テラーノベル
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土煙と硝煙、そして鉄と血の匂いが入り混じった夜気が、店の外周に立ち込めていた。
数の上では、こちらが圧倒的に劣勢のはずだった。それでも、背後を塞いでいた脅威が一瞬にして消えたというだけで、張り詰めていた体の芯に、わずかな余裕が戻ってくる。
周囲を囲んでいた黒装束たちも、突然の乱入に浮き足立ち、じりじりと後退しながら、次の動きを測りかねている様子だった。
この好機を逃す手はない。
それなのに、赤毛の女が律儀にもこちらへ向き直り、口を開いた。
「せっかくだ、名乗っておくぞ! レオナだ! 王国騎士団、遊撃部隊隊長! トウヤの店の常連だ、悪いようにはしない!」
剣についた返り血を無造作に払いながら、レオナが不敵に笑う。エメラルドグリーンの瞳が、月明かりの下でもはっきりと分かるほど、強い光を宿していた。
乱戦の真っ只中で名乗りを上げるなど、正気の沙汰とも思えない。だが、素性も知れない人間を味方として信用するには、これほど道理の通った律儀さもなかった。
「フェリア・ルミナスよ! 王立魔法学園、特級導師! ……あなたにお礼を言われる筋合いはないけど、味方だと思っていいわ!」
杖を胸の高さに構え直し、周囲の黒装束たちを睨みつけるフェリア。プラチナブロンドの髪が、夜風に激しく揺れる。
「……シオンだ、全員敵……、容赦する必要はないだ!」
「言われずとも!」
「分かってるわよ!」
そう言うが早いか、レオナは獣のような踏み込みで、早くも別の敵の群れへと斬り込んでいく。
(……存外、良い動きだ。少なくとも、足を引っ張られる心配だけは、なさそうなのだ)
三人が示し合わせるでもなく、それぞれ違う方向へと散っていく。背中合わせの信頼など、まだ欠片も築いていないはずなのに、なぜか誰も、互いの死角を気にする素振りを見せなかった。
○
名乗りを上げるや否や、レオナは目の前に群がる黒装束の一団へと、迷いなく踏み込んでいった。
獣のような低い姿勢からの踏み込みで一気に間合いを潰し、振り抜かれた剣に、見る間にエメラルドグリーンの光が纏わりついていく。以前、噂に聞いたことのある、感情の昂りに応じて剣に力を纏わせるという、闘気と呼ばれる技。
「一人ずつ来られては退屈で仕方がない! まとめてかかってこい!」
一振り目。光を纏った刃が、先頭の男の得物ごと薙ぎ払う。金属同士が咬み合う甲高い音とともに、刃こぼれした短剣の切っ先が宙を舞った。
「な……なんだ、その剣は……!」
二振り目。返す刀で、横合いから斬りかかろうとした別の男の脇腹を打ち抜く。声を上げる暇すら与えられず、黒装束の男たちが次々と地に沈んでいく。
動きに、一切の淀みがない。剣筋は力任せの乱雑なものではなく、むしろ流れるように滑らかで、まるで舞踏を見ているかのようだった。だが、その優雅さの裏に隠された威力は、正面から受けた者の骨をあっさりと砕くだけの重さを孕んでいる。
(――速い。それに、力任せではない。この動き、只者ではないと思っていたが……ここまでとはな)
「く、来るな……!」
怯む男に向かって、レオナが容赦なく踏み込む。
「怯んでいる暇があるなら、剣を握れ! でなければ、大人しく倒れていろ!」
「囲め……! 数で押し潰せ……!」
数人がかりで包囲を狭めようとするが、その動きの鈍さを、レオナは瞬時に見抜いていた。
「甘い!」
包囲が完成する寸前、その中心へと自ら飛び込み、円を描くように剣を薙ぐ。
悲鳴が重なり合い、包囲を組んでいたはずの一団が、瞬く間に崩れ落ちる。土煙の中、闘気の残光だけが緑色の尾を引いて宙に消えていった。
