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先に謝っときます 上から目線ですみません 続きって、いつ出せそうですか?
続き楽しみにしています‼️
⚠注意
① 引き続き,記憶の追憶です。苦手な方は回れ右をしていただけると幸いです。
② 「」が現実(?)のエマ達のセリフで,()が同じく現実(?)のエマ達の思考です。
③ []が記憶の中のエマ達のセリフで,〚〛が同じく記憶の中のエマ達の思考です。
④ アニメと漫画両方を加えていますが,アニメの方は,記憶が曖昧なので,おかしな部分もあるとは思いますが,ご了承下さい。
⑤ 原作にもアニメにもないセリフを,私が一部,入れています。
それでは,本編へどうぞ!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長い長い静寂が訪れる。
その静寂を,ギルダは小さな,静かな声で破った。
イザベラ以外,全員,呆然としている。
レイは目線を下げ,固定されて包帯が巻かれているエマの足を見ると,僅かに顔を歪め,震える声で[ママ。]と呼んだ。
[エマの…その足……。]
[折れてるわ,完全に。私が折ったの。]
レイの言葉に間髪入れずニヤリと笑って返したイザベラに,レイは歯を噛み締めた。
イザベラはレイのその様子を見ながらエマの上半身を起こして抱き寄せる。
[大丈夫よ。上手く折ったから傷一つ残さず元通りになるわ。でも,しばらくは絶対安静。全治1〜2ヶ月ってところかしら。]
そして,ニコッとイザベラはレイに微笑みかけた。
[あなたの誕生日に間に合えばいいわね,レイ。]
〚ババァ!!〛
レイは悔しさから拳を思いっきり握り締めた。
スッと,イザベラの視線がレイに移る。
だが,レイは不穏なその気配をいち早く感じ取ってユウゴの方へと避難していた。
イザベラは無表情で目線を合わせないレイを見る。
〚私,この時まだ,31歳よ?知っているでしょう,レイ。〛
レイはユウゴの背中越しにイザベラを僅かに振り返った。
〚仕方ねぇだろ。あれはノリで……〛
そんな押し問答を(心の中で)しながら,イザベラとレイは映像を見つめた。
映像内のイザベラは,今度はノーマンに向き直った。
[ノーマン。その袋,後でこちらに頂戴ね。]
[…!!]
〚〚ロープが……!!〛〛
未だ呆然としているノーマンに微笑んで言ったイザベラは,エマを横抱きに抱えた。
[さ。お家へ帰りましょう。]
そう言うと,レイ達の横をすり抜けて森の入口の方に向かっていった。
森から抜けて,ハウスの前までイザベラが来ると,イザベラが抱えているエマに気づいた子供達が群がってくる。
[エマ,どうしたのー?]
[ケガしたの?]
質問を次々に被せてくる年少者を諭しながら,イザベラはハウスの中に入っていく。
それを見ていたトーマは,目を見開いて隣に立つラニオンに声をかけた。
[オイ!]
[…っ……!]
ラニオンも目を見開いて驚き,同じく,近くにいたアンナとナットも目を見開いて固まった。
森から出たレイ,ギルダ,ドンの3人は井戸の周りに集まっていた。
井戸に背を預けて庭に座ったドンは,頭を抱える。
[ロープ奪られて,ノーマン出荷。エマは足折られて動けねェ…。下見済ませて次脱獄のはずが……一体どうすりゃいいんだよ……。]
[エマなら足はソッコーで治す。ロープもまた作りゃいい。脱獄はどうにかなるし,どうにかする!今はまず,ノーマンだ。]
ドンの言葉に,木の板で落ちないようにされている井戸の上に座ったレイが眉間に皺を寄せて間髪入れずに言った。
井戸の前に立ったギルダは顎に手を当てて不可解な疑問を口にした。
[でも,なんで……よりによってどうしてノーマンが?脱獄がバレたから──とかじゃないんでしょう?]
[だよな。おかしい……。]
ドンはギルダの言葉に同感した。
[スコアが高いほど美味いなら,ノーマンこそ,誰より満期で出荷したい食用児(こども)のはず。]
[その通りだ。通常ならあり得ない。]
レイもそれに頷いて額に冷や汗を滲ませた。
〚通常じゃない……。**特例中の特例。**──とにかく,本部(うえ)の指図でノーマンが食われる。指図…。〛
ふと,レイは昨日の昼にイザベラに言われた言葉を思い出した。
〘次の出荷が決まったわ。来月の定例出荷はない。〙
くっとレイは歯を噛み締める。
〚あの時には既に……!思えば,ママは『来月の定例出荷はない』と言っただけだった。『今月の異例出荷はない』なんて言っていなかった…!いや,まず俺はそんなこと聞かねぇ。出荷は2ヶ月ごと,これが通常だ。ママは俺が聞き返さないってわかってた……!そうつくったのはママだから…!〛
左足を右膝の上に乗せ,レイは顎に手を当ててブツブツと独り言のように状況をまとめた。
[シスターを排除し,俺を切り捨て,エマの足を折った……。全部,このため……。本部(うえ)からの命令通り,無事,ノーマンを出荷するため…。──“ノーマンの出荷”………。“事情”って,これだったのか!!]
丁度その頃。ハウスの2階では,子供達が騒いでいた。
無論,クローネの部屋の扉がぶち破られていることに関してである。
イザベラは子供達が群がっているその扉を見ると,仕方ないなと言いたげに,小さく溜息をついた。
ギルダは信じられない思いで,口元を押さえる。
[けど……信じられない……。まさか,シスターまで……。]
ドンもクローネの姿を思い浮かべながら,それに続いた。
[……昼前までは,普通に……元気だったのに……。普通に笑って,普通に洗濯とかして……。なのに今はもう,世界のどこにも生きてない…。]
ゾッ…!!!と背筋に悪寒が走って,ドンとギルダは震え上がった。
すると,レイが唐突に立ち上がり,足元にあったバケツを思いっきり蹴り飛ばした。
大きな音を立てて転がっていったバケツを見て,レイは悔しさにくっと歯を噛み締めた。
[エマ……。]
ノーマンは医務室のベッドで横になっているエマに心配そうに声をかけた。
エマは瞼を開けて,ノーマンの姿を視認すると,ノーマンがあの赤い花を刺されて殺されるという今の状況がありありと浮かんできた。
〚どうしよう……。ノーマンが死んでしまう!!〛
エマが思わずノーマンに手を伸ばすと,ノーマンはそれを快く迎え入れるようにその手を両手で包み込んだ。
エマは泣きそうになって顔を歪める。
〚生きてるのに。今,目の前で息をして……手だって,こんなあったかいのに…。〛
[大丈夫。奪られたのはロープだけだ。]
[…!]
エマの心情を感じ取ったように,ノーマンが微笑んで,安心させるような声音で口を開いた。
[僕らの真の計画はまだバレていない。エマの足も治る。計画(だつごく)は成功する。]
〚違う!!今そんなことどうでもいい!!〛
ノーマンはそう言うと,スッと椅子から立ち上がった。
[待ってて。お水,取ってくる。]
[待って!ノーマン……!!]
エマは離れていったノーマンの手を追うように,慌てて上半身を起こして手を伸ばしたが,ノーマンは気づいていないフリをしてそのまま医務室から出ていった。
〚だめだ,寝てなんていられない。考えろ。何とかしてノーマンを──殺させない方法!!〛
[エマ!足,ケガしたの?]
ラニオンとトーマが医務室に入っていくのを横目で見ながら,ノーマンは食堂に向かっていった。
〚情けないな,僕は。エマにあんな顔させて…。本当に情けない……。〛
ノーマンは,食堂の扉を開け,コップを一つ持って水道へ向かい,その蛇口を捻る。一気に出てきた水をコップに注ごうと水をコップに入れたが,すぐにゴトッとコップを落としてしまった。
ノーマンは思わずしゃがみ込み,震える手で口元を押さえた。
〚情けない…。本当に情けない……。こんなにも…生きたいなんて……!!〛
ノーマンは今まで言った自分の言葉を思い出した。
〘死なせない。〙
そう決めたはずなのに。
〘みんなで一緒にここから逃げよう。〙
そう覚悟だってしたはずなのに。
ノーマンはしゃがみ込んだまま,顔を伏せた。
〚まだ生きたい。死にたくない。みんなと一緒に……エマと一緒に──〛
生きたい
と,ノーマンは,考えれば考えるほどその欲が出てしまった。
一方その頃,レイ達は漸くハウスの中に入ってきていた。
ドンが前を歩くレイに焦る気持ちを隠すこともできずに[で…。]と声をかけた。
[どうすんだよ…!このままじゃノーマン…]
[逃がすさ,勿論!何としてでも!!]
ドンの言葉を遮って,レイは肩越しに二人を振り返ってそう叫んだ。
その頃,エマは,胸に手を当てて改めて決意していた。
〚ノーマンを逃す!!出荷なんてさせない!!〛
廊下を歩くレイも,エマと全く同じことを考えていた。
〚死なせてたまるか…!絶対に死なせねぇ!!〛
医務室へ向かいながら,レイは呟くように言った。
[まだ一日ある……。明日の夜までに逃がしゃいい。]
けど,とレイは歯を噛み締めた。
〚問題は,奴自身が逃げないってことだ。〛
その頃。ノーマンはコップに注いだ水を見つめて,レイの思っている通り,逃げることは諦めていた。
〚僕一人先には逃げられない。逃げれば同じ満点(フルスコア)のレイやエマが代わりに出荷されるかもしれない。そうでなくても,一度誰かが逃げたら,確実に警備が厳しくなる。**二度目以降の脱獄は恐らく,不可能に等しい。**だからエマも,今,一度に全員を連れ出したいんだ。〛
食堂を出て,医務室に向かう廊下を歩きながら,ノーマンは目つきを鋭くさせた。
〚今日明日で逃げなければ,僕は死ぬ。──でも,①僕一人逃げれば全員(みんな)死ぬ。②かと言って,明日全員で逃げるのもあの骨折で不可能。③僕に残された選択肢(みち)は,逃げられず,死ぬのみ。つまり,僕は明日死ぬ。出荷されるしかない。〛
いい策(て)だよ……。と,ノーマンはほんの少し,口角を上げた。
〚だから最初(ハナ)からエマの足を折る気だったんだ,ママは。包帯を用意して。でも,それで僕らは計画(だつごく)を諦めないし,既にママの思い通りには進んでいない。──あと一日。〛
ノーマンはキッと前を睨みつけるようにした。
〚僕がママ(そ)の筋書きを叩き壊してやる……!!最期までこの命,利用し尽くして,脱獄を必ず成功させてやる!!〛
医務室の前までやってきたノーマンは,ドアノブに触れようとして途中で止め,ふうぅぅ……と一度深呼吸をして笑顔を作ってから,ドアノブに手をかけた。
[エマ。……!レイ…。]
医務室に入ると,エマのベッド脇にレイも居たことで何を話すかの予測がつき,ノーマンは入口で立ち止まった。
レイは話を切り出す。
[ノーマン,話がある……。]
ノーマンはさっきまで自身が座っていた椅子をレイに進められ,大人しく座ってエマにコップを渡した。
エマが素直に受け取るのを見てから,レイはもう一度口を開いた。
[俺達はお前を死なせねぇ。]
[うん…!]
エマも頷き,上半身を捻ってノーマンの方に体を向けた。
[ノーマン。明日の昼,お前一人で逃げろ。]
予想していた通りのことを言われ,ノーマンはへにゃり笑ってと眉を下げた。
[ごめん……。できない。]
[[却下!!]]
間髪入れずに,僅かに身を乗り出して強く言った二人に,ノーマンは若干青褪めて黙り込んだ。
ノーマンのその様子は気にかけず,レイは[まぁ聞けよ。]とベッド越しにノーマンを見下ろした。
[正確には明日の昼,お前一人で**逃げたフリ**をしろ。]
[え?逃げた…フリ……?]
[発信器を無効化させて,逃げたフリをして,エマの足が治るまで敷地内に潜伏しろ。]
[そして,私達の決行日に一緒に逃げる!!]
[それまでお前は“いない人間”になっているわけだから,下見もし放題。出た後でお互い合流どうするって問題もない。]
ノーマンは眉根を寄せて[けど……。]と言いにくそうにしながらも口を開いた。
[たとえ嘘でも,僕が逃げたら,警備が厳しく──]
[問題ない。]
ノーマンの言葉を遮って,レイが安心させるようにゆっくりと言った。
[この農園(ハウス)の飼育方針から言って,大した警備強化はされない。]
[飼育方針?]
[①のびのび健全に育てる と,②秘密は厳守する。]
ノーマンが聞き返すと,レイは左の親指と人差し指を立てた。
[**①は脳の発達に最適だから。**勉強だけじゃない。発達した脳の育成には,運動も愛情も不可欠。“のびのび育った感情豊かで健康な子供”。──それがGF(やつら)が製造する商品(にんげん)の最低条件。**②の秘密厳守も同じ。**鬼達(やつら),姿を見せない。“姿を見せたら逃げられる”ってのもあるけど,見せて恐怖で支配してもGF(やつら)の好みの脳にはならない。だからわざわざ姿隠して,大人(にんげん)使って,『おままごと』を演じさせているんだ。]
レイは一度そこで言葉を切ると,軽く瞬きをして,話をまとめた。
[つまりだ。奴ら,俺達をより強い規則で屋内に縛ることや,施設(ハウス)を不穏に思わせるような逃亡対策をとることはできない。塀だって,遠くからでも見えちまうような高さには変えられねぇ。]
表情を変えないノーマンに,レイは歯を噛み締めて宣言するように言った。
[警備変えるとすりゃ,せいぜい見回りや飼育者の増員。その程度どうにでもできる。いや,する!!]
叫びだしそうな勢いのレイに,ノーマンは静かに口火を切った。
[……それでも,わずかでも,塀をロープで上れない高さにされたら?次,どうやって塀を越えて出るつもり?]
[お前が隠れて梯子でもつくっときゃいいだろ。]
[発信器をより高性能のものに変えられたら?]
[新たに埋められても,次は最初から場所がわかっている。取り出せばいい!発信器の存在を知っている俺達には通用しない。わかるだろ!いちいち聞くんじゃねぇ!]
レイは叫ぶようにそう言うと,ベッド越しに,ノーマンに詰め寄るように身を乗り出した。
[**とにかく,お前が死ぬこたないんだよ!出荷されるしかねぇなんてまやかしだ!!**食料は手配する。潜伏は絶対に隠し通す!多少の警備強化は何とかなる!ママを出し抜く奥の手も,俺はまだ持ってる!だから生きろ!逃げたフリして,この方法で──]
[だめだよ。]
ふっと笑ったノーマンは,レイの言葉を遮って静かに言った。
[できない。だめなんだ。警備だけじゃない。僕が逃げたらレイやエマが代わりに出荷されるかもしれない。僕の代わりに二人のどちらかが死ぬなんて,絶対に嫌だ……!!]
[[……っ…!!]]
唇を噛み締める二人に,ノーマンは眉を下げて微笑んだ。
[ありがとう。大丈夫,気持ちの整理はついてる。明日の出荷は仕方がない。命はくれてやる。でも,その他何一つ譲る気はない。負けるつもりも一切ない。僕は勝つ!脱獄を必ず成功させる!!]
**[それで十分。これでいいんだ。]**と言ったノーマンに,〚よくない!!〛とレイは拳を握り締めた。
〚死にたくなんかないくせに。死なせねぇ。困るんだよ。死へ続く道は選ばせないって決めたんだ。俺はそのために…ずっと……ずっと!!〛
なのに…とレイは悔しさで歯噛みする。
〚エマは足折られて……ノーマンは出荷!?嫌だ……こんな……〛
**[ふざけるな…。]**とレイは言葉を絞り出した。
[これじゃ……俺の6年は何だったんだ……!]
[ごめん…。]
くっとレイは歯を噛み締めて腕を組んだ。
〚この怪我だ。エマが出される可能性は低い。代わりに出されるなら俺。俺さえ回避すれば──いや,俺が回避しなければ,ノーマンが──〛
[じゃ,レイも足折ればいいよ!]
