぇ!やっぱりボスはクランプスでトイフェルだ!」
クランプスはクランプスらしく腰蓑と毛皮のベストを着ていればいいんだと、どさくさに紛れて先日発覚した事を皮肉れば、デスクに手をついてクランプス顔負けの形相でリオンを睨み付けたヒンケルは、俺が何を着ようが俺の勝手だとも吼え、さっさと仕事に戻れとドアを指し示す。
「すーぐ怒るんだからな。これだから高齢者は困るんだ」
「誰が高齢者だ!」
「俺じゃないのは確実ですね」
俺はまだまだボスの半分ほどしか生きていませんとヒンケルが拳を振るわせるような憎たらしげな顔で嘯いたリオンは、いつものようにブロックメモが投げつけられる前にヒンケルの部屋から飛び出し、何事だと顔を覗かせる同僚達にクランプスが空腹のあまり暴れ倒しているだけだと告げて肩を竦め、己のデスクの椅子を引いて今日の仕事に取り掛かるのだった。
最初はレオポルドのような人が父親ならばという叶わない願いを抱き、今回の短い期間の仕事とはいえその背中を見つめ、対照的に公私にわたって己の未熟さをも否応なく見せつけられてしまい、見出したのは己の将来の姿だと気付いてその思いを書き替えたリオンだったが、生まれて初めて目標とする存在が出来た事への戸惑いと気恥ずかしさを感じてしまい、一人唸り声を上げて椅子を軋ませる。
「・・・突然唸りだしてどうした、腹でも減ったのか?」
「俺でも考え事ぐらいするっての」
「今日の晩飯は何にしよう、か?」
同僚達が寄って集ってからかってくる事にさすがにリオンも立腹したらしく、腕を組んで長い足も組み、椅子の上で身体を反り返らせて鼻息荒く言い放つ。
「メシ以外の事も考える!」
「それはそれは」
リオンの態度に軽く驚いたコニーが肩を竦め、ならば何を考え込んでいるんだと先を促すと、どうすればあんな男のようになれるのかと返されて瞬きを繰り返す。
「あんな男?」
「・・・親父みたいな男」
誰の事を示しているのかを教えられたコニーは、ボールペンの尻でこめかみを軽く突きながら興味深そうに目を細める。
子どものように陽気な、時には騒々しいぐらいの存在で刑事部屋の中でも大きな存在感を放っているリオンだが、その彼の口から特定の誰かのようになりたいなどという言葉は未だかつて聞いた事が無く、短い間の護衛という仕事が年若い同僚に与えた影響が現れている事に気付いて口笛を吹きたい気持ちを押し殺しながらひょいと肩を竦める。
「そりゃあ難しい問題だな」
「だよなぁ・・・あー、くそ。絶対負けたくねぇ・・・!」
勝ちたいとは思わないがこれだけは負けないと思えるものを手にしたいと、壊れやすい何かを掌中に収めたかのようにそっと手を握ったリオンは、滅多に見せない真剣な顔で己の拳を見つめ、何かひとつでも負けないと胸を張れるものはないかと脳味噌の中を引っ掻き回し過去の行状を脳内で紐解いていくが、出てくるものといえば到底口に出せるものではなかった。
犯していないものはドラッグの使用と殺人だけというそれ以外の大抵の悪事を働いてきた自分が、一代で巨大なグループ企業を作り上げた男に負けないものなどあるはずがなかった。
がっくりと肩を落としながら何か無いかと呟いた時、脳裏に穏やかに笑う恋人の顔が思い浮かんで軽く目を瞠る。
「・・・お前ならば任せられるかもしれない・・・」
「何だ?」
「任せられるかも知れないって言われたら・・・それは信頼されてるって事かな?」
コニーの目が見開かれたことに気付いたリオンが椅子をくるりと回転させ、背もたれに肘をついてその上に顎を載せながらどう思うと問いかけると、信頼を得たというよりは信頼出来る人だと思われている可能性が高いというあやふやな返答があり、再度肩を落とす。
「信頼したいがまだ見極められない、そんな所じゃないのか?」
「・・・信頼して貰えるように頑張るか」
「ついに親公認か?」
誰から信頼されているのか、そもそも何について信頼なのかを察したコニーが暢気に笑みを浮かべてお気に入りのマグカップに満たしてある濃いコーヒーに口を付けると、親公認という年でもないとリオンが肩を竦めるが、確かに父親の信は得たかも知れないと笑みを深くする。
