特設席の硝子の中。
そこは
まるでこの世と切り離された
見世物の檻のようだった。
清掃の行き届いたタイル張りの床が
静かに煌めいていたが
その中心には異様な空気が淀んでいた。
青年は立っていた。
その双眸──
蘇芳色は、まるで血の濃さを煮詰めたような
怨恨の焔を宿して
真正面のアリアを射抜く。
彼女の膝にはティアナが乗っていたが
その柔らかな毛並みがぴくりと震えたのと
青龍の眼光が僅かに細められたのは
ほんの同時だった。
ふたりとも理解していた。
──この青年もまた
〝転生者〟であることを。
そして
転生者が〝魔女狩りの咎人〟である
アリアに報復しなければ
魂が正気を取り戻さないことも。
それでも、今は〝営業時間内〟──
客に害が及んではならない。
それが、この場所での鉄則だった。
青龍は、アリアの足元で静かに構える。
幼子の姿でありながら、その背筋はまるで
戦場に立つ老将のように張り詰めていた。
ティアナは
アリアの膝から音もなく滑り降りると
青龍の隣へと移動し、青年を見上げる。
その瞬間だった。
彼の顔面は憎しみによって紅潮し
歯の根が噛み合わないほどの怒気を放つ。
「⋯⋯ギギギ⋯⋯ギヂギヂギヂ──ッ」
明らかに人の発する音ではなかった。
骨が擦れ合い
金属のような軋みを生む異音。
怒りと怨念を濁らせた空気の中
彼の身体から、あるいは内奥から──
這い出す何かがあった。
ズズ⋯⋯ぢちちちっ──
ひとつ、ふたつ
音もなく床に降り立つ黒影。
その数はすぐに三桁、四桁となり
瞬く間に特設席の床一面を埋め尽くす。
黒光りするゴキブリの甲殻が光を反射し
蠢く音が水の波紋のように広がる。
肌色の蛆虫が
にじみ出すように服の裾から溢れ
ぶよぶよと肥えた身体を震わせながら
床を這い進む。
蝿が耳を劈く羽音を立てて群れ
無数の脚が、毛が、体液が
空気を濁らせていく。
蜘蛛が奇怪な動きで硝子を這い
百足が脚をうねらせながら
アリアに向かって突進する。
ティアナは
視線の先に迫る黒い奔流に瞳孔を開き
即座に足を広げるように前脚を構え──
結界を展開した。
水面のように揺れる薄膜が硝子の内側を覆い
虫の群れがそれを通過できぬよう封じ込める
店内の楽しげな喧騒の中。
だが、その場所だけは地獄だった。
青龍は即座にティアナを片手で掬い上げ
もう片方の手で黒い影を次々と打ち払い
叩き潰す。
だが──
アリアは、動かなかった。
その身は一切の拒絶を示さず
まるで罰を受け入れる者のように
ゆっくりと瞼を伏せた。
蛆が、耳の穴へと滑り込んでいく。
粘液を纏ったような白い身が
皮膚の隙間からにじり入り
ぷつんと音を立てて鼓膜を破った。
蜘蛛がその顔面を這い
唇の隙間に脚を捻じ込み
口腔内へと侵入していく。
百足が喉元を這い
胸の谷間から服の下へと消え
無数の脚が肌を撫で
肌を割り、肉を掻き分ける。
ゴキブリが髪を揺らして頭皮に取り付き
外皮を割って潜り込んでいく様は
花の根元に群がる害虫のようだった。
そして。
蛆が、次々に皮膚を破った。
ぷつっ。ぶち。ず、ずるずる──⋯
食い破った傷口から白肌が盛り上がり
皮膚の内側を這う無数の蠢きが
波のように這い回る。
透明な皮膚の下で
黒と白の虫たちが蠢きながら
皮膚と肉とを掻き分け
血管を避けて筋肉へと食い込んでいく。
白目の裏から顔を覗かせる蝿の複眼。
鼻腔の奥で羽ばたく羽音。
唇の隙間に入り込んだ蛆が
舌の上を這い、食道になだれ込む感触。
それでもアリアは
一切の表情を変えなかった。
それを〝痛み〟が伴っていることなど
微塵も感じさせず──
ただ淡々と
受け入れていた。
沈黙は、続いた。
それは
血の代わりに赦しを流す、神の受難。
あるいは
何も感じない〝死者〟のような静謐。
だが確かにそこには
怒りと、哀しみと、赦しと、誓いが──
交差していた。
瞬間──
外から一つの悲鳴が響いた。
「きゃあああっっ!!」
それは
店内に漏れた〝異常〟への
純粋な恐怖の声。
青龍とティアナが一瞬、目を見開いた。
アリアの瞳は
すでに硝子の向こうを見つめていた。
ティアナが結界を完全に展開するより早く──
