テラーノベル
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じっとりと澱んだ空気が、喉の奥にまとわりついた。
松明の頼りない灯りだけが、地の底に沈んだ坑道の輪郭を橙色に浮かび上がらせている。壁を伝う水音と、かすかな腐敗臭。時折響く獣じみた唸り声。
長丁場のダンジョン攻略も、そろそろ終わりが見えてきた頃合いだった。誰もが気を抜きかけていたそんな中、盾を構えるあたいの右腕だけは、じくじくとした鈍い熱を燻らせ続けていた。奥歯を噛みしめ、その違和感を意識の外へと蹴り出す。今は、それどころじゃない。
あたいはこのパーティーの盾役だ。
ハーフフットという小柄な種族に生まれながら、あたいの膂力と頑丈さは並みの人間の戦士をも凌ぐ。それだけが、あたいの取り柄だった。
前を行く見習いの背中が、松明の灯りに照らされて弾んでいる。
たった今仕留めた一体の手応えに気を良くしたのか、その足取りは明らかに逸っていた。
「おい、飛ばすな……!」
制止の声も虚しく、少年は暗がりの奥へと駆け込んでいく。あたいは舌打ちを一つ落とし、ずっしりと重い大盾を抱え直して後を追った。
案の定、横合いの暗がりから、もう一体のゴブリンが躍り出る。手にした棍棒が、少年の後頭部めがけて唸りを上げた。
(間に合え……!)
考えるより先に、丸太のような足が地を蹴っていた。全体重を乗せて、人の背丈ほどもある大盾を、二人の間へと割り込ませる。
ガギィンッ!
鈍く重い金属音が坑道に反響した、その刹那。
(――っ!? なんで、また……!)
右肩の奥で、何かが焼き切れるような激痛が弾けた。握力が一瞬、抜ける。棍棒の重みを完全には殺しきれず、盾ごと弾かれた反動が、痺れとなって腕から脳天まで突き抜けた。
殺しきれなかった衝撃の余波で、棍棒の先端が空を切る。少年の頬のすぐ横を、鈍色の一撃が紙一重で掠めていった。
「オ、オルガさん……!?」
「動くんじゃねえ、危ねえだろうが……!」
震える少年を怒鳴りつけながら、あたいは内心で冷や汗をかいていた。今のが、もし完全に受け止めきれていなかったら――そう考えるだけで、背筋が凍る。
「オルガ、大丈夫か? 今、変な体勢に見えたが」
リーダーの声に、あたいは何でもないふうを装って肩をすくめてみせた。
「……悪い。ちっと気合いが抜けてただけだ」
平静を装って笑ってみせながら、あたいは内心で唇を噛んだ。
――これで、四度目だ。今月に入って。
誰にも打ち明けられない異変が、確実にあたいの身体を蝕んでいた。
○
数日後。
(たしか、トウヤっていう名前だったな)
冒険者ギルドの片隅で小耳に挟んだ噂を頼りに、あたいは職人街の外れへと足を向けていた。「腕は確かだが、やたらと手厳しい仕立て屋がいる」そんな噂話を反芻しながら、古びた木戸の前で立ち止まる。
日々ダンジョン攻略を続けるあたいには、この静かな職人街の空気は妙によそよそしかった。
意を決して扉を押し開ける。カランと乾いた鈴の音が鳴り、なめした革の匂い漂う薄暗い店内へと足を踏み入れた瞬間、あたいの目は、カウンターに並べられた品々に釘付けになった。
繊細な縫い目。無駄のない裁断線。不器用なあたいの指では逆立ちしたって届かない、あまりに丁寧な仕事だった。
(こんな……こんな細やかな仕事……。うちのあの子にも、こんなのがあったら……)
不覚にも、目の奥がじわりと熱くなる。
(って、なんであたい、いきなり泣いてんだ……!)