俯いていたエマは,唐突に挙手をしてサラッととんでもないことを言ってのけた。
「………え?」
「は…?何言ってんだ…?」
コナン達は思わず映像のエマを凝視した。
映像内でも,レイは少し目を見開いて,ノーマンは青褪めている。
対して,エマはニコッと楽しそうに笑っていた。
[いいでしょ?ねっレイ!骨折しよう!]
[エマ…?何言って……]
足を折られたショックで何か吹っ切れてしまったと思ったのだろう。ノーマンが,エマの方に身を乗り出した。
エマは,自身の骨折している足を指差す。
[あのね,こんなハデにケガしてるから,私が代わりに出されることはないと思うの。門で鬼が言ってたでしょ?私達は“高級品”。しかも“特別”。出すときはちゃんとしてなきゃダメなんだよ。代わりに出されるとしたらレイ。だからレイも大ケガしちゃえばきっとすぐには出荷されないよ!]
キラキラとした笑みで言ったエマに,レイはぱちくりとまばたきを繰り返し,ノーマンは**[そんな馬鹿な……。]**と言葉を失う。
そして,レイは腹を抱えて吹き出した。
[ブッ…アハハハ!!その手があった!]
そして,ベッドに手をつき,ぐっとエマに顔を寄せる。
[よし,折ろう!]
[レイ!!?]
楽しそうに意気込んだレイに,ノーマンはまさかレイまで言い出すとは思っていなかったのか,白目を剥いた。
レイは一度ベッドから手を離すと,右の二の腕を左手で押さえた。
[けど別に腕でよくね?二人共動けねぇのはちょっとマズイだろ。]
[あ,そっか!じゃ腕で!腕にしよう!]
流れるように進むちょっと恐ろしい話に,ノーマンはぽかーん…としたが,すぐに我に返ると,**[いや待って!]**と呼び止めた。
[必ずしも怪我をすればすぐに出荷されないとは……]
[じゃあめっちゃ風邪引く!]
[…!??]
[病気の時のは食わんだろってことね。]
間髪入れず答えたエマの言葉に,レイも同意して頷いた。
次いで,新たな案を,今度はレイが出す。
[あ!あと,変なもん食って腹壊すとか。]
[この前庭で変な色のきのこ見つけたもんね!案外美味しかったりするかもだし!]
[馬鹿。美味かったら意味ねぇだろ。]
[あ,そっか。]
ケラケラと笑い合う二人に,ノーマンは今度こそ言葉を失った。
[骨折超痛いし,風邪もしんどいけどいいよね?]
[おう!]
[そんな…。]
[それでもダメならまた別の手考える。何だってする!]
[なんで……おかしいよ,二人とも…!そんな……]
[何言ってんの?]
ノーマンの言葉を遮って,エマはハッキリと言った。
[ノーマンが死んじゃうより全然いいよ!]
エマの真っ直ぐとしたその瞳と声,そして,頷くレイに,ノーマンは驚いて固まった。
エマは構わず続ける。
[ノーマン言ってくれたよね?『みんなでここから一緒に逃げよう』って。“みんな”の中にノーマンがいなきゃ,私は嫌だ!!]
エマはそう言って,ノーマンの両手に手を乗せる。
[予定外の出荷とか,ママの事情とか,関係ない。『死ぬ』なんて選択肢,最初からない!]
泣きそうに,目を潤ませながら,エマはノーマンの方に身を乗り出していく。
[大丈夫。みんなで一緒にここから逃げよう。一緒に生きよう?ノーマン。]
堪えきれずに,ノーマンは両目から涙を流し,顔を両手で覆って**[うん……。]**と頷いた。
そのノーマンの肩にそれぞれ手を置いて,エマとレイは寄り添い続けた。
ノーマンが落ち着いたところで,レイが話をまとめる。
[決まりだ。明日,お前は塀に上って逃げたフリ。]
[ついでに下見もしてこよう。警備が軽い内に済ませておいたほうがいい。]
[だね!]
レイの言葉に続いたノーマンは,レイから受け取っていた双眼鏡を取り出した。
エマが頷くと同時に,ノーマンはクローネが言っていたことを思い出した。
〘ロクな人数配置していないし,巡回すらしていないはずよ。〙
[それに,気になることもある…。]
そう呟くと,ノーマンは今度はレイに向き直った。
[気になることと言えば,レイ。これ,前にも一度聞いたんだけど……]
[ん?]
[レイはいつ,どうやって“秘密”を知ったの?]
ピクリと反応したレイを見逃さなかったノーマンは,畳み掛けるように続けた。
[いや,だって,普通気づきようがないでしょう?ハウスの正体……。一体いつ,どうやって…。]
ノーマンの問いかけに,レイは,長い前髪でただでさえ半分隠れている顔を,更に隠すかのように俯き,エマは目を見開いてレイを見た。
コナン達も思わず身を乗り出した。
ただし,ユウゴはレイを心配するように,庇うように自身の体に引き寄せ,ノーマンとエマは気遣うように見つめた。唯一,イザベラは,苦しそうに眉を寄せて俯く。
映像内のレイは,俯いたまま,今までで一番静かに,小さく口を開いた。
[………最初から。]
[[え……。]]
目を見開いたノーマンエマを見て,レイは2人に背を向けるようにしてベッドの端に腰掛けた。
[“幼児期健忘”って知ってるか?]
[いや…。]
[何それ?]
首を左右に振った二人に,レイは被せて尋ねた。
[お前ら,どのくらい昔のこと覚えてる?]
[3〜4歳くらいかなぁ。]
[私も。]
[だよな。]
指を折って少し自信なさげに答えたノーマンと,それに同意したエマに,レイは思っていた通りだったと言う風に息を吐き出した。
[ヒトは誰しも,知らぬ間に赤ん坊の頃の記憶を失くしている。それが**“幼児期健忘”。**でも,ごくまれに,それが起こらない人間がいるらしい。]
ハッとしたように目を見開いたエマが,[レイ,まさか……]と言いかけると,レイは頷く代わりにこの脱獄の原点を語り出す。
[俺には,胎児の頃からの記憶がある。]
言葉を失って更に目を見開いた二人には気づかずに,レイは思い出すように,神妙な面持ちで続けた。
[最初は,暗くて温かい水の中。遠くから聞こえてくる,“母親”の…歌声。断片的な………**パズルの小片(ピース)。**その内,5つに振り分けられて,暗いトンネルを抜けてここへ来た。]
レイのその説明に,エマは未だ驚きを隠せないまま,身を乗り出すように言った。
[……“孤児院(このいえ)”に来る前の一年……。]
[ああ。]
ノーマンはハッとしたように慌てて[待って!]と声を上げた。
[“暗いトンネル”って,まさか門?じゃあ門の先は『外』じゃなくて…]
[本部。]
長い前髪の隙間から射抜くように床を見つめて,レイはノーマンの言葉を遮った。
[自分の記憶と,眼前の『現実』との矛盾。文字が読めるようになって,ようやく理解した。記憶(オレ)は正しい。ここは孤児院(コジイン)じゃない。**──『現実』が虚構(ニセモノ)**だったんだ。6歳の誕生日,ママに確かめた。ママがほんの一瞬驚いて……それで,真実(ほんとう)だって確信した。]
レイはベッドに腰掛けたまま,二人を振り返り,[それだけの話さ。]と言って締め括った。
だが,エマの心はまだ締め括れておらず,眉を下げてレイを見つめていた。
〚『それだけ』って……。6年どころじゃない。レイはずっと,この苦しみを抱えて……〛
[お前が条件守りきるって判断できたら,話すつもりだった。]
[…!]
〚?……“条件”…?〛
『全員を諦めろ。』とノーマンに言ったことを知らないエマは,キョトンと首を傾げたが,ノーマンは考えるように眉を寄せた。
レイは構わず,立ち上がると,[ついでにわかったろ。]と話を続けた。
[えっ…?]
[**『本部』と『近接する5つの飼育場(プラント)』。それがこのGF農園(ハウス)。門は逃げ道にならない。**その先,すぐそこにゃ見張り番数匹って数じゃない。鬼や大人がうじゃうじゃいる。]
レイのリアルな表現に,エマは一気に青褪めた。
[それってマズイんじゃ…]
[ちがう!だからこそ商品(オレたち)への警備が甘い。この先も同じ。家族ごっこでのびのび育てる。ロクな警備強化はされないって言えるんだよ。]
エマの言葉を遮って,ハッキリと確信してそう言ったレイは,次いで,ノーマンに目を向けた。
[話逸れたが明日の件だ。何にせよ,何もビビる必要はねぇ。発信器を無効化して,そのまま森に身を隠せ。]
[これを使え。]と言って,レイは一日中ポケットに入れていた物を,ノーマンにポイッと投げて寄越した。
それはキャンディーの小さなケースを使っていて,横側に2つの鉄の突起がある機械だった。
レイは右の人差し指で左耳を指し示す。
[左耳に当ててスイッチを押す。それで発信器を無効化できる。この方法ならママに通知されない。]
ノーマンの手に乗っている物を見たエマは,[それをカメラからつくったの?]と聞いたが,レイは小さく横に首を振った。
[カメラだけじゃない。今まで手に入れた報酬(ガラクタ)から色々と調達して……。カメラは主に,ストロボ部分が欲しかっただけだ。]
そう言ったレイから目線を外したノーマンは,もう一度手に乗るそれを見た。
〚6年かけて少しずつ……様々な報酬(もの)から。ママにバレないように──〛
[それと…]
ピッとレイは指を一本立てた。
[ロープは今,ドンとギルダがつくってる。予備シーツでな。今更ママにバレるもクソもねぇから,リネン室からパチらせた。その他,潜伏の準備も進めてる。その辺りの詳細は後で話す。]
[……ありがとう。]
心の底から感謝して,ノーマンはお礼を言った。レイはそれに口角を上げると,簡潔に作戦をまとめた。
[とにかく,明日,お前は姿消す。そんで,エマの足が治り次第脱獄だ。]
[わかった。]
[ノーマンは死なせない。]
エマがそう言ったのを合図に,レイ,エマが手を重ねた。ノーマンも,それに合わせて一番上に手を重ねる。
[全員!絶対生きて,ここを出よう!!]
夕食の準備中。イザベラは食堂の入り口でノーマンの肩に手を置いてにこやかに微笑んだ。
[みんな聞いて。いい知らせよ。ノーマンの里親が決まったの。急だけど,明日夜の出立よ。]
イザベラのその言葉と,嬉しそうに笑っているノーマンとを見て,全員,夕食の準備をする手を止めた。
[えっ…。]
[明日…?]
[おめでとう!]
[おめでとう,ノーマン。]
[お別れ?]
各々が各々の反応を示す中,ノーマンを慕っているシェリーは,持っていた皿をバリーンと落とした。
[えっ…ぇぇええええええ!!?]
[あぶない!]
慌てて,アンナが割れた皿からシェリーを遠ざけ,片付けた。
トーマとラニオンは若干顔に焦りと動揺を滲ませている。
[こんな……急に…。]
[寂しく……なる…よな…。]
トーマがラニオンに肩を回したのを見てから,ノーマンは他の子供達に目を向けた。
ドミニクは泣きじゃくるシェリーの頭をよしよしと撫でてやる。
[でもまだ明日もあるから。]
[おめでとう!]
[おめれろ!]
[明日,たくさん遊ぼうね!]
ノーマンは群がってきた子供達の目線に合わせてしゃがみ込んで,一人一人,優しく頭を撫でていった。
すると,相変わらず泣き止まないシェリーを,ドミニクが[ほら。シェリーもおいで。]と言って引きずってきた。
シェリーはノーマンの前に立つと,泣きながら,でも祝福するようにお祝いの言葉を絞り出した。
[おめ゛でとう……。]
シェリーのその様子に苦笑したノーマンは,でも,しっかりとシェリーを抱き締めた。
[…みんな,ありがとう。]
その様子をほくそ笑んで見ていたイザベラは,ちらりと,自身の右横にある棚の前に立つレイに目を向けた。
イザベラが口角を上げると,レイは忌々しそうに顔を歪める。
ドンとギルダは,その様子を,冷や汗を流して見ていた。
イザベラは子供達にニコリと微笑みかける。
[さ。じゃあ,晩ごはんいただきましょう。]
イザベラのその言葉で,子供達はそれぞれの場所へ散っていった。(シェリーは相変わらず泣いてノーマンにくっついていたが……。)
丁度その頃。エマは,兄弟が運んでくれた食事を眺めていた。
〚よかった。これでどうにかノーマンは死なずに済む。この作戦が上手くいけば──…〛
ズキズキと痛む足を振り切るように,エマはザクッとウインナーをフォークでぶっ刺した。
〚**こんなケガ,すぐ治す!!**すぐ治してすぐ逃げる!!ノーマンのためにも!!〛
夕食後,部屋に戻ったノーマンは,何か決意したような表情で自身のベッドに腰掛けていた。そして,自身のサイドチェストの一番上の引き出しを開ける。
ふと,中にあった物の内,見たこともない物を見て,ノーマンは手に取って訝しんだ。
[何だこれ…。]
それは,クローネが残していったペンだった。
翌日。11月3日 金曜日。
いつも通りだった。朝の6時に起きるのも,朝食を食べてテストを受けるもの,自由時間にみんなが鬼ごっこをするのも,全部,いつも通り。
エマは松葉杖を使ってレイがいつも居る木の側に立ち,空を見上げていた。木に背を預けて本を読んでいるレイは,**[大丈夫。]**と,口を開いた。
[うまく行く。]
レイを見て,エマは微笑むと,もう一度空を見上げ,祈るように[ノーマン……。]と呟いた。
一方その頃。ノーマンはドンとギルダから受け取ったロープを持って柵を越え,塀へと向かっていた。
やがて,塀の前まで来ると,ノーマンはその塀の前にある,高い木の内の一本に登ってその枝にロープをしっかりと巻き付けた。
木から降りて,一度確認のためにぐっと引っ張って問題ないことを確かめると,そのまま助走をつけて塀を文字通り駆け上がった。
(………ものスゲェやり方で上るなぁ…。)
コナン達は若干,遠い目で現実逃避をした。
その間に,ノーマンは何とか塀の上に上って『外』を確かめていた。
そこに見えた景色に呆然としたノーマンだったが,次の瞬間には口元に笑みを浮かべた。
自由時間が終わり,子供達がハウスの前に集まる中,一部の年少者達がざわざわと騒いでいた。
[ノーマンは?]
[あれ?ノーマンいないの?]
子供達のその声を聞いて,イザベラは確かに周りにノーマンいないことを確かめると,発信器を追うためにコンパクトを取り出した。
ドン,ギルダ,エマ,レイは心臓がドクドクと鳴るのを感じていた。
ドンは,無表情でコンパクトを見つめるイザベラを祈るように唇を噛んで見る。
ギルダは,不安を感じながらも,大丈夫だと何度も自身に言い聞かせていた。
エマは冷や汗をかきながらも,ニヤリと口元に笑みを浮かべている。
レイも,エマ同様,冷や汗をかきながら,僅かに歯を見せてニヤリと笑った。
そして,イザベラも,コンパクトをしばらく見つめているとふっと笑う。
[[…!!?]]
イザベラは焦るだろうと思っていたレイとエマは,微笑んだイザベラに驚いた。
そして,イザベラはニコリとした笑みを崩さないまま,森側を見つめた。つられてエマ達もそちらを見て,驚愕に目を見開く。
[おかえりなさい。────ノーマン。]
ノーマンが薄っすらと暗い笑みを浮かべて,森から出てきていたのだ。
ドン,ギルダ,エマは驚愕に目を見開き,レイはノーマンを睨んで歯を噛み締めていたがくっ…!!と肩を震わせて顔を背けた。
[なんで………?]
呆然と,エマは呟いて,イザベラの前に立って微笑み返しているノーマンを凝視した。
[てめぇ…!どういうつもりだ!!]
医務室に入って早々,レイはノーマンの胸倉を掴み上げて問い詰めた。
[ここにいりゃ死ぬんだぞ!?今すぐ逃げろ!姿消せ!!]
[嫌だ。]
[[っ…!!]]
ノーマンはレイに掴み上げられたまま,口元に笑みを浮かべてハッキリとそう言った。
[逃げるつもりはない。]
[は……?]
