ハケに適量を取り、慎重に塗っていく。瞬く間に爪の色がブルーに染まる。春の日の晴れ渡る青空を思わせるブルー。春が待ち遠しくて買ったいろだ。
「ママー。終わったらなぎちゃん貸してー」
「はいはい」くすりと聡美は笑う。葉月とお人形遊びをしていたと思ったらこの反応だ。見ていないようで子どもはよく見ている。親のことを。周りのことを。
全部塗り終わったところで別室で仕事をしていた百瀬が戻ってきた。すぐに聡美に気がつき、「おーさとちゃん。今度は水色か。いいいろだねえ」
肩を抱き頬を寄せる百瀬に聡美がくすぐったそうに笑う。「こらこら。まだ乾いてないんだから。あたしあと一分は動けません」
「……ちぇ」
肩を落とし、向ける背中がしょんぼりして見えて。聡美はまた笑ってしまう。「……でもちゅーなら出来ますから」
「出来るの!?」ぱっ、と顔を輝かせて振り返る百瀬。「じゃあ。うんと濃ゆいの、ちょうだい!」
ここで聡美は肩をすくめ、「……子どもたちの前ですから」
「……ちぇ」
二度目の『ちぇ』を食らい、聡美は吹き出してしまう。このひとといると笑ってばかりだ。世界が――輝いて見える。
くつくつと笑う聡美の髪を撫で、額にそっとキスを落とすと、百瀬は子どもたちの輪に加わった。パパはマルチだ。ママ役もパパ役もなんでも出来る。……爪にふーふー息を吹きかけながら聡美は彼らの様子を見守る。この生活にも、慣れてきた。
2018年12月。百瀬と入籍した聡美は、百瀬の会社のほど近いところに中古のマンションが売り出されているのを偶然見つけ、すぐさま契約した。聡美としては。
自分の舅にあたる百瀬の実父・百瀬(ももせ)幸助(こうすけ)と一緒に住む必要がないのかと疑問に思っていたのだが……百瀬の父は再婚を考えているらしく。だが別居婚になるかもしれないとのこと。
百瀬としても。住居と会社がなるだけ近いほうがいいということになり。聡美の娘である美凪についてはいままでの暮らしとさほど変わらず――保育園も生活圏もほぼほぼ同じで。一方、住居も保育園も変わる葉月のほうはどうなることかと心配したが……お友達とのお別れで涙を流したらしいが。翌週からけろっとした顔で新しい保育園に通い始めた。四歳児にして頼もしいものがある。彼女の成長ぶりが聡美の目にまぶしく映った。
中古マンションとはいえ築十年。新築とさほど変わらぬ綺麗さで、この様子だと今年は年末の大掃除をお休みしてよさそうだ。……いいところにいい物件が見つかってよかった。子どもたちと暮らし始めて早三週間。親子四人での生活に慣れてきた聡美である。
一度に二人の子の母親になるなんてものすごく大変なのでは……と、期待と同時に不安も密かに抱いていた聡美であったが。百瀬が協力的で、救われている。彼は確かに経営者として忙しくしているが、朝の登園。平日の家事や育児など、出来る限りでサポートしてくれており、聡美としては本当に助かっている。美凪が産まれてからひとりで子育てをしてきた聡美としては、肩の荷が下りるような、そんな気持ちである。お陰で週末はセルフネイルをする余裕も出てきたくらいだ。
クリスマス直前の三連休が間もなく迫っている。この連休は、百瀬の実家に泊まる予定だ。旅行の荷物を作る手間は発生するが、それでもこの散らかった部屋中を片付けるよりかは楽だ。料理は、百瀬が頑張ってくれるらしく、聡美としてはそこに期待している。……嫁としてのハイレベルな振る舞いを要求されてもなあ、というのが本音だ。
「なぎちゃん。そろそろ塗るぅー?」
遊びに夢中な美凪に呼びかけると案の定、まだー、と断りの返事が返ってきた。聡美としては時間が気になるところだ。もう九時二十分。歯磨きやトイレ、絵本の読み聞かせなどをしていたらあっという間に十時になってしまう。
やきもきして聡美が傍で見守っていると、百瀬が、
「いいんじゃない。お休みの日くらい、遅くなったって」
「あなたはそう言うけど」むくれる聡美。「それからまた保育園に行って正月休みに入るんですから。悪い癖はつけたくないの」
「……だとさ」子どもたちに笑いかける百瀬。「あんまり遅くなるとお化けが出ちゃうぞー」
「おばけなんかいないもん」
もん! と同意する葉月。……『お化けネタ』が通用しなくなった。子どもたちの成長ぶりを感じる聡美である。さーてどうしたものか、と聡美が百瀬の反応を待つと、
「ぶーん。ぶーん!」
きゃはは、と子どもたちの笑い声。百瀬が両脇に娘二人を抱え、子どもたちの寝室へと連れて行った。すぐさま聡美も後を追い、布団を敷く。すると百瀬が、手加減した力で子どもたちを布団のうえに投げ出し、子どもたちをくすぐり始める。