厳つい面構えの小柄な女がいきなり目を潤ませるという、我ながら奇妙な絵面だったに違いない。だが、カウンターの奥で作業をしていた男は顔を上げるでもなく、眉一つ動かさなかった。
「いらっしゃいませ。……右肩を庇っていますね」
「へ……?」
淡々とした声が飛んできた方向を、あたいは思わず二度見した。
「入ってきた時から、右腕の可動域が明らかに制限されています。それに、服の上から包帯の膨らみが見える」
「な……ば、バレた」
あたいは慌てて、右肩を抱くように腕を回した。だが、遅い。すでに見透かされた後だった。
男はようやく手元の作業を止め、ゆっくりと顔を上げた。鋭く理知的な黒い瞳が、あたいの右肩の輪郭を正確になぞる。
「その包帯、今日巻いたものではありませんね。何度も巻き直した跡がある」
「……別に、大したことじゃねえよ。盾役なんて、多少の怪我はつきものだ」
あたいは虚勢を張るように鼻を鳴らしたが、噂に聞いていた店主は、ぴくりとも動かなかった。
「多少、ではないでしょう。肩関節が完全に外れきってはいないものの、常に亜脱臼を繰り返している状態だ。盾で衝撃を受け止めるたび、悪化しているはずです」
数日前の、いや、この一月の光景が、まざまざと脳裏に蘇る。焼けるような痛み。抜け落ちる握力。少年の頬を掠めた棍棒の先端。
あたいは黙り込み、絞り出すように声を押し出した。
「……それでも、あたいが盾を下ろすわけにはいかねえんだよ」
「なぜです」
短い問いが、静かな店内に落ちる。あたいは俯き、拳を握りしめた。
「……あたいがまだ駆け出しだった頃、一度死にかけたことがあってな。その時、庇ってくれたベテランの盾役がいたんだ。あたいと同じくらい小柄なドワーフの女でよ」
振り下ろされる巨大な牙。己の無力さへの絶望。そして、目の前に割り込んできた小さな、けれど何よりも大きく見えた背中。あの日の光景は、今でも鮮明に瞼の裏に焼き付いている。
「引退する時、その人に言われたんだよ。『いつか、お前と同じような駆け出しのために、盾になってやれ』ってな」
声が、僅かに震えた。
「誰かがこの子らの盾にならなきゃならねえ。今は、それがあたいなんだよ」
目の縁に、じわりと涙が滲む。
あの人との約束を果たすため、あたい自身が選んだ道だ。それは、あの人から受け継いだ、もう一枚の盾のようなものだった。
「……なのに、その盾が壊れかけてるだなんて、あの子らには死んでも言えねえ」
しばらくの沈黙の後、トウヤは静かに口を開いた。
「事情は分かりました。……見せてください。今すぐ、正確な数値を取ります」
その言葉で我に返り、あたいは慌てて片手を突き出した。
「あ? ちょ、待て待て。悪いが、あたいには……金が、ねえんだよ。Cランクの実入りなんて雀の涙だ。装備の誂えなんて、とてもじゃねえが……」
「対価の話は後です」
トウヤの声に、迷いは一切なかった。
「今のあなたに必要なのは治療で、支払い能力の証明ではありません」
「は……?」
「……とはいえ、タダにするつもりもありません。依頼報酬からの分割で構いません。まず、壊れる前に直しましょう」
拍子抜けしたあたいは、思わず苦笑を漏らした。
「……お前、変わった仕立て屋だな」
○
「では、奥へ」
カウンターの脇、分厚い布地で仕切られた小部屋へと促される。ゴブリンの群れに突っ込む方がまだ気楽だとさえ思えるほど、あたいの心臓は妙な具合に脈打っていた。
「上だけでいいんだろ? さっさと済ませちまってくれ」
包帯をほどき、鎧下の袖を捲り上げる。肩さえ晒せば、それで済む話だ。そう高を括っていた。
だが、トウヤは静かに首を振った。
「それでは肩甲骨全体の可動が見えません。上衣は、すべて脱いでください」
「は……? 全部って……」
戦場の荒くれ者どもの前で着替えを恥じたことなど、これまで一度もなかった。なのに、この静まり返った密室で値踏みするような視線に晒されるのは、まるで勝手が違う。
「わ、わかった」