「オーヴェの為にも何か勝てなくても負けないものを持ちたいなぁ」
恋人の父に対して胸を張って自慢出来るものを持たないと相手にすらして貰えない、そんな気配をひしひしと感じ取ったリオンの言葉にコニーも重々しく頷き、確かに自慢出来るものが欲しいと同意を示すと、一転して不気味な笑みに目の形を変化させてマグカップで口元を覆い隠す。
「何だよ」
「・・・お前が負けないものならあるだろうが」
「へ?・・・食欲とか言うんじゃねぇよな、コニー?」
不気味に笑う同僚にこれまた不気味な笑みを浮かべたリオンが問い詰めると、人間の三大欲望にはそれはそれは忠実だろうと嘯かれてぽかんと口を開け、三大欲望って何だっけと呆けたような声を挙げると、普段のお前の言動を思い出せと別の同僚が声を張り上げた為、何を言わんとするのかをようやく察したリオンの顔が少しだけ赤くなる。
「・・・そりゃあ・・・オーヴェと一緒にメシ食ってりゃ幸せだし、セックスしてる時なんかホントにもうこのまま天国にイッちまってもイイって思えるぐらいだし、終わった後なんかサイコーに可愛いし・・・!仲が良いってのは誰にも負けないよなぁ。でもこれってさ、俺だけが負けない事じゃねぇよな?」
愛する恋人とともに一日の始まりを占うような貴重な朝を過ごし、一日の終わりを迎える数時間前には面白おかしく、時には悲哀や怒りが籠もった声で互いの存在を温もりから確認し、胸の裡にある情をも確認した後の充足感に包まれる夜を過ごす事ははっきり言って誰にも負けることがないと胸を張ると、今まで会話に参加していない同僚の席から丸められた紙くずが投げつけられる。
「ゴミを投げるなよ、ダニエラっ!」
「職場でそんな話をしてると訴えるわよ!」
「セクハラに関する受付はここではやってませーん!」
セクハラで訴えられたいのかと書類の山の向こうから睨まれたリオンが全く懲りない顔で舌を出した為、ダニエラが無表情のまま受話器を取り上げて何処かに電話をすると、程なくしてヒンケルの執務室のドアが開き、どうしたと顔を出して電話の訴えについて問いかけてくる。
「ぅひっ!」
「警部、そこの幼稚園児がセクハラをしてまーす」
「幼稚園児がセクハラなんかするかよ!」
ダニエラが訴えた先は警察と言えば警察だが、リオンにとって最も効果的な存在のヒンケルだったようで、コニーの言葉にヒンケルが厳つい顔の片眉を上げて嬉しそうな顔で近寄ってくる。
「ぎゃー!クランプスに食われるー!クランプスが笑ってる!!」
「うるさいぞ、馬鹿者!さっさと仕事をしろ!!」
ヒンケルの怒鳴り声に亀のように首を竦めたリオンは、書類越しに同僚を恨みがましい目で睨み付けた後、頭上に軽く落とされた拳を受けて悲鳴を上げながらも書類に記入を続けていく。
「・・・さっきの事はまあともかく、お前の長所はドクに聞いてみればどうだ?」
リオンがイヤイヤながらも仕事に取り掛かる姿に苦笑したコニーがボールペンをくるりと回転させて天井を見上げ、己の長所など己には理解しにくい為、最も身近な人であるウーヴェに聞いてみろと忠告されてリオンが顔を上げて目を丸める。
「あの人なら贔屓目なしに教えてくれそうじゃないか?」
たとえ恋人であっても冷静な人だから恋は盲目とはならないだろうとコニーが最大限の褒め言葉を告げた為に納得したように頷いたリオンは、後で聞いてみようと呟いて口笛を吹き、コニーに感謝の思いを込めて礼を告げる。
「ダン、コニー」
「どーいたしましてー」
椅子を回転させた為に同僚の間の抜けた声を背中で聞いたリオンだったが、聞けば教えてくれるだろうとひとつ頷いて苦手な書類仕事を驚異的な早さで片付けると同時に立ち上がり、呆れる同僚達に手を挙げて挨拶もそこそこに刑事部屋を飛び出すのだった。