[それより聞いてほしい,時間がない。報告したいんだ。逃げ道の下見。]
爽やかな笑顔で言うノーマンに,レイはやけくそでその体を離した。
ノーマンは崩れかけたバランスを取り,乱れた襟を直すと,悔しさで歯を噛み締めるレイの横を通り過ぎて格子窓へと近づき,その顔を映した。そして,レイとエマを振り返り,静かに口を開いた。
[崖だった。]
[え……?]
[塀の向こうは───崖だ。]
驚いて言葉を失っている二人に,ノーマンは見たことをそのまま伝えた。
[とても飛び降りられる高さではなかった。]
[………え……崖?]
[うん。シスターは嘘をついていなかったし,鬼は家畜(ぼくら)をナメてはいなかった。あの崖だから,巡回の必要がなかったんだ。]
やっと言葉を絞り出すことのできたエマに,ノーマンは頷くと,スケッチブックを開いて鉛筆で六角形を描いた。
[塀に沿って端まで行ってみたんだ。塀は二股に分かれていて,丁度60度ずつ。片側はやはり断崖だったけど,二股の塀の内には,まるで対称……そっくり同じ景色が広っがていたよ。レイのおかげで混乱はしなかった。]
つまりこういうことなんだ,とノーマンはスケッチブックに描きあげたものを二人に見せた。
[飼育場(プラント)は塀を挟んで隣同士。6つの区画の内,ここ,第3プラントの真西にあたるこの区画。恐らくここが本部。なぜなら,周囲は絶壁──だけど,この区画の先にだけ,橋があった。]
キュッとノーマンは第3プラントと示した場所の丁度反対方向の三角形の空間に2本の線を入れた。
ノーマンは橋を表す2本の線を指で指し示した。
[“逃げるなら橋から”だ。]
ノーマンがそう言った直後,コンコンッと扉が音を立てて開いた。
フィルがひょこっと顔を出す。
[ノーマン。ママが呼んでるよー!]
[ありがとう。今行くって伝えて。]
[うん!]
言われた通り,タタタッとイザベラの元へ向かったフィルを見送りながらスケッチブックを閉じたノーマンは,ポケットから発信器を無効化する装置を取り出してレイに差し出した。
[**これ,返すよ。**僕は使ってない。]
[…!?]
[だからまだ使える。エマとレイが出る時に使うんだ。]
〚『使って……いない』?〛
差し出された物と,その言葉に,レイはノーマンの肩を掴んで詰め寄った。
[お前……ッ!**つまり,最初から戻るつもりだったんだな!?**そうだ…。崖は戻って来たのと関係ない。こんな報告,潜伏しながらでもできるもんな!]
顔を歪めるレイに対し,ノーマンは無表情で向き合う。
[……っなんで……。言ったじゃねぇかよ,一緒に生きるって…。なのにお前は最初から──]
[うん,ごめん。嘘ついた。]
へにゃりと,ノーマンは眉を下げて謝ったが,反省はしていなさそうだった。
[**僕は間違えるわけにはいかないんだ。誰一人,しなせないために。**僕が逃げたら計画が狂う。脱獄が難しくなる。仮に,わずかでも,それじゃ困る。僕は万が一にも負けたくない。何を言ってもムダだよ。決意(きもち)は変わらない。]
ノーマンの頑固さに,レイは絶望してベッドに座り込んで頭を抱えた。エマも顔を俯かせる。
ノーマンは二人のその様子を見て,装置を机に置くと優しく微笑んだ。
[今日できるだけのことはやってきた。後は頼む。脱獄を必ず成功させて。]
ノーマンはそう言うと,二人の間に飛び込み,二人をきつく抱き締めた。
[あったかい……。今までありがとう。二人のおかげで,いい人生だった。楽しかった…嬉しかった…───幸せだった。]
レイは耐えきれず,目尻に涙を浮かべて,我慢するようにギュッと瞼を閉じた。
[くそっ…チクショウ……チクショウ…!]
[ねぇ,ノーマン…。]
ギュッと,エマは溢れそうになる涙を堪えて,ノーマンの服を掴んだ。
[やっぱり今からでも逃げよう?逃げて,森に隠れよう。]
ノーマンは二人から離れると,ニコリと微笑んだ。
[決意(きもち)は変わらない。さっきそう言ったでしょう。──それじゃ。]
まるで,本当に里親の元に行くかのような爽やかな笑顔で,ノーマンは二人に手を振ると,そのまま医務室を出た。
〚甘いんだよなぁ,二人とも。レイはなんだかんだ,僕が条件守るって信じているし,エマはレイの『問題ない』が,全て,年長5人想定だと気づいてもいない。どれもこれも選び取れるほど,世界は甘くないだろう。僕は二人を死なせたくないし,エマには誰一人切り捨ててほしくない。〛
ノーマンはそう思いながら,自身の部屋の扉を開けた。
〚『誰一人見捨てない』。夢物語の理想論かもしれない。“不可能”って誰もが諦めてしまう。だけど,だからこそ,僕も覆したい。諦めたくないじゃないか。──だから僕は,死を選ぶ。〛
自身のサイドチェストの引き出しを開け,中に入っている糸電話を取り出した。
その糸電話は,ノーマンとって,ただの糸電話ではなかったのだ。
[殺人事件だ──ッ!!!]
2039年。エマ達まだ5歳位の時。新年早々,エマはレイと雪合戦をしていた手を止めて,足元に転がる子供──ノーマンを見て,白目を剥いた。
[と思ったら違った!ノーマンが倒れた!!]
[風邪ね…。]
エマが慌ててノーマン抱き起こすと,体温計のメモリに眉を寄せたイザベラが呟いた。
そして,ノーマンを医務室に寝かせた後,子供達全員に言い聞かせる。
[いい?これからしばらくは医務室に近寄ってはだめよ。]
[はーい!!]
みんなが元気よく返事をする中,レイは横に立つエマへと顔を向けた。
エマが何とも言えぬ表情をしていることに気づいたイザベラは,もう一度,念を押すように言った。
[ダメよ?]
と。
無論,エマがそれを聞き入れるわけがなく,医務室に忍び込むと,コホコホと咳を繰り返しているノーマンのベッド脇にひょこっと顔を出した。
[あそびにきたよー!]
[エマ…!]
エマが来てくれたことにパッと顔を輝かせたノーマンは,でも自身が咳をしたことによってエマに背を向けるように身を捩った。
[いや,だめだよ。病気がうつっちゃう。]
[うつらないよ。]
ノーマンの言葉に,エマはニコッと微笑んで言った。
[私は風邪をひかないんだよ。だから大丈夫。]
トゥクン…と,ノーマンの心臓が鳴り,風邪とは違った意味で頬が赤く染まった。その時。
[誰から聞いたのかしら?エマ。]
[!…ママ……!!]
背後から聞こえてきたイザベラの声に,エマは慌てて振り返った。
イザベラは腰に手を当ててエマを見ていた。それにエマは,反射的に声を出す。
[私は風邪ひかないんだって,レイが……!]
[レイ……?]
[『馬鹿は風邪引かない』って本に。]
[!…はぁ……。]
イザベラが不思議そうに復唱したところで,レイがイザベラの後ろに立って本を指し示しながらそう言った。イザベラは頭を抱えて溜息をつく。
そして,エマとレイを抱えて医務室を出て行った。
そしてその分後。
[またまた来たよー!]
エマはニコッと笑って医務室に入って来た。
ノーマンは口元を押さえてバッと体勢を変えた。
[だめだよ。うつるし,ママに見つかるよ〜!]
[じゃ,うつせばいいよ!]
[え゛…!?]
エマはボスッと音を立ててベッドに乗り出した。
驚いたようなノーマンの声に,エマはニコッと笑う。
[そしたら一緒にいられるじゃない!]
ドゥギャーン…と,ノーマンの心臓が大きく跳ね上がった。と同時に,背後から近づいて来たイザベラに,エマの体は抱え上げられた。
エマがギャーギャーと文句を言っていると,イザベラは腰に手を当てて,もう一度[誰に聞いたの?]と聞いてきたため,エマは大人しく医務室の前の廊下で本を読んでいるレイを指し示した。
レイも自身が読んでいる本を指し示した。
[『他者(ひと)にうつした方が早く治る』って本に。]
[またお前か。]
レイのその言葉で,二人の出禁が確定した。
出禁となり,リボンで縛られ,椅子に座らされたエマと,バツ印が書かれたマスクを着用させられたレイ。
その姿に見かねた二人の姉と兄が声をかけた。
[まぁ……でしょうね。]
[なんでそんなにこだわるんだい?ママの言いつけは守らなきゃ……。]
[それに,ノーマンだって休まらないでしょ?]
最年長二人のその言葉に,エマは慌てて首を振った。
[だってノーマン,病気になるたびああして一人ぼっちなんだよ?さびしいよ!]
[エマ…!]
エマの言葉に,姉は感動したように目を輝かせた。
一方,レイも何か言うように身を乗り出す。
[んん”ん”ん”ん”ん”ん”んん”ん”ん”ん”ん”!!!]
[ご…ごめん。レイは何言ってるかわからない。]
普通にマスクをつけられただけでは喋れないことなどないのだが,何か仕掛けられているのか,レイは何一つ音として発することはできなかった。
それに兄は困り顔で謝る。
レイは胸の内で舌打ちした。
すると,それを聞きつけたもう一人の最年長が出てきて,集まってきた子供達全員に呼びかけた。
[よーし!かくなる上は,みんなで突撃☆お見舞いだ──っ!!]
[オ───ッ!!!]
[大丈夫かなぁ…。]
兄の心配を他所に,最年長の女子二人を筆頭に,全員でイザベラに交渉をした。
[ちょっとでいいの。ノーマンに会わせて。]
[お願い,ママ。]
[その気持ちはすばらしいけれど,体が治ってからね。]
イザベラが眉を下げてそう言ったのに,今度は年長者の男子軍が泣きながら必死に頼み込んだ。
[あいつを出してくれ──!]
[話をさせてくれ──!]
[声…っだけでも…]
[誘拐か。]
うっ…うっ…うおおぉぉ…!!!と泣いて懇願する子達に,イザベラは呆れて思わず,間髪入れずにツッコんだ。
すると,ドンとナットが草を持って嬉しそうに駆けて来た。
[森でヤクソー取ってきた!]
[?…それ,ただの草よ。]
そんなこんなで,押し問答は夜まで続いたが,誰一人として入れてはもらえず,ノーマンは一人医務室で〚いいなぁ…。〛と羨ましがっていた。
そしてその翌日。まだ風邪が治っていないノーマンは,また一人で医務室にいたが,その扉にはKEEP OUTと書かれた黄色いテープがキッチリと貼られていた。
〚ついにテープ貼られた……!〛
ズーンと,ノーマンは一人,気分が下がる。
その扉の向こう側では,リボンを巻き付けられたままのエマが扉越しに,ノーマンの咳の音を聞いていた。
暫くした頃,またもやイザベラの目を盗んでテープを剥がして医務室の中に忍び込んだ。
[きたよー。]
[!…だからダメだって,エマ!]
[はい。コレ,あげるね。]
〚コップ…?〛
[こら,エマ!!]
[ギャー!!!]
エマがコップをノーマンに渡した丁度その時。イザベラが腰に手を当てて医務室に入って来た。
イザベラはそのままエマの体を持ち上げて医務室の外に出て行った。
その際,エマはノーマンに[ノーマン,またあとでねー!]と言って手を振った。
〚また?あとで?〛
エマが出て行った後すぐ,ノーマンはもらったコップに糸が繋がれていて,それが部屋の外まで伸びていることに気がついた。
もしやと思い,コップに耳を当てる。すると,丁度,糸がピンッと張り,エマの声が聞こえてきた。
[もしもーし。ノーマン,聞こえる?]
[!……うん。聞こえるよ。]
嬉しさに顔を綻ばせたノーマンは,今度はコップに口を当てて呟くように言った。
それを聞いたエマは,横に座るレイに声をかけた。
[聞こえたって,レイ!]
[うん。]
本から顔を上げたレイは,口元に笑みを浮かべて頷いた。この様子から察するに,糸電話はレイ考案らしい。
するとエマは,嬉しそうに両手を突き上げた。
[やったー!これなら部屋の外でも話せるよー!!]
大声で喜んだエマに,レイは呆れて半目になった。
[馬鹿だな。そんな大声出したら意味ねぇっつーの。]
[あ,そっか。そうだね!]
医務室にいるノーマンも,エマとレイも,その様子を側で見ていたイザベラも,くすくすと笑い合った。
懐かしい,嬉しい思い出を思い出して,ノーマンは手に持ったコップをトランクの中に入れた。そして,それだけで,後は何一つ入れずに,トランクの蓋を閉める。
次いで,着替えたノーマンは,階段を降りていった。そこの踊り場で一度足を止めると,階下で待っていたイザベラに声をかける。
[準備できたよ,ママ。]
お互い,口元に挑戦的な笑みを浮かべる。
そして,玄関まで降りていったノーマンは,子供達に群がられながら分かれの言葉を送った。
[じゃあね,みんな。元気でね。]
[ノーマンも!]
[元気でね!]
[………]
みんなが口々にお別れの言葉を告げる中,エマは俯いて一言も話さなかった。
ふと,何かに気づいたイザベラがエマに問いかける。
[エマ。レイは?]
[医務室……。『見送りなんてしたくない』って……。]
そう言って,エマは,ノーマンが出て行った後の,医務室でのレイとのやり取りを思い出した。
[やっぱり嫌だよ。行かせちゃダメだ。今止めないと,ノーマン,本当に死んじゃう!]
[無理だ。もう…止められない。]
[…!!]
松葉杖をついて立ち上がったエマに,レイは俯いたまま,静かに首を左右に振った。
[そろそろ鬼達(やつら),門に来てる。ママの目もあるし,何より奴自身,完全に死ぬ気でいる。]
そう言うと,レイは悔しそうに頭を抱えた。
[死にたくないはずなのに……。怖くてたまらないはずなのに……。]
[じゃあやっぱり止めないと……!]
[ダメだ!]
エマの声を遮ってレイは短く叫ぶと,僅かに顔を上げた。
[下手に動いてとっ捕まって,本部(オニ)に俺達の脱走意思(けいかく)がバレてみろ。それこそあいつは犬死だ。何もできない…。できないんだ。チクショウ…!]
思い出して,エマは俯かせていた顔を更に俯かせた。
ノーマンはもう玄関から出て行こうとしている。
エマはギュッと松葉杖を握った。
〚何もできない……。ただ…見送るだけ?犬死が一番ダメ。全部,家族(わたしたち)のため。わかるよ,わかる。わかるけど………わかりたくない!!〛
エマはバッと顔を勢いよく上げると,数歩松葉杖で,後は飛び上がって,ノーマンに向かって行った。
[!…エマ…。]
[ママの目を引きつける。]
[…!!]
別れを惜しむかのように抱き着いたエマは,スッと,ノーマンの左耳に装置を近づけて囁いた。
[お願い。逃げて。]
そう言うと,グンッとケガをした右足を持ち上げ,一気に床へ叩きつけようとする。
意図を察したノーマンは,グッと力を振り絞ってエマを床に倒した。
反動で自身も床に転がったが,慌てて起き上がると,装置をひったくるようにエマの手から奪って子供達とイザベラから隠した。
[馬鹿!無鉄砲にもほどがあるぞ,エマ!今君がすべきことはこれじゃない!!]
[うるさい,いやだ!行かせない!!]
突如始まった二人の言い争いに,年少者は不安になって[ケンカ…?]と呟いた。ただ一人,イザベラは投げ出されたノーマンの帽子とエマの松葉杖とを拾い上げている。
ノーマンは苦しそうに顔を下げた。
[どうして解ってくれないんだよ……。僕はそんなこと,これっぽっちも望んでいないのに…。ただ笑って見送ってほしい……。僕の決意(きもち)を汲んで…]
[イヤ!死にに行く決意(そのきもち)だけは尊重できない!!『本当は嫌』なら尚更だ!!!]
