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「これは……一体どう言うことだ」
寝台に横たわる女性の横には弟子の天宇。
帰ってきた俺を見て不安げな顔をこちらに向けた。
「颯懔師匠! ようやくお戻りになりましたか!」
「天宇、何があったのだ? 明明が寝たきりで目を覚まさないと聞いたが」
屋敷に帰ってくるなり使用人から明明が、3日前から目を覚まさないと聞かされた。慌てて寝かされているという明明の部屋までやって来たが、話の通り明明はすやすやと眠っている。
ぱっと見たところ顔色は悪くないし呼吸も安定している。本当にただ、眠っているだけのようだ。
「俺にも何があったのかさっぱり。3日前に明明が客間の卓に突っ伏して眠っていて。その時はこんな所で寝落ちしてると思って、ここまで連れてきて寝かせたんです」
「客間で? 誰か来ておったのか」
「分かりません。俺も他のみんなも工房の方へいたものですから」
「それでそのまま目覚めないと」
「はい。はじめはよく眠っているだけと思っていたのですが、いくら呼びかけても起きないので流石にこれはおかしいと思い、数時前に青鳥を大師匠の元へ飛ばしました。それからこれ……」
天宇は寝台横の台に置いてあった銅鏡を手に取って渡してきた。
「明明が眠っていた卓の上に置いてありました。明明の持ち物についてまで詳しくは把握していませんが、でも普段使っているにしては少々古めかしいし曇り過ぎていると思いまして」
「確かに……」
自分も明明の持ち物一つ一つを知るわけではないが、この銅鏡の意匠は彼女の趣向とは違う気がする。重厚感がありいかにも価値のありそうな鏡だ。こういう物に明明はあまりお金をかけない。
「なにかの呪具か?」
それにしては呪いの禍々しい気配は感じられない。頭を捻って考えてるいると、誰かが部屋へと入ってくる気配がした。
「それは三千夢銅鏡じゃ」
「大師匠!」
「太上老君様!」
使用人に案内されて太上老君がやって来ていた。持っていた銅鏡を見、そして明明を見て息を吐き出した。
「三千夢銅鏡とは何ですか」
「この鏡を神通力を流し込みながら三度擦ると、夢の世界へ連れて行かれる」
「夢の世界?」
「そうじゃ」
「どうやって目覚めさせれば良いのですか」
天宇の問いに答える老君にせっつくように聞くと、首を横に振った。
「眠りから覚めるためには、夢の中で三千の善行を果たさねばならぬ」
「三千の善行? 一体どういうことですか」
「説明しよう」
老君は部屋にある椅子に腰掛けると、座るように促された。
「この銅鏡は元々、仙人の修行用にワシを含めた三清で作ったものじゃ。仙人は修行を重ね善行を積むことで昇級するのう? それには多くの時間がかかる。だからこの銅鏡を使って現実世界さながらの夢を見させて修行出来るようにしたのじゃ。夢の中での行い全てが現実のものとしてこの編綴簡へんてつかんにも記録される」
老君は腰から下げていた編綴簡を手に取った。三清が仙人の階級を決める時に使う、特殊な術のかかった道具だ。
「それでは明明は夢の中で修行しているという事ですか」
「さよう。眠っている本人は、自分が夢の中にいることを分かってはおらぬ。たとえ本人の意思で擦れば夢の中に入り込むと知った上でも、じゃ。夢の中が現実世界と思い込むように仕込んであるからのう」
「それで大師匠、修行と言うのはどう言ったものなのでしょうか」
「こちらの世界とあまり変わらない。妖や怪が出て来たり、困窮する者が現れたり。ただ現実世界では有り得ないほど次々と受難が降りかかる」
「先程仰っていた事からすると、三千の善行を果たせば目覚めるのですよね。それなら心配しなくてもその内に起きるってことで……」
「いいや、そうもいかんのじゃ」
説明を聞いていた天宇は表情を明るくしたが、老君の顔は浮かない。
「この銅鏡を作った時はまだワシらも若くてのう。これがあればより良い仙を増やせると、そう信じておった」
「善と悪、ですか」
哀しみを堪えるように老君は目を伏せて、そして窓の外を見た。
「人の心は迷いやすく脆い。ふとした瞬間やちょっとした誘惑。悪はすぐそこに潜んで待ち構えておる。あの頃は善行を積まねばならんとしている者ならば、そのような悪に惑わされることなく善の道を進んでいけるものだと思い込んでおったのじゃ」
「夢の中で悪行を行い続けるとどうなるのですか」
「精気が尽きる。即ち、寿命が尽きると言うことじゃ。二度と目覚めることは無い。この鏡を使ったほとんどの者が帰らぬ者となった」
「精気が? なぜ」
現世では悪行を行なったからといっても善行から差し引かれるだけで、精気までは奪われない。仮に悪行によって精気がなくなるのならば、この世に妖だの妖怪だのと言う者はわざわざ仙が打たなくとも勝手にいなくなる。
「大きな実を得る為には、それだけの代償を払わねばならんからのぅ」
「なるほど」
「大師匠、それにしてもですよ。夢の中がこちらと変わらない受難が課されると言う事でしたら、そんなに道を踏みはずす事などないのでは?」
天宇の言う通り、現世でも誘惑などいくらでもある。稀に降格してしまう者もいるが、それでもほとんどの人が善行を積み重ね多かれ少なかれ昇級していくのだ。なぜこの鏡を使った者のほとんどが死んでいったのか。
「ワシら仙人は師弟関係を結んで修行する。それは何故だかわかるか」
「教えを乞うため。でしょうか」
「そう、教えじゃ。道を踏み外しそうになった時、誘惑に負けそうになった時、そういう時には師匠や兄弟弟子が助けてくれる。正しい道を教えてくれる。しかし夢の中では教え導いてくれる人がおらん」
「それでは今明明は、一人で誰の助けも借りずに修行をしているのですね」
「そういうことじゃ」
「途中で目覚めさせることは」
やはり老君は首を横に振った。そんな事が出来るのなら精気が尽きる前に起こしていたはずだ。出来ないから死んでいったのだろう。