震える指先で、盾帯の留め具を外し、続けて革の胸当てを留める金具を外していく。カチャリ、カチャリ、と乾いた音が鳴るたび、心臓が跳ねた。最後に、汗と土埃に汚れたインナーの裾に手を掛ける。
躊躇いを断ち切るようにそれを頭から引き抜くと、ひんやりとした室内の空気が、剥き出しになった素肌をひたりと撫でた。陽に焼けた肌のあちこちに刻まれた古い傷痕が、ランプの灯りに淡く浮かび上がる。戦って生きてきた証だ。それを見られることに、今更ながら妙な居心地の悪さを覚えた。
「……っ」
咄嗟に両腕を交差させ、慎ましやかな胸元を隠すように身をすくめる。厳つい面構えに似合わず、頬どころか耳の先まで燃えるような熱がせり上がってくるのが自分でもわかった。
「……随分と密度の高い筋肉ですね。この小柄な身体に、よくこれだけの馬鹿力を詰め込んだものだ」
感嘆とも観察ともつかない声に、あたいはびくりと肩を震わせた。値踏みするようなその視線は、しかし劣情とは無縁の、純粋な職人のそれだった。
トウヤは無言のまま首から下げたメジャーへと手を掛けると、迷いのない足取りであたいの背後へと回り込んでくる。
「……っ、ま、待て。近い、近いって!」
「動かないでください。正確な数値が取れません」
有無を言わせぬ響きに、あたいの抗う気力はとうに萎えていた。
「そ、そうは言ってもよぉ……」
シュルリ、と乾いた音を立てて、メジャーが引き出される。冷たい帯状の感触が、汗ばんだ肩口をつうっと這い上がってきた。
「ひゃ……っ」
思わず変な声が漏れる。剥き出しの二の腕にぶわりと鳥肌が立った。
だがトウヤはそれを気にする素振りも見せず、メジャーを再び首元へと戻すと、今度は己の指先を伸ばしてきた。
汗ばんだ右の肩甲骨の輪郭を、トウヤの指先がそっとなぞる。皮膚のすぐ下で軋む骨の形を確かめるように、ゆっくりと、しかし迷いなく――冷たい指先が、汗ばんだ肌をそっとなぞる。
たったそれだけの感触に、背筋を電流じみたものが駆け上がった。反射的に肩を跳ねさせそうになるのを、あたいは奥歯を噛んで堪える。
(な……なんだ、この感触は……。刃物や拳ならいくらでも受け止めてきたってのに、こんな、指先一本にこうも動揺するなんて……)
戦場で幾度となく修羅場を潜り抜けてきたという自負がある。なのに、たかが指の腹で骨の形を確かめられているだけで、心臓が早鐘みたいにうるさく騒ぎ出す。狭いフィッティングルームには、ランプの仄かな灯りと衣擦れの音、それにあたい自身の乱れた呼吸だけが満ちていた。分厚いカーテン一枚隔てた向こうでは、いつもと変わらない職人街の昼下がりが続いているはずなのに、この小部屋の中だけ、時間の流れ方がおかしくなったみたいだった。
多分、厳つい面構えがおかしなことになっている。
トウヤの指は、しかしそんなあたいの動揺など知らぬ顔で、肩甲骨の輪郭から僧帽筋、三角筋の稜線へと、丁寧に、確かめるように辿っていく。冷たい指先が汗ばんだ皮膚をなぞるたび、うなじのあたりがぞわりと粟立った。
「……なるほど。肩甲骨の可動域そのものは、悪くありません。やはり、この筋肉の付き方は――」
言葉を切り、僧帽筋から三角筋にかけての稜線を、確かめるようにもう一度なぞる指先。
「ハーフフットの標準的な筋量から、明らかに逸脱している。この筋密度は、人間の熟練戦士のそれに匹敵する、いや、部位によってはそれ以上ですね」
「あ? そりゃ、まあ……。ちっこい図体で舐められねえように、人一倍鍛えてきたからな」
虚勢を張るように鼻を鳴らしてはみたものの、声は情けないくらいに上ずっていた。
「その努力の方向性は正しかった。……ですが、皮肉なことに、その常軌を逸した筋力こそが、あなたの肩を確実に壊していく原因の一つになっています」
「は……? どういうことだよ」
トウヤはようやく指を離すと、代わりに壁際に立てかけていたあたいの大盾へと歩み寄った。無造作に握りの部分を確かめる仕草には、迷いも遠慮もない。
