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ようやく冬の景色が春のものへと入れ替わる頃、いつものように賑やかな-受ける側からすればうるさすぎる-ノックが診察室の中に響き渡る。
先日、新たな赴任先の町に用意されている家に無事に引っ越し、妻共々新たなスタートを切ったと連絡を受け、恩師の新たな門出を離れたこの街から祝ったウーヴェは、今日もまたいつものように患者に向き合った一日の診察を終え、彼の右腕-どころか医療行為外の全般を担う-オルガとともに波乱もない穏やかな診察だったと胸を撫で下ろした時のそれにほぼ同時に深々と溜息を零すが、鳴り響くノックの音はますます激しくなるばかりで、ソファから重い腰を上げてドアノブを握ったウーヴェは、勢いよくドアを開けたはずみで足下に倒れ込む大きな身体を無表情に見下ろす。
「ハロ、オーヴェ!」
「・・・・・・もう終わったのか?」
床に腹這いになりながら手を挙げていつものように挨拶をするリオンを冷たい顔で見下ろしたウーヴェは、そんな顔をするなと頬杖を就く恋人の頭の上に溜息を零すが、程なくして表情を和らげてタルトがある事を伝えると、あっという間にリオンが立ち上がって小さなキッチンへと駆け出す。
「・・・本当に、静かに入って来られないのかしら」
「無理だろうな」
ウーヴェとオルガが色の違う瞳で互いの表情に同じものが浮かんでいる事を確認して溜息を零し、タルトを片手に鼻歌交じりに戻ってくるリオンにほぼ同時に小さく吹き出してしまう。
「ん?どした?」
「何でもない。食べるのなら座って食べるんだ」
窓際のお気に入りのチェアの一つを指し示し、オルガが苦笑しながらも紅茶をカップに注いでリオンの前に差し出すと、ダンケと端折ることなく礼を述べたリオンがオルガに嬉しそうに笑いかける。
「今日はどうだったんだ?」
「ん?仕事はいつも通りだな。あ、そうそう。ボスがデスクの抽出にチョコを隠してるんだよ。だから今日ボスの奥さんから電話があったときに後ろで叫んで暴露してやった」
その時のヒンケルの慌てっぷりを思い出してか不気味な笑い声を立てるリオンに思いっきり胡乱な目を向けたウーヴェは、いつかお前にトイフェルだと称されたことがあったが今のお前の方が余程悪魔らしいぞと呟き、頭痛を堪えるような顔で紅茶を飲む。
「尻尾が見えているわよ」
「二人ともひでぇ」
「一番酷いのはお前だ」
警部が密かな楽しみにしている事を暴露するお前が一番酷いとウーヴェが苦笑混じりに指摘するが、俺はボスの健康のためを思って言ったんだと胸を張られてしまえば何も言えず、それなのにゲンコツを落とすんだから酷いと嘆かれてしまい、自業自得だバカタレと瞼を平らにする。
「俺に食わせないで自分だけ食うのが悪い!」
結局リオンが言いたかったのはその一言らしく、ようやくそれに気付いたヒンケルがミニサイズの正方形をしたチョコを一枚差し出した為に電話口で甲高い声を上げる上司の妻に向かって今のは真っ赤な嘘ですよー、奥さんも警部を信じて下さいーと声を張り上げた事を告白したリオンに何度目になるのかは分からないが二人が諦めの溜息を零す。
「まったく・・・・・・そんなにチョコが食べたかったのか?」
「もちろん!」
タルトを頬張りつつ断言する恋人に最早どんな類の言葉も掛けられずに首を振って白い髪を左右に揺らしたウーヴェは、窓の外の景色に目を細めて今日も良い天気だったなと話を逸らすように呟きを発する。
「うん。暖かくなってきたからかどうかはわかんねぇけど、妙な通報が多かった」
「どうしたんだ?」
「イタズラ電話なんだけどな、パンツの色は何色だって聞かれたから、濃いオレンジでゴムの部分に白抜きのロゴが入ってたはずってオーヴェのパンツの色を答えておいた」
