イングランド、ベルグレービア。
潔世一はこの高層マンションのワンフロアで凪誠士郎と御影玲王という至高のアルファに軟禁されている。首輪や手錠こそ無いものの、潔を閉じ込めるためだけに仕立てられた鳥籠は二度と開くことはなく、潔はふたりの手のひらの上で生活を管理されたまま。
「じゃあ行ってくるな〜」
「今日もちゃんといい子にしててね、まあここからは出れないけど」
「‥‥うん、行ってらっしゃい」
出入り口のドアから一番遠い部屋でマンシャイン・Cのジャージを着て練習に向かう二人を見送って、潔は閉まるドアを何も言わずに眺めた。この小さなベッドルームから出ることを許されていないので、毎日このキングベッドから見送ることしか出来ない。首をぐるりと囲うように付けられた、まるで首輪のような鬱血痕の跡を指でなぞって潔は深い溜め息を吐いた。
「かいざー、元気かなあ‥‥?」
四隅に配置された監視カメラに拾われないように、小さな声で想いびとの名前を呼んだ。名前はミヒャエル・カイザー。潔世一の、初恋だった。最初はシュートボールを奪われたことや自分を揶揄ってくることへの苛立ちと憎しみしか無かったものの、サッカーに対する真摯な姿勢や質問をすると嫌味ながらも丁寧に教えてくれる優しさに惹かれ、気づいたら恋をするようになっていた。恋心を自覚してからは簡単で、転げ落ちるように底のない穴へと沈んでいくだけ。でもカイザーはこんな潔の恋心なんて露も知らないだろう。カイザーに少し触れた指先をぼうっと見てしまうことも、彼の一挙手一投足に目を奪われることも、ネスとの距離の近さに嫉妬するのだって___…全部、潔だけだ。
「なんて、アイツは俺のこと何とも思ってないだろうけどさ」
いやむしろいなくなって清々してるのか?と人知れず呟いて、ぼふ、と音を立ててマットレスに沈む。三人で寝れるようにと仕立てた特注のサイズのものは潔を簡単に受け止めていた。一度あの男のことを考えてしまうと思考は止まらず、必死に隠していた一度だけでも逢いたいという気持ちが零れ落ちそうになる。
「はは、俺のバカ‥‥逢いたくても、もう無理だっての‥‥」
まだ色濃く遺っている項の噛み跡は潔とあの二人の番関係を現すには充分で、この関係はアルファからしか解消することができない。もちろんあの二人はそんなことしないだろうから、潔はずっとここに縛り付けられるままだ。どれだけカイザーに逢いたくても、どれだけカイザーの番になりたくても、それは変わらない一つの真実。
「あんとき、すきって、言っとくべきだったかな‥‥?」
思い出すのは、ふたりでフィールドを駆けていた試合中。敵チームの悪質なファウルによって転けそうになった潔の腕を、カイザーの青薔薇のタトゥーが入った左手が掴んだ。いつもの人を馬鹿にしたような声とは違う、本当に慌てたような様子で自分の名前を呼んでくれたカイザー。目と目が合ったあの一瞬、本当に時間が止まったかと思った。あのときに、あのときに想いを伝えていれたなら。
「ふ、ふぅ、う‥‥」
手の甲を目に当てて溢れてくる涙を押さえようとしても、涙はそれ以上の量で押し寄せてくる。ラブストーリーとかハッピーエンドだとかはあの悪魔たちが跡形もなく消し去った。俺にはもう何も残ってない。こんな悪夢、早く覚めてほしかった。叶うなら、カイザーに指先で触れたい。あの薄い唇で、俺に愛を囁いてほしい。
「‥‥もしもこのドアに鍵が掛かっていなかったら!とか、そんなわけ‥‥」
雑に涙を拭って、一縷の望みを賭けて豪奢なドアノブに手を掛けた。この扉はあの二人が不在のときには一度も開いたことはなく、複数の南京錠で鍵をかけられていることも知っており、一度もドアが開いたことなんてなかった。だからこの行為に特段意味なんてものはなく、あくまでカイザーのことを頭から消したかったからしたことだった。
「‥‥‥‥え?」
そうなのに、そのはずなのに。普段ずっと閉ざされていたドアはすんなりとその姿を変化させてリビングの姿を見せた。潔のこのベッドルームと玲王と凪でしか構成されていなかった小さな世界は、途端にそのかたちを変える。
「まさか、まさかな?」
