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Side 美緒
土曜日。
私は、午前中の仕事を終え、タクシーに乗り込んだ。
前に住んでいたマンションへ、荷物を取りに行こうと思っているのだ。
健治にも連絡済で、財産分与と言うほどのものじゃないけれど、健治に立ち合いってもらい、少し物を持って来るつもり。
それを、私に対して過保護気味の里美と三崎君が、心配顔で見送ってくれる。
「先輩、何かあったらすぐ連絡してくださいね」
「荷物もあるだろうから、帰り迎えに行くよ」
「ありがとう。でも、宅配便で荷物送るつもりなの」
新居に持って行く荷物は、宅配の集荷を頼むつもりだし、三崎君に荷物運びまでさせるつもりはなかった。
すると、里美の声が飛んで来る。
「先輩、ダメですよ。何かあってからじゃ遅いんですから、それに集荷伝票から新しい住所を知られてしまいます。三崎先生に迎えに行ってもらってください」
健治が何かするとも思えなかったけれど、なんらかの形で果歩に新居の住所を知られてしまうのは怖い。
彼女の逆恨みというか、妬みのような執念深さは異常だと思う。
「たいした距離じゃないから、迎えにいくよ」
三崎君に念押しのように言われ、今度は素直に頷いた。
「ありがとう、お世話になりますね」
「ん、都合のいいタイミングで連絡して」
タクシーを降りた私は、目の前のマンションを見上げた。
きっと、ここに訪れるのも、今日が最後だろう。
エントランスをくぐり、部屋番号を押した。機械越しに「どうぞ」と健治の声が聞こえてくる。
健治と暮らしていたマンション。
別居を始めてから、初めて足を踏み入れる。
廊下に響く自分の足音が、どこかよそよそしく感じられた。
玄関の扉を開けると、懐かしい香りが鼻をかすめ、胸が締め付けられる。
「休みの日にごめんね。荷物……少ししか残ってないから、すぐに終わると思うの」
「ん……」
玄関先で出迎えた健治の短い返事を聞いて、私はリビングに向かった。
ドアを開けた瞬間、見覚えのある家具やインテリアが視界に広がる。
ここでの生活の記憶が一気に胸に押し寄せた。
ソファの端に座った健治が、「ご自由に」とでも言うように手を軽く広げたが、その顔にはどこか沈んだ影が落ちている。
私は掛ける言葉も見つからず、無言のまま、自分の荷物を段ボールへ入れ始める。手に取るたびに、過去の記憶が断片的に蘇った。
「このお皿……」
お気に入りだったやちむんのお皿は、新婚旅行の時に買った物だ。
そのうちの一枚を手に取り、目を細めた。
休日の朝、一緒に朝食をとった光景が脳裏に浮かぶ。
けれども、今ではもうその時間は二度と戻らないのだと思うと、一抹の寂しさを感じる。
「……全部、俺が悪かったんだ」
不意に健治の声が静かに響いた。
「うん、でも……もう終わったことだから」
私は手元にあるやちむんのお皿を見つめたまま、ポソリとつぶやいた。
「分かってる。でも……謝罪させて欲しい」
健治の声には、以前のような強がりはなく、本当に後悔しているのが伝わってきた。
私は、健治の方に目を向けた。
彼の姿はどこか頼りなく、かつて自分を支えてくれた時の面影は薄れている。
「気づくのが遅すぎたよな……。美緒が俺にどれだけ尽くしてくれたのか……全部、失ってから気づいた。美緒、本当に……すまなかった」
私はゆっくりと立ち上がり、健治の顔をまっすぐに見た。
「私……。本当に健治の事が好きだった。だから、健治と結婚出来て幸せだと思ってた。……裏切られて、本当に苦しかったの」
私の言葉に健治は黙ってうなずいた。
その表情には深い後悔と諦めが滲んでいた。
「離婚の条件に同意してくれたと弁護士さんから聞きました。明日、離婚届を提出させてもらいます」
「ん……」とだけ短い返事。健治の目は涙を堪えているのか赤くなっていた。