「っ!!」
「・・・・・・・・・バカタレっ!」
リオンの言葉に真っ先に反応したのはオルガで、手の中で揺れたカップから少し冷めた紅茶が膝の上にこぼれ落ちたために慌てて立ち上がって部屋を出て行き、そんな彼女を見送ったウーヴェの顔が怒りと羞恥に赤くなり、リオンがイタズラが成功した子どもの顔で舌を出してそっぽを向く。
自分ならともかく人の下着の色を答えるなと、冷静になればそれも違うと言いたくなる事を呟いたウーヴェに相手が分からないから良いだろうと嘯いたリオンは、目を吊り上げながら戻ってきたオルガの雷を避けるためにウーヴェの背後に回り込んで助けてくれと一声叫ぶ。
「スーツのクリーニング代を請求するわよ、セクハラ刑事!」
「ちょ、だって電話が掛かってきたんだって!俺も被害者!」
「何が被害者よ!嬉しそうに答えてる時点で被害者じゃないわ!!」
珍しく激怒しているオルガを宥めることも出来ずにただ見守っていたウーヴェは、己の身体を挟んで前後で捲し立てられる悲鳴じみた声に肺の中を空にするほどの溜息を零し、オルガのために紅茶をカップに注いで落ち着けと肩を竦め、背後の大きな図体をした子どもには冷たい視線でいい加減にしろと警告を発すると、二人が我に返って口を閉ざす。
「ごめんなさい」
「・・・・・・ごめん」
「分かったのなら二人ともそこに座るんだ」
ウーヴェがにっこり笑顔で指し示すチェアに大人しく腰掛けたリオンと、己の言動を恥じるように俯き加減に腰掛けるオルガに苦笑し、今日のタルトも美味しかったと笑みの質を切り替えたウーヴェは、顔を上げた彼女を安心させるようにしっかりと頷いてまた明日もよろしくと恒例の言葉を交わしあう。
「お疲れさまでした、ドクター・ウーヴェ」
「フラウ・オルガもお疲れさま」
「お疲れ、リア。今日はデートか?」
「残念ながら・・・彼は今忙しいみたいなの」
せっかくなのにデートできないのは寂しいなぁとリオンが肩を落とし、あなたがそこまで落ち込む事はないでしょうと笑われるが、俺がもしもリアの立場だったら怒り狂ってると真剣に言われてオルガが瞬きをする。
「まあ週末にでもデートは出来るけどな」
「え、ええ、そうね・・・そうよね」
「?」
リオンの言葉にオルガがまるで己を納得させるように頷くが、その瞳には不安が揺らめいていて、素早くそれを察したウーヴェがリオンの足をテーブルの下で軽く蹴って合図を送る。
「お疲れさま、リア」
「ありがとう。あなたもお疲れさま、リオン」
今日もよく働いたと互いに労いの声を掛けて立ち上がった彼女だったが、後片付けはやっておくと言われて一礼し、ではまた明日と笑顔を残して二人に背中を向ける。
その細くて小さな背中が出て行った後、彼女にとって拙いことを聞いてしまったのかとリオンがドアを見つめながら呟き、もしかすると上手く行っていないのかも知れないとウーヴェも窓の外を見ながら答える。
「そっか・・・教えてくれてありがとうな、オーヴェ」
「ああ」
合図を送ってくれなければきっと自分はあのまま彼女が口籠もるような事を並べ立てていただろうと苦笑し、止めてくれる存在がいて良かったと微かに笑みを浮かべてウーヴェへと顔を振り向けて腹が減ったと元気いっぱいに宣うと、苦笑を浮かべたウーヴェがゲートルートに行かないかと誘いながら立ち上がり、嬉しそうな気配を隠さないリオンが食器類を片付けてくると良い子の返事をした為、片付けを頼んで携帯を取り出してリダイヤルする。
『もう仕事は終わったのか、ウー?』
「忙しいところを悪い。二人で行っても大丈夫か?」
デスクの端に尻を乗せて軽く足を交差させながら窓の外を見るウーヴェの耳に流れ込むのは、いつものように繁盛している事を伝えてくれる好ましい喧騒とスタッフが交わす言葉の数々だった。
『そうだな・・・30分ぐらい後でも平気か?』
