テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
Side 美緒
土曜日。
私は、午前中の仕事を終え、タクシーに乗り込んだ。
前に住んでいたマンションへ、荷物を取りに行こうと思っているのだ。
健治にも連絡済で、財産分与と言うほどのものじゃないけれど、健治に立ち合いってもらい、少し物を持って来るつもり。
それを、私に対して過保護気味の里美と三崎君が、心配顔で見送ってくれる。
「先輩、何かあったらすぐ連絡してくださいね」
「荷物もあるだろうから、帰り迎えに行くよ」
「ありがとう。でも、宅配便で荷物送るつもりなの」
新居に持って行く荷物は、宅配の集荷を頼むつもりだし、三崎君に荷物運びまでさせるつもりはなかった。
すると、里美の声が飛んで来る。
「先輩、ダメですよ。何かあってからじゃ遅いんですから、それに集荷伝票から新しい住所を知られてしまいます。三崎先生に迎えに行ってもらってください」
健治が何かするとも思えなかったけれど、なんらかの形で果歩に新居の住所を知られてしまうのは怖い。
彼女の逆恨みというか、妬みのような執念深さは異常だと思う。
「たいした距離じゃないから、迎えにいくよ」
三崎君に念押しのように言われ、今度は素直に頷いた。
「ありがとう、お世話になりますね」
「ん、都合のいいタイミングで連絡して」
タクシーを降りた私は、目の前のマンションを見上げた。
きっと、ここに訪れるのも、今日が最後だろう。
エントランスをくぐり、部屋番号を押した。機械越しに「どうぞ」と健治の声が聞こえてくる。
健治と暮らしていたマンション。
別居を始めてから、初めて足を踏み入れる。
廊下に響く自分の足音が、どこかよそよそしく感じられた。
玄関の扉を開けると、懐かしい香りが鼻をかすめ、胸が締め付けられる。
「休みの日にごめんね。荷物……少ししか残ってないから、すぐに終わると思うの」
「ん……」
玄関先で出迎えた健治の短い返事を聞いて、私はリビングに向かった。
ドアを開けた瞬間、見覚えのある家具やインテリアが視界に広がる。
ここでの生活の記憶が一気に胸に押し寄せた。
ソファの端に座った健治が、「ご自由に」とでも言うように手を軽く広げたが、その顔にはどこか沈んだ影が落ちている。
私は掛ける言葉も見つからず、無言のまま、自分の荷物を段ボールへ入れ始める。手に取るたびに、過去の記憶が断片的に蘇った。
「このお皿……」
お気に入りだったやちむんのお皿は、新婚旅行の時に買った物だ。
そのうちの一枚を手に取り、目を細めた。
休日の朝、一緒に朝食をとった光景が脳裏に浮かぶ。
けれども、今ではもうその時間は二度と戻らないのだと思うと、一抹の寂しさを感じる。
「……全部、俺が悪かったんだ」
不意に健治の声が静かに響いた。
「うん、でも……もう終わったことだから」
私は手元にあるやちむんのお皿を見つめたまま、ポソリとつぶやいた。
「分かってる。でも……謝罪させて欲しい」
健治の声には、以前のような強がりはなく、本当に後悔しているのが伝わってきた。
私は、健治の方に目を向けた。
彼の姿はどこか頼りなく、かつて自分を支えてくれた時の面影は薄れている。
「気づくのが遅すぎたよな……。美緒が俺にどれだけ尽くしてくれたのか……全部、失ってから気づいた。美緒、本当に……すまなかった」
私はゆっくりと立ち上がり、健治の顔をまっすぐに見た。
「私……。本当に健治の事が好きだった。だから、健治と結婚出来て幸せだと思ってた。……裏切られて、本当に苦しかったの」
私の言葉に健治は黙ってうなずいた。
その表情には深い後悔と諦めが滲んでいた。
「離婚の条件に同意してくれたと弁護士さんから聞きました。明日、離婚届を提出させてもらいます」
