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テラスから自室に戻りジュノに迎えられる。キャスリンは先程ソーマの手に触れても握ってもなんの変化もなかったと笑顔で話す。そして気づいた自分の気持ち。カイランに嫌悪感があること、あまり関わりたくないことを告げカイランが会いに来てもできる限り側にいて欲しいと頼む。早く子を宿し、子と共にいよう。乳母に任せきりにせず自身で育てたい。ゾルダークの後継として厳しくもしっかり愛したい。キャスリンはまだ何も存在していない下腹を撫でる。私の子、私だけの子。キャスリンはすでに愛していた。
夜会のドレスはほぼ決まり後は出来上がりを待つのみ。社交は婚姻をしたばかりなので色々な場所へ顔を出さなければならない。ゾルダークとディーターの結束を印象付けるために。夜会や婦人会で顔を売らなければ。キャスリンは特に社交が好きではないが高位貴族としてできて当然の事はしている。シーズンが終わったら育児に専念したいと希望があるので社交界の付き合いはカイランへ丸投げしようと決意する。
ドレスのデザインだけで日中を終え、食堂へと向かう。ハンクはまだ仕事らしいがもちろん揃うまで待つ。すぐ扉が開きハンクがいつもの椅子へ座る。給仕が前菜から運んでくる。公爵家の料理番は気さくな人柄でキャスリンの話をよく聞いてくれる。腕もいいし少食で残してしまうと伝えても嫌な顔をせず理解してくれる。
食事を終えソーマが給仕を下がらせた。だいたい最後まで一人は残るのにとソーマがいれてくれた紅茶を口に含み飲み込みながらそう思っていたら突然ハンクが手を触れてきた。思いもよらない行動に体が反応するが、直ぐにソーマがハンクに話したのだなと納得する。ソーマより硬くて厚い手、そしてあたたかい。私の手がすっぽり入ってしまう大きな手。嫌ではない。震えない。良かった、と安堵した時手のひらをぎゅっと握ってきた。まだ確認してくれるらしい。本当に大きな手だわ。この手が私に触れるのねと想像したら少し恥ずかしくなってきてしまった。もうそろそろ離さないかしらとハンクを見ようとしたら親指が手の甲を撫でてきた。すりすりと何度も何度も。そこからじんわり温かくなり体が熱くなる。するとハンクが近づいて頬に触れ首に触れる。近い。ハンクの手が熱い。ハンクが何か言っているが理解できない。首に触れる手が優しくて胸が熱くなる。ハンクの手が熱いのではなく私自身が熱くなってるのかと思い恥ずかしくなってきた。意識を呼び戻し口を開いてハンクに礼をする。震えて閨ができないと困るからこうして触れてくれている。大丈夫だと伝える。私はそそくさと自室に戻り行儀が悪いが勢いよくソファに座る。手で顔を隠し足をばたつかせ心を落ち着かせる。
あれしきの事で動揺するとは情けないわ。触れたのは頬と首だけよ。お互い閨では裸なのよ。ふぅと長く息を吐いてジュノを見る。
「もしかして顔が赤い?」
ジュノは眉を下げ頷く。
「首も赤いですよ」
そう言われて理解した。だからハンクが触れてきたのか。きっと赤いぞとか言っていたのかもしれない。これだけの接触で赤くなった私を見れば閨などできるのかと心配になるわね。私がお願いしたのだからこの程度で動揺して…申し訳ないわね。私は両手で頬を打ち気合いを入れる。
翌日の夕食後もハンクが触れてきた。手から始まり腕へ向かう、そして下がり手に戻る。なぜかこの動きが続く。くすぐったい。恥ずかしいがハンクを見つめる。ハンクは触れている私の腕を見ていて目は合わず、ほっとした。まだ触れている。触れながらハンクが話し出す。
「お前達が閨を共にしていないことは一部の使用人しか知らん。俺が信用している奴らだけだ。子ができても奴の子と皆は疑わないだろう」