額に薄っすらと汗を浮かべて、足音を立てないように玄関へと向かった。潔が痛がるだろうから、と足枷や手錠などがされなかったのがここに来て潔に希望を持たせる要素の一つになるなんて、監禁された当時の潔は思いもしなかっただろう。
「っ、あいて、る‥‥‥!?!」
玄関の大きな扉にも鍵が掛かっていないようで、すんなりと開いた。周りにあの二人はおらず、見られていると言った感覚もない。外から射し込む、柔らかくてどこか優しさを感じる月の光は潔の脱出を祝福してくれているようだった。行くしか、ない。
「誠士郎も玲王もごめん。でも俺、やっぱりカイザーが好きだから」
これはあの二人が自分に仕掛けた罠だと、自分たちにどれぐらい傾倒しているのか確かめたいだけだと、心の冷静な部分では理解していた。でも、でも、もしも、彼らが何も気づいておらず、たまたま施錠するのを忘れているだけだとしたら?こんな千載一遇のチャンスをみすみす逃すような性格ではない。潔世一は、自分のチャンスのためならなんだって犠牲にできる。そういう生き方が正しいのだと、あの青い監獄で学んだのだから。
「は、っ、はっ、は、とりあえず、っ、遠くまで、逃げなきゃ‥‥!」
あの部屋に幽閉されてから時間感覚なんてものは無くなったが、どうやら今は夜だったらしい。はあはあと息を切らして、高層マンションを出てベルグレービアの通りを走る。着の身着のまま出てきたので変装などする余力もなく、いま身につけているのは今日の明方痛む腰を愛おしそうに撫でてくる凪に着せられたカッターシャツだけ。凪も玲王も初めて会ったときよりもずっと身長が伸びたから、凪のカッターシャツはワンピースのように膝のあたりまで丈があるが、些か心許ない。
「くそ、ッ、もっと体力つけてれば良かった!」
あの頃よりも随分痩せた体躯と無くなった体力を悔やむ。待ちゆく人々が潔のことを見て何やら噂をしているようだが、生憎そんなのに構っている余裕などなかった。どこへ向かっているのかもわからないまま、とりあえず大通りの方へと向かう。あわよくば同じチームでプレーしている千切に会えたらと思いながら。
「おい!!世一!!」
「‥‥っ、ちが、せいしろ、れお、ちが、ちがうの、これは、これは‥‥」
曲がり角を過ぎて大通りの手前、路地裏に足を踏み入れた瞬間、後ろから強く二の腕を掴まれる。瞬間、潔の脳内を焦燥と絶望が埋め尽くした。自分が逃げたことに気づいた凪と玲王が連れ戻しに来たに違いない。今までは監禁とまでは行かなかったけど、次こそ首輪をかけられてしまうかもしれない。どうしよう、どうしよう。掴んだ腕を引き寄せられて、後ろから勢い良く抱き締められた。恐怖でガタガタと身が竦む。
「世一、逢いたかった‥‥‥!!」
「か、いざー‥‥?」
強く薫る薔薇のムスク。それは間違いなく、嗅ぎなれたカイザーの香りだった。潔は無意識に、カイザーの頬を優しく撫でる。それはまるで、幼い子どもが信じられないものを見たときのようなたどたどしい手つきだった。
「ああ、ああ‥‥!本当に逢いたかった、世一を見つけるために俺は‥‥ってこんなこと言ってる場合じゃねえ、急ぐぞ世一」
「え、ちょ、カイザー!?なんで、なんでここに‥‥!」
カイザーが目の端を緩めて、まるで愛おしいものを眺めるように見つめてくるものだから、潔もつられて頬が朱色を差す。これは断じてカイザーに見惚れていたわけではなく、カイザーにつられただけだという誰に言うでもない弁解をしていると、カイザーによってぐんと手を引かれた。
「とりあえず説明は後だ!とっとと逃げるぞ!」
「逃げる‥‥って、どこに?!」
青い監獄で小競り合いをしていたときよりも随分と大きくなったカイザーの手。大きくて、白魚みたいに細くて美しくて、愛おしい人の、手のひら。そんな手に引かれ、緊急事態だというのに、潔の心臓は子供のようにどくどくと脈を打った。大通りに向けて、カイザーのすこし後ろを走る。背もすっかり大きくなった。潔は、何も変わらないというのに。
「ドイツにある俺の家に決まってるだろ、近くに車を止めさせてる!」
「俺、の、いえ!?」
必死にカイザーを追いかけながら、彼の言葉を頭の中で反芻する。走っている潔に対して、カイザーは早歩き。くそ、体力を失った自分の身体が憎い‥‥!