(……あの調子なら、こちら側の数の心配は、ひとまずいらないか)
瞬く間に、レオナの周囲だけ、黒装束の男たちの姿が消えていく。誰も、彼女に近づこうとしなくなっていた。まるで、彼女の周囲だけ、別の戦場が広がっているかのようだった。
○
一方、フェリアは店の入り口を背に、中へなだれ込もうとする黒装束たちを一人で迎え撃っていた。
だがその戦い方は、レオナの豪快な立ち回りとはまるで質が違う、どこか窮屈そうなものだった。
「そこ、通さないわよ!」
杖から放たれるのは、拳大ほどにまで絞り込まれた、小さな火球ばかりだ。それでいて、その一つ一つが寸分の狂いもなく敵の足元で正確に弾け、爆風だけで数人をまとめて吹き飛ばしていく。
「ぐああっ……!」
私は思わず、その光景に見入っていた。
狙いを絞り込むというのは、口で言うほど容易いことではない。感情のままに全力を叩きつける方がよほど楽なはずだ。それを、これだけの混戦の最中、店に一切の被害を出さぬよう精密に威力を調整しながら、しかも連発している。並の魔導師にできる芸当ではない。
(……この威力を、これほど正確に絞り込んで、しかも連発しているのか)
むしろ、この絞り込まれた威力ですら、これだけの爆風を生み出しているという事実の方が、恐ろしかった。もし本気を出せば、この女は一体どれほどの規模を消し飛ばせるのか、そう考えると、背筋にわずかな寒気が走る。
「そっちにも行かせないんだから!」
別の一団が回り込もうとするのを見て、フェリアが素早く杖の向きを変える。狙いを一瞬で切り替え、正確に足元を撃ち抜いた。
「……ああもう、面倒くさいったらないわ!」
舌打ち混じりに、苛立たしげな声を上げるフェリア。放っている当人の顔には、称賛してしまう威力とは裏腹に、明らかな苛立ちが浮かんでいた。狙いを絞るたびに、舌打ちに似た小さな呟きが漏れている。器用さと不満顔が、まるで釣り合っていなかった。
「加減しながら狙いを絞るなんて、性に合わないのよ! いつもみたいに全部まとめて吹き飛ばせたら、どんなに楽か!」
それでも店を巻き込まないよう、細心の注意を払いながら、次々と敵を吹き飛ばしていく。
「トウヤの店に、傷一つでもつけてみなさい……! 消し炭にしてやるんだから!」
(……随分と器用な怒り方をする女だ。あれだけの精度を保ちながら、なお不満げとはな)
本来前衛が必須の後衛職なはずのフェリアは、それでも一瞬たりとも隙を見せない。杖の先が、絶えず次の標的を捉え続けていた。
○
二人がそれぞれの持ち場で敵を制する中、私の前には、まだあの男が立ち塞がっていた。
眼帯の下に隠れた古傷が、月明かりの下でわずかに疼くように見える。
原因は、もう何年も前、まだ互いに駆け出しだった頃の、ちょっとした仕事のいざこざだった。あの日から、こいつがこの左目の借りをいつか返そうとしているのは、薄々気づいていた。それが、こんな形で回ってくるとは思わなかったが。
「……あの二人に構ってる暇はねえよなぁ、シオンの嬢ちゃん。てめぇの相手は、俺だ」
短剣を逆手に持ち替え、バルクがじりじりと間合いを詰めてくる。周囲では、味方の数が刻一刻と減っていっているというのに、その顔にはまだ、余裕とも呼べる嗤いが張り付いていた。
「上等なのだ」
互いに得物を構え、じりじりと間合いを測り合う。
「その左目の借り、いつか返してやろうと思ってたんだ。……ちょうどいい夜だろう?」
「借りだと? 自分の未熟さを、私のせいにするな」
「へへ、減らず口だけは変わらねえな」
バルクの短剣が、低い位置から掬い上げるように振るわれた。
風を裂く音が、耳元をかすめる。私はそれを紙一重で躱し、体を沈めたまま、逆に懐へと踏み込んだ。地を這うような姿勢のまま、短剣の切っ先を相手の脇腹へと突き入れようとする。
