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総攻撃を二日後に控えた夜、勇斗は舜太の陣幕に呼び出された。
幕の内には、灯りがひとつだけ。
卓に広げられた古都周辺の地図の端に、柔太朗が静かに腰を下ろしている。
勇斗が入ってきても、柔太朗は何も言わず、小さく会釈をしただけだった。
舜太は、地図から目を上げずに言った。
「単刀直入に言うわ。二日後の夜明けに、古都へ総攻撃をかける。もう、動かせへん」
「……そうか」
覚悟はしていた。
それでも、はっきりと日取りを告げられると、腹の底が冷えていくのが分かった。
舜太は、ようやく顔を上げた。
「その混乱に乗じて、国王を連れて逃げろ。古都の西に入江がある。白色の国の伝手で、商船を一隻、そこに回してある。名も身分も伏せて、海の向こうへ渡れ」
勇斗は、言葉を失った。
今更、計画を実行しろというのか。
―――追放されているのに。
「捕まれば、お前らは二人とも元王族や。どんな扱いになるか、俺にも保証はでけへん。……せやから、逃げろ」
長い沈黙が落ちた。灯りの芯が、小さく爆ぜる。
「……舜太」
「なんや」
「俺は、あの人の願いを、ずっと叶えられていない」
言葉に出してしまったのが、間違いだった。
認めるのが、ひどく怖い。
一番近くに、一番そばにいたのに。
口にした途端、堪えていたものが、堰を切ったように溢れてきた。
「兄王は、仁人が王にならなくていいようにと願っていた。それなのに俺は、あの人が冠を戴くのを、隣で見ていることしかできなかった。縁談の夜も、何も言えなかった。王都も、守れなかった。ただ、隣にもいてやれなかった。」
声が、掠れた。
「王都に戻ることが、あの人の本当の望みだと、やっと気づいたのに。それを叶えてやる力が、俺にはない。俺には、なにもない。……出会ってからずっと、俺は、あの人の願いを、一つも叶えられていないんだ」
弱音だった。誰の前でも見せまいと決めていた、剥き出しの。
舜太は、しばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「なあ、勇ちゃん」
「仁人がどうとか、やない。勇ちゃんは、どうしたい?」
「……俺?」
「仁人の願いを叶えたいんは、よく分かった。――お前自身は、何を望んどる?」
勇斗は、答えられなかった。
自分の願い。そんなものを、まともに考えたことがあっただろうか。
ずっと、仁人の願いの形を探し、それに自分を合わせてきた。
それが自分の願いなのだと、思っていた。
柔太朗が、灯りの向こうで、静かに待っている。舜太も、急かさなかった。
どれだけの間、そうしていただろう。
やがて勇斗は、ぽつり、ぽつりと、言葉を探すように話し始めた。
「……兄王が亡くなる前の夜に、約束した」
あの寝室、痩せた手、最期が近づいていても威厳のある声が、まだ耳の奥に残っている。
「仁人が、ただの一人の人間でいられる場所を、お前が作れ、と。守れ、とは言われなかった。俺は、お約束します、と答えた」
舜太は、黙って頷いた。
「初めて会った日、稽古場で、納得がいくまで、何度でも最初から舞い直してた。王位を継ぐ気がないと侮られていたのに、あの人は、誰よりも自分の道に妥協がなかった」
勇斗の口元に、ふと、微かな笑みが浮かんだ。
「詩も読んでくれた。意味が分からないと言ったら、分からなくていい、感じるものがあれば十分です、って。……あの人にとって、舞も詩も、飾りじゃなかった。息をするのと、同じだった」
「それを、続けてほしかった。冠を戴いても、国が傾いても、あの人が愛したものを、あの人の手から取り上げさせたくなかった。……俺は、それを、一番近くで守りたかった」
勇斗は、膝の上で、拳を握りしめた。
「それが、たぶん、俺の願いだった。あの人の願いである前に、俺自身の」
言い終えたとき、胸の奥が、不思議と静かになっていた。
しばらくして、柔太朗が口を開いた。
「それ、国王には話したの?」
勇斗は、顔を上げた。