驚き,ノーマンは目を見張った。
〚**ほら,これだ。**無茶で,無謀で,甘くて,幼稚で……**けど,まばゆいくらいに真っすぐで。**一生懸命考えたんだろうな……。てんで滅茶苦茶だけど。でも,エマはわかっていない。その気持ち,その思いだけで,どれだけ僕が幸せだったか。だから僕は,辛くても,怖くても,笑顔でいられた。今も笑って逝けるんだ。〛
ふっと悲しそうに微笑んだノーマンは,エマの頬に手を伸ばした。訝しむような表情をしていたエマが,次の瞬間,恐ろしいものを見たかのように表情が強張った。
同時に,ノーマンの頭にも何かが被さる。
[時間よ,ノーマン。]
無慈悲なその言葉に,ノーマンはニコリと微笑んで**[うん。]**と頷いて立ち上がった。
[待って!]
エマは慌てて自身の元を離れて行ったノーマンに手を伸ばすが,右足が骨折していて動けず,その場で固まった。
イザベラはエマの正面に座り込んで窘める。
[エマ,落ち着きなさい。寂しいのはわかるけれど,お転婆がすぎるわ。]
そして,その耳元に唇を寄せて低く囁く。
[**次騒ぎ立てたら殺すわよ。**ムダなのよ。あなたは何もできなかったの。諦めなさい。]
[ママ。]
イザベラの言葉に凍りつくエマをちらりと見ながら,ノーマンは松葉杖を持って声をかけた。
[最後に……エマにお別れをしてもいい?]
鋭い目で肩越しに振り返ったイザベラを見て微笑みながら,ノーマンは尋ねた。
それに,イザベラもニッコリと微笑んで[ええ。勿論よ。]と言ってエマの前から離れた。
[ありがとう。]
嬉しそうに笑ってお礼を言ったノーマンは,エマに松葉杖を渡して向かい合うように立たせた。そして,左手を差し出す。
[エマ…。]
[うん…。]
[ありがとう。]
[うん…。]
[騙してごめん。]
[うん…。]
[ケガ……増やさないでね。]
[うん…。]
[無茶のしすぎも。]
[…うん。]
[ちゃんと食べてね。]
[うん…。]
[脱獄(あと)を頼む。]
[うん…。]
うん…としか言葉を返さないエマに気分を害することなく,ノーマンは優しく微笑んで手を離した。そのエマの手には,ノーマンの手を握っていた時に渡されたのであろう装置があった。
ノーマンはエマに近づくと,その頭を自身の肩に置いてしっかりと抱き締めた。
[大丈夫。絶対諦めないでね。]
ノーマンの言葉に,悔しさを押し殺すように,エマは歯を噛み締めて,
[うん……。]
と頷いた。
エマの返事を聞いたノーマンは,満足したようにエマから離れ,ドンとギルダに向き直った。
[ドン,ギルダ。エマとレイのこと,頼んだよ。]
[!…おう!任しとけ!]
[うん…。]
ぎこちなく笑って頷いた二人に,ノーマンは改めて微笑みかけると,泣きながら近寄ってきたフィルとシェリーの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
[シェリー,泣かないで。最後くらい,笑って見送っておくれよ。]
[うっ…うっ………うん!]
[フィル。どうか,僕の代わりにエマを助けてあげて。]
[うん…!]
シェリーの目尻を指で拭ってやったノーマンは,二人に微笑みかけると,立ち上がって**[じゃあね,みんな。]**と改めて言ってから,扉を押してイザベラと共に出て行った。
その瞬間。エマは膝から崩れ落ちてしまう。
[[エマ…!]]
ドンとギルダが慌てて支えても,エマは俯いて唇を噛み締めていた。
一方,ノーマンは,イザベラについていきながら,廊下を歩いていた。
ふと,立ち止まって視線を階段の踊り場へ向ける。そこの手摺に凭れ掛かって腕を組んでいるレイを見つめれば,レイは僅かに,肩越しに振り返って光のない瞳をノーマンに向けた。
ノーマンはニコリと微笑んで先を行くイザベラについていった。
カンテラとトランクを持って夜の森をノーマンと共に歩きながら,イザベラはポツリと呟いた。
[空っぽなのね。トランク……。]
[うん。ほぼね…。]
ノーマンは目線を前に向けたまま,続けた。
[必要ないから……。だって,何を入れても持って出ることはできないでしょう?]
イザベラはそんなノーマンを見て,嬉しそうに微笑んだ。
[あなたなら決して逃げない。わかっていたわ,私には最初から。あなた,優しい子だもの。立派よ。あなたは正しい。これでレイとエマは満期で出せる。]
ノーマンは,漸くイザベラを見上げて尋ねた。
[『決められた時間,最期まで』,『お家の中で幸せに』?]
[そう。『幸福な一生』。]
前を向いたイザベラを見つめて,ノーマンは少し考えると,問い詰めるような空気を放って口を開いた。
[ねぇ。ママは幸せ?]
[…!!]
イザベラが目を見開いて動揺したのを見逃さなかったノーマンは,じっと,答えが来るまで待ち続けた。
イザベラが動揺したのを証明するかのように音を立てて揺れたカンテラが落ち着くのと同時に,イザベラはノーマンを振り返って微笑んだ。
[ええ,幸せよ。あなたという子に会えたもの。]
イザベラがそう言い切ると同時に,門の前まで来た二人は,既に上がっている鉄格子の下をくぐり抜けて門の中に入った。
止められてあるトラックの荷台の前に立ち,冷や汗を浮かべて見上げたノーマンに,[こっちよ。]と,イザベラは荷物を置いて声をかけた。
[え…?]
[この部屋で少し待っていて頂戴。]
そう言って,イザベラは,ノーマンが近づいて来たのを確認してから,両開きの扉を開いた。
俯いていたノーマンは,その明るさに顔を上げると,目を見開いた。
[え……。]
ノーマンのたった一文字のその呟きは,扉を閉める大きな音に掻き消された。
翌日。最年長が一人減ったからと言って特に何かが変わるわけではなく,ハウスの一日はやはり鐘の音で始まった。
ただし,レイとエマは以外の話である。
医務室から出てきたエマには,いつもの溌剌とした笑顔はなく,気怠そうに食堂に入ってきた。
ケガのせいではないことは全員,わかっていたので,そっとしておこうと,心配しながらもそう思って見守っていた。
一方,レイの方はというと,レイ自身,朝は弱い方だったが,その日は寝付けなかったのか,目の下にクマを作っていた。そして,弟妹達の着替えの手伝いをドンに任せてのろのろと食堂に向かって行っていた。
食事の時も,レイが幼い弟妹が重いものを運んでいた時に[それは俺が運ぶから,皿並べときな。]と,ギリギリ聞き取れたくらい小さな声で言っただけで,他には口を開けてすらいなかった。食事前の祈りを捧げるところでも,二人共,髪で顔を隠しているし,食事時も,席が隣同士であるにも関わらず,二人でお互いに話すということもなかった。
テストでもそうだ。相変わらずフルスコアを叩き出したのには代わりはないのだが,レイはいつも以上に興味なさげ(というより,心ここにあらずである。)であるし,エマはいつものように両手を上げて大喜びすることもなかった。
自由時間になっても同じだった。エマはノーマンの姿を探すようにキョロキョロとしているし,そうでなくても,医務室にもほとんど籠もりっぱなしだし,たまに外に出ていつもの木に背を預けて座って妹達の相手をしてあげている時も,ぎこちなく笑うだけだった。
それは4歳のフィルでもわかるほどの異常さだった。
[エマ,今日も元気ないね……。]
ノーマンが出て行ってから数日後。フィルは木陰に座るエマを心配そうに見てドンとギルダに声をかけた。
そこに,トーマとラニオンも入ってくる。
[エマだけじゃないぜ。]
[レイもだよ。]
レイはノーマンが出て行ってからここ数日,ずっと図書室に籠もっていた。無論,読書をしているのだが,いつもならば本を丁寧に扱っているのに,最近は乱雑に広げて,その中に溶け込むように,本棚に凭れ掛かっているのだ。つまり,読書に集中できていない様子だということ。
フィル,トーマ,ラニオンは心配そうに眉を寄せた。
[二人とも,寂しいんだね…。]
[まぁ…3人,仲良かったからな。]
ドンとギルダは顔を見合わせると,決心して木陰に座るエマに声をかけた。
その日の夜。見かねたドンとギルダは,話がある,と言って,エマとレイを食堂に集めた。
レイは俯きながら,椅子に少々荒く腰掛ける。
[何?話って……。]
レイの様子を心配しながらも,ドンは切り出した。
[これからどうすんだよ。早く考えて農園(ここ)を出ねぇと…]
[もういい…。]
ドンの言葉を遮って,レイは僅かに顔を上げて言った。
[もう,いい。農園(ここ)で死のう。]
[……え。]
レイの言葉に,エマは驚いて目を見開いた。レイはポツポツと呟くように続ける。
[無理だ。周り崖だし,橋も本部から出ている一つだけ。]
そう言うと,レイは上半身ごと,ひどい猫背で俯いた。
[何より,疲れた。]
[なっ…!?]
[疲れたんだ……。]
言葉を失う二人の代わりに,エマは一歩,レイに近づくと,ポケットに入れていた装置を取り出してレイに見せた。
[……じゃあ,コレは?]
[要らない。お前にやるよ。逃げたきゃ逃げろ。俺は降りる。]
そして,ゆっくりと,レイは顔を上げた。その表情には絶望しかなく,瞳も,光も温度すらも無かった。
[……ごめんな,エマ……。]
エマは顔を歪め,松葉杖で出せる速度の中で最速のスピードで食堂を出て行った。
[エマ!!]
エマの背中を見送るしかなかったギルダとドンは,今度はレイに向き直った。
[おい,レイ……]
[ごめん…。]
[[…!!]]
[……ごめんな。ドン,ギルダ……。]
そう言ったきり,黙り込んでしまったレイを見て,二人は苦しそうに顔を歪めた。
翌日。昼の自由時間に,森の中で,ドンとギルダの二人は話して合っていた。
[エマもレイも別人よ。これで,本当に脱獄できるのかしら……。]
不安そうに呟くギルダの言葉に,ドンは落ちていた石を一つ手に取った。
〚ノーマンはいない。俺達はバラバラ……。〛
見つめていた小石をポイッと捨てて,ドンは溜息混じりに,自分自身にも言い聞かせるように言った。
[ビビったって仕方がねぇ。俺達だけでも,頑張ろうぜ。]
[うん……。]
今後のことについてもっと具体的に話し合うため,二人は森の奥へと入っていった。
丁度その頃。エマは医務室のベッドに身を投げだしていた。
手に持った装置を見ながら,そして泣きながら,エマは自分をひたすら叱咤しようとするが,うまくいかない。
〚どうしよう。ダメだ。息が苦しい…。**考えなきゃいけないのに。頑張らなきゃいけないのに。頭が…体が…動かない。**そうだ。私は今まで,ノーマンがいつも隣にいてくれたから,頑張れたんだ。〛
装置を枕の下に突っ込み,エマはその手を見つめた。
〚ノーマンがいない。レイまでも…。私一人……私一人!!──できるのかな。皆逃がし,生き延びる。そんなこと……。私は何もできなかった。ノーマン一人,逃がせなかったのに……。無理だ。どうすれば……。できないよ,ノーマンがいなきゃ。足が痛い。胸が苦しい……。ちがう!ダメだ,ダメだ!動け!!〛
ふと,頭上に影が差し,エマはハッとして顔を上げた。
そこには,自身を冷ややかな目で見つめるイザベラがいた。
[ノックはしたのよ。聞こえなかった?]
慌てて,エマは上半身を起こす。イザベラはそれを待っていたかのように,半身を起こしたエマを抱き締めた。
[かわいそうに…。辛いのね。苦しいのね。ノーマンは死んで,レイはあのザマ。あなた一人じゃ何もできない。──羽をもがれ,逃げ道を閉ざされ,その上,心の支え(なかま)まで失って……かわいそうに。絶望の極みね。脱獄はもう絶対に叶わない。]
イザベラはエマの横に腰掛けた。
[**諦めてしまいなさい。絶望に苦しまずに済む一番の方法は諦めることよ。**そういうものだと諦めてしまえばいい。楽になれるわ,簡単よ。抗うから辛い。受け入れるの。]
そう言って,されるがままのエマを,イザベラは自身の肩に引き寄せた。そして,ポンポンと泣いている幼子を落ち着かせるように,その肩を優しく叩く。
[私はね,エマ。もしあなたが望めば,あなたをこの農園の飼育監(ママ)候補に推薦しようと思っているの。]
[飼育監(ママ)……候補?]
[そうよ。大人になって,子供を産んで,能力が認められれば,飼育監(ママ)や補佐(シスター)としてまた,このお家(ハウス)に戻って来られるの。あなたにはその資格がある。あなたが望めば,私は喜んであなたを推すわ。]
キッと奥歯を噛み締めたエマは,漸く自身の意思で動き,イザベラの肩から顔を離した。
〚誰が──〛
[『誰がそんなものに』。そう思った?]
イザベラはエマの考えんとすることを読んでいたらしく,エマの心の声を代弁した。
[じゃああなたには一体何ができるの?何もできない。誰も救えない。ただ死を呪う苦しみの連鎖よ。]
そう言って,イザベラはエマの頬に触れた。
[生きて飼育監(ママ)を目指しなさい,エマ。絶望を受け入れて,楽になるのよ。無茶な理想論・幼稚な正義感・不可能な脱獄・どうにもならない現実への抵抗──飼育監(ママ)になって全て諦めてしまいなさい。楽になりなさい,エマ。]
顔を歪め,ベッドのシーツを握り締め,エマは言葉を絞り出した。
[いやだ……。それだけは,できない……。]
イザベラは失望したように表情を消すと,スクッと立ち上がった。
[いいわ。じゃあせいぜいのたうち回って死を迎えなさい。私も農園も逃がさない。あなた達は逃げられない。今一度,存分に思い知りなさい。]
そう言うと,イザベラはさっさと扉の方に向かって行った。
医務室から出て行く直前に,泣き続けるエマを肩越しで振り返ったイザベラは,少し悲しそうな表情を浮かべて部屋を出て行った。
次に,イザベラはレイの元へと向かった。
発信器など確認しなくても,図書室にいることはすぐにわかったし,案の定,レイは本棚に凭れ掛かって力なく座り込んでいた。
図書室には,レイ以外誰も居らず,いつもよりも異常な程にゆっくりした動作でページを捲っている。
イザベラは笑みを浮かべてレイの横に座った。
レイは若干顔を上げて,前髪の隙間からイザベラを見つめた。だが,その目は絶望一色に染まっている。
イザベラはその目を見つめ返しながら,ニコリと笑った。
[よかったわ。あなたが諦めてくれて。それでも最後まで私の従順な牧羊犬(イヌ)であってほしかったけれど……まぁいいわ。]
イザベラの言葉に,レイは軽く唇を噛んで目を逸らすと,イザベラはレイの頬を両手で包み込み,無理矢理目線を合わあさせた。
[**これでわかったでしょう?脱獄なんて不可能。淡い希望なんて,すぐに朽ちて絶望へと変わるのよ。**出荷まで,そのまま,大人しくしていてね,レイ。]
レイは眉を顰め,顔を振ってイザベラの手から逃れようとするも,存外強い力で掴まれているため,うまくいかず,目だけを逸らして屈辱に耐えた。
すると,イザベラは思い出したように,あ,と言った。
[今までお務めご苦労様,レイ。………でも,いつあなたが農園(ハウス)のことについて口が滑るかって,心配した時もあったわね〜。そう,例えば───スーザンの時とか。]
スーザンの名を出すと,ピクリと僅かに反応したレイに,イザベラはうっそりと微笑み,顔を近づけた。
[まさか,ネルのことで──小鳥一羽如きであんなに大揉めするとはね。しかもあなた,私があなたを試したのを判っててスーザンに口答えしたでしょう?まさかスーザンを逃がそうとしているんじゃないかってヒヤヒヤしたわ。]
[…………]
ゆっくりと,レイは視線をイザベラに戻して,小さく,呟くように口を開いた。
[……で?そう言うってことは,その時にはもう知ってたんだろ?俺がママの牧羊犬(イヌ)を申し出たのには,何か理由があるって。]
レイの言葉に,イザベラはニヤリと笑うと,小さく頷いた。
[**ええ。何か企んでいるのは判ったわ。発信器の実験にも。あなたの耳の変化に気づかないとでも思っていたのかしら?**ただ,こんな大掛かりな方法で,心の支え(なかま)を逃がそうとしているとは思わなかったけれど。]
と言って,イザベラは軽く肩を竦めてみせた。
[どうして泳がせたと思う?あ,“牧羊犬(イヌ)としてはまだ使えるから”というのもあるけれど,それ以外でね。わかりきっていることを言う必要は無いわ。]
[…………………]
レイは無表情で暫く考えると,合点がいったのか,不快そうに眉を顰めた。
イザベラはそれにより一層笑みを深くしたが,レイの考えていることを引き継いで言おうとしない。レイ自身で言えと言っているのだ。
既に崩壊しかけの精神を追い込むようなそれに,レイは唇を噛み締めてイザベラの手から逃れようとした。だが,やはり逃れることはできず,寧ろ,執拗に左耳を触られて急かしてきたため,屈辱に顔を歪めながら,ポツリと呟いていった。
[後々に,俺を抑えるためと………油断させるため……。あと………]
唇を噛んでそれ以上言おうとしないレイに,イザベラは,左耳の裏側──丁度発信器がある辺りを弄ることで早く言うように脅す。
レイは震える拳を握り締めて声を絞り出した。
[俺も………あいつらも……操って……………絶望のどん底に突き落とすため………。]
[あとは?]