だが、バルクはそれを読んでいたかのように、半歩だけ身をひねって躱す。
「――ッ、腕は落ちてねえみたいだな」
「……お前の減らず口も、相変わらずのようだな」
短剣同士が交差し、火花が散る。
金属が擦れ合う耳障りな音とともに、二本の刃が互いの軌道を削り合っていく。押し合う力は互角。だが、私の身体は以前とは違う。骨盤の歪みも、股関節の摩擦も、もうどこにもない。全身の力が、澱みなく短剣の切っ先まで通っていく感覚があった。
バルクが素早く距離を取り、荒く息を整えながら再び構え直す。
「……本気で来い、シオン。じゃなきゃ、俺がテメェを殺す意味がねぇ!」
「ふん――お前こそ。積年の恨みとやら、どこまで本物か、見せてもらうのだ」
私は静かに、呼吸を整える。心拍を抑え、気配を薄く消していく。幾度となく命のやり取りの中で培ってきた、あの静けさへと沈んでいく。
バルクの目に、わずかな戸惑いが浮かんだ。私の姿が、一瞬、彼の視界から溶けるように消えたのが分かったのだろう。
「な――」
言い終わる前に、私は既に彼の右側面へと回り込んでいた。
無音の跳躍。関節のバネと体幹の柔らかさだけを使った、三次元的な機動。以前の私なら、革のズボンの擦れる音一つで、この動きの気配を悟られていただろう。だが今の私に、その足枷はもうない。
短剣の切っ先が、バルクの脇腹をかすめる。浅く裂けた布から、赤い染みが滲んだ。
「――ッ!」
バルクが弾かれたように体をひねり、間一髪で致命傷を避ける。
「今のを、躱すか」
「舐めるな……! これでも、裏じゃそこそこ名の知れた男だぜ……!」
苛立ちを滲ませながら、バルクが短剣を握り直す。だが、その目の奥には、先ほどまでの余裕とは違う、初めての焦りの色が浮かんでいた。
風の唸り、鉄の擦れる音、そして互いの呼吸だけが、この一角を支配していた。周囲で崩れていく黒装束の悲鳴すら、今の私の耳には、遠い雑音のようにしか届いていない。
(――さて、この続きは。もう少し、じっくりと味わわせてもらうとするか)
短剣を握り直し、私は静かに、次の一撃のための呼吸を整えた。
遠く、店の周辺からは、まだレオナの一喝と、剣が肉を裂く鈍い音が絶え間なく響いている。フェリアの側からも、時折、爆発とも呼べる火球の炸裂音が届いていた。
だが今の私にとって、それらはもう意識の外側に押しやられた、ただの雑音に過ぎない。
目の前の男との間合いだけが、世界のすべてだった。
バルクの短剣が、再び下段から掬い上げるように振るわれる。私はそれを半身で躱し、返す刀で懐に踏み込む。奴の反応は決して遅くない。むしろ、奴が言っていた通り、裏社会の荒事を渡り歩いてきただけの、確かな場数を感じさせる動きだった。
だが、決定的に足りないものがある。踏み込みの深さ、体重移動の滑らかさ、そして――呼吸だ。奴の息は、すでに乱れ始めていた。
一合、二合。刃と刃が交わるたび、火花が散り、金属の悲鳴が夜気を裂く。
「――ッ!」
三合目。バルクが不意に懐から何かを投げつけてくる。細かい砂粒のようなものが、月明かりを反射して視界に散った。目潰しのつもりだろう。
だが、そんな安い手には、とうの昔に慣れている。私は瞬時に目を細め、飛来する軌道の外側へ半歩ずれるだけで、それをやり過ごした。
「――甘いな」
「ちっ……!」
舌打ちとともに、バルクは今度は仕込み武器らしき、鎖の付いた分銅を逆手から放ってくる。予想外の間合いの伸びに、私は一瞬だけ体勢を崩されかける。だが致命傷には程遠い。分銅の軌道を最小限の動きで見切り、逆にその鎖を利用して、奴の体勢を崩しにかかった。
「くそ、くそっ……! なんで、当たらねえ……!」
四合目、五合目と刃を交える中で、バルクの息は次第に上がっていく。対する私の呼吸は、乱れることなく静かなまま。
