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3月14日、ホワイトデー。
2月14日にチョコレートを受け取った男性が、その女性にお返しをする日。
世間では今、一ヶ月前のバレンタインと同じような雰囲気が、再びそこかしこでふわふわと漂っている。
例に漏れず、俺が務めている会社の中も甘い匂いに満たされていた。
妻がいることが知られている俺は、バレンタインに会社でチョコを貰うことがなかったので、お返しをしなきゃいけない女性はいない。
こういうとき独身のモテ男は、お返しを沢山あげなきゃいけないから、言っちゃあれだが面倒なんだろうなぁ⋯⋯
お弁当が入った包みを片手に提げながら、そこまで広いわけでもない社員食堂を進んでいく。
いつも妻の惚気話を聞いてくれる同僚は残念ながら見当たらず、仕方なく一人で昼食をとることにした。
二段弁当の一段目を開けると、いつも通りの美味しそうなおかずたちが、整列して並んでいる。
少しの期待を込めてもう一段も開けると、中は白いお米がみっちりと詰められているだけだった。
海苔で『だいすき♡』とかは書いてくれなかったか⋯⋯
一年に二日しかない甘々ムードの日だし、もしかしたらと思ったんだけどな。
勝手にしょんぼりしながら完食し、片付けようと弁当包みを開くと、個包装のチョコレートがひとつ、ぽつんと中央に佇んでいた。
包装紙にメッセージを書けるもので、
『仕事ガンバレ』
と細い字で書かれている。
スペースが足りなかったのか、最後の〝レ〟だけは縦に細長くなってしまっていた。
かわいい。
メッセージのところは避けて包装紙を破り、取り出したチョコレートを口に放り込んで、飴玉みたいにコロコロと転がす。
まろやかな甘さが口いっぱいに広がり、舌の熱でチョコがじわりと溶けていく。
噛まずとも、小さいチョコレートはあっという間に原型を失い、そのうちカカオの気配だけ残して消えてしまった。
どうしよう、これをくれた本人が恋しくてたまらない⋯⋯
水道で包装紙の内側を洗って乾かし、丁寧にバッグにしまい込んだ。
あとでスマホケースにでも入れよう。
仕事が終わり、夜になっても明るい街中で帰路につく。
カップルが多いな⋯⋯
俺には一生を共にすることが決まっているパートナーがいるけど、こういう場所に一人でいると、途端に寂しくなってくる。
早く帰ろう、今日はホワイトデーだし。
バレンタインのお返しがあるからね。
世間のカップルや夫婦は、女性がバレンタインデーにチョコレートをあげて、ホワイトデーに男性がお返しをするのが普通だが⋯⋯
俺たちの場合は逆である。
学生時代、俺らがカップルになって初めてのバレンタイン。
元貴は恥ずかしがり屋だから、もしかしたらチョコレートをくれないかもしれない⋯⋯と、当時の俺は恐れていた。
そこで俺から押し付けるようにチョコを渡し、ホワイトデーには絶対お返しをするよう約束をとりつけて、念願の恋人からのチョコにありつけたのだった。
このやり取りが、いつしか俺らの中で毎年の恒例行事となり、今年のバレンタインにも、俺から高級チョコを献上して、お返しを貰う約束をしていた。
