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「さとちゃん。こうえんかぞえようー」
「いいよ」
電車の窓から見える物を数えるのは美凪の癖だ。お姉ちゃんのその癖を継承する葉月はまぁるいほっぺを膨らませ、「みっけ!」と指さす。「はーちゃんいっこ。さとちゃんゼロこね。はーちゃんの勝ちぃー」お互い元々きょうだいの居なかった保育園児であっても、三週間一緒に過ごすだけでこんなにも影響を受けるのか。
娘たちに頼もしさを感じつつ聡美は、「あーあっちに一個発見!」
「ほんとだー」目をあげて笑う葉月は、「はーちゃん二個! さとちゃん一個ね。はーちゃんの勝ちぃー」
……いちいち『勝ちたがる』ところなんか美凪そっくりだ。あの子の場合は、母親に対する対抗心が特に強いわけだが、葉月の場合は、あくまで『美凪の模倣』がベース。決して聡美を母親扱いしているわけではなく、単に美凪がそうしているから、それを真似ているだけなのである。
……名前で呼んでくれるのは嬉しいが。お友達と一緒なのかと。すこし、寂しさを感じる聡美である。
(いけない)
と、彼女は自分を戒める。転居転園新しい家族との生活。環境の激変に、柔軟に対応しているだけで立派なのである。これ以上なにを望もうか。大事なのは、彼女たちにあたたかな家庭を提供すること。百瀬との関係性を強固なものにし、この子たちが安心して過ごせる環境を、整えることなのである。自分が『ママ』と呼ばれることなんか二の次でよい。
「あ、……町田だ」緑豊かな公園が目に入り、聡美は笑みを漏らす。町田という場所には学生時代の思い出が詰まっている。
「パパの髪切りやさんがある場所だよね」
ガラスにちっちゃな手をつく葉月が聡美を見上げる。そうよ、と聡美は応え、「あのときパパに出会わなかったらどうなっていたか。……運命って、不思議なものね……」
「うんめー?」
分からぬ体の葉月に、聡美は説明してやる。「めぐりあわせのことよ。神様って存在が居て。パパとさとちゃんが、お互い大好きだってのを知っていて、それで、偶然、出会わせてくれたの……」
「うんめー。うんめー……」ここで葉月は首を傾げ、「んー。はーちゃん分かんないー」
「だよね」と艶やかな髪を撫で、「いまは分からなくても大丈夫。そのうち分かるようになるから」
「なぎちゃんくらいおっきくなったら?」
「どうだろう……」と聡美は小首を傾げ、「なぎちゃんも、運命っていう言葉の意味は知らないわ。帰ったら教えてあげよう……」
さあ。行きましょう。
と、聡美は娘を促す。目的地に到着。ひとの流れに従い、電車を降りる。葉月が、電車さんばいばーい、と手を振るのを見届け、先へと進む。
また明日には百瀬の実家マンションを訪れることにはなっていたが。その前に、全体をかるく掃除しておきたかった。やはり、男ひとりで暮らすとなにかと不自由で。家に手入れの行き届かぬ様子が見られる。今回の訪問に、他意はなかったのだが……。ものの三時間足らずで、聡美は、運命のいたずらというものに翻弄される羽目となる。
「……疲れた……」
百瀬の実家マンションの掃除を終え。続いては、遊びたくてうずうずしていた葉月を近くの公園に連れてきた聡美である。
フルタイムで仕事をし、二人の子育てまでしていると流石に疲労が溜まる。疲れを感じたときなどは百瀬に子どもたちの世話をお願いし、昼寝をすることもあるが、……百瀬も眠ることもしばし。大人たちが滾々と眠るさなか、子どもたちは子どもたち同士で楽しく遊べるようになった。近くに危ないものだけは置かないよう気をつけている。
まだ四歳の葉月の目いっぱいの要求には応えきれず。ベンチにて頬杖をつき、走り回る葉月を見つめる聡美。こんなときに百瀬が居たら、と彼女は思う。それにしても大きくなった。……他人の子なのにこんなことを思うのは変かもしれないが。
