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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
新天地へ赴いてから、約一ヶ月が経過した。
本社とは勝手の違う仕事のやり方に戸惑い、急に上の立場として配属された重圧に胃を痛める日もあったけれど、幸いにも支社のアットホームな雰囲気と温かい人達に助けられ、なんとかうまくやれていた。
「朝比奈さん、書類チェックお願いします!」
「わかりました」
手渡された書類に目を落とそうとした時、目の前の女性社員が立ち去る気配を見せないことに気付いた。何か伝え忘れたことでもあるのかと顔を上げると、彼女は両手で口元を覆い、何やら感極まったような表情で私の手元を凝視している。
「朝比奈さんって右手の薬指に指輪されてるんですね」
指摘され、私は無意識に自分の右手を見つめると「ああ」と声を漏らした。
約束通り、あの男から贈られたリングは今も私の指で輝きを放っている。手を洗う時や、水を扱う家事をする時以外、片時も離さず身につけている。
「……遠距離になる前に、彼氏から貰った物なんです」
彼女は「やっぱり!」と目を輝かせて、この話に食いついて来た。
「遠距離恋愛大変そうですけど、指輪で繋がっているみたいなの素敵です…。喧嘩とかされますか?」
「ま、まあ……」
あはは、と力なく笑って誤魔化す。
現実は、彼女が夢見るような甘いものではない。ここ最近は言い合いばかりで物理的な距離があるから、むしろお互いにうるさく言う事が増えた。
昨日だって、ビデオ通話の切り際がそっけないだの何だの、いい大人が呆れるほどくだらないことで言い争ったばかり。
この間の喧嘩なんて、思い返すのも馬鹿馬鹿しいほどくだらない。
雅に夜電話してなんて言われたから、疲れている中、寝落ち寸前の意識を叩き起こしわざわざ掛けたのに『てめぇ掛けてくんのおせぇよ、何時だと思ってんだ』と、返ってきたのは労いとは程遠い言葉だった。
「仕方ないでしょ! さっきまで仕事で今やっとお風呂とか終わったの! 年上の大人の男なら毎日お疲れ様、頑張ってて偉いねとでも言ってみなさいよ!」
『俺にそんなん求めんな! そう言うのは玲みたいな男がやっとけばいいんだよ!』
『雅、お客さんの前だよ。うるさい』
電話の向こうで、玲くんの冷ややかな呆れ声が聞こえてくる。深夜零時半。雅はまだ勤務中で、店には客も残っている。
雅が連絡を寄越せと言う理由はわかっている。この間の土曜日に、最近は業務量が増えて、資料を頭に叩き込むために会社に残っているから、帰宅が二十三時を過ぎる、なんてそんな話を何気なくした時のことだ。
その話を聞いた雅が「女がそんな時間まで仕事して歩いて帰るとか正気?」と不機嫌な声を出していて、それから生存確認の為に電話をさせられている。
メッセージ一通で済む話だろうに、と思わなくはないけれど、それを口にして余計な火種を増やしたくない為、黙るのも大人だと自分に言い聞かせ、黙っておいた。
「というかあんた仕事中でしょ、戻りなさいよ」
『寂しくなってんじゃねぇかなって思って。そろそろ俺の声恋しかっただろ』
「この間も電話したじゃない。バカね」
呆れながらも頬が緩む。けれど、電話の奥から雅を呼ぶ女性客の艶っぽい声が聞こえ、現実に引き戻された。遠距離中の彼女が、このまま独占し続けていい時間ではない。
「バカじゃないの、私も明日仕事だしもうすぐ寝るわよ。あんたも飲みすぎないようにね」
『指輪、ちゃんと着けてんの?』
そして時々入るこの確認。
私は、すっかり指に馴染んだ右手の薬指をそっと眺める。
「……着けてるわよ」
『そ、それならいいわ。おやすみ』
ぶっきらぼうに告げられ、通話は切れた。切断音だけが、耳元に虚しく響く。
話している間はすぐ傍にいるような気がするのに、指先ひとつで、また現在の元の位置へ引き戻される。
あの店で過ごす時間も、家で笑い合っていた時間も、今はどれもここにはない。
「……一人暮らしってこんなに静かだったっけ」
点けっぱなしのテレビの中では、深夜のバラエティー番組が賑やかに笑い声を上げていたけれど、あいつがいた時の賑やかさまでにはならない。それが酷く寂しかった。
コメント
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読了しました。指輪を「着けてるわよ」と答える場面が切なくて、でも確かに彼がいるんだなと伝わってきて。最後の「一人暮らしってこんなに静かだったっけ」で、一気に寂しさが刺さりました。喧嘩しながらも繋がっていたい二人の距離感が丁寧に描かれていて、続きが気になります…!