奴が繰り出す一撃一撃には、序盤感じていたはずの重さや、油断ならない凄みが、もうどこにも見当たらない。むしろ、動きの粗さだけが際立って見える。無音の跳躍に支えられた無尽蔵に近い体力の前では、これはもはや対等な勝負ですらなかった。
「……お前がその目を失った日から、随分と鈍ったようだな」
「――ッ! 舐めやがって!」
挑発に、案の定バルクが乗る。激昂に任せた大振りの、力任せの、隙だらけの一閃。
私はそれを紙一重で見切りながら、同時に、身体の奥底で何かが静かに沸き立つのを感じた。摩擦という、この世界からの抵抗そのものを、完全にゼロにする感覚。
(――終わりにする)
床を蹴った瞬間、世界が置き去りにされる。
喧騒も、剣戟の音も、風の唸りすらも、一拍遅れて追いついてくるような感覚。景色が、まるで静止画のように引き伸ばされていく。月明かりに照らされた石畳の輪郭、宙を舞う土埃の一粒一粒までもが、やけに鮮明に見えた。
轟ーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
この瞬間、バルクの視界の中で、私の姿は文字通り「消える」。
「な……ど、どこに……!?」
死角へ回り込んだ私の手刀が、まずバルクの得物を持つ腕を正確に打ち抜く。骨が軋む鈍い感触が、掌越しに伝わってくる。短剣が手元から離れると同時に、私はすでに次の動きへと移っていた。体勢を崩した鳩尾へ、迷いのない一撃を叩き込む。
「が……はっ……」
膝から崩れ落ちるバルクの巨躯を、私は静かに見下ろした。荒い呼吸の音だけが、静まり返った路地に響いている。
「く……、そ……! なんで、これだ……、け動いても、息一つ乱れて……ねえんだ……!」
「……この程度か。案外、拍子抜けだな」
膝をつき、荒い息を吐くバルクを、私は静かに見下ろす。もう、抗う力は残っていないはずだった。
完全に膝をつき、勝負が決したはずだった。
だが、荒い呼吸の合間に漏れたのは、悲鳴でも命乞いでもなく、乾いた嗤いだった。
「……はぁはぁ…………。へ、へへ。まさか、これを使う羽目になるとはな」
歪んだ笑みを浮かべたまま、バルクの震える手が、懐の奥深くへと差し込まれていく。
引き抜かれたのは、拳大ほどの、禍々しい紋様の刻まれた黒い水晶のような品だった。表面には、うっすらと脈打つように、赤黒い光が明滅している。
まともな品でないことは、一目で分かる。裏社会で長く生きてきた身として、こういう類の”モノ”には、嫌というほど覚えがあった。使えば確実に代償を伴う、禁忌の魔具。
思わず口が動く。
「……その手に持っている物は、なんなのだ」
「これか? こいつは禁制の召喚具だ。……本当は、最後の最後、どうしようもねえ時の切り札だったんだがな。なんたって使った奴の寿命を、ごっそり持っていきやがる、いわくつきの代物だ」
「……お前、それを使えば」
「はっ、知ったことか! このまま無様に負けを認めるくらいなら、命の一つや二つくれてやるさ!」
バルクの目に宿るのは、もはや勝算の光ではなく、破滅を受け入れた者の、捨て鉢な熱だった。
「負けを認めるつもりはねえ。……テメエらがどれだけ強くても、これの前じゃ意味がねえからなぁ!」
そう言い放つと、バルクは水晶を高く掲げ、力任せに握り砕いた。掌から滴る血が、黒い紋様に吸い込まれるように染み込んでいく。
「出てこいや……! 俺様の、最後の切り札ァァァ!」
砕けた水晶を起点に、黒い紋様が生き物のように地面を這い、瞬く間に広がっていく。それは私たちの立つ路地を越え、街の外れの空にまで届き、そこに巨大な、禍々しい魔法陣を描き出した。
(……あの規模の魔法陣。不味い!)