[っ………俺を…無事,儀祭(ティファリ)に……出荷するため……。]
その答えを聞いたイザベラは,嬉しそうに微笑んだ。
[正解よ。さすがね,レイ。あなたが優秀で本当に嬉しいわ。]
[っ…!]
やっと手を離したイザベラに,レイは唇を噛み締めて顔を背けた。
つまるところ,レイは今までずっと,イザベラの掌の上で踊らされていたということなのだ。
悔しさと屈辱と怒りでレイはきつく拳を握り締めた。
イザベラはレイの体を抱き締めて,レイの心を,更に叩き壊すようにその耳元で囁いた。
[大丈夫よ,レイ。スーザンも他の子供達も,最期の瞬間まで幸せだったわ。それに,たとえあなたが子供達に恨まれようと,私はあなたを愛しているもの。]
〚っ……ふざけ──〛
[『ふざけるな。』って。今,そう思った?]
体を強張らせたレイの心を,今度こそ代弁して言ったイザベラは,ふふっと笑うと,子供をあやすように背中を優しく叩いた。
[**ふざけてなんかないわ。これは紛れもない私の本心よ。だってそうでしょう?──美味しい脳は,溢れんばかりのたくさんの愛情でできるのだから。**GF農園(ここ)の飼育方針を知らないとは言わせないわよ。]
あまりの屈辱に,レイは,皮膚が爪で破れ,血が僅かに滲み出るほど,強く拳を握り締めた。
イザベラはその様子を見て満足そうに笑うと,レイの頭をもう一度撫でてから,**[ちゃんと諦めてね,レイ。]**と忠告して,図書室を後にした。
イザベラの靴音が遠ざかると,レイは拳を思いきり床に叩きつけた。
「あのぉ……すみません…。」
高木が唐突に,でも控えめに,手を挙げて口を挟んだ。
全員の視線が高木に注目し,ノーマンが目で急かす中,言いにくそうに口を開いた。
「聞きたいことはいくつかあるのですが,一つに絞って,まず,“スーザン”とは誰のことですか?」
「──レイ。」
ノーマンがレイに言うように呼びかけるも,レイは俯いたまま言葉を発さなかった。代わりに,エマが答える。
「私達が9歳の時に最年長だった姉のことだよ。ここにはいないけど,ちゃんと生きてたんだ!」
生きていることに嬉しさしか感じないように,ホッと息をついたエマの言葉に,ん?と小五郎が突然腕を組んで考え込んだと思ったら,顔を真っ青にしてノーマンを指差した。
「忘れてたがお前!あの『ノーマン』なんじゃねぇか!何で生きてんだ!?まさか……ゆ,幽霊……!!?」
「うん。とりあえず一旦落ち着こうか。」
突然幽霊だと勝手に決めつけて騒ぎ出した小五郎に,ノーマンは若干引いた目でツッコんだ。
小五郎が多少落ち着いたところで,ノーマンはピッと指を立てて口角を上げた。
「それは後にわかる。楽しみにしといて。それより,そこの刑事さん。──高木さん。」
ノーマンが名を出すと,高木は驚いたように目を見開いた。
「えっ…えっと……僕,名乗ってないですけど…。」
「他に聞きたいことがあるのなら聞いていいよ。今後の映像に無いようなことなら答えてあげる。あなただけの特権。あなたはぶつくさ言うタイプじゃないからね。」
「あ…あの……聞いてました?」
何故名前を知っているのかと言外に聞いたにも関わらず,ノーマンはそれには答えることはなく話を進めていった。
高木は,小五郎達に何かを耳打ちされて渋々質問に入った。
「えっと,では……なぜ,食用児がやったことについて,口出ししてはならないのですか?」
控えめに言った高木の質問に,警察官全員,白目を剥いた。
それには構わず,ノーマンはニコリと笑って答える。
「それは確か,記憶にはあったけれど,でも,僕の思考だし,日本に来る時の飛行機内でのことだから,見せないから,説明するね。──僕達食用児は,鬼の世界を変えた。そのために,ずっと抗い続けた。鬼を殺してる子もいる。」
「…!!」
「何なら,俺は家族守るために人間殺してる。」
「なっ…!?」
「でも,そうでもしないと僕らは永遠に家畜。子々孫々,皆そうなってしまう。これ以上,誰も失いたくなかったんだ。絶対に……。」
ユウゴが途中口を挟んでサラッと「人間殺してる。」と言ったことに,全員が警戒の目でユウゴを見たが,ノーマンは構わず続けた。
「まぁ,要はね,食用児が今までやってきたことを肯定しなければ,食用児が『殺されてもいい』ってことを肯定していることになるんだ。だから,僕らのやったことに関しての口出しは,君達が余計なことを言ったら君達が即アウトになるってことさ。」
全員が睨むようにノーマン達を見る中,高木は「では,あともう一つ……。」と口を開いた。
「ここには鬼という生き物はいません。それに,君達はずっと“こちらの世界”と言ってきています。……どういうことでしょう?」
「それは後で──いや,もうすぐわかる。ソンジュが教えてくれるから。」
今度はレイが静かに答えた。
それに高木は頷き,「わかりました。ありがとうございます。」と言って引き下がった。
こいつらに聞いてくれ,と耳打ちしたことを聞かなかった高木に,小五郎が思わず掴みかかりそうになった時,ノーマンが満足したようにニコッと微笑んだ。
「さすが,すごいね!記憶にないものだけを答えるって僕が改めて言ったから,記憶にあるかないか極めつけがわからないようなことだけを聞いてきてくれた。質問を選んでくれたんだね。うん,いいよ。ありがとう。そこの探偵さんとは大違いだ。」
ニコニコと純粋無垢な笑顔でスラスラと流れるように毒舌で話したノーマンは,話し終えると同時に映像を再生させた。
早く脱獄の方を見たいのか,これ以上レイとエマとが苦しんでいる様子を見たくないのか,はたまた両方なのか,その答えはノーマンにしかわからないが…。
映像内では,数日後も,そのまた数日後も,レイもエマも,ただただ何もせず,皆に心配される中,ひたすらに時間だけが過ぎ行っていた。
イザベラは,その二人の様子をずっと監視していた。
[チェックメイト。]
そう呟いて,その場を後にした。
カレンダーに赤い斜線が引かれていき,紙が2枚捲れ,遂に赤いペンで丸がつけられて,Rayと書かれている日が来た。
そう。つまり,日付はノーマンの出荷から2ヶ月後の2046年 1月14日 日曜日。時間は23:38
エマは片方だけ松葉杖をつきながら食堂へ向かっていた。食堂に近づくにつれ,その扉の向こう側から歌声が聞こえてくる。
聞いたことのない歌に首を傾げつつも,エマがその扉を開くと,レイが机に凭れ掛かって本を手に歌っていた。
[♫〜♪♫〜♫♬~♪♪~♫]
[レイ……。]
エマが声をかけると,レイは歌うのを止めて,エマの方に顔を向けた。
ゆっくりとしたその動きに,エマもゆっくりとした口調で問いかける。
[……こんな時間に,何してるの?]
[………最後だから,ハウスにお別れを。]
[そっか……。レイ,明日,誕生日だもんね……。]
[そう……。今日が最後の夜。明日で出荷(おわかれ)だ。]
お互い,のろのろと話す。
だが,途端に,レイはいつも通りの,鋭さを持った口調で口を開いた。
[なぁ,エマ。お前……本当に諦めちまったのか?]
バンッという大きな音を立てて,レイは本を閉じると,確信してエマを見下ろすように顔を上げた。
そのレイの言葉に,エマはゆっくりと顔を上げて,ニヤリと不気味に笑った。
同時に,ノーマンが出荷されてからのことを思い出す。
崩れ落ちたあの時から,エマはずっと,挫けかけそうな心を叱咤してきていた。
〚行ってしまった。行かせてしまった…。私は,何も──〛
慌てて,エマはグッと拳を握り締める。
〚ダメ!!悲しむのは後!!嘆くのも後!!**考えろ。ノーマンのためにも,今,私がすべきこと!!**この先は,ママの直接支配。駒(レイ)を挟まず,直接に制御──。なら,ママは必ず“監視”する。私達を直に!一番の標的は,私とレイ。〛
医務室のベッドに寝転びながらも,エマは必死にすべきことをした。
〚今,私がすべきこと。それは──**何もしないこと。**爪を隠せ。牙を隠せ。ママが何を視てるかはわかってる。シスターが言ってた。『情報は言葉だけじゃない』んだって。こっちの計画,こっちの目的。何も探らせはしない。邪魔もさせない。些細な態度や反応もママは視ている。気取られるな。………私は何もできない。してはいけない。〛
グッとエマは悔しさで歯を噛み締めた。
〚辛いよ。苦しいよ。ただ悲しみたい。──ママは『諦めなさい』と言った。『諦めて楽になりなさい』と。でも…**誰が諦めてなるものか!**ノーマンを犬死ににはさせない。絶対騙しきってやる!!必ずママを出し抜いて脱獄を成功させてやる!!〛
そこで場面が戻り,エマはそのままの笑みで頷いた。
[うん,諦めてない。レイもでしょう?]
[ああ。お互い,結局考えることは同じ。諦めたフリして脱獄の準備を進めてたってわけだ。]
レイの言葉に,エマは肯定する代わりに口を開いた。
[逃げよう,レイ。その話をしに,ここへ来た。]
[丁度よかった。俺も話がしたかったんだ。]
レイは一旦机から体を離してエマに向き直った。
[この2ヶ月,ママの目気にしてロクに会話もできなかったもんな。]
[うん。私も,とにかくママに本当の狙いを気づかれたくなかったから。]
[『本当の狙い』?]
[そう。]
エマは頷くと自分が何もしない代わりに考えていたことを説明する。
[ママは手強い。私達は常に見張られていた。決して警戒を緩めない。私もレイも,あれだけ何もしていなかったのに,ママは監視を止めてくれなかった。本当に用心深い。でも,それならそれを利用すればいい。私に目を向けさせれば,私以外から目を逸らすことができる。]
[!…ドンとギルダか。]
レイが合点がいったように呟くと,エマは右手の人差し指と中指を立てた。
[ママの警備が固くても,その目は2つと限られている。私達に警戒が向けば向くほど,他は手薄にならざるを得ない。何かするのは全部任せた。訓練を始め,諸々の準備。]
[それで?どこまで進んだ?]
[道具や食料,防寒具の用意。全部済んでる。いつでも出られる。]
レイはエマの答えに感心したように[上出来じゃないか。]と顔を綻ばせた。
[あとは方法。どう逃げるか。]
[出る策も練った。考えがある。]
スッと,エマは松葉杖を持っていない右手を広げた。
[明日の昼,ここから逃げよう。]
[待て。昼に出るのか。]
目つきを厳しくすると,レイは片手を上げて待ったをかけた。
[無茶だろ。以前(まえ)と状況が違う。俺は出るなら夜だと思う。──まぁ聞け。座りなよ。]
手で指し示して,レイはエマに椅子を進めると,自分も近くにあった椅子を取って,椅子に跨り,背に手を置く形で座った。
エマも大人しく座ったのを確認してから,レイは口火を切る。
[いいか?塀の先が崖だった。崖からは降りられない。逃げるなら『橋』から。でも,その『橋』は一つだけ。しかも,本部から出ている。これが今,俺達が置かれた状況だ。]
ピッと,レイは指を2本立てたが,やはりそれは,エマやノーマンとは違い,親指と人差し指だった。
[で問題は2つ。①ママの目 と,②橋の警備。]
[①ママの目で問題なのは,『私達への監視』と,『常に弟妹(だれか)を抱えていること』──でしょ?昼間もそうだし,ママは夜も,赤ちゃんと同じ部屋。]
[そう。だからまず,逃げる時にはママの監視をふりきって逃げなきゃならねぇし,ママとチビ達を切り離さねぇ限り,全員での脱走は難しい。]
舌打ちをしたそうに一瞬だけ顔を歪めたレイは,次の問題に入った。
[次に②橋の警備。唯一の道だ。元から見張りは置いてるだろうし,脱走騒ぎが起きりゃ,必ず警備が殺到する。そうでなくても本部の先だ。近くにあの化け物がウジャウジャいる。]
レイはそう言うと,話をまとめた。
[つまり,ママに止められたら終わり。本部へ脱の通報をされたら終わり。橋で見つかったら終わり。まぁ普通諦めるしかねぇ,“不可能(ムリ)”だ。──さぁ,どうする?エマ。]
レイはエマを試すように見ると,スッと立ち上がって,机に置いておいた段ボール箱を開けた。
[俺はこれが一番だと思う。]
エマは座ったまま,その中身を覗き込んだ。
[──オイル?]
[火事を起こすってこと?]
[そうだ。]
頷きながら,レイはオイル缶を一つ,箱から取り出した。
[ママが消火に手を取られている隙に,『避難』って形で全員を連れ出す。その際,地下室へ続く扉の鍵穴に粘土でも何でも詰めちまえ。ママはそれで通報できない。それで,本部にはあくまで『火事』と思わせる。『脱走』じゃなく。そうすれば警備は『橋』へ向かない。少なくともしばらくは。そして,夜なら姿も隠しやすい。逃げるなら夜だ。]
そう言うと,レイはニッと笑って人差し指を立てた。
[あと,オマケでもう一つ用意した。火炎瓶10本。森の中,“死角になる岩”の陰に隠してある。]
[火っ炎瓶!!?]
[6年越しの計画ナメんなよ。]
サラッと火炎瓶を10本も用意していると言ったレイに,エマは白目を剥いた。
無論,コナン達もである。
コナンは驚いて現実のレイを見上げると,「どうやって用意したの?いや,オイルもだけど。」と反射的に口がその言葉を紡いでいた。
レイはニッと口角を上げると,人差し指を口元に当ててウインクをしながら,「秘密♪」と言った。髪の隙間から見える左目は,とても楽しそうだった。
映像内のレイは,エマの動揺を無視して話を続けた。
[で,火炎瓶(そいつ)を『橋』へ向かう途中,隣の飼育場(プラント)に投げ入れろ。上手く行きゃ,第3(ここ)の他にも火事が起こって人手が割ける。夜だから森に誰もいない,誰も死なない。]
スッと誘うように両手を広げて,レイはエマに顔を近づけた。
その表情は楽しそうだった。
呆然としてレイを見上げるエマに,レイはそのままの姿勢で**[できるか?]**と尋ねた。
答えないエマに代わって,レイは一旦エマから離れて話し出す。
[ドンとギルダは多分…今もまだ起きてる。弟妹(みんな)も動ける。隊列組んで逃げるのは,訓練で鍛えてる…。]
そこまで言って,レイはちらりと心配そうにエマの足を見た。
[まさか,その足…まだ……]
[大丈夫!]