「その大盾、握りの直径を測らせていただきましたが……これは間違いなく、人間の成人男性の手のひらを基準に作られた規格品です。ハーフフットの手には、明らかに大きすぎる」
「そりゃ、ギルド支給の量産品だからな。ハーフフット用の特注なんて、贅沢言ってられねえよ」
「本来なら、その握りの大きさだけで、まともに盾を制御できないはずなんです。……なのに、あなたはそれを、力任せに捻じ伏せて使っている」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてはいません。事実を言っているだけです」
そっけない返しに、あたいは思わず言葉を詰まらせた。
「握りが合わない分を、握力と前腕の筋力で無理やり補っている。だから衝撃を受けるたび、その負荷のすべてが肩関節に集中する。あなたの規格外の膂力がなければ、とうの昔に盾ごと腕を弾き飛ばされていたでしょうね」
「……つまり、あたいが人並み外れて力持ちだったせいで、逆に肩をやってた、ってことか」
複雑な思いを抱えながら、絞り出すように呟く。
「端的に言えば、そうです」
「……皮肉な話だな」
(グルダの婆さんも、そういえば言ってたな。「馬鹿力に頼る戦い方は、いつか自分の身体を裏切る」って。あの時は、ただの説教だと思って聞き流してたが……)
かつての恩人の声が、耳の奥で不意によみがえる。あの人はきっと、こうなることをとうに見越していたのだろう。
「もう一度、盾を構えてみてください。……ああ、そのまま、衝撃を受け止める姿勢まで。動きを見ながら測ります」
「お、おう……」
腕組みを解き、慌てて壁際の大盾を抱え直す。冷たい金属の縁が、剥き出しの二の腕に触れた。裸のままの上半身で得物を構えるという、これまで一度も経験したことのない格好に、頬の熱がさらに上がった気がする。
トウヤはその周囲を回り込むようにぐるりと観察し、時折メジャーを肩や肘に当てていく。ひんやりとした帯が汗ばんだ肌に触れるたび、びくりと肩が震えた。息を止めているつもりはないのに、いつの間にか呼吸が浅くなっている自分に気づく。
「……な、なあ。これ、あとどんくらいかかるんだ」
「まだ半分も終わっていません。動かないでください」
「はんっ……。お前、意外と容赦ねえな……」
「容赦する理由がありません。正確な数値が、あなたの肩を守ります」
その言葉に、あたいはぐうの音も出ずに黙り込むしかなかった。理不尽さへの苛立ちよりも、迷いのないその物言いに、毒気を抜かれてしまう。
しばらくの沈黙の後、トウヤの声が静かに響いた。
「……肩幅、上腕周径、握力の左右差、可動域……採寸完了です」
「や、やっと終わったか……」
詰めていた息を吐き出すと同時に、強張っていた肩からどっと力が抜ける。今更改めて隠しても意味あるのかと思いながら、両腕で胸元を覆いながら、あたいは思わず安堵のため息を漏らした。
「少々お待ちを。すぐに仕立てます」
そう言い残し、トウヤは踵を返すと、迷いのない足取りで工房の作業台へと向かっていった。
○
一人残されたあたいは、脱ぎ捨てていたインナーを、汗の湿り気も気にせず慌てて頭から被り直した。人心地つく、というにはまだ早い。薄い布越しでも、まだ鼓動が治まりきっていないのがわかる。
カーテンの隙間から、ぼんやりと作業台に向かうトウヤの背中を眺める。
選び出されていくのは、透き通るような不思議な光沢を放つ伸縮性の繊維帯と、薄いが妙に頑丈そうな革紐だった。無駄のない手つきで、それらが黙々と組み上げられていく。口を挟む隙もない、迷いのない横顔だった。
(……あの目、グルダの婆さんが皮を鞣してた時の目と、ちっと似てるな。無駄口叩かねえで、ひたすら手元だけ見てる、あの目)
工房の隅、革の匂いが染みついた小屋で、いつも黙々と手を動かしていた恩人の背中がふと重なる。
程なくして、トウヤが戻ってきた。
「できました。まずグリップから。……握ってみてください」
