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Lになるかどうか──その問いは、ずっと脳のどこかにこびりついていた。
答えが出せないまま、僕は黙々と部屋の掃除をしていた。
理由は単純。
もしLになるのなら、部屋を片付けている暇もないからだ。
それはつまり──僕が“日常”と呼んでいたものが、終わるということだ。
僕とBは、同じ部屋を使っている。
当時のワイミーズハウスは、来た順に部屋が割り振られていた。
No.1としてここに現れたのが僕で、No.2がBだった。
だから、僕たちは同室になった。ただそれだけの理由。
とはいえ、空間ははっきり分かれていた。
左半分が僕。右半分がB。
視線で線を引けるほど、境界は明瞭だった。
Bのテリトリーまで掃除機をかけると、埃はほとんど出なかった。
本棚はきっちり並び、机の上に無駄な物はない。床も整然と片付いていて、目につくゴミもない。
──まるで、誰も暮らしていないみたいだ。
「……綺麗好きだよな」
小さく呟いた声が、部屋の空気をすくって消えていった。
昔はもっと物が散らかっていた気がする。でも今は、“誰かが来るのを待っているみたいに整っている”。
──それに比べて、僕の方は。
白紙の譜面。
書きかけの楽譜。
音のかけらたちが床に散らばっている。
落書きのようなメロディ。何度も同じフレーズを書き直した痕跡。
足の踏み場さえない。
いつか、ネットにあげようと思って描いた楽譜が、床にバラ撒かれていた。
……全部、要らないものだった。
そのひとつひとつを拾い上げて、もう一度見る。
どれも、未完成のまま。
音になっていない。
「これは……要らないか」
ゴミ袋に放り込む。
「これも」
ひとつずつ、過去を手放していくように。
楽譜を捨てるのは、音を捨てるのと同じだった。
でも、Lになるということは、きっと──もう音を奏でられなくなるということなんだ。
それは──寂しかった。
誰にも言えないほど、声にも出せないほど、じわじわと胸を締めつける寂しさ。
楽譜をひとつ、またひとつと手放すたびに、指の隙間から何かが抜け落ちていく気がした。
音を失うというのは、音が出せなくなることじゃない。
“僕を出してもいいと思えなくなる”ことなんだ。
──Lになるとは、そういうことだった。
ひとりで耐えなきゃいけない。
誰かに縋っちゃいけない。
誰かに音を聴いてもらうことも、もう許されない。
寂しいけれど、これが選んだ道なのだと、僕は自分に言い聞かせた。
言い聞かせなければ、きっとまた音楽にすがってしまうから。
「……やりたくないな」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも聞かれない部屋の隅に吸い込まれていった。
ゴミ袋はすでに膨らんでいた。
そこには、譜面の断片、小さい頃に抱いて眠ったぬいぐるみ、着古した洋服、小さい頃に描いた夢の景色。──僕が僕として生きた証が詰まっている。
「……」
でも。
もし、Lにならなかったら──
僕は、どこへ行くんだろうか。
Aは、また一枚、譜面を手に取った。そこには、まだペンの跡が新しい、未完の旋律がひとつだけ、残っていた。
すると──
「ちょっと……」
背後から声がした。
見れば、開けっ放しだった扉にもたれかかるようにして、Cがこちらを睨んでいる。
感情を押し殺したような瞳。その奥にある怒りだけが、はっきりと見えた。
「……どうしたの? C」
僕が声をかけると、Cは間髪入れずに問い返す。
「Bは?」
「いないよ。たぶん中庭の方じゃないかな。……“弟達”と遊んでるよ」
そう答えた次の瞬間だった。
Cは無言のまま足を踏み入れた。
断りもなく。
そして、そのまま扉を閉め、鍵を──カチャリ、とかけた。
「えっ」
その音は、小さくても無視できないほど、部屋の空気を変えた。
僕は手の中の譜面からそっと視線を上げた。
そこには、何かを決めたような、冷たい炎を宿したCの顔があった。
「どうして、あんたがL候補なの?」
Cの言葉は、睨みつけるような声だった。皮肉でも嫌味でもない。ただ、理屈じゃ飲み込めない怒りがそこにあった。
僕は、少しだけ間を置いて、淡々と答える。
「……僕にも、それは分からないよ」
ごく当たり前のように言ったつもりだった。
けれど、Cはますます眉間に皺を寄せた。
「分からない? 本当に? 本当に何も分からないの?」
「本当に、知らないよ」
僕は肩をすくめた。
Cの感情に、過剰に触れたくなかった。
「でも、噂は聞いたわ」
「噂……?」
また……?
「“Aが、L候補になった”って。そこかしこで囁かれてた」
“L候補になった”。
──断定されている。
Cの口ぶりは明らかだった。
可能性じゃない、憶測でもない。「Aがなる」と決まったかのように、噂は施設中に広がっている。
(……誰がこの噂を……)
浮かぶのはただひとり。
──B。
っ、余計なことを……。
Lに関する情報は、それだけで重い。ましてや「誰が後継者になるか」なんて話が流れてしまえば、外に漏れるリスクだってある。
でも、Bはおそらく“リスクを分かったうえで”やっている。
悪質だ。
Lに関することは、口にしてはいけない。
誰がLの正体を知っているか、そんな話題すら、タブーだった。
“名前を出してはいけない”。
“憶測を口にするな”。
“探るな”。
それがこの場所でLを知るものの最低限のルールであり、誇りであり、秩序だったのに、今──その名前が、当たり前のように囁かれている。
AがLになる、と。
──なぜ今になって、あの名前を解禁した?
──なぜBは、その境界線を踏み越えた?