夜空に浮かんだ魔法陣が、目を焼くほどの眩い光を放つ。
次の瞬間、その光を内側から突き破るようにして現れたのは、家屋の何倍あるかも分からないほどの、巨大な翼を持つ影だった。
鈍く光る黒鱗が、月明かりを受けて禍々しく輝く。裂けた顎の奥からは、大人の胴ほどもある牙が覗いていた。ゆっくりと羽ばたかれるだけで、暴風にも似た風圧が路地の奥まで吹き込み、屋根瓦を何枚も吹き飛ばす。喉の奥から漏れる唸り声は、音というより、腹の底に響く振動として全身を叩いた。
絵物語でしか見たことのない存在――竜が、今、目の前にいる。
バルクが血の気の失せた顔のまま、それでも勝ち誇ったように哄笑を上げた。
「見たか……! これが、レッサー・ドラゴンだ! こいつ一体で、この街ごと消し炭にしてやる……!」
その哄笑には、もはや余裕というより、正気を保つための虚勢に近いものが滲んでいた。だが、その虚勢を笑い飛ばせるだけの材料が、こちらには一つもない。
私は握りしめた短剣に視線を落とす。この刃が、あの分厚い鱗にどれほど通じるというのか。仮に絶死領域を使ったところで、あの巨躯そのものを両断できるだけの威力は、私の得物にはない。
駆けつけたレオナも、剣を構えたまま、明らかに立ち尽くしていた。彼女ほどの剣士でさえ、間合いという概念そのものが意味を失うほどの相手を前にしては、踏み込む先を見つけられずにいる。
「な……あんな図体、剣が届く距離にすら入れん……!」
「くっ……」
暴風のような羽ばたきが、街の外れの木々を次々となぎ倒していく。竜が首をもたげ、喉の奥に何かを溜め込むように光らせ始めた。あれが放たれれば、街の一角がまとめて消し飛ぶ。そう理解した瞬間、私は初めて、明確な焦りを自覚した。
「終わりだ、終わりなんだよ……! ハーッハッハッハ!」
バルクの哄笑が、静まり返った戦場に虚しく響き渡る。
同時に、喉の奥に光を溜め込んだ竜が、今にもそれを解き放とうとした、その刹那。
勝利を確信したバルクの哄笑を遮ったのは、店の方角から届いた、あまりにも涼やかな声だった。
「……何を騒いでいるのかと思えば」
振り返ると、店の前を守っていたはずのフェリアが、いつの間にか路地の中央まで進み出て、杖を天へと向けていた。竜の威容を前にしても、その表情に恐怖の色は一切ない。あるのは、まるで道端の石ころでも見るかのような、あからさまな呆れの色だけだった。
「あ? テメエ、何を悠長に――」
「下級(レッサー)なんて、ただの大きなトカゲでしょ。……そんなものに、街ごと消し飛ばされてたまるものですか」
その一言に、私は思わず耳を疑った。あの巨躯を前に、ただのトカゲ呼ばわりとは。だが、フェリアの態度には、虚勢の欠片もなかった。むしろ、心底から呆れ果てているようにすら見える。
(――正気か、あの女。あの図体を前に……)
杖を掲げたフェリアが、深く、深く息を吸い込んでいく。何の抵抗もなく、肺が際限なく膨らんでいくのが、離れた場所からでも分かるほどだった。
「碧き宙に座す、炎帝よ――」
詠唱が紡がれた瞬間、周囲の空気が張り詰め、震え始める。
杖の先に生まれた小さな光が、瞬く間に膨れ上がり、太陽のように凝縮された高密度の熱球へと姿を変えていく。
