テラーノベル
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喧騒に満ちた店内の空気が
一瞬だけ緩やかに波紋を描いた。
柔らかなピアノの旋律に混ざるようにして
カウンターへと歩み寄ったのは
一人の青年だった。
ゆるやかな歩調。
だが、その足取りには
不自然なほどの静けさがあった。
まるで床にすら存在を拒まれぬように
影を残すことなく彼は現れた。
「⋯⋯レストルームは⋯⋯?」
たった一言、掠れた声が落ちる。
その響きは
長く使われぬ井戸の底から
這い上がったような
乾いた低音だった。
言葉の端は不安定に震え
風に吹かれた枯葉のように儚く
すぐに消えた。
時也は、応対中の手を止めることなく
視線をそっと向けた。
「後方に真っ直ぐ、左手に見えます。
ドリンクは、戻られてからお持ちしますね」
いつものように、丁寧で柔らかな声。
だが、その微笑みの奥には
すでに疑念の光が灯っていた。
青年は答えを返さず
視線すら合わせることもなく踵を返す。
薄く開いた唇はすぐに閉じ
声を飲み込むようにして口元を引き結ぶ。
(冷え切った心の音──
拒絶の音でしたね⋯⋯)
時也の心に届いたのは
冷たい壁のような感情だった。
突きつけるような拒絶と、不信。
どこにも居場所を見出せぬ魂の叫び。
その感覚は
かつての自分自身を思い起こさせた。
人々の思惑に振り回され、嘘を暴き続け
ただ命令に従う〝政治の駒〟としての日々。
感情を押し殺し、感覚を麻痺させ
ようやく自分という形を保っていた
あの頃の記憶が
うっすらと胸を締めつけた。
──青年は、褐色の肌に
鉛白の短髪を持っていた。
無造作に前髪を掻き上げながら
虚ろな眼差しで店内の奥へと歩を進めていく。
その瞳──蘇芳色。
深い赤紫のその色は
どこか懐かしさを孕んでいた。
まるで、かつて何かを見ていた場所を
探しているような
空虚な彷徨。
そして──
視界の端に映り込んだ〝それ〟へと
彼の足は自然と止まった。
重厚なワインレッドのカーテン。
その奥にあるのは
喫茶桜の中でも異質な空間──
ガラス張りの特設席。
通常であれば
そのカーテンは開けられているのだが
今日はこれだけ若者たちが押し寄せている。
アリアの姿を無断で撮影し、拡散され
彼女の血や涙を欲する者に
存在を知らせぬ様
アリアを護るために
今日は締め切られていたのだ。
だが、青年の足取りは迷いを見せなかった。
何かに導かれるように
まっすぐにカーテンへと手を伸ばす。
「────っ!」
時也が静止の声を上げようとした
その刹那だった。
カーテンが勢いよく開け放たれる。
揺れる布地の向こう──
硝子の内側に座していたアリアが
瞬時にその存在に気付き、目を向ける。
真紅の瞳と、蘇芳の瞳が
真っ直ぐにぶつかり合った。
時間が、静止したように思えた。
その瞬間
時也の脳裏に
爆ぜるような感情が飛び込んでくる。
(⋯⋯これは──殺意)
心の奥底から突き上げるような
激しい怒りと絶望。
言葉ではない
叫びにもならぬ断末魔のような憎悪が
彼の胸を焼いた。
直後──
動いたのは、ソーレンだった。
「アリア──っ!」
重く鋭い声が空気を裂く。
その掌から放たれたのは、重力の奔流。
見えざるその力が
青年の身体を僅かに宙に引き上げ
カーテンごと渦を巻くように
彼を包み込んでいく。
──だが、青年は怯まなかった。
むしろその刹那
彼の口元には微かに笑みすら浮かんでいた。
(ああ、やっぱりだ⋯⋯
この女の気配だった)
熱に浮かされたような呟きが
時也の心に届く。
その呟きは
自己陶酔と呪詛をない交ぜにした
歪な信仰のようだった。
同時に──
アリアの傍に設置された観葉植物から
長く、長く、蔓が幾本も伸びる。
それは時也の植物操作により瞬時に硬質化し
鋭く走るように
カーテンの内側へと滑り込んでいく。
蔓は青年の四肢を絡め取り、動きを封じた。
床を引き摺るような音が響き
青年はそのまま
アリアの居る硝子の内側へと引き込まれる。
──そして再び、布地が揺れ
時也の手によりカーテンが閉じられた。
静寂の中、響いたのは──
「俺は、あんたの為に──
〝厄災〟になったのにっっっ!!!」
怒号。
それは
喉を裂き、心を喰らうような
狂気に彩られた叫びだった。
硝子の向こう──
見えぬ場所から放たれたその声は
刃となって時也の胸を貫いた。
だが──
店内の客たちは
まるで何事もなかったかのように
変わらずメニューを捲り
笑みを交わしていた。
誰一人として
殺気を感じ取る様子はない。
(まさか──転生者の方、でしたか⋯⋯)
時也は、静かに額を拭った。
掌には、細く長い汗の跡が残っている。
(お客様に動揺は見られない⋯⋯良かった)
その胸中には、かすかな安堵。
何よりも
〝喫茶桜という空間の秩序〟が
保たれていること。
それが
彼にとってはアリアの〝次に〟最優先だった
カウンターの方へと視線を移す。
そこに──
既に構えていたソーレンの姿があった。
重力場を解除した彼は
アリアの居る特設席から目を逸らさず
ただ無言で時也と目を合わせた。
ふたりは、何も言わずに──
頷き合う。
それだけで充分だった。
深く、静かに──
嵐のような殺意が傍らを通り過ぎても
守るべきものを揺るがせぬために。
〝この場所〟を、絶対に壊させはしない。
それは、喫茶桜に立つ者たちの
絶対の誓いだった。
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