今日も一日頑張って働いたから誉めて誉めて誉めまくってくれと思わずウーヴェが呆れてものも言えなくなるような事を言い放ったリオンは、恋人が医者の貌を脱ぎ捨てて年上の男に戻れる自宅のドアベルを鳴らし、呆れながらも優しい空気で出迎えてくれるウーヴェの首の後ろで手を組んで輪を作る。
「オーヴェ」
「お疲れさま、リオン。その様子じゃ今日も街は平和だったんだな」
「もちろん!俺たちが頑張ってるから平和だった」
今日の出動要請は幸いなことに強盗傷害事件が数件と不法侵入の訴えだけで、そのどれもがあっという間に犯人を特定し、同僚達が頑張って送検の手続きをしている事を笑顔で伝えると、腕で作った輪に閉じこめられているウーヴェの気配が変化をして思わずリオンがぽかんと口を開けてしまう優しさに包まれる。
「本当にお疲れさま、リーオ」
「・・・うん。頑張った」
「ああ」
子どもが親に誉めて貰うよりも嬉しい顔で笑うリオンにウーヴェも笑みを浮かべ、唇に小さな音を立ててキスをすると胃袋が返事をした為、腹の虫を宥め賺せるために急いで食事の支度をしようと笑いあうが、リオンがぴたりと足を止めてウーヴェの顔に疑問を浮かべさせる。
「どうした?」
「俺がさ、誰にも負けない自慢できる事って何だと思う?」
「唐突にどうしたんだ?」
「うん・・・俺って人に自慢できる事・・・あるのかな」
冗談めかした声ではあってもその奥底に潜む本音を感じ取ったウーヴェが眼鏡の下で目を細めたかと思うと、くるりと身体を反転させてリオンと正対する。
「誰かに何か言われたのか?」
「・・・ちょっとな。詳しいことは後でちゃんと話すよ」
「ああ」
肩を竦めるリオンの言葉を信じるしかないと胸の裡で呟いたウーヴェは、あまり難しいことを考えているとせっかくの料理が美味しくなくなるぞと口の端を持ち上げて意地の悪い笑みを浮かべると、絶対にイヤだと激しく顔を左右に振って食べることに専念すると手を挙げて宣言したため、ウーヴェがつい小さく吹き出してしまう。
「オーヴェ?」
「・・・わざわざ宣言する程の事でもないだろう?」
「あー、俺にはそれ以上のことなんだっての」
「はいはい」
キッチンに向かうまでの時間で真剣だったりふざけたりしながらも互いの思いを伝え合った二人は、食べ物を前にして小難しい事を考えるなんて馬鹿らしいとほぼ同時に苦笑し、ひとまずは本能の欲求を満足させるために料理の支度に取りかかるのだった。
用意した信号機のキャラクターが描かれたマグカップに湯気の立つコーヒーを、もう一つのカップにはホイップした生クリームをたっぷりと載せたココアを入れると、待ち構えているリオンに手渡してリビングに先に向かわせる。
二人だけなのに何故か賑やかで楽しくなる食事を終え、食後のコーヒーを片手に先程の不可解な言葉について話し合おうと思っていたウーヴェは、早く来いと呼ばれたことに苦笑しつつリビングへ向かい、ソファの上で胡座を掻いているリオンの姿に苦笑を深める。
「今日も美味いメシをありがとう、オーヴェ」
「満足したか?」
「もちろん!」
隣に腰を下ろして足を組んでマグカップを手に取れば、リオンが向き合うように身体を動かした為、ウーヴェもそんなリオンと正対するようにソファで横向きに座る。
「リオン、さっきの話だが、誰かに何かを言われたのか?」
リオンが誰にも負けないと自慢できるものならば幾つか知っているつもりだが、突然どうしたんだと問い掛けて返事を待つウーヴェに正対したリオンは、今日の出来事を話すべきかどうかについて逡巡するように青い目を左右に泳がせるが、一度深呼吸をしてウーヴェの頬に手を宛うと、親父の話だと切り出して掌に伝わる振動に目を細める。
「・・・そ、・・・っ、あの人、が・・・何か言った・・・のか?」
メディアを通じてその言動を見聞きしただけでも不機嫌になる程嫌悪している父の話を切り出され、マグカップを無意識の動作でテーブルに戻したウーヴェは、目の前にいるのがリオンであることを脳味噌に刻み込み、無理をする必要はないと言ってくれた事も思い出して震える声で何とか問い掛け、宛われている手が宥めるように頬を撫でた事に気付き、声と同じく震える瞼を閉ざして小さな吐息を零す。