歩く速度を速めながら、スキップしそうになる体を懸命に抑える。
『お返しは僕♡』とか言ってくれたりしないかな⋯⋯
次々と浮かんでくる煩悩をぶんぶんと振り払い、帰宅ラッシュで混み始めている駅に駆け込んで、家路を急いだ。
「遅い」
帰ってきて早々、玄関で腕組みをして軽く睨んでくる妻に出迎えられた。
「これでも急いだんですけどね」
「うっさいハゲ」
「まだフサフサです」
元貴を包み込むように抱きしめると、割と強めの力で拒絶されてしまい、思わずしょげそうになる。
たしかに、いつもより少しだけ帰るのが遅くなってしまったけど、まさかここまで機嫌が悪くなっていたとは⋯⋯
靴を履いたままの俺を置いて、リビングにズンズン進んでいく小さい背中を、慌てて追いかける。
「お弁当! 今日も美味しかったよ、ありがとう」
「当たり前でしょ」
元貴はソファにドカッと座ると、そのままゴロンと横に寝そべってしまい、座るスペースがなくなって あたふたする俺を一瞥した。
とりあえず床に膝をついて、元貴の顔を覗き込む。
「あの、元貴さん、バレンタインのお返しとかって⋯⋯」
「⋯⋯この状況でよく切り出せたね」
チョコレートに飢えている俺を、若干 引き気味の表情で見つめながら言った。
「もうあげたじゃん」
「⋯⋯あ、え?」
「お弁当と一緒に、入ってたでしょ? メッセージ付きのやつ」
「⋯⋯⋯⋯」
「ふ、ちょ、うそ、冗談だから、ショックな顔しないでっ」
固まってしまった俺を見て、途端に大笑いしだす元貴。
冗談だったことと、元貴の機嫌が直ったことに安堵し、俺も笑みをこぼす。
元貴は勢いよく立ち上がって冷蔵庫の方に駆けて行くと、平たい箱を持って戻ってきた。
「はい、ハッピー⋯⋯ホワイトデー?」
「ありがとう⋯⋯」
箱を開けると、12粒のチョコレートがきれいに並んでいた。
それぞれがつやつやと光を反射していて、輝いているように見える。
俺は一番にハート型のチョコレートを手に取ると、口の中にそっと入れた。
噛むと、中からストロベリーチョコがとろりと溢れて、俺の舌の上を滑っていく。
飲み込むのがもったいない⋯⋯
「早く感想 聞かせて」
「ふぁい⋯⋯」
ゴクリとチョコを飲み込むと、口の中には甘い香りと幸福感が残った。
「めっちゃ美味しい」
キュッと嬉しそうに口角を上げてから、照れ隠しに口を尖らせる元貴。
可愛すぎ、結婚したい。
⋯⋯してるんだった。
テーブルにチョコが入った箱を置き、元貴に向き直ると、おでこの辺りに口付ける。
「俺、こっちも欲しいな」
「⋯⋯僕、ものじゃないし」
「そりゃ失礼しました」
珍しく自分から抱きついてきてくれた元貴を、すっぽりと腕の中に収める。
首元に鼻を埋めると、香水とはまた違ういい匂いがした。
「⋯⋯いたッ」
突然、鎖骨らへんにピリッと痛みが走った。
驚いて身を引こうとすると、背中に回された元貴の腕に引き戻される。
腕の中を覗き込んでみると、元貴が第二ボタンまで外れていたシャツの隙間から、俺の肌に直接 歯を立てて、ちゅうちゅうと吸っていた。
え、可愛い⋯⋯何事?