「世一はあいつらとこんなクソな街に居続けるつもりか?‥‥悪いが、その頼みは聞いてやれないな」
「え、いや、そういうわけじゃ‥‥」
カイザーはこちらを一瞥もせず、歩行スピードを一段階上げた。半歩開いていたカイザーと潔の差が一歩に開きかけて、差を詰めるために潔も走るスピードを上げた。‥‥上げようとしたのに。カイザーに手を引かれていない方の左手が強く引き寄せられて、それは叶わなかった。このゴツゴツとして骨張った長い指。元々兼ね備えている白い肌。短く切り揃えられた爪。ちがう、ちがう、そんなはずない。だって、さっきもカイザーだったし、ちが、う、ちがう、ちがう。きっと、きっと凪じゃない他の誰か。そうだよね?
「‥‥‥クソな街、ね。世一もそう思ってたら傷付くなあ、大好きなお嫁さんが嫌なことはなんでも解決してあげたいじゃない?まあアンタには完成ないけど」
「よっ世一。久々の外は楽しかったか?妻の不安は解消してあげるのが夫の務めだもんな!でももう疲れただろうから、早く俺たちの家に帰ろう、な?」
繋がれた手のひらの先には、凪の姿。その隣には優しく微笑む玲王もいた。潔が命からがらに逃げ出したというのに、ふたりとも不気味なぐらいにいつもどおりで、ああやっぱりこれは馬鹿な自分を引っ掛けるための罠だったんだと気づいた。気づいても、もう遅いけど。
「せいしろう、と、れお‥‥‥」
「うん、お転婆なお姫さまを迎えに来たよ。もしかしたら逃げれるかもとか思った?お前の考えてることなんて、俺たちには全部筒抜けなのにね」
帰るよ、とさらに強く左手が引かれて、思わず凪の方へとよろめく。凪に抱かれてしまったらきっとカイザーと逃げることなんてできない。希望なんてない、光なんて見えない。あの二人にはこの月明かりも届かなくて、影と闇だけが拡がっている。やっと、カイザーと出逢えたのに。ぐるぐると思考を回したところで、非力な自分にできることなんて何もなかった。現実から目を背けるように、潔はぎゅっと目を瞑る。
「青い監獄で一つも折れずに俺のこと追いかけてきたような男がこれぐらいのことで諦めるわけないよなあ世一‥‥!」
凪が世一を抱きとめるために伸ばした手は宙ぶらりんのまま、カイザーがそちらには行かせないとばかりに世一の腰を抱いた。
「か、いざあ‥‥!」
潔を護ってくれた”不可能を成し遂げる”青薔薇の逞しい腕。でも、でも、ダメだ。この二人からは逃れられない。ドイツならまだしもここはイングランドで、地の利も知名度も有利なのは向こうだ。しかも玲王は御影コーポレーションの跡取り、行使できる力だって規格外。
「世一。賢いお前はもう解ってるだろ?どう足掻いても俺たちからは逃げらんねえって。ほらカイザーの手離してこっち来い。」
「いまちゃんと俺たちの言うこと聞いてその青薔薇とばいばいできたらお仕置きも手加減してあげる。ラストチャンスだよ」
濃紫と涅色の美しい二対の目にじっとりと見詰められ、嚙まれた項がちりりと痛んだ気がした。ああ、そっか、楽しい時間ももう終わりか。このまま逃げたとしても、きっとこの二人はどこまでも追いかけてくる。そうなると、ジリ貧なのはカイザーの方だ。万に一つも逃げ切れるわけがない。そうなったときの自分とカイザーの行く末を案じて、そっと目を伏せた。この二人が報復しないわけがない。カイザーが苦しむ姿なんて、絶対に見たくない。自分のせいで苦しむというのなら尚更。これで良い、このカイザーが自分を探し続けていてくれたという思い出だけで、自分は一生幸せに生きていける。悔しそうに唇を噛むカイザーを見て、潔は意を決して別れの言葉を吐き捨てた。