喉の奥に光を溜めていたはずの竜が、初めて、明確な警戒を示すように翼を大きく広げた。
だが、もう遅い。
「な……な、なんだそれは……!?」
バルクの声が、恐怖に裏返る。
「集束せよ、星を焦がす赫怒の炎!」
解き放たれた極太の熱球が、夜空を切り裂きながら一直線に竜の巨体へ向けられる。逃げる暇も、防ぐ手立てもない。
「消し飛びなさい! 『極大殲滅・業火の息吹(インフェルノ・ロア)』!!」
轟音とともに、竜の巨体が真っ赤な光に飲み込まれる。悲鳴を上げる間すら与えられず、鈍く光っていた鱗も、大人の胴ほどもあった牙も、街を薙ぎ倒しかけた翼も、そのすべてが、跡形もなく消し炭になっていった。
夜空を焦がした光が収まった後には、ただ、焼け焦げた匂いを乗せた夜風だけが吹き抜けていく。
私は、その光景を、しばらくの間、言葉もなく見上げていた。
(……格が、違いすぎるだろう、あの女)
夜空を焦がしていた熱線が収まると、そこにはもう、あれほど巨大だった影の欠片一つ残っていなかった。
呆然と立ち尽くすバルクの顔からは、完全に血の気が失せていた。周囲で辛うじて戦意を保っていた黒装束の残党たちも、今の光景を目の当たりにし、次々と得物を取り落としていく。
「う……嘘、だろう……。竜だぞ……。それを、一撃で……」
「あら、まだいたの。……次はあなたたちの番にしてあげましょうか?」
杖を軽く構え直すフェリアに、周囲の黒装束たちが一斉に後ずさる。恐怖の対象が、いつの間にか私たちではなく、あの気位の高いエルフの魔導師一人へと完全に移っていた。
「ば、化け物だ……! 人間じゃねえ……!」
我先にと得物を取り落とし、逃げ出す黒装束たち。誰一人として、それを止めようとする者はいない。
膝をついたまま動けないバルクを、私はゆっくりと見下ろした。
「……見ての通りだ。お前たちの負けだ、バルク」
「……く、そ……」
力なく項垂れるバルクを最後に、路地に満ちていた戦いの気配が、ゆっくりと静まっていく。
振り返ると、レオナが剣を鞘へ収めながら、こちらへ歩み寄ってきていた。
「……終わったな」
「ああ」
「にしても、フェリアの奴……」
レオナが、複雑な表情で、竜が消えた夜空を見上げる。私も、同じ方向へ視線をやりながら、内心で小さく呟いた。
(――結局、あの男は、最後まで顔も出さなかったな)
店の奥では、いつも通り、糸を繰る音だけが、変わらず小さく響いていた。
コメント
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わー、第17話、凄かったですね…! レオナとフェリア、それぞれの戦い方がしっかり描かれていて、そして何よりシオンの「無音の跳躍」と絶死領域の感覚、凄く好きです。摩擦そのものをゼロにするって、なんだか世界のルールを書き換えてるみたいで。バルクとの因縁も、あの左目の傷の話も気になります。 で、最後のフェリアの「極大殲滅・業火の息吹」。あれには度肝を抜かれましたよ。「ただの大きなトカゲ」呼ばわりした上で、実際に一撃で消し飛ばすんだから…格が違いすぎますね。トウヤが最後まで顔を出さなかったのも含めて、続きが待ち遠しいです!