「きゃーやめてー」
「パパぁ、くすぐったい」……美凪の台詞に、聡美は切ない気持ちになる。美凪のほうは百瀬を『パパ』と呼ぶのだが、葉月が聡美を一度も『ママ』と呼ぶことはない。百瀬に聞いたところ、葉月は実のママと一ヶ月に一回、会っているとのこと。娘を捨てて何年も、姿を消していた母親であっても、ママはママ。葉月が聡美に懐いていないということはないが……だがママにはなれないのかと。割り切りがたい思いを彼女は抱いている。
「ほら。なぎちゃんもはーちゃんも、歯磨きするわよ」歯磨きセットを持って娘たちに近づくと、しないもん! とほっぺを膨らます美凪。……追従する葉月。すると百瀬が、
「歯磨きしない悪い子はお化けが食べちゃうぞ。むしゃむしゃ」……また、くすぐりだす。
意を決し、聡美は美凪の手首を掴んだ。「ほーら。やるわよもう」
「えー」
「終わったら絵本読みますから」
「……はぁい」
「はーちゃんもやるよ」聡美から歯磨きジェルをつけた歯ブラシを手渡される百瀬。二人、同時に、しゃこしゃこしゃこ。歯を磨く音がただ室内に響く。所々で声をかけてやる。なぎちゃん歯がきれいだねー虫歯さんばいばーい、……と。
奥歯が虫歯になりやすいと歯医者に聞いた。ゆえに、聡美は真っ先に奥歯四本を磨く。……二歳三歳の頃はあんなにも嫌がっていたのに。四歳になった辺りから格段に楽になった。暴れることも泣くこともなく素直に磨かせてくれる。事前は多少嫌がるものの、あれは照れ隠しのようなものだろう。上下を磨くと、続いて「いーして」歯の前面を磨いてやる。前歯も虫歯になりやすいと聞いた。目につくところであり、丁寧に磨いてやる。
「……よし。終わりました。お疲れ様でした」
はぁーい、と起き上がる美凪は、「ぐじゅぐじゅぺーする」
水を入れたコップを手渡され、三回口をゆすぐ。葉月も同じようにしている。悪いところは引きずられるような部分があるが、お姉ちゃんなんだからしっかりしなくては。そう気を働かせているのが窺える。
聡美が歯磨きやコップを台所に持っていき、片付けていると、耳に届く娘の声。――次はー誰でしょう。正解はー、ジャスミンです!
「はーちゃん、当たりー!」タッチをする姿が実の姉妹のよう。ぬいぐるみを何体か絵本の前に並べて保育園での読み聞かせを再現するさまが微笑ましい。邪魔をせぬようそっと聡美は近づき、膝をつくと、娘の語りに聞き入る。
「ゆきがふらないくにでくらすジャスミンは、はじめてみるゆきにわくわくしました」
百瀬の腕のなかでうつら、うつら、と葉月がしだした。それに気づいた百瀬がそっと娘を横たえ、布団をかけてやる。すぐに寝た。一方、美凪のほうはトーキングに夢中だ。
ディズニープリンセスの本がありがたいのが、短い四ページストーリーの本四本立てになっているところだ。もういっこと娘にせがまれてもさほど時間はかからない。二本読み終えたところで美凪が横になった。あたたかい布団をかけられ、目を閉じる。
「ママー。手ーつないでー」
「うん」
美凪を真ん中とし、葉月と三人『川』の字になった状態で横になると、「電気消すよ」と百瀬の声。
ぱちん。
部屋が暗くなり、まんまるい美凪の瞳がひかっている。聡美の目線に気づくと、
「ママ。ちゅー」
音を立てて母のほっぺに口づける。……聡美は初めて彼氏が出来たとき、キスの仕方を知らずに笑われた過去がある。音を立てず口づけて「スタンプみたい」と。口づけるときに音を立てるあの方法を三歳で既に学習した美凪の姿に、周りの影響は大きいのだと、思い知らされる。いまの保育園だと友達とちゅーするのが普通なのだ。
「なぎちゃん……大好きよ」聡美は娘の頬にキスを返し、「生まれてきてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ふふ、と笑い娘と抱き合いながら眠りに落ちる。……ふりをする。気を利かせた百瀬は「おやすみー」とだけ言って寝室から出ていく。
五分程度で美凪は寝た。
後ろ手で寝室のドアを閉めると、百瀬がリビングで本を読んでいた。表紙が鮮やかな赤だ。
「何の本?」と聡美が近づくと、
「AIの登場でどんだけ世界から仕事がなくなるかっていう本」
「わあ……怖いわ」聡美は先日、ネットニュースで、銀行の審査がAI化されたため首になった銀行員が多数いるという記事を読んだばかりだ。「あたしの仕事もなくなっちゃうのかしら。接客業とかその他諸々……」
「機械に接客されるのもなんか味気ないよね。あのつるんとしたフォルムがさ」言いながら百瀬は聡美の腰に手を回す。ヒップを撫でまわし、「人間には……人間にしか出来ないことがあるんだよ」