「か、カイザー‥‥正直こんなことされて迷惑してんだよ。俺は自分の意志で、玲王と誠士郎と暮らしてる。こ、これに懲りたら、もう俺に‥‥俺に突っかかってくんな‥‥!」
ああ、声は震えていないだろうか。叶うことならカイザーの隣に並んで、逞しい身体をぎゅっと抱きしめてやりたい。項にはもう他のアルファの証明が残酷に遺されているというのに、彼と番いたくて仕方がない。キズモノのオメガだから確信は持てないけれど、カイザーがきっと自分の運命の番なのだろう、と思った。
「世一‥‥!お前も分かってるんじゃないのか、俺たちは運命だぞ!どうして俺の手を取らない?!」
カイザーが激情のまま潔たちを睨み咆哮している。じくじくと傷む項を押さえて、潔は絶望で埋め尽くされた胸中でその通りだよと返答した。そうだ、それでいい。ずうっと俺のことを恨んで、思い出すたびに咆哮するほど腹を立ててくれ。カイザーは素敵な女のひとと結ばれて、子宝に恵まれて幸せな家庭を築いてほしい。そのときには吹っ切れているだろうから、過去に最低なオメガなんてのがいたのだと話の肴にでもしてくれたら良い。こんな最低な自分のことなんてさっさと忘れるのが一番なんだろうけれど、大好きなカイザー相手にそれはちょっぴり寂しいから。最低な人間として、少しでも貴方の記憶の奥深くに有りたい。
「大好きだった。ほんとうに、いちばん。‥‥でも、いっしょにはいられないみたい。」
一筋の涙が潔の頬を濡らした。カイザーと引き離される悲しみからか表情が抜け落ち、がらんどうな目をした潔がぼんやりと凪と玲王のもとへと歩みを進める。それを止めようとし、端正な顔を歪めカイザーが叫んだ。潔はもうその声を聞きたくなくて、腰に回された玲王の手にそっと自分の手を重ねた。玲王が耳元で良い子と囁くのがまるで他人事のように感じる。
「カイザー、ううん、ミヒャエル‥‥ごめん、ごめんな」
コンクリートの足元を見て、独り言のようにぽつりと呟いた。ずっと呼びたくて、でも呼べるわけもなかった彼のファーストネーム。運命じゃないだなんて、わからないわけがない。自身が焦がれるほど求めた運命の相手、永遠の好敵手。手を伸ばせば届くのに、この二人の番で所有物である潔にはそれが、それだけのことが許されていない。
「名前呼び、今だけは見逃してあげる。でも、逃げたことは絶対に許さないから。」
「‥‥ご、めんな、さい、つらいの、は、いやです‥‥」
遠のくカイザーの姿を名残惜しそうに見ていると、隣にいる凪に不機嫌そうに囁かれて恐怖から潔の喉がひゅっと音を鳴らす。辛くて苦しいのはもう嫌だ。服を全部燃やされて裸で過ごすことを強要させられたことも、ふたりのことを名前で呼ぶまでずっと抱かれ続けたことも、血が出るほど項を噛み千切られたのも、トイレに行くことを禁じられてペットシーツに失禁させられたことも、犬の容器にご飯を入れられて地べたに這いつくばりながら食べたことも、もう一度だって経験したくない。でも、異を唱える権利なんて自分にはないのだと、潔はよく分かっていた。
「あ、じゃあよいちってネームタグ下げた首輪つけて犬みたいに飼ってあげようか?前は首輪なかったけど、今回はちゃんと作るね。あの時の世一、可愛かったな‥‥」
潔の喉仏を撫でながら凪がうっとりしたような顔で未来の予定を立てているのを、潔はただ他人事のように眺めていた。どうせ、自分が何を抵抗したって変わりやしないのだから。