「ん……」とだけ短い返事。健治の目は涙を堪えているのか赤くなっていた。
私は荷物をまとめ、最後にリビングをぐるりと見回した。ここで過ごした日々は、決して消えることのない記憶として胸に刻まれている。
「健治。いままで、ありがとう」
玄関の扉を開けると、冷たい風が頬を撫でる。
両手いっぱいに荷物を抱えると、直ったはずの左手がズキッと痛み、思わず顔をしかめた。
すると、その様子に気付いた健治の声が聞こえる。
「荷物……下まで運ばせて」
エレベーターの中に乗り込むと、まるで別の世界のように静まり返っていた。
私は、冬物などで意外とかさばる荷物を持ち直そうと視線を下ろした。
267
こと
481
ふと、健治が「1階」のボタンを押した時の手元が目に入る。
そこには、以前は指輪が輝いていたはずの薬指が、今は何もつけられていない。
私も同じ。
日焼けの後が残る指を見下ろし、胸の奥がズキリと痛んだ。
健治と並んで立っているのに、視線を交わすこともなく、階数の表示板を見つめていた。
「左手……まだ痛むのか?」
突然の問いに驚き、思わず顔を上げた。健治がちらりと私の手元を見ている。
「……大丈夫」
短く返すと、健治は何も言わずに小さく頷いた。
エレベーターの中に、再び沈黙が戻る。
エントランスホールに降り立つと、夜の冷たい空気がガラス越しに感じられた。
ホールの隅には観葉植物が置かれ、控えめな照明が周囲をぼんやりと照らしている。
荷物を持ったまま、私は正面の自動ドアに向かって歩き出した。
「……美緒」
健治が私の名前を呼んだ。
その声は、これまで聞いたことがないほど弱々しく感じられた。
振り返ると、健治は一歩も動かずにそこに立っていた。その表情には迷いと後悔が滲んでいる。
「……本当に、すまなかった」
その言葉に、私は一瞬だけ胸が詰まったような気がした。だけど、言葉は出てこない。
ただ、軽く頷いて、再び自動ドアの方へ向き直った。
エントランスを抜けると、冷たい風が頬をさす。
思わずキュッと目をつぶり、首をすくめた。
そして、瞼を開いた瞬間、私は驚きの声を上げる。
「なんで……野々宮さんが」
視線の先には、冬だと言うのにジャケットも着ていない。ノーメイクで唇の色も悪く、目の下にはクマもある。
いつも女王様然としていた瞳は、暗くゆらいでいた。
「あんたこそ、なんで健治と一緒に居るのよ!別れる別れるって言って、噓つき!」
心臓の鼓動が、早く脈打つ。
この様子は、普通じゃない。
それに、野々宮果歩と向き合うのがトラウマになっているのか、呼吸が苦しくなってきた。
すると、庇うように健治が私を背中に隠した。
「野々宮、この前も言ったが、しつこくするなら、警察を呼ばせてもらう」
「なんで? |この女《美緒》なら良くてわたしじゃダメなの……」
どう見ても、果歩の様子は普通じゃない。
早くなる心臓の鼓動に共鳴するように、手が小刻みに震えだす。
でも、このままでなんていられない。
私は手元の荷物をそっと下ろし、震える手でポケットからスマホを取り出した。そして、健治の背中に隠れるようにして、スマホをタップする。
トップ画面にある緊急通報アプリだ。
最悪、通話が出来ない場合でも、位置情報から警察が緊急対応してくれるはず。
警察が来てくれるまで、踏ん張らないとずっとやられっぱなしになってしまう。
足が小刻みに震えているのが、自分でも分かった。
でも、言い返さないと。
「野々宮さん。健治の事が好きなら、なんで健治を困らせる事ばかりするの?自分を困らせるような人の事どう思う?好きになんてなれるの?」
私の言葉に果歩は悔しそうに顔を歪めて、バッグに手を入れながら、喋り出した。
「うるさい!健治と私はね。大学時代からの恋人同士なの。あんたが横から健治に取り入ったんでしょう。あんたが居なければ健治は私のモノなのよ。邪魔なの、消えてくんない? 本当に嫌い」