差し出された革紐を、あたいは訝しみながらも大盾の握りへと受け取る。トウヤの手が数回巻きつけただけで、握りの太さが目に見えて変わっていった。
「……お、おお?」
試しに握ってみる。これまでどこか余っていた掌の感触が、ぴたりと吸い付くように馴染んだ。
「嘘だろ、こんな一瞬で……。今まで、微妙に力の逃げてた感じが……ねえ」
「次はこちらを」
差し出されたのは、薄手の布地で仕立てられた、見慣れない形の支具だった。肩から脇腹にかけて沿うような曲線を描き、背中で留めるための金具がついている。
「……こいつを、着るのか」
「ええ。上のものは、また脱いでください」
「またかよ……」
さっき着たばかりのインナーを、あたいは渋々と再び頭から抜いた。ひんやりとした店内の空気が、火照った素肌を静かに撫でていく。一度隠したはずの胸元を、あたいは咄嗟に片腕で覆い隠した。
(……なんだって、あたいばっかり何回も脱ぐ羽目になるんだよ)
内心で悪態をつきながらも、逆らう気力はとうに残っていない。トウヤの手から支具を受け取り、袖を通すように腕を潜らせていく。
薄い布地が肌を滑る感触に、思わず息を呑んだ。ひやりと冷たいはずなのに、触れた端からじんわりと体温に馴染んでいくような、不思議な手触りだった。
「後ろを向いてください。留め具を締めます」
言われるがまま背を向けると、トウヤの指先が背筋に沿って、つうっと這い上がってくる。
「……っ」
くすぐったさとも違う、妙な感覚に肩が小さく跳ねた。カチリ、カチリ、と乾いた音が連なるたび、背中の生地がぴたりと肌に吸い付いていくのがわかる。心臓の音が、自分の耳にまで届きそうなくらい大きく鳴っていた。
留め具が最後まで締め終わった、その瞬間だった。
「……っ」
丸まっていたはずの背筋が、見えない手で優しく引き上げられるように、すうっと伸びる。ずっと詰まっていた右肩の奥が、やんわりと、しかし確実に、正しい位置へと引き戻される感覚があった。
「盾を構えてみてください。……いつもの、受け止める姿勢まで」
言われるがまま、あたいは壁に立てかけていた大盾を抱え直した。
トウヤが正面から盾に衝撃を加える。
「……は?」
「どうです」
「痛くない……いや、それだけじゃねえ。今の衝撃、地面までまっすぐ抜けてった感じがした……。今までは、絶対に肩のどっかで引っかかってたのに……」
信じられない思いで、何度も肩を回してみる。ガコン、と大盾を打ち鳴らしてみても、あの焼けるような痛みはどこにもない。代わりに、じんわりと熱いものが目の奥にこみ上げてくるのを感じた。
「……これなら。これなら、あたい、ちゃんと”盾”になれるのか……。グルダの婆さんに、胸張って報告できるのか……」
震える声で呟くと、堪えきれなかった涙が一筋、頬を伝う。
「グルダさん、というのは?」
「あ……いや。あたいの、恩人だ。今度、ゆっくり話してやるよ」
涙を拭いながらも、あたいの顔にはこれまでにない晴れやかさが浮かんでいた。
「それは楽しみにしています。……ちなみに、対価の分割払いについてですが」
「うっ……そ、それは追々……!」
現実的な一言に、湿っぽい空気があっさりと霧散する。この男には、本当に容赦がない。
○
数日後。
以前とは別の、より深部にあるゴブリンの巣。ホブゴブリンの目撃情報を受けての、追加討伐依頼だった。
奥へ進むほどに湿った臭いと闇のが濃さを増していく。
その闇の奥から、低く唸るような咆哮が響く。姿を現したのは、通常のゴブリンよりも二回りは大きな体躯を誇るホブゴブリンだった。手にした棍棒は、以前あたいの肩を軋ませたものよりも遥かに重く、太い。
「ひっ……!」
恐怖のあまり足をもつれさせた見習いの少年に向け、ホブゴブリンの棍棒が大きく振り上げられる。
「間に合わねえ……!」
リーダーの叫びが、坑道の壁に反響した。
(今度は、絶対に――)
考えるより先に、あたいの足はもう地を蹴っていた。全体重を乗せ、大盾を叩き込むように構える。
ガギィィンッ!