虫たちは既に、硝子の隙間をすり抜け
客席にまで這い出ていたのだ。
「ティアナ⋯⋯」
その声は
まるで微風が揺らす鈴のように小さく
だが確かに響いた。
虫に皮膚を喰われ
口腔内や鼓膜に入り込まれ
神経を掻き乱されながらも
アリアは立ち上がる。
脳幹まで届く苦痛を
表情一つ変えずに受け止めながら
細く震える指を結界の内壁へと這わせた。
ティアナは瞬時に
アリアの行動の意味を察すると
彼女が触れた部分のみ結界に穴を開ける。
──射し込まれたその指先が
静かに〝火〟を解き放つ。
⸻
店内。
「これは──!?」
客たちの悲鳴が交錯し
混乱が広がっていた。
フロアの床を這い回る虫の群れに
誰かが椅子を倒し
誰かがカップを落とした。
カウンターの奥
時也とソーレンが即座に動く。
「くそ⋯⋯っ!」
ソーレンは一歩前に出かけて
だがすぐに足を止めた。
自身の重力操作が
〝客〟を巻き込む可能性に気付いたからだ。
その躊躇の一瞬
舞ったのは──桜だった。
店内の天井から
風も無いのに吹き荒れるように
淡紅の花弁が降り注ぐ。
花弁はふわりと舞い
やがて空中で鋭くきらめいた。
「───っ!」
客たちが気付いた時には
その柔らかな形のまま
無数の虫たちを正確に
冷酷に、切り裂いていた。
桜の刃が、選別するるかのように
〝虫のみ〟を狙い撃つ。
その中
さらに浮かぶように広がったのは
紅蓮の光を灯す炎。
炎の小粒が空気を泳ぎ
虫の残骸を塵一つ残さず焼却していく。
幻想的だった。
淡紅と紅蓮の閃きが
昼の店内に夜のような陰影を創り出し
まるで舞台演出のように空間を満たしていた
「み、皆さーん!
喫茶桜の
気紛れプロジェクトマッピングショー!
楽しんで頂けましたかー!?」
軽やかに響くレイチェルの声が
現実を引き戻す。
呆けていた客たちは
不可解性と異常性を飲み込みながらも
徐々に拍手と笑みを浮かべ
誰もが〝こういう演出〟だったのだと
思い込もうとしていた。
──だが、ただ一人。
時也だけが
その安堵の空気を背にしながら
特設席のカーテン越し
見えぬ〝彼女〟を見つめていた。
(⋯⋯アリアさん)
誰よりも傷ついているのに
誰よりも〝客の心〟を優先し
誰よりも〝喫茶桜〟を守ろうとした彼女を。
その痛みに、胸が軋んだ。
⸻
硝子の中。
アリアの全身を這っていた虫たちは
突如、苦しげに蠢き始めた。
ピチピチと
気泡が弾けるような音を立てながら
次々と焼け焦げ、黒い蒸気を上げて──
崩れていく。
彼女の肌の中で蠢いていた虫たちもまた
皮膚を引き裂きながら出てきては
火に焼かれて、朽ちる。
それでもアリアの表情は変わらない。
静寂の中、怯えの混じった怒声が
青年の口から漏れた。
「⋯⋯あんた、一体なんなんだ⋯⋯!
なんで、死なないんだよっ!?」
脳を、心臓を、神経を喰い破る
虫の苦痛にさえ動じぬ女。
死ぬどころか、微塵の呻きすら漏らさぬ女。
その存在は、彼にとって
〝神〟ではなく〝化け物〟だった。
青年は震える指で空を掴むように後退し
硝子の壁に背をぶつけ
崩れ落ちるように膝をついた。
そのまま
まるで虫たちの断末魔に
堪え切れないといった様子で耳を塞ぐと──
ずるりと、崩れ落ちる身体。
頭が傾き、意識がすうと闇に沈んだ。
青龍は、静かに青年に歩み寄ると
懐から取り出した小瓶をひと振りし
そのまま蓋を開けた。
指先に乗せた白い錠剤を
青年の顎をそっと持ち上げて
舌の下に滑り込ませる。
「アリア様のおかげで
店内も無事なようでございます。
今しばらく⋯⋯
この者には眠っていてもらいましょう」
淡々と告げる声に、アリアは小さく頷く。
その姿は
全身に残る虫の食い破った痕など
まるで意に介さず
ただ、静かに──青年へと手を伸ばした。
しゃがみ込んだアリアの指が
彼の鉛白の髪をそっと梳く。
その仕草は慈しみに満ちていた。
ティアナが
青龍の背後からゆっくりと歩み寄り
青年の頬をぺろりと舐めた。
まるで、懐かしい誰かを迎えるかのように。
あるいは
自分の大切な〝信徒〟を慈しむように──⋯
静かな硝子の中
虫の残骸と痛みの中に
わずかな〝救い〟だけが
確かに、灯っていた。