「満席か?」
『いや、ちょっと厄介な客がいる。お前が苦手なタイプだ。多分30分ぐらいで帰るはずだからそれぐらいにした方が良いな』
幼馴染みの気遣いが嬉しくてありがとうと答え、そういうことならば一度家に戻ってから店に行く事を伝えると、安堵の溜息混じりの声が5年の白ワインとマス料理を用意してやると教えてくれた為、チーズフォンデュも頼むと付け加えて受話器を下ろす。
その時、注意を払っていればベルトランの声に焦りが滲んでいる事に気づけたはずだったが、店の喧騒とスタッフの声に集中できなかった為に後日その焦りの原因を知って複雑な思いを抱いてしまうのだが、この時のウーヴェに分かるはずもなく、リオンが後片付けを総て終えた事を伝える為に診察室のドアを開けて笑みを浮かべた為、つい今幼馴染みと交わした言葉を伝える。
「それじゃあ仕方ねぇよな。一度家に帰ろうぜ、オーヴェ」
「ああ」
腹が減れば覿面に機嫌が悪くなる恋人は事情を説明すれば納得してくれるが、それでも腹が減った事に変わりはないから早く帰ろうとウーヴェを急かせた為、少しぐらい待てないのかと呆れながらも手早く帰り支度をし、二人でクリニックを後にするのだった。
久しぶりに二人で訪れたゲートルートはウーヴェが電話で感じた喧騒の時は過ぎ去っていたようで、少しだけ賑やかな声が彼方此方のテーブルから挙がっている程度だった。
店に二人が入ると同時にチーフが駆け寄ってきて窓際のいつものテーブルへと案内し、オーナーがすぐに料理に取り掛かると伝えてくれる。
「ああ、いつも悪いな」
電話での約束を守ってくれる幼馴染みにありがとうと伝えて欲しい事を告げ、厨房へと戻っていくチーフに肩を竦めたウーヴェは、リオンが頬杖をつきながら窓の外を見つめている事に気付いて同じように顔を向ける。
「どうした?」
「ん?いや・・・オーヴェ、マイバッハって乗ったことあるか?」
リオンの口から流れ出す車種に軽く目を瞠った後苦笑したウーヴェは、乗ったも何もこの間無理矢理家まで送られた時に一緒に乗っただろうと告げると、口をぽかんと開けた顔で見つめられて苦笑を深くする。
「そうだった・・・!」
「マイバッハがどうしたんだ?」
「んー・・・一度乗ってみたいって思ったけどさ、今度はロールスロイスに乗ってみたいなーって」
「それは運転したいと言う事か?それとも後ろに乗りたいと言う事か?」
「どうせ乗るなら後ろでふんぞり返ってみたい!」
「はいはい」
リムジンもステキだと惚けたように呟く恋人に無言で肩を竦め、視線を窓の外から戻したウーヴェは、チーフが運んできた白ワインとオードブルのチーズの盛り合わせに目を細め、今すぐ食い付きかねない勢いのリオンに掌を向ける。
「どうぞ召し上がれ」
「ダンケ!」
自宅であろうと外であろうと変わることのない挨拶をしたウーヴェにこれまた代わることのない笑顔でダンケと返してチーズを早速口に運ぶリオンだったが、ウーヴェの顔に浮かんでいる表情が穏やかな笑みだった為、それだけで嬉しくなってしまう。
今回の一連の出来事で己の中に潜んでいた願望にも気付き、また恋人に対するどうしようもない嫉妬心にも気付いてしまったリオンだったが、特別な子どもだと言って抱きしめてくれる存在がいるのにその思いが一方通行である現実をも知り、羨ましいという言葉では言い表せない複雑な思いも抱いたのだ。
認めたくはないが認めざるを得ない感情が己の中には存在し、その思いを抱く事だけでも後ろめたくなってしまうが、そんな思いを遙かに上回る大きさで存在するのは、こんな自分のことを特別だと言って笑顔で抱きしめてくれたウーヴェが伝えてくれる愛情だった。