「今日親父が職場に来て俺の仕事の良いところも悪いところも全部認めてくれた」
その書面に目を通したときは自己嫌悪に陥ったが、その中で認めてくれた為に仕事に対するモチベーションも上がるしもっと上を目指そうと思えたと小さく笑った後、やや躊躇うように口を閉ざすとウーヴェには複雑な思いを与える言葉をそっと告げる。
「親父のような男になりたい」
今回の護衛とその後の事後処理などで顔を合わせ言葉を交わした時は親父のような人が父親であれば良いという漠然とした思いを抱いたが、プライベートで酒を飲み交わした後に気付いたのは、父という茫洋とした存在などではなく自分が目指す人間像が目の前にいたという事実だった。
長い間憎んでいる己の父の様になりたいと、初めて尊敬する存在に出会った子どものように胸を熱くしている顔で告げるリオンをただ呆然と見つめることしか出来なかったウーヴェだったが、小さな吐息と共にお前にとっては許せないことかも知れないが、今まで尊敬する人間など持たなかった自分が初めて得た存在だと告げられ、たった今己の耳から心の深い場所へと滴のように落ちていく言葉がもたらす重みと温もりにきつく目を閉ざすと、白い髪を微かに左右に揺らして小さな笑みを浮かべて今度はリオンの目を見開かせる。
「・・・そう、なのか・・・?」
「うん。初めてそんなことを思った」
20余年もの間、おそらくは目に入れても痛くないほど溺愛しているウーヴェを生かす為に嫌われることを選んでそれを貫き通すだけの胆力のある男になりたいと告げ、震える睫毛にキスをする為に眼鏡を外してテーブルに置き、望み通りに目尻と瞼にキスをする。
「あんな風に腹の据わった男になりたいなーって」
親父のように戦後の混乱期を生ききって己の腕一本で家業を大きくするような力などないだろうが、その影の先だけでも踏めるようになりたいと告げるリオンの顔は特に気負うでもなく穏やかなもので、もう一度目を閉じたウーヴェの脳裏にはその声がもたらす未来がぼんやりとではあっても浮かび上がるが、その映像でリオンが眩しそうに背中を見つめる男の姿があり、名を呼ばれた時のように振り返った彼の顔に浮かぶ笑顔が見えた刹那、ウーヴェ自身も気付かない奥深くで眠っていた感情が目を覚ます。
「オーヴェ・・・?」
「な・・・、んでも・・・ない・・・っ!」
「じゃあさぁ、泣くなよ」
告げられる言葉と頬に触れる温もりが胸を締め付け、苦しさを訴えるように小さく息を吐く。
父が銃撃されたが無傷だった事を知った夜と次の朝、何故相反する言葉を告げたのかが己でも理解出来ず、その後恩師であるアイヒェンドルフに胸の裡を吐露し、あるがままにいなさいと諭されて落ち着きを取り戻した事を思い出すが、たった今ウーヴェが気付いた感情よりもやはり長年憎み続けてきた事実の方が大きな声を持っていて、父に対する思いは憎しみでしかないと悲鳴じみた声を上げて微かに囁く声を打ち消してしまう。
己の胸の裡で繰り広げられる葛藤を見せたくなくて額をリオンの肩に押しつけて顔を伏せるが、同じだけの優しさと強さで頬を挟まれてしまい、顔を見るなと言う代わりにその手を頬から剥がして手首を掴んで腕の間に頭を下げると苦笑する声が頭上に落ちてくる。
「な、オーヴェ」
「・・・な、んだ・・・」
「俺が親父のことをそんな風に思うことは許してくれるか?」
「・・・・・・・・・」
長い間憎んできたお前の父を尊敬する事を許してくれるかと、僅かに不安の混ざった声で問われても返事が出来ずにいたが、自分が父を憎むこととお前が父を尊敬することは別のことであり気にする必要はないと途切れ途切れの小さな声でようやく答えを返したウーヴェは、安堵の溜息が間近に落ちたことに気付いて視線を上げ、目指す男の貌になりつつあるリオンを発見して限界まで目を瞠ってしまう。
「・・・泣くなよ、オーヴェ。お前に泣かれたらどうすりゃいいかわかんねぇよ」
