次の朝、私は極力平静を装い社長に今朝の会議で必要な書類を持って社長室を訪れた。
「社長、おはようございます。こちらに今日の会議で必要な書類と、これは先日ご依頼のあった長谷川コーポレーションの資料です」
社長は嬉しそうな何かふっ切れたような笑顔を私に向けた。
「ありがとう、蒼」
私は思わず彼を訝しげに見た。
昨日の今日で一体何を考えているかさっぱりわからない。足早に社長室から出ようとすると、いきなり社長から腕を掴まれ壁に押し付けられた。
「なっ……!?ちょっといきなり何して……!」
私は彼を思い切り睨んだ。
「もういい加減にしてください。私に構わないでと言ったでしょう」
私が必死に逃げようとしているのに、社長はそんな私を面白そうに見て笑った。
「蒼、もう逃さないよ」
「逃さないも何もこれ以上構わないでください。だいたいここは会社です。ちゃんと仕事をしてください」
思い切り腕を引いて彼を押しのけると、足早に社長室を出た。
「だからここじゃなくてちゃんとしたところで一度ゆっくり話がしたいと言っただろう」
社長は私の後を追って秘書室に入ってくる。そんな私達を五十嵐さんがはらはらしながら見ている。
「一体何を話すんですか?もし何か重要な話があるのでしたらここで今おっしゃってください」
私は振り返って社長を見上げた。五十嵐さんは必死に私たちの会話を聞いてないふりをしながらコーヒーを飲んでいる。
「そうか。わかった」
社長は静かに私を見下ろした。
「俺たち、付き合わないか?」
── な、何を言って……この人ふざけてるの!?
私は呆気にとられて社長を見つめた。後ろでは五十嵐さんがゴホゴホとコーヒーにむせて、慌てて席を立って部屋を出て行くのが見えた。
「どうして私が社長と付き合うんですか。結城さんはどうされるんですか?」
「どこから聞いたのか知らないが、彼女とは随分昔に付き合った事があるだけだ。今はなんの関係もない」
「なんの関係もない人とは一緒に出張に行ったりしません」
社長はくっくっと笑った。
「一体、どこからその情報を仕入れたんだ?KS IT Solutionsの奴らか?」
「そんなことはどうでもいいんです。とにかく私は社長とは付き合う気はありません」
「どうして?」
「どうしてって……それは……」
水樹さんが言っていた社長の噂が頭の隅から離れず、なかなか答えられない。
「俺も32だ。過去に付き合った女くらい何人かいる。それとも蒼は今まで誰とも付き合ったことがない童貞男じゃないとダメなのか?それじゃ男が処女じゃないと付き合えないと言っているのと同じだぞ」
「そんなことを言ってるんじゃないんです!!」
私は苛立って思わず叫んだ。
「大体私と付き合いたいって言ってますけど、本当に私の事が好きなんですか?」
「もちろん好きだよ」
社長はニコリと微笑んだ。
「蒼は俺好みのタイプの美女だ」
そう言って彼は私の顔にゆっくりと視線を落とすとその視線を徐々に下げて、胸の辺りで一度止まると、さらに下げて足元まで見た。
「本当に最低です!!」
腕組みをしながら彼を睨んだ。
「どうして?女の人だって一緒だろ。イケメンだの金持ちだの身長が高いほうがいいだの皆そうやって選んでるじゃないか。実際俺に近寄ってくるのはそういう女ばかりだぞ」
「私はそんな理由で社長を好きなんじゃありません!」
── ……ん?ちょっと待って……
私は失言に気付き慌てて訂正しようとした。
「あの、さっきのはその何ていうか……」
「蒼……、君は俺好みの容姿をしてるけど、勿論それだけじゃない。君の心優しい性格や真面目なところ、気配りできるところとか、自分本位じゃないところとか好きなところは沢山ある。もっと蒼の事が知りたいんだ。友達なんて表面だけじゃなくてもっと深く知りたい。俺と付き合ってみないか?」
社長は近寄ると両手で私の顔を優しく包み込んだ。
「でも……」
彼を今でもこんなに好きでちょっとしたことでもすごく傷付くのに、付き合ったりしたら彼に自分の命を握られるようなものだ。きっと彼は私の心を生かすことも殺すこともできる。
「蒼、俺を見て」
社長の優しい声に導かれ、私は彼と視線を合わせた。彼のダークブラウンの瞳が優しく揺らめいて、私はその瞳に吸い込まれる。
「蒼の事も知りたいけど、俺の事も蒼に知ってほしい。俺の噂をなんて聞いてるか知らないが、確かにあまり自慢できないものもある。でもこう見えても誰かと付き合ってる時は一筋なんだ」
私は思わず笑ってしまった。
「何だかあまり説得力がないですね」
社長は自嘲気味に少し目を伏せて笑った。
「実は友達にも結構面倒臭い奴だとか色々言われてて完璧じゃない所は山ほどある。だけど悪い人間じゃないと思ってる。いい所もたくさんある。そう言う所も全部含めて俺と言う人間を知ってほしい。蒼、俺と付き合ってほしい」
社長は真剣な眼差しで私を見つめた。しかしその瞳の奥には不安が見え隠れしていて、いつも自信たっぷりの彼がそんな表情をするのを初めて見た。
確かに彼は完璧ではない所があるかもしれないがそれは私も同じだ。だけど社長は基本的に真面目で優しく、何より私の心の奥まで必死に手を伸ばし、黒木部長や一条専務の様な男から救ってくれた。彼がいい人なのは入社して以来ずっと見ていて本当は自分でもよくわかっている。
もし私が誰かと付き合うとしたら……もしこの臆病な心をさらけ出してまでも一緒になりたいと思う相手がいるとすれば、社長の他に誰もいない。
「……わ、わかりました。私、社長と付き合って── 」
まだ全て話し終わらないうちに、社長は私を強く抱きしめた。
「絶対に大切にする」
彼の温かい体温と匂いが私を包み込む。いつか風邪をひいて彼のベッドで抱きしめられ眠りに落ちた時と同じ様に、とても安心して心が落ち着く。
しばらく私を抱きしめていた社長はやがて体を起こすと額をコツンと私の額にくっつけた。彼の優しい瞳が私を見つめて少し悪戯っぽく微笑んだ。
「やっと捕まえた」
そう言うと、彼は私の唇を塞いで優しく愛おしむようにキスをした。
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