「‥‥‥なんでもいいよ。ふたり、の好きなように、してくれたら‥‥」
「‥‥一緒にサッカーしてたときは散々俺のこと犬っぽいーって笑ってたけど、すっかり世一が俺たちのワンちゃんになっちゃったね」
その黒目がちな目を細めて、凪が意地悪げに嘯いた。喉仏を触っていた手は変わらず、犬を撫でるように喉仏のあたりを撫で付けている。そこに見えない強固な首輪が存在しているようで、潔はぞくりと背筋を震わせた。
「潔を飼うのも重要だけど、まずはココに付けるやつだろ?俺たちの、って言うのを周りのやつらにも知らせる指輪。な、世一はどんなやつがいい?」
潔の左手の薬指を自分のと絡ませて、玲王が指切りげんまんをするように問いかけてくる。潔はゆっくりと口を動かそうとして、やめた。自分の言うことなんて叶わないし、玲王は潔のこの様子をカイザーに見せつけたいだけだと理解しているから。そう、見せつけたいだけ。そうだと思い込まなければ、潔は苦しさと罪悪感のあまり狂ってしまいそうだった。
「あれ、世一はあんまり拘りない感じ?俺はやっぱりある程度高級なブランドがいいけど」
「んえ〜俺も別にどうでもいい‥‥でもインナーメッセージリングは気になってるかも、指に立体的な跡が残るってやつ」
「‥‥ふたりが選んでくれるものなら、なんでも嬉しいよ」
指輪も首輪もつけること自体を否定したところで、最終的に嵌められていることには違いない。カイザーから贈られるものじゃないのなら、潔にとって須く無価値だった。
「世一!お前は絶対に諦めない男だっただろうが!こんな逆境、青い監獄の頃のお前だったら笑って乗り切ったはずだろう!」
深い闇に染まった潔の眼前に、青い監獄で出逢ったあの青い稲妻が強く煌めく。まるでシリウスのような輝きを持った青い瞳に見つめられて、潔はバツが悪そうに目線を下に向けた。青い監獄にいた頃の自分では想像もできないほど、多数の鎖に雁字搦めになっていて動けない。
「‥‥‥うるさいな、選ばれなかった男は黙ってれば?」
カイザーと潔の間に押し入って、凪がその大きな体躯を使ってカイザーを見下す。”お仕置き”のときにしか聞かない低い声色に、潔は自分に向けられたものではないと分かっていても、背筋に冷や汗が伝った。
「俺も同感、負け犬がいくら吠えたって虚しいだけじゃね?‥‥こーら潔、お前は俺たちと一緒に帰るんだろ」
無意識にカイザーへと伸ばしかけた腕を、後ろから玲王が引き留める。刺すような鋭い声と力強く掴まれた腕に気づき、潔ははたと我に帰った。こんなこと、絶対にしてはならないのに。また首に贈られる噛み跡が増えたかもしれない。
「やっぱり、お前も俺と一緒に居たいと思ってくれてるんだな?」
その様子をみたカイザーが潔に問いかけてくる。シリウスの輝きは一つも衰えず、凪に遮られているというのにカイザーの瞳は真っ直ぐに潔を見つめていた。その美しさと愛おしさに、隠していた殻がぽろぽろと剥がれていく。潔は自分の無意識下で、こくりと頷いていた。
「潔‥‥!」
「どういうことか分かってんの?」
玲王が息をのむ声が聞こえて、その後すぐに凪が威圧するように言い放った。こんな反抗をして潔もカイザーもどうなってしまうかわからないというのに、なぜだか心は晴れ渡っていた。玲王に引き留められた腕を振り払って、カイザーと一緒に大通りを走り続ける。
「はは!見たかアイツらの顔!」
「っ、ああ!あんな顔初めて見た!!」