他人の子。
葉月との関係性を、そんな一言で片づけたくない。そんな聡美が聡美のなかの八割を占める。だが、一方で一割の聡美がささやく。……
あなた、あの子にとって、いったいなんなの? ――と。
ママとも呼ばれず。でもママの役割を淡々とこなし。それでも――報われず。
この、やり場のない思いはいったいどこに向かうのだろう? ――と。
自問する自分も、存在する。
ふー、と息を吐く。あの子に罪はない、それは分かっている。真新しすぎる環境に適応するだけで十分。頭では分かっているのだが、……
『母親』には勝てないのかと。一生。
絶望する自身を――自分のなかに発見してしまう。
深い深い穴倉を覗き込むようなこの感覚。
実を言うと目下の聡美の悩みはただそれだけだ。美凪については、すぐに百瀬を『パパ』と呼ぶようになり――実父については向こうから連絡が来ないため、音信不通。この状況下ではあの男を『パパ』と認識するのは難しいであろう――実の父親のように慕っている。あの子については心配要らなさそうだ。かといって精神的ケアをせぬとまでは言わないが。新しく家族が増えて、嬉しい面もあろうが、だがママが自分のものだけではない、『みんなのママ』になってしまったことによって、寂しさを感じぬといえばそれは嘘になるであろう。いまのところ二人とも仲良くやっており。葉月が美凪を慕い、美凪はお姉ちゃんらしく遊びをリードする姿が見られる。現時点でどちらかが不満を溜め込んだり爆発させる様子は見られないが。だが長期的に考える必要はある。
「さとちゃーん! さとちゃーん!」
葉月の声に我に返る。葉月が、ジャングルジムにのぼろうとしているところだった。聡美は座っていたベンチから素早く離れ、葉月の元へと近づく。なにかあっては大変だ。傍で親が見守っていなくては。走り回る程度であれば遠くから見守ることもあるが、遊具で遊ぶ場合は絶対に近くで目を光らせる、とこころに決めている聡美である。
――が。
「……あっ」なにかを捉えた葉月の瞳。それがぱっ、と花火のように輝き、
ママー。ママぁー!
続く台詞に聡美は凍り付いた。
葉月は急いでジャングルジムを降り、そして、呆然とする聡美の横を通り過ぎ、走って行ってしまう。
振り返った聡美の目は、わし! ……と、母親に抱きつく葉月の姿を捉えた。――相手の、女は。
美人だ。
上品なコートに身を包み。足元はピンヒール。子育てに関与せぬ女の服装だ。
だがその女は、目尻に皴を溜めて笑うと、愛おしい者にするように、葉月の髪を撫で、
「ただいま。はーちゃん」
腰を屈めるとんー、と娘に頬ずりをしたのちにキスを落とし、
「――迎えに来たわ。ママからのクリスマスプレゼントよ」
衝撃的な台詞を、放った。
* * *
「……どういうつもりだ」聡美からの電話を受けてやってきた百瀬は、殺気立っていた。「今月は、『無理』だと伝えたはずだったけど?」
「親の都合を押し付けられちゃあ、子どもはたまったもんじゃないわよねえ?」と、リビングで美凪とレゴで遊ぶ葉月に目を向け、「……あの子は、あたしを欲している。それは絶対よ」
「親の勝手であの子を何年も放置した、その罪が消えるとでも思っているのか」低く、早口で百瀬。葉月たちに聞こえぬようにという彼なりの配慮であろう。――が。
見守る聡美のほうとしては、当惑するばかりである。――突然、現れた百瀬の元妻、鈴村(すずむら)万穂(まほ)。彼女は葉月の実母でもある。あの葉月の様子を見る限り、……葉月が、この女性をママだと慕っているのは瞭然。いまは、大人に気を遣ってそれをしないが、本当はママにべったりくっついていたいのだろう……。葉月の気持ちを思うと胸が切ない。