例えば。
と言いながら百瀬は聡美に深く口づける。顎を上下させ、たっぷり彼女のなかを堪能したのちに言い放つ。
――セックスとか。
事後に、火照った百瀬の素肌に頬を預けること以上の幸せを彼女は知らない。ずっと――
ひとりだった。
子育ては確かに至上の幸せを与えてくれるものだけど……母としての孤独を消し去るほどの威力はなく。例え人間がひとりで生きているように見えて実は他人の手を知らないところで借りている――ひとりじゃないと分かっていても。
子育ての、ちょっとした疑問。
大変な苦悩。
それらをひとりで抱え込むのは――辛かった。
だがいまは、違う。
短く、聡美は百瀬の頬に口づけた。もう、キスの仕方を知らない子どもではなかった。彼女は百瀬の黒髪に触れ、「……好き」
「ぼくも……」
そうして頬を挟み込まれる。聡美の目に迫る百瀬の瞳には、ありありと情欲と愛情がひしめいていた。顔を傾け、たっぷりと彼の熱い想いを受け止める。……ああ。
「気持ち、いい……」
「ぼくも」聡美の感じやすい部分を探る百瀬。昂ぶりに手を添えられると、ん、と短く声をあげた。「さとちゃん……それ、やばい」
動じることなく、聡美は、
「――これならどう?」
思い切って彼の性器を口いっぱいに含んでやる。彼の手をしっかりと握り、挑発的な目線をよこし、濡れた先端をれろれろと刺激する。
ごくん、と百瀬が喉を鳴らした。顔を起こそうとする彼の意志を見抜き、頭に下に枕を敷いてやる。ここからは聡美の独擅場だ。いままでの経験を総動員させ、彼のことを導いていく。
一度、聡美のなかで達したのに、彼の到達はすぐだった。
余波に震え、余裕をなくした百瀬のことが愛おしかった。
「さとちゃん。おはよー」
明るい葉月の声にどきんとする。……百瀬と淫らに戯れる夢を見ていた。現実と夢との境目が曖昧で、彼女はぐしゃぐしゃになった髪を気にしつつ身を起こす。「いま、……何時?」
「九時かな」
自分が服を着ていることを確かめ、ほっとした聡美は、「はーちゃん先に起きてたの?」
んー、と唇に指を添える葉月は、「なぎちゃんと同じくらいかなー」
寝かしつけは主に聡美が担当しているが。というのは、美凪のほうが寝るのに時間がかかるママっ子なため。寝かしつけの後に聡美は奥の寝室で百瀬と寝ている。百瀬のほうが朝が早いゆえ、きっと彼は毎朝妻を起こさぬよう気を遣いつつ、朝の準備をしてくれているのだろう。
顔を洗ってスキンケアをしてからパジャマ姿のままダイニングに行くと、
「あっママだ」
「おはよう」
美青年のエプロン姿といったら。とんでもない威力だ。朝から鼻血が出そうになる。
スクランブルエッグを乗せた皿を人数分用意した百瀬は、「じゃ、パン焼こっか」――すべて妻任せだったあの元夫とは雲泥の差である。そんな聡美の胸中に気づいてから気づかずでか、手際よくフライパンでウィンナーを焼いていく。
「熱いよー。みんなパパに近づいちゃ駄目だよー」
カウンターに並べた皿に焼いたウィンナーを盛り付ける。
ちん! とこのタイミングでトースターが鳴った。
「じゃあ、……食べましょうか」
朝っぱらから美青年のスィートな笑みが聡美の脳を揺さぶり、新しい一日が始まったことを告げてきた。
「多恵(たえ)さん、やっぱ来れないんだって」
「そっか。残念だね」朝食のテーブルにて。百瀬が、父親の彼女が来ない旨を明かす。看護師をしている多恵は、急な出産が入ったため休日返上で働いているとのこと。……どの仕事も、大変だ。土曜日である本日、聡美の義父である百瀬幸助も仕事だ。病院関係は土曜日が仕事で週休一日しかないのが辛いところだ。家のことも行き届かぬ義父のためにときどき、聡美は葉月を連れて掃除をしに行っている。そこまでしなくていいと百瀬には言われたものの、離れて暮らしているのだからせめて嫁らしいことはしたいと。彼女の意志である。
葉月を連れていくのは、葉月との距離を詰めるため。また、生まれてからずっと過ごしてきた実家マンションも恋しいだろうという母親なりの配慮である。
ところがその当日、彼女は寝坊してしまったわけであるが……百瀬がそれをなじることはなく。『疲れているんだからゆっくり休みな』とやさしい声をかけてくれる……元夫に百瀬の爪の垢を煎じて飲ませたい。
手早く朝食を食べ終えると、百瀬が掃除機をかける音を聞きながら聡美は化粧をする。終わると葉月に声をかけ、
「行ってきまーす!」と出ていった。――この時点で、彼女は。
自分の身に待ち構える運命を、知らない。
*
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!