わざとだ。わざとに決まってる。
あいつは、“燃やすために”火をつける。
秩序がどうなろうと関係ない。炎に照らされる人間の“顔”が見たいだけ。
(……勝手なことばっかり……)
──次の瞬間、Cの声が重なった。
「まさか、本当に……Lになるつもりじゃないでしょうね」
「僕だって……やりたくないよ」
正直な言葉だった。
目を逸らさず、Cの怒気を含んだ瞳を受け止めながら。
「でも──Bがやらないなら、僕がやるしかないだろ」
Cの眉がぴくりと動いた。
その反応は、怒りというより“呆れ”に近かった。
「やりたくないのに、やるの?」
「……」
「なんで、そういう中途半端なこと言うのよ。やりたいのか、やりたくないのか、はっきりしなさいよ!」
声を荒げるCの言葉は、鋭く、刺さる。
「……」
本当は──やりたくなんてない。
けれど、「誰かがやらなきゃいけない」と言われたら、僕はきっと、また手を挙げてしまう。
そういう役割を、ずっとそうして生きてきた。望まれてもいないのに、勝手に「僕がやる」って、口にしてしまう。
──誰かが苦しむなら、僕が代わりに苦しめばいい。
──誰かが泣くなら、僕が泣けばいい。
──誰かが壊れるくらいなら、僕が先に壊われればいい。
やりたくなくても、嫌でも、痛くても、怖くても。そうやって、“誰かの代わり”でしか、自分の存在を許せなかった。
だから今もまた、そうするしかないと思っていた。自分がLを名乗るなんて、到底ふさわしくないと思いながら──それでも、「他にいないから」と言われたら、引き受けてしまうしかない。
そういうふうに、ずっと“育てられて”きたから。
「……やっぱり、あんたって、ずるい」
Cは吐き捨てるように言った。怒りだけじゃない。悔しさも、羨望も、いくつもの感情が絡み合っている。
「──やりたくないなら、私に譲ってよ!Lの座を」
唐突に声を張り、Cは一歩、僕に詰め寄った。
「私の方が適任よ」
真っ直ぐに僕を見据えて、言い切ったその姿は、自分がずっとその座を狙っていたかのようだった。
「……それは、無理だ。僕は──君がLになることには、賛成できない」
Cの眉がぴくりと跳ねる。
「……何よ、それ。私じゃ不満だって言うの?」
「違う。君に才能がないとか、適任じゃないとか、そういう話じゃない。むしろ──君には、なってほしくないんだ」
「……なんでよ」
Cが詰め寄ってくる。足音が床を叩くたび、感情の温度が上がっていくのが分かる。
「──君が『女の子』だからさ」
一瞬でCの顔に血がのぼるのが分かった。
目が見開かれ、頬が真っ赤に染まる。
「はあッ!? それ、どういう意味よ!?」
「文字通りの意味だよ。君が女性であるというただそれだけで──Lという立場は、あまりに“代償が大きすぎる”」
「バカにしてるの!? 性別で判断してるわけ!?」
「──してるよ」
僕はハッキリと言った。
「Lになったら、“恋愛もできない。結婚もできない”。 “子どもを産むことも育てることも──たぶん、一生できない”」
Cの怒気はさらに膨れあがった。
だが、それは“的外れな侮辱”ではなかったからこそ、彼女を強く揺さぶった。
「Lは、“若い女性”がなるには、あまりに苛酷な役だ」
「……ッ……」
Cは唖然として言葉を詰まらせた。
その顔は怒りだけじゃない。困惑と否定、そして理解しはじめている気配もあった。
「君が本来、手に入れられるはずの“幸せ”を、全部、捨てることになる」
僕は続ける。
「君に、そういう人生を歩んでほしくない。──“Lになること以外の幸せ”を、選んでほしいんだ」
その瞬間、Cは噛みつくように睨み上げてきた。
「……私は、子どもなんていらない!結婚も──そんなの、私には必要ない! Lになることの方が、ずっと、ずっと意味がある……!」
強い言葉だった。けれど、それは自分自身に言い聞かせているようで。僕は、その必死さに胸が締めつけられるようだった。
「……そんなふうに、自分を犠牲にしないで……。君が捨てようとしてる未来は──君にしか、手に入れられないものなんだ」
目をそらさずに、まっすぐに言った。
「Lになることが、ここで育った者たちにとっての“幸せ”だなんて、僕は一度も思ったことがない」
言葉が落ちる。
空気が、少しだけ冷たくなる。
「むしろ──“誰もLにならなくて済む世界があるなら、それが一番なんだ”」
Cの拳が震えていた。
何かを言い返したそうに唇が開いて、けれど、何も出てこない。
それでも一言、搾り出すように呟いた。
「……あんたって……ほんと、ずるい」
言い終わると、くるりと背を向けた。
そして、ドアの方へ歩き出す。
鍵を、がちゃりと回す手が、ほんの一瞬、止まった。
「もういい……──大嫌い」
そう呟いて、Cはそのまま出ていった。
閉まりかけた扉が、微かに揺れる。
ほんの少し、譜面を持つ手の力が抜けた。
Cのあの瞳に、自分はどんなふうに映っていたのだろうか──
「……僕だって、君のこと……大事なのに」
その言葉は、誰にも届かないまま、消えた。
開け放たれた窓から入る風が、一枚だけ、床に落ちた譜面を揺らした。未完の旋律は、まだそこで、続きを待っている。筆を取るには、もう少しだけ時間がかかりそうだった。
僕は、拾い上がると、机の引き出しに譜面をしまった。その先に待っているのが、“L”であっても、なくても。
明日が来る限り、この旋律は──終われない。