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柴チヒ♀落ち幽チヒ♀(忘レ者を探して1)
たまに夢に見る光景がある。
自分はどこかの縁日に遊びに来ていて、この手を誰かがしっかりと握っていてくれる。
「チヒロちゃん、何食べる?いちご飴なんてどうや」
男の人だ。金の髪の美しい、男の人。
食べる、と答えたのかただただうなずいたのかわからない。けれど男の人は嬉しそうに笑ってなら買うてくるな、と言ってこの手を離した。
その瞬間だった。世界が暗転したのは。
「チヒロちゃん!」
男の人の悲壮な声が聞こえて、そこで夢はおしまいを告げる。
短い夢だ。けれどそれを見た朝は頭が痛い。
どうして自分はあれが縁日というものだと知っているのだろう。自分はこの屋敷から出たことなんて無いはずなのに。
あの人は誰なんだろう。とても優しい声をしていた。千鉱のことが可愛くて仕方ないという声だった。
もっとあの人のことが知りたいと思うのに、夢はそれ以上のことを教えてくれない。
一度この屋敷の主に問うたところ、酷く折檻をされたのでそれ以来聞いてはいけないことになっている。
この屋敷の主は、幽という男だ。怖気がするような美貌の持ち主で、なんの仕事をしているのか千鉱は知らない。
幽は千鉱は病気なのだという。だからこの屋敷で静養しているのだと。
確かに千鉱は毎日数種類の薬を朝晩に飲んでいる。けれどそれがなんの薬なのか、自分はなんの病気なのかそれは教えてもらえない。
家族はどうしているのか、と問えば家族は俺だけだ、と幽は言う。だから支え合って生きていかねばならないのだと。
けれど千鉱は本能的にそれが嘘だと知っていた。証拠などなにもないけれど、確信していた。
けれどそれを口にできるほどの勇気はなかった。幽は本気でそう言っているのが伝わってきたし、それを嘘だと指摘したときの幽の豹変が怖いのだ。
幽は普段は千鉱思いの優しい「兄」だ。けれどそれは些細なことですぐに一変する。
そのもう一面の幽が千鉱は怖かった。
千鉱には六歳より古い記憶がない。幽曰く階段から落ちて頭を打って記憶を失ったのだということだった。
その真偽はともかく、その一番古い記憶の頃から幽は千鉱の体を「検査」と称してまさぐった。十五歳になった今では口に出せないようなこともしている。
そして何よりおぞましいのは幽は毎夜千鉱の血を啜る。
幽の犬歯は千鉱よりわずかに長く尖っていて、それを千鉱の首筋に突き立てて血を啜るのだ。
不思議なことに噛み跡は一晩で消える。皮膚が突っ張ったり固くなったりすることもない。
千鉱は、幽が怖い。
けれどそれを表に出すことは許されない。幽は「ちょっと反抗的な妹」が好きなのだ。従順なだけの者には興味がない。
幽の好みから外れればこの屋敷から出ていけるのかと言うときっと違う。幽はきっと千鉱を斬り捨てるだろう。幽はそういう人間だ。
だから今日も千鉱は「幽が好きな千鉱」を演じ続ける。
生きていればきっと、いつかあの夢の人が助けに来てくれる。そう信じて。
「ぅ……」
またあの夢を見た。あの縁日の夢。頭が痛い。あの人はだれ。
痛い、痛い。誰か助けて。
「千鉱」
布団の中で丸まっていると枕元に気配を感じて視線だけ上げる。いつの間にか幽がいた。
「またあの夢を見たのか」
「……」
こくりとうなずくと、幽は優しく千鉱の前髪をかきあげて額にキスを落とした。
「待ってろ、いま香を焚いてやる」
「香は、いらない……」
「無理をするな。香を焚けばすぐ良くなる」
「……」
抵抗するのも辛くて黙っていると幽が手際よく枕元の香炉に香をセットしてマッチで火をつける。
燐の燃える微かな匂いが鼻をつき、やがて甘い香りが漂ってきた。
香の匂いを嗅ぐと、意識が朦朧としてくる。ぼうっとして、思考がまとまらなくなってくる。何もかも有耶無耶にされるのが嫌でこの香は好きじゃないのに。
「千鉱、お前は俺の大切な妹だ。辛い姿は見ていたくない」
幽も同じ香の匂いを嗅いでいるはずなのに彼には何も効いていないようだった。いつもこれが不思議でならない。
「だから早く忘れるんだ。余計なことは全部。ただ俺を見ていれば良い」
余計なことじゃない。あの夢はきっと自分にとってなにか大切な意味を孕んでいるのだ。
けれど香の匂いを嗅いでいるうちにだんだんそんなことどうでも良くなってくる。
「……」
体の力が抜けてくたりとする。幽はそんな千鉱の姿勢を整えて肩まで布団を被せた。
「一眠りしたらスッキリしている。おやすみ、千鉱」
もう一度額に唇が落ちてくるのを感じながら千鉱は眠りに落ちた。
もう、夢は見なかった。
「千鉱はまた?」
リビングに戻ってきた幽に声をかけたのは左目が白黒反転し、三つ編みを垂らした男だった。
「ああ。ああなると柴の執念を感じるな」
「香は足りてますかな?」
「あと少しあるが最近頻繁になってきた。追加を頼んでおいてくれ」
「畏まりました」
男は一礼するとリビングを出ていった。
幽は豪奢なソファに優雅に座るとしつこいものだ、と呟いた。
「早く忘れてしまえば良いものを」
しかし香が体に慣れてしまってきているのか最近千鉱があの夢を見る頻度は高い。
だがこれ以上効力を上げるとなると千鉱の精神を害しかねない。
あの崇高な精神を壊してはならない。
幽は、千鉱が自分のことを恐れていることを知っている。
それでもなお千鉱は気高くあろうとしている。それが幽にはとても愛おしかった。
だからこそ、その千鉱を悩ませる柴の影が腹立たしい。
いっそあの男を殺して千鉱の前にその首を転がしてやろうかとも思う。
けれどそれをしてしまえばそれこそ千鉱は壊れてしまうだろう。
ままならないものだ、と幽は独りごちた。