ハンクが指示したのかソーマが采配を振るったのか詳しくは聞かないが、私の瞳から涙が落ちた。テーブルにしみをつくる。もう感謝しかない。ハンクは涙に気付き手で頬を拭う。それでも伝い落ちる涙をソーマに渡されたハンカチで拭ってくれた。ハンクは何も言わず私の頬を押さえ続けている。一枚のハンカチで両目の下を押さえるものだから私の顔が半分隠れた。ハンクは私の涙が止まらなくて困っているように見える。意外な一面に涙も止まった。
「ありがとうございます。閣下には面倒事を押し付けてしまったのに、まして私の面子を保っていただいて私は何もお返しできませんのに」
ハンクは私の頬から手を離し、私の手首を握り親指で撫でる。
「面倒だが元を辿れば俺のせいだろ。育て方を間違えたんだ。面倒をお前に押し付けたのは俺だ」
ハンクは私の提案を自分のせいと判断したのだ。その言葉は私のハンクへの罪悪感を消してくれた。
「お前はゾルダークの子を産め、俺とお前の子だ」
私はハンクを見つめ強く頷いた。
「はい。必ず産みます。そして育てます」
「ああ、そうしろ」
必ずと心の中でハンクに誓う。ゾルダークとディーターの未来がここから生まれる。
「泣いたぞ」
執務室でハンクはソファに座りソーマに言う。物心付いた頃から無神経な性格を発揮し周りの人たちに好かれないハンクは実は身近な女の涙に弱い。しかし、セシリスに閨で泣かれた時よりも動揺した自分の行動にも驚いた。キャスリンの流れ続ける涙を見て、なんとか止めなくてはと手を伸ばしたのだ。手では払うしかできず、ソーマが布を貸してくれて雫が落ちるのを止められたのだ。
「かなり泣いたぞ」
まさかキャスリンが感動して泣いたとは思いもよらない主は人に対しての機微が疎いのだったとひとり納得のソーマ。これは説明が必要と、ハンクにキャスリンがなぜ泣いたのか話した。
「旦那様がしつこく腕に触れたから泣いたのではありませんよ。生まれるお子がカイラン様の子として後ろ暗い思いをせずに育つことへの感謝ですよ。キャスリン様は閨を共にしていないことをある程度使用人達に知られていると思い生活をしていたのでしょう。なのに子を宿したとなればカイラン様ではない男と通じていると噂されます。公爵家の使用人は多い。どこから漏れるかわからない秘密に少なからず怯えていたかと…早く伝えておけばよかったと今さら思います」
ハンクはそんなことで泣いたのかとソーマに告げた。
「キャスリン様は生まれてくるお子に嫌な思いをさせることが許せなかったのでしょう。しかし自身ではどうしようもないからそこは我慢しようと考えていたのでは?もう旦那様との子を大事にしてるのです」
「ふん、心配が過ぎるぞ」
こうやって主がキャスリンのことをそれなりに考えていることに気づいていたが、そこは跡継ぎのためなのだとソーマは理解していた。だが先程の主の行動はらしくなく、まさかとひとつの答えに導かれそうになっている。そうなるとそれで問題有りなのだが。厚顔無恥、無神経、冷血漢、強面など主を表す言葉はたくさん出てくる。すべて短所ばかりだが、長所を述べよと言われると誰も頷かないが純真とソーマは答えるだろう。齢三十九にして人に好意を持ったことがないのだ。主の母親は出産後に亡くなった。父親は子を顧みず、関心がなくただの後継と見ていた。主と同じ思考。恋もせず政略で婚姻、相手が怖がりで陰気なセシリスならば愛するなど皆無。これまで主になかった好意の感情がまさか息子の嫁に生まれたら。ソーマは未知にぞっとする。好意程度で止まればいいが、好意以上になった時が恐ろしい。主がどうなるかソーマでさえ予測がつかない。今はまだ主自身が何も気づいていない。好意という感情を知らないのだ、持ったとしても気づかない可能性もある。さて、気づいて欲しいのか欲しくないのか、三十年この主に仕えた自分でさえ恐怖するこの状況。