頼むから泣かないでくれと眉尻を下げるリオンに泣いてないと言い張ったウーヴェの視界は涙で滲んでいて絞り出すような声も震えていたが、何故自分が泣いているかすらウーヴェには理解できていなかった。
自分が憎み続けている父について、ウーヴェの耳目に届けられる声は阿諛追従だったり母の実家の力がなければここまで大きくはならなかっただろうという羨望から来る中傷じみた言葉が多く、また自分自身も実家-特に父と兄-とは距離を置いている為にこんな風に父を一人の男として敬意を抱く言葉など滅多に聞くことは無かった。
しかもそれを言ったのが、今目の前で困惑しつつも既になりたい男への一歩を踏み出している恋人だった為、胸を掻きむしりたくなるような熱が溢れかえり、どんな類の言葉を告げることも出来ずに震える指先で男の貌になった恋人の頬を撫でる。
「泣い、て・・・、な、い・・・っ」
勝手に人を泣かせるなと聞き取りにくい声で告げたウーヴェにリオンが軽く驚いた様に目を丸くするが、くすりと小さな笑みを浮かべて頬に触れる手に手を重ね、素直じゃないんだからぁといつもの暢気な声でウーヴェを軽く非難しつつ目尻に溜まった涙にキスをする。
「素直じゃないし恥ずかしがり屋さんだし、口は悪いしワガママばっか言うけど、仕方ねぇよなぁ」
そんなお前が好きだもんと諦めなのか何なのかが分からない声で告白し、白い髪に口を寄せてお願いだから俺以外の前では泣かないでくれと本音をさらけ出す。
「俺の前だったらいくらでも泣いて良いからさ」
いつかも伝えたことがあるが、幼馴染みのベルトランの前でも泣くなと告げると、震える手がリオンの背中に回り、だから泣いていないと言っていると反論をする。
「あーはいはい。泣いてないんだよな」
「・・・っ、そ、う・・・だ・・・っ」
後一言何かを言われて心が揺れれば涙がこぼれ落ちそうで、強がりを言うことで新たな涙の湧出を止めようとするウーヴェだったが、付き合いだしてから様々な出来事を乗り越えて来た今のリオンにはそれが通じるはずもなく、心底楽しそうに笑みを浮かべてウーヴェの頭に頬を押し当てる。
「オーヴェって泣いても綺麗だよなぁ」
「だ・・・ら、泣いてな・・・っ!」
「まーだ言い張るのか?ホント、ガンコだなぁ」
「ぅ・・・る、さ・・・っ!」
「どうせ俺はうるさいですよーだ。でもそんなうるさい俺でも好きなんだろ、オーヴェ?」
何処からそんな自信が出てくるんだと聞きたくなるような声で問われて違うと言い返したかったが、今ぐらいは素直になれと静かに囁きかけてきた為に身体から力を抜いてリオンを驚かせると、震える唇の両端を何とか持ち上げる。
「リーオ」
「・・・・・・うん」
「俺の・・・特別な・・・俺だけの、太陽」
空に輝く太陽よりも明るく自分を照らし、抱えた熱で冷え切っていた心まで暖めてくれた俺だけの太陽と、文字通り雨上がりの青空のような顔で笑ってリオンの左手を手に取ると、頬にその甲を軽く押し当てて目を閉じる。
「・・・ごめん、オーヴェ。何て言って良いかわかんねぇ」
だからごめんともう一度謝ったリオンは、薄く目を開くウーヴェの頬を両手で挟んで視線を重ねると、再度瞼が閉ざされた事に礼を言い微かに震える唇に触れるだけのキスをするが、ガマンできないと小さく笑ってソファの肘置きとクッションに寄り掛かり、軽く目を瞠るウーヴェの身体を抱き寄せてウーヴェが見せた笑顔とはまた質の違う、だが同じ思いを秘めた笑みを浮かべて名を呼んで鼻先を触れ合わせる。
「オーヴェ、オーヴェ」
「・・・うん」
珍しく素直に自ら寄り掛かってくるウーヴェの腰に両手を回し、大好きだと笑うリオンにウーヴェも応えるように身体を寄せ合いながら嬉しそうに笑みを深めると、食後に飲もうと思っていたコーヒーがすっかりと冷めてしまうまでソファの上で互いの温もりを感じているのだった。
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