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第4節 千崎雪絵『この子の前で泣かないために』―3―
「……分かりました」
それしか言えなかった。
責めることも、問い詰めることもできない。
通話が切れる。
静寂が戻る。
雪絵は、ゆっくりと顔を上げた。
百香の方を見る。
百香は、画面を見つめたまま動かない。
既読のまま、返事のないスマートフォンと睨めっこをしながら……自分が送ったメッセージに返信がない理由を……、そうしてメッセージが既読になったと同時に母の携帯が鳴ったことの意味を、きっともう理解しているのだろう。
――今年も同じなんだ、と。
小さな手が白くなるぐらいぎゅっとスマートフォンを握りしめているのが、雪絵の胸を締め付けてくる。
百香は、父親のことが大好きだ。
けれど。
雪絵が誕生日のたび、寂しそうにしていたことも、知っている。
雪絵は、唇を噛んだ。
泣きそうになるのを、必死で堪える。
(――この子の前で、泣いちゃダメ)
そう思った。
「……百香」
静かに呼びかける。
百香が顔を上げる。
「ママ……パパ、今日もお仕事なんだよ、ね?」
「……ええ」
「夜にそんなにお仕事ってあるものなの?」
よそのお家ではそんなことはないのだと……百香の目が語っていた。
ずっと幼いと思っていたけれど、百香だってもう一〇歳を超えている。雪絵が思う以上に、〝大人の事情〟を理解しているのかもしれない。
でも、それ以上は言わせたくなくて……雪絵はぐっと拳を握りしめた。
「あのね……」
一度言いかけて、言葉を飲み込む。
それでも思い直したように百香の顔をまっすぐに見つめて、静かに続けた。
「……ママ、パパとさよならしてもいい?」
百香の目が、わずかに揺れる。
ほんの少しだけ、迷うような沈黙。
けれど。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
その一つで、すべてが決まった。
「……ありがとう」
雪絵は微笑む。本当は「ごめんね」と付け加えるべきなのは分かっていた。でも、それを自分が言うのは何かが違う気がした。
代わりに、そっと手を差し出す。
「了道おじちゃんのところ、一緒に来てくれる?」
「……うん」
百香は、躊躇いながらもその手を取ってくれた。
雄二と別れるにはただ家を出ればいいわけではない。
極道の妻として、筋を通さなければならない。
『葛西組』組長、葛西了道に――。
雪絵にとっては、父のように見守ってくれた人。
でも、今日は千崎雄二の妻として……『雄相会』会長の妻として……けじめを付けに行く――。
自分が了道に告げて始めた結婚だ。逃げるのではなく、筋を通してきちんと、終わらせねばならない。
テーブルの上には、手つかずの料理とケーキが並んでいる。
その光景を、雪絵は一度だけ見つめた。
――もう、待たない。
そう決める。
娘の手を、しっかりと握る。
極道の妻として。
百香の母として。
雪絵は、家を出た。
***
夜の空気は、思っていたよりも冷たかった。
父を亡くしてから雄二と出会うまでの十年近くを過ごした家――葛西了道の屋敷の前に立ち、雪絵は一度だけ足を止めた。
(……了道おじちゃんに会ったら……もう戻れない)
分かっている。
ここに来ると決めた時点で、後戻りはしないつもりだった。
「……行きましょう」
そう言って、雪絵は百香の手を握り直す。
玄関先で名を告げると、すぐには通されなかった。
「申し訳ありません、雪絵さん。ただいまオヤジは来客中でして……」
部屋住みの若い衆の言葉に、雪絵は小さく頷く。
「……構いません。終わるまで、こちらで待たせていただいても?」
そう答えながら視線を落とすと、玄関先に見慣れない男物の靴が一足、きれいに並べ置かれていた。
手入れの行き届いた革靴。
一目で上等だと分かるそれに、来客の身分が知れる。
「いや、それは……っ。雪絵さんとお嬢さんをこんなところで待たせたと知られちゃあ、俺がオヤジに叱られてしまいます! あの、ちょっと姐さんに聞いてきますんで、待ってていただけますか?」
困ったように眉を寄せる若い衆の様子に、雪絵は思わず口を開いた。
コメント
2件
この時の来客は確かめいちゃんのおじいちゃんじゃなかったかな?
第八章(11)、読み終えました。胸がぎゅっと締め付けられる回だったなあ……。雪絵が百香に「パパとさよならしてもいい?」と本音で向き合ったところ、そして百香が「うん」と頷くまで、親子の信頼が感じられて泣きそうになりました。了道おじちゃんの屋敷の玄関先で見つけた見知らぬ革靴も気になる。このあとどうなるのか、続きが待ち遠しいです🏻