「仁人って人が望んでいると君が思っていること。それから、君自身の願い。二人で、話したの?」
柔太朗は、責めるでもなく、ただ静かに続けた。
「――似ているんだ、僕たちに。舜が、本音を隠さずに話してくれたから、国とか政略とかに関係なく、僕は信じた。手を取れた。……話してくれなかったら、きっと、疑ったままだったと思う」
傍らで、舜太が、決まり悪そうに視線を逸らした。
勇斗は、答えられなかった。
仁人は、一度、言った。君と、どこか遠くへ逃げてしまいたい、と。
そして同じ口で、できない、とも。
あの二つのうち、どちらが本音なのか。
自分は、一度も、あの人に尋ねたことがなかった。
そして自分もまた、この願いを、あの人に語ったことが、一度もなかった。
守る、と言いながら、自分は、あの人の本当の声を聞こうとしてこなかったのではないか。
話さないまま、分かった気になっていたのではないか。
「……考えたことも、なかった」
そう零した声は、自分でも驚くほど、頼りなかった。
「そうやな」
舜太が、ぽつりと言った。
「俺も、柔に話すまでは、そうやった」
それから舜太は、広げていた地図を、ゆっくりと畳んだ。
「俺にも、背負うとるもんがある。赤と黒の国も、白色の国も、柔も。全部の望みを叶えてやることは、俺にはでけへん。黄色の国を落とすのは、もう変えられへん」
為政者の顔をした声だった。
けれど、次の瞬間、その声音が、ふっと解ける。
「やけど、勇ちゃんの分は、別や。いつかの恩を、返すわ」
「……恩?」
「覚えてない?市場の路地で、俺の前に立ってくれたやろ。腕に傷つけて、それでも笑って、『誰だって助けるだろ、普通』て言うた」
勇斗は、目を見開いた。陽の高い国の、石畳の匂いが蘇る。
「あの一言は、俺の中にずっとあった。国が燃えても、父上が死んでも、生き延びないとって思えたんは、柔との約束のおかげや。だけど、困っとる奴を見捨てない人間がおるんを、最初に俺に教えたんは、勇ちゃんだったから」
舜太は、まっすぐに勇斗を見据えた。
「こっちは上手くやる。全部失ってもええ。運命になんか抗って、生きろ。二人で、どこかで。」
「早く、行って」
柔太朗が、静かに言い添えた。
「きっと、君を、誰より待ってるよ」
「……ありがとう」
それだけを言うのが、精一杯だった。
陣幕を出る前に、勇斗は胸の内で、静かに決めた。
黒色の国の王子としての名も、居場所も、すべて捨てる。
そして、仁人にも、捨てさせる。王冠も、母君の遺した都も、王という名の鎖も。
それは、あの人が一番、恐れていることかもしれない。
拒まれるかもしれない。憎まれるかもしれない。
それでも、今度こそ、黙ったまま決めたりはしない。
話そう。自分の願いも、君の願いも。
すべてを話した上で、それでも、運命に抗って、二人で生きる。
舜太は、あの人が愛した都を焼かないと、約束してくれた。
ならば、奪われた都を、いつか王としてではなく、ただの一人の人間として、振り返れる日が来るかもしれない。
幕を持ち上げる手を止めて、勇斗は、ふと、背後を振り返った。
灯りの下で、舜太が、片手を軽く上げていた。
かつて赤色の国の城門で、大きく手を振って見送ってくれた少年と、同じ仕草だった。
その隣で、柔太朗が、静かに頷いている。
何も、失われなかった。
前に向き直り、夜の闇へと踏み出す。
この先、後ろを歩くあの人の気配を、何度でも、確かめに振り返るのだろう。
コメント
1件
タイトルと内容、すごく重なってて胸に来た……「願い」ってほんと、この話の核だよね。 勇斗が自分の願いを初めて言葉にする場面、読んでて息が止まった。ずっと仁人の願いの形を探して自分を合わせてきた人が、初めて「自分はどうしたいか」を問われて、探すように話し始めたの、すごくリアルだった。柔太朗の「話したの?」も効いた……舜太と柔太朗の関係が、勇斗に勇気をくれる構図、美しかった。 「何も失われなかった」って締め、良すぎる。一緒に抗って生きる決意、尊い。次、仁人に話すシーン、絶対に読みたいです……🌙