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翌朝。ナトスは目が覚めた。昨日、汚れ切ったままで寝てしまったはずが、見てみると寝間着に着替えており、身体も拭かれているような清潔さだった。妙に全身がすっきりとしている。身体の痛みも全くない。
「っ!」
ナトスは昨日の惨状が思い起こされて、ベッドから飛び起きて、寝室を見回す。ベッドも、部屋の隅もあれだけ汚れていたようにはとても思えず、昨日のあの陰惨な光景を1つも窺い知ることのできない綺麗な状態だった。
血の臭いも、吐しゃ物の臭いも、別の男の臭いもしない。それどころか、扉の向こうから、台所の方から料理の匂いが漏れており、彼の鼻孔を優しくくすぐっている。そして、美味しそうなスープの香りに彼の腹が返事をする。
「もしかして、夢だったのか?」
ナトスは戸惑う。昨日起きたと思っていることは全て夢で、トラキアとの諍いなんてものはなく、レトゥムもニレも元気に生きており、ニレは触れられず犯されることもなかったのではないか、長い悪夢を見てうなされていただけではないか、と。
「お腹空いたな」
この立てつけの気になってきた扉を開ければ、朝食の支度で台所に立つニレの姿と、その近くをうろちょろしているレトゥムがいるのではないか、ニレに危ないからと言われて少しばかり膨れ面をしてなんだか分からないお喋りをしているレトゥムがいるのではないか、とナトスは少しの希望も芽生え始める。
「ニレ、レトゥム、おはよう!」
ナトスは意気揚々と扉を開け、台所の方を見る。それによって、無情にも錯覚の終わりだと知ることになる。台所に立っているのは眩いばかりの短い金髪を揺らしている後ろ姿だった。
アストレアである。
「起きたのか。おはよう。ニレとレトゥムはいない。ご飯はできている」
アストレアが着ているものは昨夜に見たローブではなく、まるで貴族の下で働く愛玩メイドのようなエプロンドレスである。紺色のロングスカートワンピースに、フリルが付いた白色のロングエプロンを身に着けている。さらに、彼女の短かく切り揃えられている髪に加えて、既に大きな目隠しで押さえられている髪も多いのに、着ける必要が見いだせないヘッドドレスまで完璧に装備していた。
これがミニスカートにミニエプロンであれば、確実に貴族の愛玩メイドだったろう。
「……なんですか、この豪華なご飯は」
いつもの小さなテーブルには所狭しと食事が並べられている。ナトスの家では稀に見る肉や魚、見たこともないような色とりどりの野菜たち。いつもの固いパンの切れ端と根菜だけのスープとは大違いだ。
「豪華かどうかは分からないが、肉や魚は私が朝早くに採ってきた。野菜は私が自宅でしている家庭菜園から採ってきた。朝採れの新鮮な物ばかりだ」
ナトスは、神が家庭菜園をするのか、神界で育った作物を人間が口にしても大丈夫なのか、そもそも自分の監視のために残ったはずなのに肉や魚、野菜を採りに出かけたのは何故か、などいろいろと聞きたいこともあったが、聞くと長くなりそうなのであえて口にしなかった。
「……ありがとうございます。いただきます。ところで、部屋が綺麗になっていたり、俺の身体が綺麗になっていたりするのは、アストレア様のおかげですか?」
ナトスはパンを手に取りながら、丁寧な口調でアストレアに問いただす。昨夜のことが夢かと思う違うくらいにまるで何もなかったかのような完璧なまでの清掃に、どうせなら2人が殺された事実さえもなかったことにしてほしいと思ってしまうのだった。
「やめろ。いくら冷静になったからと言って、言葉遣いを丁寧にするな。昨夜同様でいい。ん。スープは美味くできているな。冷めないうちに食べてくれ。あと、呼ぶなら……ライアと呼んでくれ。テミスやディケでもいいぞ。とにかく、アストレアでは勘付く者もいるだろう」
アストレアは、ナトスの変貌ぶりに気持ち悪いとでも言わんばかりの辛辣な物言いをする。しかし、彼女は目を隠していても口元を見ると優しそうな表情をしているので、彼に気兼ねなく接してほしいという気持ちの表れのようだった。
彼もまた何となくそう感じたのか、特に嫌な気持ちになることもなくそれを受け入れることにした。
「わかり……わかった。ライアと呼ばせてもらう。しかし、いろいろと名前があるんだな」
ナトスは神様には偽名があって、お忍びで何かをする際にそういった名前を使うのだろうか、と考えた。それは、王族や貴族も似たようなことをしている、とまことしやかな噂をよく耳にしているからだ。
「そうだな。正義とはそもそも移ろいやすいもの、もしくは、1つの正義とは一方的なもので他方も存在するから、とかだからかもしれんな。と言っても、同一にみられることはあるが、一応、全員、別神だぞ。私以外に正義を司る神として、テミスもディケも別にいるってだけなんだがな」