金属の咆哮とともに、棍棒の一撃が盾の中心を捉えた。
以前なら、この衝撃で右肩が抜け、握力が緩み、体勢が崩れていたはずだった。だが、今は違う。
衝撃は、肩の一点に留まることなく、腕から肩、そして踏みしめた両足を通じて、まるで大地そのものへと流れ落ちていく。痛みはどこにもない。ただ、確かな手応えだけがそこにあった。
「……もらった」
がら空きになったホブゴブリンの脚へ、あたいは低い体勢から盾の縁を叩き込む。体勢を崩した巨体へ、駆けつけたリーダーの剣が容赦なく突き刺さり、とどめを刺した。
ズシン、と巨体が地に沈む音が響く。
「オ、オルガさん……今の、受け止めただけじゃなくて、押し返してませんでした……?」
見習いの声が、驚愕に上ずっていた。
「オルガ……お前、いつからそんなに肩、強くなったんだ」
リーダーの問いに、あたいはにやりと笑って肩をすくめてみせた。
「さあな。……ま、いい防具屋を見つけただけだ」
(見てるか、グルダの婆さん。あたいはちゃんと、この子らの盾になれてるぞ)
胸の奥で静かに呟いた言葉は、誰の耳にも届くことなく、地下の暗闇へと静かに溶けていった。
○
数週間後、トウヤの店。
いつもより幾分か堂々とした足取りで、あたいは店の扉を開けた。カランと軽やかな音を立てる鈴の音さえ、心なしか弾んで聞こえる。
「トウヤ! 聞いてくれ。この間の討伐、ホブゴブリンの一撃、真正面から受け止めてよ……いや、押し返しちまったんだ!」
「それは何よりです」
カウンターの奥で作業の手を止めぬまま、トウヤは相変わらず淡々と応じる。
「リーダーの奴も、目ん玉ひん剥いてたぜ。あの無口な野郎が、”お前、頼りになるな”って、面と向かって言いやがった」
懐から巾着袋を取り出し、あたいはそれをカウンターにそっと置いた。
「それと……これ、先月分の分割払いだ。少ねえが、受け取ってくれ」
「確かに。……お約束通りですね」
「当たり前だろ。あたいは筋を通す女だ」
胸を張って言い放ってから、あたいは少しだけ声を落とした。
「……あとよ。今度、あたいの恩人のグルダの婆さんに、一度会ってやってくれねえか。多分、お前のことも気に入ると思うぜ」
「機会があれば、ぜひ」
短い返事だったが、それで十分だった。あたいは照れくさそうに鼻の下をこすりながら、じんわりと込み上げてくるものを堪える。
「……なんつうか、あたい、ようやく大手を振ってあの人に会えるよ。おかげさんでな」
再びじわりと瞳が潤むのを感じながら、あたいはそっと顔を伏せた。せっかく決まった格好が、また台無しになるところだった。
だが、トウヤは表情を変えることなく、いつも通りの淡々とした声で次の一言を投げかけてくる。
「肩の調子、あれから変化はありませんか? 念のため、次回の再採寸の日取りを決めておきましょう」
「……っ、そ、それはまた今度でいい! 今日はただの報告だ、報告!」
ビクッと肩を跳ねさせ、あたいは慌てて言葉を返した。あの密室でのやり取りを思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
そそくさと会計を済ませ、逃げるように店を後にした。
店を出た後も、しばらく顔の熱は引かなかった。夜風に頬を撫でられながら、あたいは無意識のうちに口元を緩ませる。
(……また今度、面倒見てもらうか)
そんな軽口を、誰にともなく胸の内で呟いた。
コメント
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読ませていただきました……第5話、とてもよかったです。 盾役オルガの「壊れかけの肩を隠してでも、仲間を守りたい」という覚悟と、それを職人トウヤが的確に見透かして支える距離感が、本当に丁寧に描かれていましたね。採寸シーンの、あの裸身を晒す居心地の悪さと、指先がなぞるたびに心臓が跳ねる感じ——戦場ではどんなことにも動じない彼女が、あの小部屋ではこんなに揺れるんだという対比に胸を打たれました。ラストの盾がきちんと衝撃を受け止められた場面では、思わず息を呑みました。グルダの婆さんとの約束も叶えられそうで、じんわり来ました…。 トウヤの「容赦のなさ」も、職人としての責任感の裏返しで、むしろ信頼できるなと感じました。続きがますます楽しみです。