マザー・カタリーナやゾフィーらがリオンに注ぐ愛情と似ていても決定的に違うそれをいつも感じさせてくれていたが、今回の事ではより一層その思いを見せてくれた恋人が今まで以上にただ無性に愛しく感じてしまい、ワイングラスを手にチーズを摘むウーヴェの名を呼びテーブルの上でそっと手を重ねると、場所を思い出せと言いたげに眼鏡の下でターコイズが光ったために無言で肩を竦めて手を戻すが、そんなリオンの左足の爪先にコツンと一つノックがなされて目を瞠る。
「────我慢してくれ、リーオ」
「ん、ごめん」
自宅でのスキンシップならば問題無く応えられるが、さすがにここでは手を繋ぐ事すら気恥ずかしいと聞き取りにくい声で告げられて素直に頷いたリオンは、今度はウーヴェの左足をコツンと爪先で叩く事でスキンシップの代わりにし、運ばれてきた料理に目を輝かせるのだった。
チーズフォンデュを堪能しデザートのタルトまで楽しんだリオンは、ウーヴェがカウンター越しにベルトランと言葉を交わす背中を頬杖をつきながら見つめていたが、そのままさり気なさを装ってパーティションへと視線を流す。
そのパーティションの向こうにはテーブルが一つあり、店の細々としたものが置いてあったり時にはスタッフが食事をとるそうだが、以前リオンがその席に座ろうとした時にやんわりとベルトランに断られたことがあり、それ以降その席はスタッフ用の場所だと理解していた。
だが、今日もまた自宅で食べている時と同じように他愛もない話をして楽しんでいる自分たちを、そのパーティションの奥から誰かが見ている気配を感じていたのだ。
首筋がチリチリとする不愉快な視線ではなく自然で暖かな視線だった事を思い出すが、パーティションの向こうの席に客が座ることは無い筈だと苦笑し、己の勘違いだろうと一つ頭を振って煙草に火をつける。
そんなリオンに背中を向けたままカウンターに肘をつき、身を乗り出してくる幼馴染みに今日の料理の感想を至極真面目な顔で伝えたウーヴェは、今度はサーモンで美味しい料理を作ってくれと伝え、今日の料理が不満だったのかと無言で訴えるように軽く口を尖らせるベルトランに苦笑し、マスも嫌いではないがサーモンで同じような料理方法で食べてみたい事を素直に告げると、ウーヴェが料理に対してリクエストしたことが余程嬉しかったのか、あっという間に不機嫌さが顔から消えていつもの笑顔を浮かべたベルトランが任せろと胸を叩く。
「今日は悪かったな」
「苦手な客と鉢合わせる方が辛いからな。ありがとう」
お前がわざわざ言うぐらいなのだから余程騒々しい客がいたんだろうと肩を竦めるウーヴェに微苦笑で答えたベルトランは、何かを問いかけたいのか何度か口を開いては無言のまま閉ざす事を繰り返した為、ウーヴェが首を傾げて問いかける。
「何でもない。お前がリクエストしてくれたのが嬉しかっただけだ」
まるで食の細い我が子の成長に涙を流す親の顔で囁かれ、リオンといる時よりも素直に感情を顔に出したウーヴェは、真っ平らにした瞼の下からベルトランを睨み付ける。
「うるさい、ぽよっ腹」
「お前ね、お前の恥ずかしい話を今すぐキングに暴露してやろうか?」
「好きにすればどうだ?」
幼馴染み同士で顔を寄せ合いにやりと笑みを浮かべあって相手を牽制するが、物心つくよりも早くから遊んでいた為に相手の次の行動が手にとるように理解出来てしまい、溜息一つで手を打って苦笑し合う。
「とにかくワインも料理も美味しかった」
「おう。あのワインは樽ごと買ってある。家で飲みたくなればボトリングしてやる」
「ダンケ、バート」
「今度お前の奢りで一杯飲みに行こうぜ」
「ああ。都合が良い日を教えてくれ」
口ではどうこう言い合っていてもやはり気心の知れた幼馴染み同士の為、次の飲み会の約束をするとほぼ同時に手を挙げて背中を向け合う。
「オーヴェ、そろそろ帰るか?」
「そうだな」
自分がベルトランと話し込んでいるうちに会計を済ませたらしいリオンが苦笑し、待たせて悪かったとウーヴェも素直に謝罪をする。