スクッと勢いよく立って右足を床に打ち付けた。レイは[よし。]と満足そうに頷いた。
[じゃあ,今から決行しよう。]
カコッと音を立てて手に持っていたオイル缶のキャップを開けたレイは,エマに背を向けて,床にその中の液体を溢していった。
エマはその様子を,立った時に落とした松葉杖を拾って不安そうに見つめていた。
[レイ……。]
[大丈夫。]
[…?]
エマの不安を感じ取ったのか,レイは,新たなオイル缶を手に取って中身を床に撒きながら,呟くように言った。
[食堂(ここ)は子供(みんなの)部屋から一番遠い。火が回る前に,ちゃんと逃げられる。]
どいてろ,と,レイはエマを数歩下がらせてオイルを巻き続けた。そこで,レイはポツリと本心をエマに伝える。
[**本当言うとな,エマ。俺はやっぱり,『全員』には反対だ。**ムリだと思う。崖だったし,より一層。連れて行ってもドン・ギルダまで。それが正しいラインだと俺は思う。せめて,赤ん坊だけでも置いて行くべきだ。お前のためにも,その子(そいつ)のためにも……。]
エマが眉を下げるのに気づいていない様子だったが,それでも,レイはもう一つの本心も出した。
[まぁ,でも,お前は止めたって聞かねぇし,それでお前が逃げずに残るよりゃいい……ずっといい。だからこれ以上は言わない。最終的にはお前が決めろ。]
カランッと,レイは空になった缶を床に投げ捨てた。
[さぁ何してる。ドンとギルダに伝えて来い。]
[……ねぇ,レイ…。一つ,気になったんだけど…]
[ん?]
エマの言葉に,レイは肩越しにエマを振り返った。そのエマの表情は,とても言いにくそうだったが,エマは意を決してレイの作戦のある一つの問題点を上げた。
[火事を起こしてもさ……ママがもし建物を放棄したら?ママは火を消すことを諦めて,私達商品から目を離さないかもしれないでしょ?]
[……気づいた?]
[え?あ…うん…。]
レイはエマの最もな疑問に肯定しながら,新しいオイル缶に手を伸ばした。
[そう,確かに。その可能性も存分にある。ただ火事を起こすだけじゃ不十分だ。確実にママの手を塞がなきゃ,ママから逃げる隙をつくれねぇ。]
ゴクリと,エマが唾を飲み込むと,レイは[でも問題ない。考えてある。]と言ってオイル缶を手に取った。
[シンプルな話さ。──こうすればいい。]
カコッとキャップを開けてそのキャップを机に置くと,レイは左手に持つ缶をゆっくりと,徐々に徐々に上へ上げて行き,そのまま,頭からオイルを被った。
「!…なっ…!?」
「え…!?」
[レイ!!?]
コナン達も,映像内のエマも,驚いて声を上げた。
レイはオイル缶丸々一つを被ると,ニヤリと,楽しそうに笑った。
[サイッコーだろ?出荷が決まってる最上物(フルスコア)が燃える。絶対に捨て置けない…!この日を待っていた。]
ガンッと,レイはオイルで水浸しの床に缶を投げ捨てる。
濡れた前髪の隙間から,エマを見て,レイは呟くように口を開いた。
[ずっと前から決めていたんだ。何年も……何年も前から。ガキ臭い腹いせさ。俺はね,エマ。もともと,勉強も読書もさほど好きじゃないんだよ。でも,我慢して…努力して…吊り上げてきた。自分の値打ちを…最上級にまで!]
ニヤリと口角を上げて,レイは天井を見上げる。
[12年…待ちに待たせた最上物(ごちそう)だ,俺は…。それを今夜奪り上げる。お楽しみの収穫目前で!]
天井から顔を背けたレイは,目の前に,鬼やイザベラがいるかのように,ありったけに叫び出した。
〚レイ……。〛
そう叫んだレイは,次いで,顔を俯かせてポツポツと,苦しそうに話し出す。
[それに,これでいい……。これでいいんだよ,エマ。俺は今まで,何人もの兄弟を見殺しにしてきた…。みんな,いい奴らだったのに……。優しい人達だったのに……。]
[…っ……!待って…]
[動くな。]
何言おうとしたエマに,レイは片手を上げて鋭く待ったをかけると,顔を上げてしっかりとエマに託す。
[いいか,エマ。チャンスは一度きりだ。うまくやれ。俺の命も,ノーマンの命も,無駄にするなよ。……頼むから。]
言葉を失って立ち尽くすエマに,レイは[あ…そうだ。忘れるところだった。]と呟いて最後に読み終えたばかりの本を手に取って,[やるよ。]とエマに投げ渡した。
エマは慌ててそれを受け取り,表紙の部分を開けると,驚いて目を見開いた。
[これ……。]
[例の報酬(カメラ)撮ったやつ。ストロボねぇから,ちょっと暗いけど。]
エマの視線の先には,たくさんの写真が挟まれていた。
〚家族(みんな)の写真…。全員(みんな)の……。〛
そこまで思って,エマは〚あれ……?〛と小さく首を傾げた。
〚違う…。全員分じゃない……。レイがどこにも写ってない。レイの写真がない……!〛
そう。中にはあの時の,ノーマンとエマのツーショットの写真だってあるというのに,レイの写真は一枚もなかったのだ。
自分の存在を,根本から消そうとしている。
その事実に気づき,エマは顔を歪めて目尻に涙を溜めた。
その瞬間,ボーン…ボーン…と,時計が日付が変わったことを知らせる音がなる。
シュボッと,レイがマッチに火をつけたのを見て,エマはビクリと肩を跳ねさせた。
[時間だ。これで俺は12歳。]
そう言うと,レイは今まで見たこともないような,嬉しそうな笑顔で笑った。
[呪いたい人生だったけど,お前らとの時間はすげぇ楽しかった。]
[ダメッ…!やめて……]
[ありがとう。]
[…!]
まるで,死ぬことが幸せだと言うようなそんな笑顔で,レイはニコッと笑った。
フッと,自然な流れで,レイはマッチを落とす。まるで,そこにあるのが当然かのように,マッチが重力のまま,オイルが大量に撒かれた床に,吸い込まれるように落ちていった。
コナン達が走り出しそうになった時,ノーマンとユウゴが止める。だが,映像の人物には触れることはできないので,マッチが落ちると同時に踏み込んで走った映像内のエマも,微笑んでいるレイも,誰一人として止めることはできない。
今度こそ,本当に絶望しそうな表情を浮かべて走るエマを見ながら,レイは尚も笑っていた。自分が死ぬことで,何かいいことをしたような表情で。自分は,死ぬことが何よりの幸せなのだと言うように───
こんな,11歳(レイは12歳なったが)の子供が死ぬ覚悟をするのはおかしい,と,全員,そう思った。
コナンは耐えきれずにイザベラに声を上げる。
「ねぇ!こんなことにさせといて……平気なの!?」
「子供死なせて……しかも一人は焼身自殺……。ふざけんじゃねぇぞ!!」
「うるさい!!」
コナンに続いて小五郎も声を上げると,それに続こうとした警察官遮って,レイが声を上げた。
「もういい……もういいんだよ……。結局みんな,ママが大好きなんだからさ。」
レイがそう言うと,その場の空気が凍った。
小五郎が詰め寄ろうとすると,ノーマンとエマが止める。
「まさか,この先を見て尚同じことが言えるとでも思ってるの?──答えはNoだ。」
「これ以上ママを攻めるとか………許さないから。」
鋭い二人の静止で,渋々,また,映像を見る羽目になった。
すると,どこからかまた,歌声が聞こえてきた。
レイが食堂で歌っていた歌と全く同じもののようだが,無論,場面はこの日の夜の23:45に巻き戻っているし,場所は食堂ではなく,イザベラの部屋だった。
[♫〜♪♫〜♫♬~♪♪~♫]
イザベラは歌いながら,赤ん坊の頬に触れた。
〚いよいよ明日,レイ出荷。“もう”12年?“ようやく”12年?〛
自問自答しながら,イザベラは歌うのを止めると,赤ちゃんの部屋から自身の書斎へと移っていった。
〚満期出荷なんて何年(いつ)ぶりかしら。それも,儀祭(ティファリ)で捧げる〇〇様の御膳。絶対にしくじれない。〛
椅子に座り,書類を取り出して何かを書き込みながらも,イザベラは思考するのを止めない。
〚この2ヶ月。レイもエマも,本当に何もしていない。ドンもギルダも,見た限りでは大した動きはできていない。あの子達に打つ手はない。〛
「え?ドンとギルダも…?どういうことなの?だって……」
「大丈夫さ。すぐにわかるよ。」
イザベラの思考に疑問の声を上げた蘭に,ノーマンはニコッと笑って言った。
次いで,小五郎が青褪めてレイを指差す。
「てめぇも何で生きてんだ!?死んでるのに……!だって……ハア!?」
「そっちもすぐわかるから,オッサン。」
はぁ…と溜息をついたレイは,ピッと人差し指を映像内のイザベラに向けた。
「ちゃんと見ようぜ。……………ユウゴがキレる前に。」
サラッとユウゴを指摘したレイに,全員がハッとして,有無を言わさず,再生された映像の続きを見ることとなった。
映像内のイザベラは,羽ペンを置いて,机に置いてあったカンテラに手を伸ばした。
〚明日さえ越えれば……いいえ…。だからこそ,それまで気を抜けないわ。今夜は夜通し起きていよう。念の為,見回りも…。〛
その瞬間,ボーン…ボーン…と鐘がなり,イザベラはふっと微笑むと,カンテラを一度置いて,代わりに赤いペンを手に取って立ち上がると,壁にかけてあるカレンダーの1月14日のところに線を引いた。
そして,額をくっつける。
[お誕生日おめでとう。さようなら…]
[レーイ!!!]
[…!?]
突然響き渡った声に,イザベラはハッとして顔を上げた。
ペンをポケットに突っ込み,慌てて廊下へ出て,早足で大声が聞こえてきた場所──変な匂いのする場所を辿って行った。
[この臭い…!]
一階の食堂の前まで来て,そこから臭ってくる悪臭に,腕で鼻を覆いながら,扉を開けた。
[…っ……!!?]
そこでは,食堂が火の海と化していた。
その光景に絶句して,イザベラが立ち尽くしていると,ふと,目の前で,エマが膝をついて項垂れていること気づいた。だが,更にイザベラを驚かせたのは,そのエマがひたすらに叫んでいる言葉だった。
[レイ!!レイ!!!]
[レ…イ…?]
エマは目の前で燃え盛る炎に向かって,ひたすら**[レイ!!!]**と叫んでいた。
イザベラは慌ててエマに駆け寄る。
[エマ!]
[ママ……助けて…!レイが……レイが中に!!]
エマの言葉に,イザベラは,ゴオォ…と燃え盛る炎を見つめた。
〚何?これは……罠?火事を……起こして逃げる……。〛
いや違う…!とイザベラは目を見開いた。
〚この臭い,あの動揺…。!…発信器!!〛
慌ててコンパクトを取り出して開けると,自身の信号の近くに,2つの信号があった。一つは隣にいるエマ。そしてもう一つは炎の中に──
〚**反応がある…!!**策でも罠でもない。レイが中にいる。燃えている。なんてこと…。〛
蓋を閉じて,グッとコンパクトを握ったイザベラは,目の前に火のついたマッチを持ってこちらを無表情で見つめるレイが見えた気がした。
同時に,レイの考えんとすることが手に取るように理解できる。
〚**これは報復!!**あの子,自分に火をつけたんだ。自分を出荷させないために!〛
ニヤリと笑って,レイがマッチを落としたのが容易に想像できてしまい,チッ…!と,イザベラは舌打ちした。
〚ぬかった!!まさか最後にこんな形で抵抗してくるなんて…!**どうする!?**明日の出荷は!?**儀祭(ティファリ)…。**今“摘める”のは私のプラントだけ。しくじれない…!火を消す!!レイは捨てられない…!!〛
すぐにそう決めて,イザベラは一度食堂の外へ出ると,消化器を持ってきた。
[ママ!!]
[ギルダ!!兄弟(みんな)を外へ!私の部屋の子達もお願い!]
[はいっ!]
エマの叫び声が余程響いて聞こえてきたのか,はたまた,この臭いで起きてしまったのか,ギルダと数人の子供達が慌てて階段から降りてきた。
イザベラは,素早く指示を出して消化器を手に取る。一方,ギルダは,ハウスの外へ,子供達を出させていく。
イザベラは,もう一度食堂に入り,炎の前で消化器を構えた。
[せめて……せめて,脳だけでも…。]
そう呟いて,イザベラはエマに下がるよう指示して,消化器を使って火を消そうとした。
[レイ……。]
エマが小さく呟く声が聞こえたが,イザベラはくっと歯を噛み締めて消火に専念する。
だが,消化器も永遠に使えるわけではないので,プシュッ…と音を立てて使えなくなってしまった。
イザベラは消化器を横に投げ捨てる。
〚なぜ散水器(スプリンクラー)が作動しないの!?レイの仕業!?消火器ではダメだ。消火栓を開ける…!他の子達がみんな逃げきれたか点呼もしないと……!〛
バッと勢いよく振り返って,イザベラはエマに呼びかけた。
[エマ!あなたも早く逃げなさい。このままではあなたまで──]
だが,イザベラが振り返った先には,エマはいなかった。
イザベラは目を見開く。
[エマ?]
チャッと,コンパクトを取り出して開けてみると,近くに信号があった。
イザベラは,その場所へゆっくりと近づいていく。
[……エマ?]
目の前に信号があるところまで来たが,手洗い場のそこは,雑巾などが乱雑に置かれているだけだった。
信号が表す位置──丁度バケツが転がっている辺りにしゃがみ込んだイザベラは,そこにあるものに目を見開いた。イザベラは,震える手でそれを持ち上げる。
それは,人間の左耳だった。
「きゃあぁ!!」
蘭とその他数名が小さく悲鳴を上げると,何故かノーマンに思いっきり睨まれ,全員,押し黙った。
映像のイザベラは,ハッと気がつき,唇を噛み締めて立ち上がった。
[あの子達……何履いてた?]
イザベラがそう自問自答していた丁度その時。森の中を全速力で走る人物が一人。──エマだ。
エマの足元は茶色い靴で覆われている。
エマの姿を認めたクリスが,[あっ!来た!]と声を上げた。
[エマ!]
[はぁ…はぁ……ふうぅ…。]
肩で息をしたエマは,左耳を布で押さえたまま,バッと顔を上げた。
[おまたせ。──みんな。]
ニコニコと,全員が笑ってエマの目の前にいた。
その少し後ろにはレイもいる。レイは手当てしてもらった左耳を押さえて目を見開いていた。
[さぁ,逃げるよ!]
[オー!!]
混乱しながらも,レイは20分前の出来事を思い出した。
ボーン…ボーン…と鐘が鳴る。
笑顔で,レイはエマと向き合っていた。だが,その話の内容はとても笑顔になどなれないものだった。
レイが焼身自殺しようとしているのだ。
火をつけたマッチを持ったレイは,死ぬことこそが何よりの幸せだと心の底から感じているみたいに,嬉しそうに微笑んでいた。
[ありがとう。バイバイ,エマ。]
そう言って落としたマッチは,床に吸い込まれるように落ちていく。
エマは,全力で,そのマッチを取るため,体を低くし,手を伸ばしてマッチを両手で受け止めた。ついでに言えば,そのマッチの火はエマの手で消火された。
[え…。]
レイは条件反射でエマを避けたが,驚いて心の底からの声が出てきてしまう。
エマは体勢を整え,口角を上げて振り返ると,ぱっと両手を広げて見せた。
[ナイスキャッチ。]
[は?お前……っ!手……!!]
驚くどころかエマの手を心配したレイに,エマはグッと顔を近づけて囁くように言った。
[『ここじゃなくてもまだ死ねる。いいモノ見せてやるから黙って来い。』]
[は!?]
[ノーマンからの伝言!]
[え……。ノーマン…?]
一度,レイから離れたエマは,簡単に状況を説明した。
[わかってたの。レイがこうすることとか。ノーマン,全部気づいてたんだよ,出て行く前に。だから,止めろって言われてた。]
前言撤回。簡単というレベルではなかった。余計にわけがわからなくなるくらい,色々省きすぎだった。
珍しく感情を表に出して混乱しているレイに構わず,エマはニッと笑ったまま,もう一度レイに顔を近づけた。
[悪いけど,死なす気ないから。]
[…!]