私は荷物をまとめ、最後にリビングをぐるりと見回した。ここで過ごした日々は、決して消えることのない記憶として胸に刻まれている。
「健治。いままで、ありがとう」
玄関の扉を開けると、冷たい風が頬を撫でる。
両手いっぱいに荷物を抱えると、直ったはずの左手がズキッと痛み、思わず顔をしかめた。
すると、その様子に気付いた健治の声が聞こえる。
「荷物……下まで運ばせて」
エレベーターの中に乗り込むと、まるで別の世界のように静まり返っていた。
私は、冬物などで意外とかさばる荷物を持ち直そうと視線を下ろした。
ふと、健治が「1階」のボタンを押した時の手元が目に入る。
そこには、以前は指輪が輝いていたはずの薬指が、今は何もつけられていない。
私も同じ。
日焼けの後が残る指を見下ろし、胸の奥がズキリと痛んだ。
健治と並んで立っているのに、視線を交わすこともなく、階数の表示板を見つめていた。
「左手……まだ痛むのか?」
突然の問いに驚き、思わず顔を上げた。健治がちらりと私の手元を見ている。
「……大丈夫」
短く返すと、健治は何も言わずに小さく頷いた。
エレベーターの中に、再び沈黙が戻る。
エントランスホールに降り立つと、夜の冷たい空気がガラス越しに感じられた。
ホールの隅には観葉植物が置かれ、控えめな照明が周囲をぼんやりと照らしている。
荷物を持ったまま、私は正面の自動ドアに向かって歩き出した。
「……美緒」
健治が私の名前を呼んだ。
その声は、これまで聞いたことがないほど弱々しく感じられた。
振り返ると、健治は一歩も動かずにそこに立っていた。その表情には迷いと後悔が滲んでいる。
「……本当に、すまなかった」
その言葉に、私は一瞬だけ胸が詰まったような気がした。だけど、言葉は出てこない。
ただ、軽く頷いて、再び自動ドアの方へ向き直った。
エントランスを抜けると、冷たい風が頬をさす。
思わずキュッと目をつぶり、首をすくめた。
そして、瞼を開いた瞬間、私は驚きの声を上げる。
「なんで……野々宮さんが」
視線の先には、冬だと言うのにジャケットも着ていない。ノーメイクで唇の色も悪く、目の下にはクマもある。
いつも女王様然としていた瞳は、暗くゆらいでいた。
「あんたこそ、なんで健治と一緒に居るのよ!別れる別れるって言って、噓つき!」
心臓の鼓動が、早く脈打つ。
この様子は、普通じゃない。
それに、野々宮果歩と向き合うのがトラウマになっているのか、呼吸が苦しくなってきた。
すると、庇うように健治が私を背中に隠した。
「野々宮、この前も言ったが、しつこくするなら、警察を呼ばせてもらう」
「なんで? |この女《美緒》なら良くてわたしじゃダメなの……」
どう見ても、果歩の様子は普通じゃない。
早くなる心臓の鼓動に共鳴するように、手が小刻みに震えだす。
でも、このままでなんていられない。
私は手元の荷物をそっと下ろし、震える手でポケットからスマホを取り出した。そして、健治の背中に隠れるようにして、スマホをタップする。
トップ画面にある緊急通報アプリだ。
最悪、通話が出来ない場合でも、位置情報から警察が緊急対応してくれるはず。
警察が来てくれるまで、踏ん張らないとずっとやられっぱなしになってしまう。
足が小刻みに震えているのが、自分でも分かった。
でも、言い返さないと。
「野々宮さん。健治の事が好きなら、なんで健治を困らせる事ばかりするの?自分を困らせるような人の事どう思う?好きになんてなれるの?」
私の言葉に果歩は悔しそうに顔を歪めて、バッグに手を入れながら、喋り出した。
「うるさい!健治と私はね。大学時代からの恋人同士なの。あんたが横から健治に取り入ったんでしょう。あんたが居なければ健治は私のモノなのよ。邪魔なの、消えてくんない? 本当に嫌い」
目が座っている。これは、不味いかも……。