「ん、平気」
「じゃあ帰ろうか。運転、頼む」
「はいよ。極力安全運転で帰りまーす」
びしっとふざけた礼をするリオンに吹き出しながらも気をつけてくれと尊大な態度で応じたウーヴェは、愛車のキーを預けてリオンの頭を一つ撫でると一足先に店を出るが、後からやってきたリオンが何かを探すように店の周囲を見渡した事に首を傾げる。
「どうした?」
「・・・何でもねぇ」
「?」
照れ隠しの笑みを浮かべるリオンに溜息をつき、早くドアを開けてくれと促して乗り込んだウーヴェは、運転席に乗り込んでシートベルトを着けたリオンが何事かを思案する顔でステアリングに顎を載せた為、本当にどうしたんだと苦笑を深くする。
「うん・・・前にさ、俺の自慢出来るところって何だって聞いたよな」
「そう言えばそんな事を言っていたな」
「な、自慢出来るところって何だ?」
「いきなり言われても・・・」
さすがに答えられないと拳を口元に宛がい、家に帰るまでの猶予をくれと強請ってみると、案外あっさりとわかったと頷かれて胸を撫で下ろす。
「オーヴェの自慢出来る所なら沢山知ってるんだけどなー」
「・・・・・・そうか?」
「もちろん!優しいし一度口にした約束は絶対に守るし・・・それに何よりも・・・」
唐突にウーヴェの長所というよりはリオンが思う自慢出来る性格を並べ立てられて目を瞬かせたウーヴェは、車を自宅に向けて走らせるリオンが呟いた言葉に思い切り目を見開いて驚きを露わにする。
「────お前にも嫉妬してしまう俺を愛してくれる。そんな人は・・・今までいなかった」
そんなお前が自慢だと穏やかな顔で囁き、ちらりと視線を流してくるリオンに咄嗟に何も言えずにただ口元に拳を宛がったウーヴェは、何度かターコイズ色の虹彩を左右に泳がせた後、シフトレバーに置かれた右手の薬指を何度も撫でて手に取ると同じ場所に口付ける。
いつかここに同じデザインのリングを光らせることが出来れば良いと伝える代わりにキスをしたウーヴェは、己の思いが伝わったことを軽く飲まれた呼吸から知り、掌にもキスをした後で手を離してシートに深くもたれ掛かり、その後ウーヴェの家に帰り着くまでどちらも口を開くことはないのだった。
宣言通りの安全運転で家に戻った二人だが、そのままベッドルームに向かうと、リオンをソファに座らせてその足に跨るようにウーヴェが腰を下ろす。
積極的とも言えるその態度にリオンが内心で口笛を吹いて楽しさを瞳に滲ませると、リオンの額に掛かる前髪を掻き上げたウーヴェが口を寄せて目元を赤くした顔で総てが自慢できる男だと囁いて目を伏せる。
「オーヴェ・・・?」
「今まで確かに悪いこともしてきただろう。でも働いてからはそれを補えるだけの事はしている」
知り合うまでの過去でお前がどんな悪事を働いてきたのかを詳しく知らないが、今はもうそんな昔の自分とは訣別して真っ直ぐな背中を人に見せることが出来、また己が間違っていると分かればそれを素直に聞き入れて正すことが出来る男なのだから、顔を上げて胸を張ればいいとも告げ、くすんだ金髪を胸に抱え込んで青い石が填っている耳に口付ける。
「・・・・・・オーヴェ」
「過去を消せはしないが、今を真面目に一歩ずつ歩いていけば必ず誰かが認めてくれる」
今のお前の回りにいる人たちを思い出してみろと囁かれ、ウーヴェの胸に抱かれたリオンが目を閉じると、今度はこめかみ辺りに暖かな感触が芽生えて頬を擦り寄せる。
「・・・もしも誰も認めてくれないとしても、俺だけは認めてやる」
人には言えない過去があって更生した今刑事の道を歩んでいる、そんなお前を認めるし誰にでも自慢してやる。
「顔を上げろ。胸を張れ。お前が歩んできた道を蔑むな」