[私とノーマンとあの子達が,レイのこと,絶対死なせないから!]
[!!?…『あの子達』?一体どういう……]
レイが言いかけた時,食堂の扉がコンコンッとノックされた。
エマが扉を開けると,そこにいたのは7歳のトーマとラニオン。
トーマが持って来た箱をエマに見せ,ラニオンがグッと親指を立てる。
[エマ。これ,頼まれてた物。]
[あと,もうみんな,準備できてるぜ。]
[ありがとう。トーマ,ラニ。]
エマがトーマから箱を受け取ると,トーマがシャツを,ラニオンが靴をレイに差し出した。
[じゃあ,レイ。着替えて。説明は後。]
[…!?]
混乱して動けないでいるレイに,エマはニッと口角を上げる。
驚愕に目を見開くしかなくなっているレイに,トーマとラニオンは服を押し付けて着替えるよう急かした。
レイは仕方なく,渋々,受け取り,机の端で着替えを始めた。
その間に,トーマとラニオンは,箱に入れて来た物を取り出し,オイルが撒かれていて,丁度レイが先程まで立っていた場所にそれらを並べていった。
エマが準備をしながらも,その様子を見ていると,後ろからレイが近づいてくる。切り替えが早いと着替えも早いんだなぁ,などと思いながら,エマは笑みを消さずに近くの椅子を示した。
[着替えた?じゃあ次。そこ,座って。]
[………]
未だ困惑を消せないままのレイだったが,自分は死なせてはくれないということは理解したのか,俯いて躊躇った。
[いや……でも…エマ。俺は……]
レイがそれ以上言葉を紡ぐ前に,エマは思いっきり,その頬を平手打ちした。
その反動で横に向いてしまったレイの顔を掴んで,エマは自分の方に無理矢理顔を向けさせると,腹の底から思いっきり叫んだ。
[まだ死ぬつもりかこのわからず屋!つべこべ言わずに逃げるの!]
[エマー!こっちできたー!]
エマの迫力に気圧されたレイは,引っ叩かれた頬擦りながらトーマ達に[うん!]と頷くエマを見つめた。
二人が『できた』と言った物に近づいたレイは,パチクリと目を瞬かせた。
それは,白いハウスの制服の上に,ハムやソーセージ,肉などを乗せた物だった。
[これは?]
[レイの代わり。]
ラニオンはスッと手に持っていた,開封後の肉のパックをレイに見せた。
[何もないよりはごまかせるってノーマンが。]
[少しでもそれっぽい臭いをつくるんだぜ。]
その声を聞きながら,床に広げられた『自分の代わり』とやらを見ていたレイは,その中に紛れるように置かれてある長い三編みの髪に目を留めて目を見張った。
[その髪……]
[アンナがくれた。]
[え……。]
スッとエマは医療用メスを右手に持って,左手を広げた。
[あとは発信器。取り出すから,そこ座って耳出して。]
[……っ…!]
[ほら,早く。]
エマに促されて,レイは戸惑いつつも椅子に腰掛け,長い前髪を手で退かした。
エマはニッと笑いながらレイの左耳を摘んでメスを走らせようとしたところで──一切の動きを止めた。
〚何…これ……。〛
その左耳の裏側は,切り傷や刺し傷,何かを潰したような,掻き回したような,そんな痕が無数にあった。
その傷はどれも古いものだったが,あまりの異常さにエマは絶句した。そこで,レイが発信器の実験をしていたことを思い出す。
〚まさか………これ…実験の痕……?じゃあレイは,兄弟(だれか)左耳(みみ)で実験してたんじゃなく,**自分の左耳(みみ)で**実験してたってこと……?──そうだ……。今思えば,レイはあの時,自分を悪役に仕立て上げて,いつでも私達が自分(レイ)を切り捨てられるようにしたんだ……!〛
その事実に至って,エマは顔を歪めた。
〚何で……?何であの時私は,レイを責めたの…?レイは『兄弟(だれか)を巻き込んだ』なんて言ってなかったのに……。〛
[エマ……?]
突然ピクリともしなくなったエマを心配するかのように,レイは肩越しにエマを振り返った。
エマはそれに,その瞳に,レイには気づかれないよう,更に顔を歪めた。
〚ほら。またこれだ。自分は二の次──いや,どうでもいいとすら思ってる。そう……。いつも……今まで,ずっと……何で……。〛
エマは,ニコリと,ぎこちなく笑って,[何でもない…。]と言うと,まだ何か言いたそうにしているレイの顔を前へ向けさせると,その傷だらけの耳にメスを走らせた。
[っ…!]
僅かに,レイから息を呑むような声が聞こえてくるが,エマは自分自身に対する悔しさと怒りと,レイに対する怒りで聞こえなかったフリをして先に進めた。
だが,中々発信器が取り出せず,苦戦してしまう。ポタポタと,レイの服の肩に血が落ちていくが,発信器を取り出せないと意味がないので,申し訳ないと思いつつも,更に切開していこうとメスを進めた。
だが,力を入れすぎていたのか,ガリッとかなり深く傷つけてしまった。
[いっ……!!]
ビクッとレイの肩が大きく跳ね,漸く悲鳴を漏らした。だが,それも短いもので,まだ声を我慢しているのかと,エマが苦しさに眉を寄せた時,レイが勢いよくエマを振り返った。
[お前下手すぎだろ…!不器用にもほどがある!!]
目尻に生理的な涙を溜めたレイは,そう声を上げて若干エマを睨んできた。
エマは慌てて謝った。
[え…ご,ごめんレイ!でも,おかしいな…。ノーマンのアドバイス通りにやってるんだけど…。]
[どんなアドバイスだったんだよ!お前,今絶対耳の神経傷つけたろ!?]
[え!?き,聞こえないの!?ごめん,レイ!!え…ちょっ………でも…ごめん…。もうちょっと頑張って…]
[いやだ。]
ハッキリといやだと言われ,うっ…と,エマは言葉に詰まった。
レイはエマの手からメスをひったくるように奪い去ると,エマが開いたところよりも横側(レイからすれば左側)に自分でメスを入れた。
[えっ…ちょっ…レイ!?]
[今の状況,正直言って何一つわかんねぇが,とりあえず発信器出せばいいんだろ?だったら自分でやるよ。それに,そもそも切開する場所が違うんだよ。]
ぶつくさ言いながら,何とも思っていないような表情で耳にメスを走らせ,血をポタポタと流しながら耳を弄り回して発信器を取り出したレイに,エマは今度こそ絶句した。
〚………そのやり方のほうが,絶対耳の神経傷つけそうだけど…。〛
と,エマが早くも現実逃避をしている間に,レイは,慣れた手つきで発信器を取り出すと,『自分の代わり』が置かれているところの上に置いた。
トーマとラニを先に食堂から出して,見張りさせといて良かった…。と,思わざるを得なかったエマであった。
次いで,エマは眉を下げてレイを見つめる。
〚あの慣れた手つき……あの傷の数……。どれだけ自分を犠牲にすれば気が済むの……。でも,あの様子だと,レイは多分,実験の痕が残ってるってことに気づいていない。ママが気づいてるのかはわかんないけど…。私……本当に……何で…あんな酷いこと……〛
[エマ…?]
またもやレイから心配そうな声がかけられ,ハッとしたエマは,スッと扉の方を指差した。
[トーマ達と先に行ってて。私はママの足止めをする。後から行くから。]
[え……でも…]
[いいから!ほら早く!私はレイみたいに死のうとしないから大丈夫!]
レイを背中を押して,トーマとラニオンに頼み,レイを強制退場させたエマは,食堂の扉を勢いよく閉めた。
〚ダメダメ!今は脱獄に集中!〛
ブンブンと首を左右に振ったエマは,机に置いてあるマッチ箱を手に取った。
シュボッとマッチ棒に火をつけたエマは,その火をしかと目に映す。
[さぁ。始めよう。──ノーマン。]
そう言ってレイが撒き散らしたオイルの中にそれを落とした。
勢いよく燃え盛る炎を見て,スゥッと息を吸い込むと,腹式呼吸で,思いっきり**[レーイ!!!]**と叫んだ。
続いて,今度はノーマンの記憶らしい。
出荷前,ドンに殴られた翌日,ノーマンは木陰で本を読むレイを,洗濯物を干しながら,じっと見つめていた。
〚レイは──死ぬ気だ。“僕ら二人を殺させないため”……レイはそう言った。自分を数に入れていない。始めから,農園(ここ)で死ぬつもりなんだ。〛
なぜ?と,ノーマンは胸の内でレイに問うた。だが,すぐにゆるゆると首を左右に振る。
〚いや,なぜであろうと絶対に阻止しなければ。〛
ハウスに戻ったノーマンは,レイの部屋に誰も居ないことを確認してから,滑り込むように部屋に入った。
そして,レイのベッドやその周りを弄る。
〚レイの性格から考えて,大人しく出荷されるとは思えない。何かする。何をする?レイは……一体,どう死ぬつもりで……〛
頭を回しながら,コンコンッと床を叩いていると,一箇所だけ音が違う場所を見つけ,ノーマンは床板を外した。
そこには,大量のオイルの缶があった。
〚**火か……。**読めてきた……。つまり,火事を起こすんだな。自分を燃やして火事を起こし,ママを引きつけ,僕らを逃がす。それがレイの計画。とんだ奥の手だ。〛
床板を元に戻して,ノーマンはレイの部屋を後にすると,廊下を歩きながら感心しつつ,策を練った。
〚でもさすが。すごいな…。あれだけの準備。いい作戦だ。レイさえ死ななければ,この作戦は使える──〛
次いで,ノーマンが出荷された日の昼間の光景へと移り変わった。ノーマンは崖を見た後,絵を描いているイベットに頼み,スケッチブックの紙を一枚だけもらうと,エマへの手紙を書き始めた。
そこで今度は木陰でドンとギルダに手渡された物を受け取ったエマが医務室でノーマンからの手紙読んでいる情景に変わった。
手紙の内容一部はこのようなものだった。
〚親愛なるエマへ。
この先の計画をここに記す。
決行は2ヶ月後。恐らく,レイの誕生日前夜。
レイが仕掛ける火事を利用して,レイを救い,ママを出し抜き,皆を連れて逃げるんだ。
詳細は以下に。
大丈夫。できる,逃げられる。
僕らの真の計画はバレていないし,時間もある。
それに,思いがけない品も手にした。鍵型とペン……。シスター・クローネからだ。
2ヶ月の準備,執るべき指揮。
頼んだよ,エマ。
どうか…レイを……兄弟(みんな)を……脱獄(あと)を頼む。〛
そこまで読んだエマは,耐えきれず,口元を片手で覆って涙を流した。
そこでまた場面が切り替わる。というか戻る。
左耳を押さえたエマは,全員に尋ねた。
[みんな,ちゃんと発信器壊した?]
[[うん!]]
アリシアとロッシーが左耳を示して頷く。
そこに,アンナが声をかけてきた。
[エマ。耳の手当を…。]
[ありがとう,後でお願い。でも,今は急ごう。]
そう言うと,エマは全員を見回した。
[さぁ逃げるよ!塀まで走ろう!]
[………]
未だに驚きを隠せないレイは,エマ達より少し遅れを取って走り出したが,慌てて先頭を走るドンに駆け寄った。
[おい,ドン…!どういうことだ!?こいつら全員知ってんのか?ハウスの正体も…逃げることも。]
[おう。]
[!…なんで……。]
サラッと肯定したドンに,レイは未だ驚きを隠せないまま尋ねると,ドンはピッと指を立てて,[話したんだよ,エマが。]と言って説明を始めた。
だが,記憶を見ている側はドンの説明を聞く代わりに,エマ達の記憶を見せてくれるらしい。ノーマン達曰く,「ドンの説明はレイのためにやったものであって,警察のためにやったものではないから。」とのことらしい。
非常に腹の立つ理由だったが,それを言ったところで怒らせてしまうだけだとわかっているので胸の内に留めておいた警察官達だった。
続く映像は,ドンとギルダに嘘がバレた翌日の光景──洗濯物を干している時にした会話の内容だった。よくよく考えれば,この時の二人が何を話していたのか,風のせいで聞き取れなかったなと思い出しながら,コナンはノーマンの作戦とやらを,説明される前に推理しようと意気込んだ。
洗濯物の隙間から,エマの真面目な声が聞こえてきた。
[ドンとギルダ以外にも話そう,ノーマン。]
[…!]
ノーマンが,少し驚いたように小さく目を見開くと,エマがそう考えた理由を話し出す。
[ドンとギルダ(あのふたり)のおかげでわかったの。ドンもギルダも……多分みんなも,私達が思っているほど,子供じゃない。現実に,あの化け物から逃げる上でも,危険を知って,自分の意志で脱獄に加わってもらった方がいいと思う。それに,ママは年長者(わたしたち)以外警戒してない。このママの隙は,突けると思う。]
エマがそう言い終わるのとほぼ同時に,風が止んだ。
ノーマンが,悩んでいることに気づいたのか,エマは[無茶…かな……?]と少し不安そうに尋ねた。
ノーマンが[無茶だね……。]と返すと,間髪入れず,エマはでも,と食い下がった。
[このママの隙は突けると思うし,現実(ホント)に全員で逃げるにはこれしかないと思う。]
そこで,ドンの声も聞こえてきた。
[まずは4人。使えるチャンスは全て使うってノーマンが。]
そこで場面も切り替わる。
その日の夜。シスター・クローネの部屋へ,ノーマンとエマが行った時。
[ほら,何でも聞いて。]
[本当に何でも?]
[ええ。農園のことでも,本部のことでも。]
スッと顔を下げて影を落としたノーマンは,クローネを射抜くように目だけで見上げる。
[『大人が僕達を殺す気持ち』でも?]
一瞬の間。
クローネはニヤリと笑った。
[ええ。あなた達が知りたいことなら何でも。]
と,クローネがそう言ったのを,ナット,アンナ,トーマ,ラニオンの4人は扉越しに聞いていた。
ドンから話を聞いたレイは,驚いて目を見張った。
[あの時を利用して,そんな前から……?じゃあ…この2ヶ月のエマの本当の手足って──]
十中八九,その4人だろう。
ドンは続けて話す。
[残りの弟妹(やつら)は,2ヶ月かけて少しずつ引き入れた。]
レイが驚いていると,塀の前に到着していた。
エマが塀を見上げていると,左横に,ノーマンが見えた気がした。
「えっ?」
これに一番驚いたのはノーマンのようだ。
先程まで,映像の驚いてばかりのレイの顔を見てしたり顔をしていたというのに,今度は自分がレイと同じような表情になっている。
映像内に出て来たノーマンは,どうやらエマの心が生み出したもの的なものみたいで,他の子供達は対して反応を示していなかった。
エマが横に立ったノーマンを見ると,ノーマンはエマを振り返って微笑むと,ポンッと優しく,エマの背中を荷物越しに押した。
エマは力強く頷くと,全員を振り返る。
[私とドンでまず上る。その後,皆を引き上げる。]
[おう!みんな!訓練通りやりゃ,大丈夫だ!]
[全員,無事に逃げ切るよ!]
[オー!!!]
エマとドンの励ましに,子供達全員が飛び上がって返事をした。
そんな中,レイは混乱していて気づかなかった違和感にやっと気づく。
[え……あれ?]
塀を上る準備を着々と進めていく子供達を見回して,レイは訝しんだ。
そう。そこには,どう数えても,レイを合わせて15人の子供達しかいなかったのだ。
丁度その頃。イザベラはやっとの思いで取り出して来た無線機を片手に持って,燃え盛るハウスの前に立っていた。
[……全て,燃えた……。まんまとハメられた…。]
もう片方の手に持った,エマの左耳を見て,イザベラは,[フ……フフフ…]と体を丸めて笑い声を漏らした。
そして,カッと目を見開くと,夜なのに,炎が上がっているせいでどこか明るい夜空を見上げた。
[でもまだ生きてる!!エマもレイも,まだ生きている!!]