そう思った瞬間、果歩はバッグから右手を抜いた。その手には、文化包丁が握られ、鈍い光を放っていた。
ザワリと背筋に悪寒が走る。
健治もそれに気づいたのか、背中から緊張が伝わってくる。
「野々宮……」
果歩は、ニヤリと口角をあげ、マニュキュアが剝がれた左手でボサボサの髪を梳く。
「なぁに、健治。|この女《美緒》が居なければ、すべてが上手く行くのよ。だから、どいてちょうだい」
「野々宮、落ち着くんだ」
健治は私の荷物を抱えたまま、果歩をなだめる。
だが、果歩の瞳は仄暗いままだ。
「あら、わたしは冷静よ。|この女《美緒》が警察にわたしを訴えたんですって、この女のせいで捕まるなんて、冗談じゃないわ!だから、消さないと……」
学生の頃の果歩は、我が儘な所はあったけど、ここまで話の通じない人ではなかった。
『お金持ちで、美人』というステータスで、いつもまわりに人が居て、ちやほやされていた。そのうえ、健治という彼氏も居て、自尊心が満たされていたのだろう。
けれど、卒業し、大人になるにつれ、価値観が変わってくる。
周囲が「幸せ」を手にしていく中で、果歩が持っていたステータスは次第に色あせていったのかもしれない。
「お金持ちで、美人」というラベルだけでは満たされなくなった果歩は、健治との関係に執着することで、自分の存在価値を確かめようとしているように見えた。
でも、それはきっと、彼女自身を余計に追い詰めていったのだろう。
今、目の前にいる果歩は、学生時代の輝きとはかけ離れている。
話の通じない危険な存在になってしまった彼女を見ると、胸の奥に小さな痛みが走る。
「野々宮さん、お願いだから……誰かを傷つけるようなまねはしないで」
私は震える声で訴えた。けれど、その言葉は果歩には届かない。
文化包丁を握る彼女の手は、微かに震えながらも固く握りしめられたままだった。
「うるさい!私の人生も、プライドも、全部あんたが壊したんだ!父からも見放され、成明にも離婚を迫られ、わたしには行くところを失くしてしまった。誰もわたしを愛してくれないのよ!」
果歩の声が響き渡る。その表情は怒りに歪み、けれどもどこか泣きそうな顔にも見えた。
叫ぶ果歩に向って、健治がゆっくりと話しかけた。
「……野々宮、お前、その気持ちを成明氏にぶつけていないだろ? だから、すれ違うし、愛されないんだ。プライドが邪魔をして、甘える事もしなかったんだろ? バカだな、俺になんて逃げないで、成明氏ぶつかって、甘えれば良かったんだよ。自分で自分の結婚生活を壊して、愛してくれないとか、言うなよ」
「違う! 私は、逃げてない! なんで、わかってくれないの? 健治だけは、わかってくれると思っていたのに!」
果歩は語気を荒くし、健治の事をにらみつける。
まるで子供の癇癪だ。
いくら果歩が家庭での愛に恵まれないからと言って、人を傷つけていいはずがない。
愛されたいと願うなら、相手に寄り添い、耳を傾け、その心にそっと触れることが大切だと思う。
愛は求めるものではなく、互いに育むものだから。
私は、果歩を刺激しないように息をひそめ状況を見守っていた。
すると、健治は、果歩の言い分に飽きれたように、大きく息を吐きだす。
「悪いが、わからないね。俺は、お前のものじゃない。お前の思い通りに動く人形じゃない。お前の我儘に振り回されて、大切な物を失ったんだ」
「健治……」
「野々宮、俺はお前の事を恨みに思う事はあっても愛する事は絶対にない。お前の事を哀れだと思っても、許せない」
「酷い、こんなに想っているのに!」
「迷惑だ、俺はお前が嫌いだ。二度と俺の前に姿を現すな!」
健治の突き放すような言葉に、カッとなった果歩が叫んだ。
「殺してやる!」
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