低くもなく高くもない抑揚を持つ不思議と胸の奥に滑り込んでくる声にゆっくりと顔を上げ、見下ろしてくる端正な顔に浮かぶ強さと優しさに目を瞠ったリオンは、眼鏡を外す動きを見開かれた視界で見守り、次いで自分に向けられた笑顔に唇を噛み締める。
こんな風に己の総てを認め、今のままで良いと言ってくれる存在はマザー・カタリーナ以外にはおらず、その事実からも己の恋人が得難い存在である事に改めて気付いたリオンは、ウーヴェの腰に両手を回して軽く引き寄せて額を重ねて目を閉じる。
「・・・たとえお前が何をしたとしても・・・俺だけはお前を信じている。だからお前が望む人になると言うのなら、それを信じている」
人は誰かが信じてくれていると知ればそれに向けて足を踏み出す力を持っていると強さを秘めた穏やかな声で囁かれ、無言で小さく頷いたリオンが微かに震える深呼吸を繰り返して胸を大きく喘がせると、ウーヴェの一言一言が腹の中の納まる場所に落ちていった事を示す笑みを浮かべて逆にウーヴェの白い髪を胸に抱え込む。
「ダンケ、ウーヴェ」
お前がそうして信じてくれる事で前を向く力が沸き起こると囁き、ありがとうともう一度囁いたリオンは、腕の中で頭が小さく頷いたことに気付いてそのままソファに寝転がってウーヴェをしっかりと抱き留める。
「オーヴェ、オーヴェ!」
「・・・・・・ああ」
これで満足だろうかと小首を傾げて問い返し、予想以上の答えを貰った事への感激を顔中で表したリオンは、安堵の笑みを浮かべるウーヴェを呼び続けて起き上がると、そのまま抱き上げていつかのようにくるくると回り出す。
「こら、リオンっ!」
目が回るから止めろと声だけで制止するウーヴェだったが、次第に込み上げてくるおかしさに負けてしまい、リオンの首に腕を回してくすくすと笑い出してしまう。
「オーヴェ大好き愛してる!」
「・・・・・・うん」
ウーヴェを抱き上げたままいつまでも回り続けかねないリオンにウーヴェが苦笑したその時、足が縺れた為にベッドにどさりと倒れ込んでしまい、二人向かい合って横臥したまま肩を揺らして笑ってしまう。
自慢できることや負けないことなど一体何を悩んでいたのかと不意に芽生えたその思いにリオンがぴたりと口を閉ざしたかと思うと、同じように沈黙したウーヴェの身体に覆い被さるように寝返りを打ち、ウーヴェもリオンの広い背中に腕を回すが、ウーヴェが口の中で言葉を転がした後、震える声がリオンの耳に流れ込む。
長年憎んでいる父だが、その父を守っただけではなく尊敬する人物として見てくれてありがとうと囁かれ、思わず言葉が流れ出しそうなほど驚愕したリオンだったが、その言葉を何とか呑み込んで小さく頷くと、白い髪に手を差し入れて匂いを確かめるように顔を寄せる。
「・・・・・・うん。許してくれてありがとうな、オーヴェ」
名前を聞くだけでも不機嫌になる程憎んでいる筈で、今回の事では何度も何度もその影を姿を見せつけた結果、狂乱に陥れてしまったのに今もまたこうして許してくれてありがとうと真摯に礼を述べ、そんなウーヴェの気持ちを忘れないように心に刻んで刑事としても成長していくとひっそりと誓ったリオンは、すっかりと馴染んでしまっているウーヴェの匂いにうっとりと目を伏せ、無言の頷きを貰って安堵の溜息を零すと至近にある唇にそっとキスをし、どちらからともなくそれを深いものにしていくのだった。
目覚ましの音で目を覚ましたウーヴェは、ブラインドの隙間から入り込む朝の気配に目を細め、体内に居座る眠気の残滓を洗い流す為にそっとベッドを抜け出して足を止め、たった今抜け出したばかりのベッドの様子に変化が無いことを確認してからバスルームのドアを開ける。
