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駅から15分ほど歩いたところに、小さな川がある。
両岸に桜が植わっていて、春には毎年、地元の人が歩きに来る。
私もよく歩いた。彼と一緒に。いや、「彼と一緒だったから」歩いたのかもしれない。
夏の終わり、川沿いをひとりで歩いてみた。
まだ蝉が鳴いていた。残暑は、湿度をまとってじっとりと肌に貼りついた。
思い出の場所というのは、残酷なものだ。
彼と過ごした記憶が、そのまま時間の中に埋まっている。
けれど、彼はもうどこにもいない。
この景色を見ても、彼はもう何も感じない。
私と彼が別れたのは、春の手前だった。
梅が咲くより少し前。まだコートが手放せない季節。
あの日も、ここを歩いた。
「ごめん、たぶん、もううまく続けられない」
彼はそう言った。
私はうなずいた。そうするしかなかった。
風が吹いて、水面が波立った。
その揺れを見つめながら、彼が言った。
「でも……」
「うん」
「君といた日々は、どこか“水”に似てた」
「……水?」
彼は少し照れくさそうに笑って続けた。
「すくっても、すくっても、指の隙間からこぼれていく。
でも、ちゃんと濡れてる。……間違いなく、そこに君がいたって、わかる」
私は、なぜかそのとき泣けなかった。
美しい言葉にされるほど、現実味が薄れていった。
あれから半年。
今日、川辺で偶然、彼を見かけた。
向こうも気づいたけれど、言葉は交わさなかった。
ただ、目だけが合った。
遠くから見る彼は少し痩せていた気がする。
彼の隣には知らない女性がいた。
帰り道、コンビニで水を買った。
ベンチに腰を下ろして、ボトルを持つ。
手のひらがじんわり冷えた。
そのとき、不意に涙がこぼれた。
泣かなかったはずの、あの春の日の分まで。
あのときの彼の言葉が、ようやく意味を持った気がした。
本当に大切だった時間が、もう触れられないのに心の中に「みずのあと」のように残ってる。
それは消えたわけじゃない。
ただ、形がなくなっただけだ。
私は静かに目を閉じて、
その冷たさが、心をやさしく濡らすのを感じた。
風が吹く。
どこかで秋の虫が鳴いていた。
もうすぐ、次の季節が来る。