テラーノベル
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『紗良』
朝、目が覚める前に声が聞こえる。
「紗良、起きてる?」
ドアの向こうから、母の声。
反射的に体を起こす。
「起きてるよ」
嘘、今起きた。
ドアが少しだけ開く。
「今日お弁当いるわよね?」
「うん、ありがとう」
母はほっとしたように微笑む。
「良かった。体調大丈夫そう?」
「うん」
反射で答える。
「無理しないのよ」
「してないよ」
全部、本当みたいに聞こえる嘘。
母は満足そうに部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
その瞬間、肩の力が抜ける。
――大丈夫。
今日も普通。
洗面所の鏡を見る。
腫れてない、隈もない、顔色も悪くない。
合格。
制服を整える、髪を結ぶ、表情を作る。
「いってきます」
「いってらっしゃい。紗良がいると安心するわ」
胸の奥が少しだけ痛む。
でも笑う。
「任せて」
玄関を出る。
空気が冷たい。
家から離れるほど、呼吸が楽になる。
学校に着く頃には、“朝比奈 紗良”が完成している。
「おはよー!」
「紗良おはよう!」
「昨日のプリント分かんなくてさ」
「後で教えるね」
「ありがとう!やっぱ神!」
神じゃない。
でも否定しない。
否定すると困らせるから。
ホームルーム。
「朝比奈、文化祭の実行委員やってくれないか?」
担任の言葉。
周りの視線が一斉に集まる。
期待、安心、当然。
断る選択肢は最初からない。
「大丈夫です」
教室が明るくなる。
「助かる〜!」
「紗良なら安心!」
「今年あたりだわ」
正解。
ノートを開く。
予定を書き込む。
空いてるところが減っていく。
でも、不思議と焦らない。
考えなくて済むから。
昼休み。
クラスメイトに囲まれる。
相談、愚痴、進路、恋愛。
「紗良ならどうする?」
魔法の言葉。
何をいっても正解になる。
「無理しすぎないほうがいいと思う」
「やっぱそうだよね!」
自分には言わない言葉。
ふと、窓の外を見る。
屋上のフェンスが小さく見える。
――今、いるかな。
すぐに視線を戻す。
関係ない。
ただ同じ場所にいるだけの人。
名前も知らない。
午後の授業、委員会、職員室、部活の手伝い。
気づけば夕方。
「紗良ほんとに助かる!」
「ごめんね、押し付けちゃって」
「全然大丈夫だよ」
本当に?
分からない。
教室に1人残る。
静か。
鞄を持つ。
廊下に出る。
階段を上がる。
――考えるより前に、体が動いていた。
扉の前で止まる。
今日も来てる?
いなかったら?
なぜか少しだけ不安になる。
押す
風、空、そして――
いた。
同じ場所、姿勢。
なぜか、胸が軽くなる。
安心した。
理由はわからない。
何も言わず、座る。
沈黙。
でも今日は少し違う。
疲れているからか、仮面がうまく張り付かない。
ぽつりと呟く。
「……疲れました」
言った瞬間、後悔する。
聞かれる、心配される。
説明しなきゃいけない。
でも彼は何も言わなかった。
ただ少しだけこちらを見る。
それだけ。
沈黙が戻る。
救われる。
責められない、慰められない、期待されない。
しばらくして、彼が言った。
「やめれば」
昨日と同じ言葉。
でも今は刺さる。
「……できたら苦労しません」
思ったよりも強い声が出る。
「みんん困ります」
「お前は?」
即答できない。
「……大丈夫です」
嘘。
「嘘だな」
心臓が止まりそうになる。
顔を上げる。
彼は空を見たまま。
責めるでも、優しくするでもない。
ただ、事実を言っただけ。
胸の奥に何かが広がる。
痛いのに、少し楽。
「……なんでわかるんですか」
小さな声。
返事はすぐ来なかった。
風が吹く。
長い沈黙。
やがて、
「わかる」
それだけ。
理由言わない。
でもその一言が、妙に重かった。
それ以上聞けなかった。
聞いたら、何かが壊れる気がした。
『悠真』
あいつは限界に近い。
教室で見ていれば分かる。
朝も、昼も、放課後も囲まれて。
断らない、嫌な顔もしない、全部引き受ける。
壊れる速度が速い。
昔の自分みたいだ。
いや、違う。
俺は逃げた。
あいつは逃げない。
逃げられないのか、逃げる気がないのか。
どっちなのかは俺には分からない。
屋上に来たときの顔。
朝と別人。
電池が切れたみたいな顔。
「……疲れました」
珍しく、音が漏れた。
普通なら慰める。
大丈夫?って言う。
頑張ってるねって言う。
でもそれは違う。
あいつはそれを外で大量にもらってる。
だから言わない。
「やめれば」
正論。
できないことも分かってる。
「みんな困ります」
予想通りの答え。
自分のことは出てこない。
「お前は?」
止まる。
考える。
でも答えない。
出てこないんだろう。
自分の優先順位が存在しない。
「……大丈夫です」
嘘。
即答。
「嘘だな」
びくっとした。
図星。
怒らない。
否定しない。
ただ困った顔をする。
責められるよりも効く。
「なんで分かるんですか」
聞かれると思わなかった。
答えは簡単だ。
同じだから。
でも言わない。
言うと関係ができる。
だから短く。
「分かる」
それだけ。
あいつはそれ以上聞かない。
踏み込まない。
境界線を守る。
優等生のくせに、一番大事なところだけ触らない。
フェンス越しに空を見る。
雲がゆっくり流れている。
「……危ないな」
小さく呟く。
あいつは自分で自分を削ってる。
でも気づいてない。
削り切ったらどうなるか。
知ってる。
俺がそうだったから。
横を見る。
風で紙が揺れている。
目を閉じている。
少しだけ、安心した顔。
「……ここだけか」
本音が出るのは。
気づけば思っている。
――明日も来てほしい。
理由はない。
ただ、あいつが壊れるところを見たくないだけだ。
俺には関係ないはずなのに。
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