聡美としては、百瀬の様子も気になる。こんなに怒りを露わにするのを見るのは初めてだ。決して怒号を飛ばすわけではないが、だが彼からは底知れぬ怒りが、伝わる。
元夫婦の会話に口を挟むべきではないとは感じつつも、この膠着状態を打開したく、聡美は、「それで……、その。『迎えに来た』というのは」
万穂は聡美の目線を受け止め、たっぷりと笑った。
「――あの子を引き取りたいの。そのためにずっと、準備して来たんだから……」
「……馬鹿を言うな!」がたん、と音を立てて百瀬が立ち上がった。「あのなあ。きみが突然居なくなったことで、ぼくたちがどれだけ苦しんだのか、分かっているのか!? あの子がどれだけママを求めて涙を重ねたと思っている! なんて、勝手な……」
そして顔を覆う百瀬。その仕草と言葉だけで、彼がどれほど苦しんできたかが、胸に迫ってくる。こみあげるものを抑え、聡美は、彼の背に触れた。「晴生さん……」
「急に居なくなったことは悪かったと思っているわ」すまなさそうに万穂。「でも。こっちも準備が必要で……、すぐに葉月を迎えには来れなかったの。彼との生活が落ち着いてからじゃないと、葉月を迎えるどころじゃなかったの」
再び椅子に座る百瀬は、「だからなんできみが葉月を引き取る話になってんだ。おかしいだろ。きみが消えてからの四年近く。ぼくは親としてしっかりあの子を育ててきたつもりだ」
すると万穂はカールされた髪を指に巻き付け、
「――でも『ママ』にはなれない」
万穂の指摘に、ぎりりと音がしそうなくらいに奥歯を噛み合わせる百瀬。怒りを体内に押し込め、一拍置くと、「……いま、新しい家庭を築いている最中なんだ。変な横やりは入れないで欲しい。頼む」
「このままあなたたちに育てられるか、それとあたしと暮らすのが幸せなのか。それは、本人にしか分からないんじゃないかしら。――葉月に決めさせたら?」
「まだ四歳だぞ。酷な判断をさせるな……」
「あなたにも説明しておくとね」と聡美に照準を定める万穂。「うちには、一歳の子どもが居るの。夫は固い研究職。言っておくとT大ね。だから身持ちのよさは保証出来る……。わたしたちそれ以上子どもを作る予定もないしね、だから……」
いまがチャンスなの。
と、時折不安げに大人たちの様子を窺う葉月を見やり、「確かに。勝手は勝手だけれど、でも、……あの子の嬉しそうな顔を見たでしょう? 母親が傍に居るだけであんなにも――変われるのよ、あの子は。だから」
最後に万穂は念押しをした。――あの子にとっての最大の幸せ。それを、
「考えておいて」
「――晴生さん……」
大変だった一日の終わりにベッドに入るとようやく彼は苦悩を露わにした。「まったく……。参ったね。一番参ったとぼくが思っているのは、あれでも」
――母親なんだ。
「世界でたったひとりの」ここで百瀬は聡美の髪に触れ、ごめん、と彼女に詫びた。「あなたが努力しているのは知っている。それとこれとは別問題なんだ。分かってくれる……?」
「分かるよ」頷く聡美。「はーちゃんの様子見てたら、あんなに、……懐いているんだもの。晴生さんが悩むのも無理ないよ……」夫にシンパシーを寄せる一方で、聡美は別の思考を走らせる。――仮に万穂が葉月を引き取ったとて。いまの夫との子のほうを優先し、葉月を蔑ろにすることなど――無いとは言い切れない。一度は娘を捨てた女だ。信じろと言うほうが無理だ。
やはり、ここは、譲れない……。
葉月のために、なにが出来るだろう。なにが一番、ベストなのか。
不安と苦しみを抱え、二人はただ抱き合った。それ以外にどうしようもなかった。出口のない海に迷い込んだ感覚を共有していた。ただ、確かなのは。
鈴村万穂という人間は、紛れもない、葉月の母親であるということ……。
それだけだった。
*