カイザーが心底愉快そうな顔で笑う。笑いすぎて、眦には涙すら浮かんでいる。潔も、いつも自分を蹂躙してきた二人があんなに驚くとは思っておらず、最後に小さい仕返しができたと笑った。カイザーは本当に素敵な人だ。あのまま諦めて帰ることだってできたのに、いまこうやって手を引いてくれている。潔を探し続けてくれていたというだけでも嬉しいのに、これ以上を望むのは我儘だろう。
「‥‥言っておくが、俺はお前を手放すつもりはないし、アイツらに捕まる気もない。逃げ切るぞ、ドイツまで」
「え?な、んで、いや、そんなの、そんなのできるわけ‥‥‥!」
潔のその考えを見透かすように、カイザーは言い放った。そんなの、あの二人から逃げきってドイツまでなんて行けるわけない。良いところ空港が関の山だろう。
「大通りの端に空港まで行くための車を待たせている。運転手はネスだ。言っただろう?青薔薇は”不可能を成し遂げる”ものなんだと」
カイザーがしたり顔で笑った。潔の体温がぶわりと急激に上がって、どこかふわふわした感覚に陥って、自分が地面を走り続けている疲れも感じなくなっている。ずっと夢物語だと隠し続けていた願いが、いま現実味を帯びてきている。
「ほん、と?ほんとに、カイザーと一緒にいれるのか‥‥?」
「当たり前なこと聞くな、世一が嫌がったって離れてなんかやんねえよ」
タトゥーが彫られたカイザーの左手と潔の右手が繋がれる。指を絡め、この手だけは離さないようにと誓った。後ろには凪も玲王も、物珍しさから集まってきた野次馬もいたけれど、なぜだか捕まってしまうとは思わなかった。
「世一!もう何もしないから戻ってこいって!!嘘だろ、あいつ全然こっち見ねえ‥‥お前は俺たちから逃げたりなんてしないよな‥‥?」
「あーあ‥‥こんなことになるなら家の鍵閉めとけば良かったや。探し続けてくれてた王子様に救われて良かったね。少しだけの自由、精一杯楽しみなよ」
後ろで玲王が叫ぶ声と凪が過去を悔いる声が聞こえたけれど、潔は振り向くことなく走り続けた。ネスがいるという車はすぐそこ。
「世一!やっと来ましたか、遅いですよ!!」
「ネス‥‥!!ありがとう、ほんとうに‥‥」
「飛ばしますよ、舌噛まないように気をつけて!!」
ワインレッドのバックドアを引き、急いで車に乗り込む。頭を下げてお礼を言いかけた潔の言葉を遮るように、ネスがアクセルを勢い良く踏みつけた。
「世一、これを羽織っておけ。逃げているときに渡してやりたかったが、時間の余裕がなかったしな」
「え!?あ、てか見苦しかったよな!?悪い‥‥」
急いでシートベルトを付けようとした潔の肩にカイザーのロングジャケットが被せられた。逃げることに必死で気づかなかったが、今の自分は下着を除くと凪のカッターシャツしか着ていない。カイザーにとっては見苦しいだろう。
「違う。‥‥仕方ないとは言え、好きな相手が他のアルファの匂いを纏っているのが許せないだけだ」
「か、カイザー‥‥?」
カイザーが俯きながら潔の唇を親指でなぞる。彼特有の官能的な色気に、潔はごくりと唾を飲んだ。
「なんだ、もうミヒャエルとは呼んでくれないのか?」
「いや、それはもう逢えないと思ってたから‥‥!」
「分かってる。でも世一はこうやって俺についてきてくれたじゃないか。期待、していいんだよな?」
顔を真っ赤にして慌てる世一の様子を愛おしそうに揶揄うと思ったら、縋るような顔をして潔の顎をくいと持ち上げる。潔は何をして良いのかわからず、迫りくるカイザーの唇を迎えるようにただ黙って目を伏せた。カイザーの唇と、世一の唇が触れ合う。