目が座っている。これは、不味いかも……。
そう思った瞬間、果歩はバッグから右手を抜いた。その手には、文化包丁が握られ、鈍い光を放っていた。
ザワリと背筋に悪寒が走る。
健治もそれに気づいたのか、背中から緊張が伝わってくる。
「野々宮……」
果歩は、ニヤリと口角をあげ、マニュキュアが剝がれた左手でボサボサの髪を梳く。
「なぁに、健治。|この女《美緒》が居なければ、すべてが上手く行くのよ。だから、どいてちょうだい」
「野々宮、落ち着くんだ」
健治は私の荷物を抱えたまま、果歩をなだめる。
だが、果歩の瞳は仄暗いままだ。
「あら、わたしは冷静よ。|この女《美緒》が警察にわたしを訴えたんですって、この女のせいで捕まるなんて、冗談じゃないわ!だから、消さないと……」
学生の頃の果歩は、我が儘な所はあったけど、ここまで話の通じない人ではなかった。
『お金持ちで、美人』というステータスで、いつもまわりに人が居て、ちやほやされていた。そのうえ、健治という彼氏も居て、自尊心が満たされていたのだろう。
けれど、卒業し、大人になるにつれ、価値観が変わってくる。
周囲が「幸せ」を手にしていく中で、果歩が持っていたステータスは次第に色あせていったのかもしれない。
「お金持ちで、美人」というラベルだけでは満たされなくなった果歩は、健治との関係に執着することで、自分の存在価値を確かめようとしているように見えた。
でも、それはきっと、彼女自身を余計に追い詰めていったのだろう。
今、目の前にいる果歩は、学生時代の輝きとはかけ離れている。
話の通じない危険な存在になってしまった彼女を見ると、胸の奥に小さな痛みが走る。
「野々宮さん、お願いだから……誰かを傷つけるようなまねはしないで」
私は震える声で訴えた。けれど、その言葉は果歩には届かない。
文化包丁を握る彼女の手は、微かに震えながらも固く握りしめられたままだった。
「うるさい!私の人生も、プライドも、全部あんたが壊したんだ!父からも見放され、成明にも離婚を迫られ、わたしには行くところを失くしてしまった。誰もわたしを愛してくれないのよ!」
果歩の声が響き渡る。その表情は怒りに歪み、けれどもどこか泣きそうな顔にも見えた。
叫ぶ果歩に向って、健治がゆっくりと話しかけた。
「……野々宮、お前、その気持ちを成明氏にぶつけていないだろ? だから、すれ違うし、愛されないんだ。プライドが邪魔をして、甘える事もしなかったんだろ? バカだな、俺になんて逃げないで、成明氏ぶつかって、甘えれば良かったんだよ。自分で自分の結婚生活を壊して、愛してくれないとか、言うなよ」
「違う! 私は、逃げてない! なんで、わかってくれないの? 健治だけは、わかってくれると思っていたのに!」
果歩は語気を荒くし、健治の事をにらみつける。
まるで子供の癇癪だ。
いくら果歩が家庭での愛に恵まれないからと言って、人を傷つけていいはずがない。
愛されたいと願うなら、相手に寄り添い、耳を傾け、その心にそっと触れることが大切だと思う。
愛は求めるものではなく、互いに育むものだから。
私は、果歩を刺激しないように息をひそめ状況を見守っていた。
すると、健治は、果歩の言い分に飽きれたように、大きく息を吐きだす。
「悪いが、わからないね。俺は、お前のものじゃない。お前の思い通りに動く人形じゃない。お前の我儘に振り回されて、大切な物を失ったんだ」
「健治……」
「野々宮、俺はお前の事を恨みに思う事はあっても愛する事は絶対にない。お前の事を哀れだと思っても、許せない」
「酷い、こんなに想っているのに!」
「迷惑だ、俺はお前が嫌いだ。二度と俺の前に姿を現すな!」
健治の突き放すような言葉に、カッとなった果歩が叫んだ。
「殺してやる!」