「できた。キスマーク」
「ええ⋯⋯俺 止まれなくなるよ? 大丈夫?」
「大丈夫、やばかったら髪引っこ抜くから」
「本当にハゲちゃう」
二人でソファに座り直すと、元貴を押し倒して上に覆いかぶさった。
「あ⋯⋯チョコ、溶けちゃう」
「冷蔵庫いれとくから」
「弁当箱とか、洗わないと」
「後でやっとく」
「⋯⋯あと、」
「もういいって、煽っといて焦らすなよ⋯⋯」
少し乱暴な口調になりながら、まだ何か言いたそうにしている唇を塞いだ。
逃げ回る舌を追いかけ、捕まえてじっとりと絡める。
既に俺の髪を掴んで引っこ抜こうとしている左手を掴み、ソファに縫いつけると、薬指で指輪が光っているのが見えた。
俺がはめているのと、同じデザインのもの。
目線を前に戻せば、涙で潤んだ真っ黒な瞳がこちらを見つめている。
もう、すべてが愛おしいな。
「はっ、は⋯⋯」
唇を離してやると、元貴が肩で息をしながら俺を睨んでくる。
付き合った頃からずっと、キスが下手で可愛い。
「⋯⋯ねぇ、バレンタインのお返し、もう一個 欲しいんだけどさ」
「っはぁ?」
わけが分からない、といった表情でまた俺を睨む元貴。
もう、それまったく怖くないんだって。
「キスマーク、鎖骨じゃなくて項に付けてよ。普段は髪で隠れるけど、下を向いたりしたら見えるかも」
「⋯⋯⋯⋯」
元貴がさっきキスマークを付けたのは、俺の自信過剰かもしれないが、たぶん周りに牽制するためだと思ってる。
今年はなかったけど、去年のバレンタインに一人だけ、俺にチョコレートをくれた女性社員がいた。
元貴には隠すつもりだったが、元貴が弁当箱を洗おうと俺のバッグを漁ったときに見つけてしまい、不安そうにしていたのを覚えている。
心配しなくても、俺の好きな人が元貴であるという事実は、一生 揺るがないんだけどね。
俺が起き上がると元貴も身を起こし、俺のすぐ隣までゆっくりと近づいてきた。
襟足をまくってやると、元貴が俺の項の辺りに顔を寄せる。
元貴の息が当たってくすぐったい。
歯がぴとりと宛てがわれ、そして噛まれるように強く吸われる。
「⋯⋯できた」
項を手で撫でてみると、たしかに歯型が付いているのが分かった。
「嬉しい、ありがとう」
隣にぴったり寄り添う形で座っている元貴の顔を見ると、同じく頬を緩ませて、嬉しそうにしていた。
またどちらからともなくソファに倒れ、どちらからともなく口付けを交わして。
チョコレートのことも忘れて、日付が変わるまでお互いに夢中になった。
今まで何度も過ごしてきたホワイトデーの中で、特に忘れられない日となった。
ホワイトデーの翌日。
「おかえり」
「ただいま〜」
玄関で迎えてくれた妻の頭を撫で回すと、「犬じゃないんだけど」と言いつつ、満更でもない顔で受け入れてくれる。
「弁当箱だして」
「はい、今日も美味しかった」
「知ってる」
早速 水道で弁当箱を洗い始める元貴の後ろに立ち、肩口に顔を埋めた。
「今日ね、会社でね」
学校であったことをお母さんに話す子どもみたいだなと、自分で思いながら続ける。
「項のキスマークの話、広まっちゃって」
「は?」
ゴトン、とシンクに弁当箱が落ちる音がした。
「ああ、へこんじゃうよ、大丈夫?」
「キスマークがなんだって?」
信じられない、という顔でこちらを見つめている元貴。
「項のキスマーク。会社のみんなにバレちゃったの」
「なんで一日でバレんの、襟足で隠した意味は? というかなんでバレたの」
そりゃこんな反応にもなるよな、見えづらいところに付けたのに。
「昨日、だいぶ長くエッチしたでしょ? だから今日 寝不足で、食堂でちょっとだけ寝たんだよね。そのときに誰かに見られたみたい」
「見られたみたい、じゃないよ。恥ずいじゃん、若井の、奥さんは独占欲が強い、みたいに思われたら」
一瞬だけ、“奥さん”と言うのを躊躇ったのを、俺は見逃さなかった。
もう可愛いなぁ、自信もって言ってくれてもいいのに。
「まぁ、キスマークは牽制のために付けたんだし、結果的によかったじゃん。俺も妻とラブラブだって見せつけられて嬉しいし」
ツンデレの元貴のことだから、てっきり後ろ蹴りでも飛んでくるかと思ったが。
顔を覗き込むと、眉をハの字にして、顔から首までを真っ赤にさせていた。
えぇ可愛い、こんな可愛い人が妻だなんて、その夫が羨ましいなぁ。
俺だけど。
「大丈夫?」
「うっさいハゲ!」
「髪あるって」
kurara
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kurara
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