「二人とも僕がいること忘れてますよね!?ほらもうすぐ空港につくんですから準備してください!!8番ゲートにバスタード・ミュンヘンのプライベートジェットを待機させていますから!!」
唇が触れ合って離れて、その後すぐにネスが叫んだ。その声でいきなり現実世界に引き戻されたように夢が解け、世一はカイザーから少し距離を置いた。ちらりと後ろを確認してみてもそれっぽい車はないが、あの二人が簡単に諦めるとは考えにくい。
「‥‥まあキスをするまで黙っていたのは褒めてやろう」
「うるさいですよカイザー!」
カイザーの返事と重なるように、ネスが車のスピードを上げた。イングランドの道路を過ぎるポルシェ911の車窓から見たなんでもない街の風景は、軟禁されていた高層マンションから見下ろす夜景の何倍も美しかった。
さようなら、凪と玲王。二度と遭いたくないと初めて思った、青い監獄の仲間たち。
◇
ピンポーン、とマンションの入り口のインターホンがなる。モニターを確認して、応答する。どうやら、カイザーと過ごして一年記念に頼んだケーキを届けに来てくれたらしい。
俺がドイツに来てから、もう一年が経つ。項に遺されたあの二人の嚙み跡は一生のものだと思っていたけれど、どうやらドイツには望まぬ番になったオメガを救済するための医療が発展しているらしく、俺が無理やり結ばされた番関係も解消できるとのことだった。金額も時間もかかってしまったけれど、この項にはもう誰の嚙み跡も遺ってない。
「ふふ、ミヒャエルが好きないっぱい果物使ったケーキ、喜んでくれるといいんだけどな」
俺からのサプライズに驚いて、やられたと少し悔しそうに、でも照れ臭く笑うカイザーの顔を思い浮かべた。本当にここまでこれたのはカイザーのおかげだ。治療中やヒートのときは苦しかったけれど、隣にカイザーがいたから乗り切れたんだ。
「きょう、番になりたいって言っちゃおうかな‥‥」
嚙んでほしい。他の誰でもない、俺の運命の番に。こんなに人を愛おしく思ったことなんてなかったし、他の女に優しくしないでと嫉妬することもなかった。ぜんぶ、ぜんぶ、ミヒャエル・カイザーがはじめてだ。
そう思っていると、玄関のインターホンが鳴った。カイザーに言いつけられているように、ドアスコープからの確認も忘れない。うん、やっぱりケーキを届けに来てくれた人たちで間違いないようだ。でも珍しいな、普通配達員さんは一人のはずなのに、なんで二人いるんだろう。高級なケーキだから崩さないように二人がかりなんだろうか?
「いま開けますね、配達お疲れさまです‥‥え?」
俺が頼んだケーキは、受け取ることなく床に飛び散ったまま。
◇
___________
いさぎくん
ちゃんと凪と玲王から逃げ切れた!ケーキは食べられてないし嚙み跡が消えたはずの項にはまた新しく二つの傷が遺されている
玲王くん
ハイスペック御曹司は声真似も得意 ああそうだ、結婚式用のウエディングドレスのデザイン考えてるんだけど、お前はどれがいい?
なぎくん
少しだけの自由はちゃんと楽しめた?二度と外には出さないから、最後に思い出作れたなら良かったじゃん お前は結婚式に誰を呼びたい?俺はね、あの青薔薇
カイザーくん
世一を連れ出した王子様 今日家に返っても世一はおらず、玄関に飛び散ったケーキだけがあった 渡そうと思っていた指輪だけが今も机の引き出しに残っている
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