アストレア改めライアは、少しばかり皮肉めいた言い方をしている。正義とは何か。そういうものは、最初からないのかもしれない、とナトスは聞いていて感じる。しかし、彼には不定形のものを司る神の気持ちなど分かるはずもない。
「だとしたら、ライアがテミスやディケを名乗るのはおかしくないか? 別神になってしまうだろ。ん、たしかにスープが美味いな」
「そうだろ、美味いだろ。いい出来だ。っと、たしかに、別神になってしまうな、これはうっかりしていた」
本当にうっかりか、わざとなのか、それをナトスが知る術はないが、ライアの微笑む顔に嘘偽りはなさそうなことだけ分かる。彼はふと、自分が疑心暗鬼になっていることに改めて気付く。
「まだなると決めたわけじゃないからって、ご機嫌取りをしているわけじゃないよな?」
ナトスはついそんなことを告げてしまう。ライアは少し驚いたような顔をした後に、仕方のないやつだな、といった表情をしながら、食事の手を止めた。
「おいおい、藪から棒にそんな冷たいことを言ってくれるな。私はな、人間が好きなんだ。だから、ナトスとも仲良くしたいだけ。今回の件も、正直に言えば、引き受けてほしいと思っているけれども、引き受けないなら引き受けないで構わない。私はナトスの意志を尊重しよう。この天秤がそう私に伝えている間は、だがな」
ライアの顔の向いている方向に、銀色の天秤が鎮座している。それは何も乗っていないにも関わらず、少し傾いているように見えた。
「傾いているようだけど、壊れていないか、あれ」
「失礼な! あれは神器だぞ。あれは世界の在り方として、いつも正しい選択ができるようになる神器だ。ナトスには見えていないだろうが、私にははっきりと両方に何が乗っていて、何が重要か、つまり、どちらが重く正しいかが見えるのだ。今までこれの選択で間違えたことはない!」
さすがのライアもその言葉には怒りを覚えたようだ。いかに自分の天秤が素晴らしく、いかにこの天秤が重要であるかを今までにないほどの熱量でまくし立てるように喋り出す。
「それはすまない。無神経なことを言った。ところで、何と何が乗っているんだ?」
ナトスは、ライアの感情豊かなところを見て、まるでニレと話しているかのように錯覚し、嬉しさと同時に虚しさや悲しさが心の中をふと掠めていくのを感じた。彼はいくら失礼だと思っていても、彼女がニレだったならと思うことを止めることはできない。
「そうだな。いつも教えてやれるわけではないが、今回は特別だ。ナトスの判断に任せるか、否か、だ」
「そうか。それで俺に任せられているわけか。しかし、正直、まだ決められないんだ。いろいろしてもらっているのに、悪いな」
「気にするな。それに、引き受けてもらうためにいろいろしているわけではない。これは私なりの気持ちの問題だ」
ライアなりに、今回のナトスの境遇に思うところがあるのだろう。憐れみか、優しさか、あるいはその両方か、はたまた、別の何かか。その心の内をナトスには読み取ることができない。
「そうか、ありがとう。ところで、なんで、そんな格好をしているんだ?」
ナトスは重苦しくなりそうな空気を振り払うために、あえて、今まで聞かなかったライアの服装について問うた。
「ん。ごちそうさま。可愛いだろう? 奉仕人、メイドと言ったか、その正装とのことだったからな。スカートの丈は短いのもあるようだが、ナトスはどちらが好みだったかな?」
一足早く食べ終わったライアは、手と口を拭いた後に立ち上がり、くるっと一回転して、ナトスにエプロンドレス姿を披露した。彼女は目隠しで顔の半分を隠しているものの、控えめに言っても、かなりの美人のように見える。だからこそ、余計に愛玩メイドという言葉がピタリと来てしまう。
「メイドなんて数回見たくらいだから、よく分からないが、ライアはどちらでも似合うと思う」
「そうか、そうか。欲情でもしたか?」
ナトスは多くの神が性に寛容だと聞いていたが、まさかここまで明け透けだとは思っていなかったようだ。ニレが亡くなったばかりの彼には、そんな些細な冗談でも辛かった。しかし、彼はライアも励ましているつもりなのだろうと思い、軽口には軽口で返すようにした。
「おいおい、妻子持ちにその発言は不謹慎じゃないか? それに、もし俺が欲情したらどうするつもりだ? 隣には寝室があるんだぞ?」
「……そうだな。すまない。しかし、ナトスが欲情したら、か。既成事実を引き受ける条件にして叩きつけるというのはどうだ?」
ライアもまた軽口に軽口を返してきているとナトスは理解した。お互いに引っ込みがつかなくなってきているとも言える。彼は参ったと言わんばかりに両手を小さく挙げる。
「とんでもない話だな」
「ははは。冗談だ。そのような交渉はしない」
「冗談ならいいんだ。さて、ごちそうさま。すまないが、この後、少し出かけたい」
「ついていくが問題ないか?」
「かまわない」
ナトスは寝間着から着替えて、ライアにはさすがにメイド服は困ると伝えて、彼女にニレの服と似たようなものを持っていないか訊ねて、彼女に一般的な服装をさせた。