熱めのシャワーを頭から浴びて恋人が選んだボディソープで全身を泡まみれにし、頭も身体もすっきりと目覚めさせてバスローブを羽織りシャワーブースを出、今度はホテルのスイート並の広さを誇る洗面台でうっすらと生えているヒゲを剃ってひとまず朝の支度を整えるが、洗顔後のさっぱりした顔を上げて洗面台の鏡に映し出された人の姿に目を瞠ると、その中で視線を合わせておはようと笑いかける。
「・・・・・・ん、ゴット、オーヴェ」
「もう起きたのか?」
「うん、目が覚めた」
いつもならば朝食が出来上がった頃に何度も何度も起こさなければ起きないリオンが自発的に起き出してきたことに軽く驚いたウーヴェは、これから朝食の支度をするからシャワーを浴びればどうだと提案しながら振り返ると、腕を組んだリオンが壁に背中を預けながら眉間の当たりにもやもや感を漂わせたような顔で見つめてくる。
「どうした?」
「なぁんか忘れてねぇか、オーヴェ?」
その一言が示す忘れ物を思い出して目を瞬かせたウーヴェは、思い出すまで視線を合わせないつもりのリオンの顔の傍に手をつき、蒼い瞳を覗き込むように首を傾げて笑みを浮かべる。
「────リーオ」
「・・・ん、おはよ、オーヴェ」
忘れ物をしっかりと思い出したウーヴェがリオンの不満を滲ませていた唇に触れるだけのキスをして満足した事を確認する為に離れると、朝から清々しい笑みを浮かべたリオンがウーヴェの額にキスをし、シャワーを浴びるから朝飯をお願いしますと丁寧に告げる。
「オムレツはどうする?」
「チーズ入り!!あ、ライ麦パンあったっけ?」
「ああ。買ってある」
「じゃあカフェオレも!」
「わかった」
今朝はバスルームで交わす何気ない朝の言葉だったが、もう一度リオンがウーヴェの頬にキスをし、美味い朝飯を食わせてくれよハニーと言い残して湯気が立ちこめているシャワーブースに向かう。
「・・・ブタの貯金箱にも朝食を食べさせるなんて優しいな、リーオ」
「げ!」
己の軽口がもたらした結果に目と口を丸くするリオンに目を細め、なるべく早く支度をして出てこいと告げ、がっくりと肩を落とす背中にひらりと手を振るのだった。
今日も美味いメシをありがとうと最大限の感謝の思いを込めてウーヴェの頬にキスをしたリオンは、慌ただしく出勤の準備をして最終チェックだと言うようにウーヴェの横に並んで洗面台の鏡でチェックする。
「良し」
「な、オーヴェ」
「何だ?」
リオンよりは少しだけ時間の余裕があるウーヴェがリオンの髪の乱れを整え、完璧だと満足の吐息を零して頷くと、礼を言ったリオンがくるりと振り返ってウーヴェの顔を覗き込む。
「今日も男前?」
「────ああ」
今日もお前が惚れてくれる俺になっているかと問われて羞恥を覚えるが、それを押し隠すように咳払いを一つしたウーヴェは、もちろんだとの思いを込めて短い言葉で肯定し、今日も刑事として人々の暮らしを守ってこいとも頷くと、リオンの表情が一瞬のうちに切り替わる。
その貌はリオンが望むものだったが、もうすでに望む男の貌になりつつあると胸の裡で感心し、にやりと笑みを浮かべる恋人に同質の笑みを浮かべて大きく頷く。
「行ってこい、リオン」
「Ja.オーヴェも頑張れよ」
「ああ」
行って来ると手を挙げるリオンの背中をじっと見つめていたウーヴェは、遙かな遠い昔、同じように広くて大きな背中を見送っていた事を思い出し、一瞬だけきつく目を閉じて頭を振ると、その背中を目指す恋人を見守り続けようと新たに決意をする。
己の父のようになりたいと言ってくれた恋人に対する思いが胸の裡で溢れかえり、上手く言葉にする術を持たないウーヴェだったが、リオンが父の護衛を引き受けた事が自分たちに大小様々な変化をもたらした事にも気付き、上手く収拾が付けられない思いを何とか腹の奥底へと納め、ウーヴェ自身も出勤の準備に取り掛かるのだった。
窓の外はようやく訪れた春の気配に満ちていて、夏のように高くはないがそれでも晴れ渡る青空に薄く広がる白い雲が浮かんでいるのだった。