イザベラは心底安心したように胸に手を当てた。
〚ああ,良かった!!良かった,良かった!!!生きてさえいれば捕まえられる!生きてさえいれば!!〛
そこでイザベラは,ハウスの周りを見回した。
〚本当に全員連れて逃げたのね…エマ。でも,必ず全員(みんな)捕まえる。私の可愛い子供達。誰一人逃さないわ。〛
その瞬間。クイッとイザベラのスカートが引っ張られた。
ハッとして下を見たイザベラは,息を呑んだ。
[ママ。]
[え……フィル?]
そこに居たのは,4歳の少年──フィルだった。
暫くお互い固まって見つめ合っていたが,イザベラが無線機を置いたのを合図にして,二人は抱き合った。
丁度その頃。レイは上った塀の上から,次々に上って来る子供達を見回した。
[4歳以下がいない…?]
[4歳以下は農園(ここ)に残す。]
[え…?]
[でも,諦めたわけじゃない。今は連れてかない。]
[……『今は』?]
[考えたの,レイに言われたことも……。]
まだ下にいる子供達を引き上げながら,エマは一ヶ月前のことを話し出した。
無論,記憶を見ている側は,「エマの説明はレイのためにしたものだから君達はエマの記憶見てね。」とノーマンに言われたのだが……。
一ヶ月前,エマのいる医務室には,ドンとギルダも集まっていた。
エマのベッド脇に立ったドンが口を開いた。
[今のところは順調だ。5歳までは引き入れた。]
[驚いてはいたけど,何とかうまくやれそう。]
[次の訓練も進めてる。]
[ありがとう。]
[で?次,どうする?話す?4歳から下の弟妹(やつら)。]
ドンの問いに悩むエマが答える前に,椅子に腰掛けたギルダが不安そうにねぇ…と声をかけた。
[本当に,連れて行けるのかな?]
[え?]
ギルダを振り返ったドンから視線を外すように,ギルダは俯いた。
[**ノーマンの計画を信じてないわけじゃないの。**でも…信じてもらえるか,その後,隠せるか,それだけじゃない……。崖だし,冬だし,ノーマンもいないし…。既にこれだけでも最初と状況が変わってる。出た先にだって“予想外”はある本当に連れていけるのかなって…すごく今更…今更なんだけど……。『連れて出すことで死なせちゃいけない』ってレイの考えも正しいと思うの。]
ギルダの言葉に,ドンはうーんと考えながらも首を振った。
[でも,置いてったら出荷(ころ)されるんだぜ?]
[そう!そうなんだけど…]
[それでもやっぱり置いてけないよ。]
ベッドに座ったまま,エマは眉を下げて口を挟んだ。
[レイも正しい,ギルダも正しい。──でも,もう誰も出荷なんてさせたくない。家族全員連れて行く全員(みんな)で逃げよう。]
[『全員(みんな)』……]
[?…どした?]
[いや…その…それも……]
[…?]
何故か言いよどむギルダは,二人の注目を浴びると,意を決して顔を上げた。
[他のプラントの子達は?]
[[…!!]]
[いいのかな?第3(わたしたち)だけで…。見たこともないけれど……隣にいるんでしょ?同じように何も知らず,同じように暮らす,同じような家族が……。]
[[………………]]
[あ…いや…あの…ごめん……!]
ギルダの言いたいことが漸くわかったドンとエマは,顔を見合わせた。
[どうする?エマ。]
[………そうだよね…。]
右手に持つペンを見つめていたエマは,決意したように顔を上げた。
[フィルを呼んで。]
[エマ?]
エマから話があると言われて医務室に来たフィルの手には,一冊の本が抱えられていた。
ベッド脇まで来たフィルの両肩をしっかりと掴んで,エマは真剣な表情で切り出した。
[話があるの…。ハウスと,ママについて……。]
真実を話し終えると,フィルは驚いたような表情から,悲しそうな表情に変わった。
[やっぱり…そうだったんだね……。]
[え?]
[[…!?]]
否定をしないどころか,確信めいて頷いたフィルは,ポツポツと語り出した。
[シスターが言ってた“シューカク”って何かなってずっと考えてた。シスター,レイの引き出しあさったり,ノーマンがいなくなる日,エマ,ママのことこわがってた…。]
段々とうつむいていったフィルは,その瞳に涙を浮かべる。
[そっか……。ノーマンはシューカク……。コニーも…みんな…だからエマは……!]
[フィル…!]
泣き声を上げたフィルをギュッと抱き締めたエマは,フィルが落ち着くのを待ち続けた。
漸くフィルが落ち着いた時。エマはもう一度フィルの両肩を掴んでしっかりとその瞳に自分の姿を映した。
[今,2つの選択肢(みち)で迷ってる。今,赤ちゃんまで全員(みんな)連れて行くか,4歳以下を置いて行くか。]
[えっ…。]
[出荷されるのは満6歳から。一番誕生日が早いマーニャでも,最短,あと一年半の時間がある。『数より質』のGF(この)農園なら,出荷ペースは必ず落ちる。もう一度上物を育て上げるために,将来上物になりうる年少者はこの先,今以上に殺せない。その点,現4歳の6人はフィルを始め,どの子も成績(スコア)は悪くない。どんなに短く見積もっても,2年の時間はあると思う。]
[エマ,それって……]
[待てるよ,僕。]
[[…!]]
[だから置いてって。]
ニコリと笑って断言したフィルを見て,エマは大きく頷いた。
そこで場面が戻り,エマが子供達を引き上げた後で,ロープを回収している時だった。
エマはロープを手繰り寄せながら,アンナに治療を受けながら,レイに説明を続けていった。
[今は連れてかない。でも,絶対に諦めはしない。フィル以外は何も知らない。ハウスの秘密も,火事のことも。フィルにだけ話した。あっちはフィルに任せてある。4歳以下は農園(ここ)に残す。──でも…]
ロープを回収し終えたエマは,農園全体を見回すようにスクッと立ち上がった。
〚──え!?それって……この農園をブッ潰すってことか!?〛
エマ先頭に走り出した子供達の後を追うように走りながら,レイは瞠目した。
丁度その頃。イザベラは抱き締めたフィルに優しく尋ねていた。
[……フィル,他の子達は?]
[………]
イザベラに見えないよう,一度ギュッと目を閉じたフィルは,[こっち!]っと一気に駆け出した。
イザベラは,そのフィルの足元はスリッパであることと,発信器は正常に反応していることを確認してから,4歳以下の子供達の元へ向かった。
[ママ!!]
泣きながら飛びついてきた子供達を迎え入れながら,イザベラは,納得していた。
〚成程……守って逃げたのは5歳以上15人。4歳以下は何も知らない。大方把握した。──でも,ここで思わぬタイムロス!!ただでさえ無線機(これ)お取りに行くのに手間取ったのに……!!〛
後ろに置いたままの無線機を見て,イザベラは立ち上がった。
[ねぇエマ達は?一緒じゃないの?]
[今連れて来るわ。]
[やだ,行かないで!]
[大丈夫。本当にすぐよ。みんな,ここから決して動かないでね。]
泣きじゃくる子供達に後ろ髪を引かれながらも,イザベラは子供達に背を向けて走り出した。
子供達から見えない,森の前まで来ると,無線機を少々乱暴に置いて,無線を繋いだ。
[こちら73584,第3プラント。脱走です!警報を!]
イザベラが言い切った直後,塀の上を走るエマ達15人にも,他のプラントの飼育監達や寝ていた子供達にもハッキリと聞き取れるくらいの大きな警報音が鳴り響いた。
[通報……。予定より早いな…。]
[どうする!?まだ橋まで遠いぞ!]
呟いたエマに,最後尾にいたレイは慌てて駆け寄って声をかけた。
イザベラは誰かによく似た表情で口角を上げて森を振り返った。
[さぁ……逃げてみなさい,エマ。]
誰に似ているのだろうとコナンが考えていると,アナウンスが鳴り響いた。
[全職員に通達。第3飼育場(プラント)より入電。同飼育場(プラント)火災に続き,15名脱走。内2名が特上。これより,最重警戒で対処する。]
そのアナウンスに続き,ボスらしき鬼が指示を出した。
[特上以外は殺しても構わん。但し,全て頭部は傷つけるな。姿を現したら即時捕獲しろ。絶対に見逃すな。]
丁度その頃。塀の上では,ウウウウウ…!!!!と鳴り続ける警報に,レイが声を上げるていた。
だが,エマは[問題ない。元々橋へ向かうつもりはない。]と言ってスタスタと歩き出した。
そして,立ち止まると,スッと真っ直ぐに指を差した。
[ここから対岸に渡る。]
〚……………え…?渡る!?〛
驚愕に目を見開いたレイに,エマは説明した。無論,コナン達は以下省略。
ノーマンが手紙にこう記したらしい。
[“逃げるなら橋から”だ。つまり,“崖はない”……。誰だってそう思う。
ママだって…本部(オニ)だって…。
だからこそ,橋へは行かない。崖から逃げる。
対岸までの距離と地形を見てきた。
危険だけど,渡れそうな場所はある。
2ヶ月(じかんも)ある。]
そこで場面が変わる。
いつの日かの昼間の光景らしい。
ドンがロープの先に小石を一つ巻き付けた物を持って一本の木と対峙している。その周りには脱獄する子供達15人がいた。
ドンはロープを木に向かって思いっきり投げた。
だが,木のほんの少し前で落ちてしまう。
[あ〜!]
[おしい!]
子供達からの応援を受けながら何度も何度も挑戦していくと,数回目で木を少し越えたところで先につけてある小石が地面についた。
そこで,今度は木の枝に巻き付けようとヒュン…ヒュン…と音を立てて回し,頃合いを見計らって手を離して投げた。
そこで,繋がるように場面が塀の上に戻り,ドンが投げたロープは木の枝を数センチ超え,そこで,キュッと引っ張るとグングン…と回って枝に巻き付いた。
[やったー!]
祈るように見ていた子供達は,両手を突き上げて喜んだ。
レイは未だ驚きを隠せないままだったが,躊躇うように対岸に渡されたロープを見る。
[いや……でも…こんなんで…]
[大丈夫。最初の一人が渡れればいい…。]
[え…いや…最初の一人って……あ!おい…!!]
ニヤリと笑って言ったエマの言葉に,レイが驚いていると,ドンがハンガーをロープにかけてそのまま滑り降りて行った。
草むらに落ちて行ったドンの様子を,全員,固唾を呑んで見守る。ドンはガサッと草むらから顔を出すと,カンテラを振って合図した。
レイが驚く暇も与えず,トーマとラニオンが改良し,水で満たしたペットボトルを持って一歩前に出て来た。
[OK,次は俺達!]
ラニオンがそう言うと,場面が変わり,またいつの日かの昼間の光景らしい。
トーマとラニオンの手には,塀の上で持っていた物と同じ,改良して水で満たしたペットボトルがあった。
二人が声を合わせて掛け声をする。
[[せーの!]]
バシュッと音を立てて放たれたペットボトルは,ハウスの庭を飛んで行ったと思いきや,塀の上から一直線にドンのいる対岸の方に飛んで行った。
わあぁぁ!!と歓声が上がる。
ドンは気にそのロープを巻きつけると,再びカンテラで合図を出した。
それを見たエマはクリスティとマルクの頭に手を置いた
[さ,みんなも順番に準備して。]
エマがそう言っていると,ドンとトーマ,ラニオンが渡したロープの反対側を第4プラント内の木に巻きつけるために木の枝に乗っていたナットは,シャーッと滑りながら,呆然としているレイにウインクをした。
[じゃ,お先にレーイ!]
ナットに続き,アリシア,ドミニクも,アンナに背を押されて対岸へと渡って行った。
ロッシー,イベット,マルク……と続く中,レイはその光景を呆然と見つめることしかできなかった。
[………普通ビビるだろ…できねぇだろ…。なのにこの手際…この自信…この落ち着き…積み重ねた『準備』と『訓練』……この2ヶ月,こいつら本気で──]
目の前の光景に目を見開きながらブツブツと呟くレイの左横に静かに立つ人物が見えて,レイはそちらに顔を向けた。
その人物──ノーマンは,レイの視線に気づくと,**[どう?]**と言って微笑んだ。
「えっ?また僕…?」
現実のノーマンは,また出て来た自分にキョトンとしたが,それも一瞬のことで,映像の中と同じようにニコリと笑った。
映像内のレイは見開いていた目を更に見開いた。
[ノ…………]
だが,くすっと笑ったノーマンに,レイもすぐに動揺を消して,いつも通りの不敵な笑みでフッと笑った。
そして,同時に対岸を渡る子供達を見つめる。
[したり顔か。憎たらしい…。]
[だってまんまとレイを騙せたもの。]
対岸に渡って行くクリスティを見ながら,レイはポツリと呟いた。
[『いいモノ見せてやるから黙って来い』…ね。]
[『いい』でしょ?本来なら,ありえない光景だよ。僕らがありえないと思っていた光景。]
僕らと言って微笑んだノーマンは,エマを目を細めて見つめた。
[エマだから……エマがいたから,みんな,信じてついてきてくれるんだ。無茶で,無謀で,でも真っすぐで……迷わず『全員』言えちゃうエマだから…。]
横目でノーマンを見たレイに,ニコリと微笑みかけながら,ノーマンはもう一度[ね?『いい』でしょ?]と言った。
その言葉を聞いたレイは,悲しそうに顔を歪めた。
イザベラは森の前で無線機から聞こえてくる声に耳を済ませていた。
[いたか?]
[いや。探せ!草の根分けて見つけ出せ!!]
未だ見つかっていないことに,イザベラは眉を顰めた。
〚まだ橋に現れていない…?となると,騒ぎが収まるまで他のプラントに身を潜めるつもりか…それとも……〛
そこまで考えていると,イザベラはハッと気づいて,無線機をそっちのけにして慌てて駆け出した。
〚まさか──〛
丁度その頃。対岸に渡れていないのはエマ,レイ,トーマ,ラニオンの5人になったところで,あるトラブルが起こった。
[次,ジェミマ。おいで。]
[エマ……。どうしよう…手が……。]
[…!!]
次に渡るはずのジェミマが,涙目と震える声でエマを見上げた。
そのジェミマの両手はブルブルと震えていた。
耐えきれず,ジェミマの目から,一気に涙が溢れてきた。
[ごめんなさい,ごめんなさい。下が崖だって思ったら…もし落ちたらどうしようって……!]
[[落っ…!!]]
みんなが成功しているのを見て,逆にプレッシャーがかかってきたのか,ジェミマは震える手を握り込んで泣いてしまった。
ジェミマの言葉を聞いたトーマとラニオンも,左手だけハンガーに短いロープで巻き付けた状態だったが,恐怖が伝染し,リアルに想像してしまったようで,お互いに体を抱き締め合って崖を凝視していた。
エマがどうしようかとオロオロとしていると,レイが横から静かに近づいて来た。
そして,**[大丈夫。]**と言って優しく微笑みながら,ジェミマの体を抱き上げた。
[大丈夫だ,ジェミマ。一緒に渡ろう。]
〚レイ……。〛
[エマ。さっき皆を引き上げた時のロープあったろ。それで俺とジェミマを固定してくれ。]
[あっ…うん!]
レイに言われて,慌ててエマはロープを取り出してレイとジェミマを固定していく。
[降下の手順は?]
[見て覚えた。わかってる。]
エマに固定してもらいながら,レイは未だ体を抱き合っているトーマとラニオンに顔を向けた。
[お前らは?まさか,できねぇなんて言わねぇよな?]
[[あ……。]]
ニヤリと口角を上げて言ったレイの言葉に,二人は一瞬だけ顔を見合わせると,すぐにお互いがお互いから離れて,まだ少し震える手でハンガーを握り締めながら,力強く頷いた。
[[っおう,アタボーよ!]]
[うん,よく言った。]
二人の返事に満足したレイは,ハウスでは見せたことがなかった,とても優しい笑みを二人に向けた。
ジェミマとレイをたった今固定し終えたエマは,レイのその笑顔を見上げた。
〚……レイって,あんな表情もするんだ…。知らなかったな……。私は…ううん,私達は…レイのことを知っていたつもりで,何も知らなかったんだ……。〛
エマが悔しさに歯を噛み締めていると,そのエマの様子に気づかないレイは,その優しい笑みを消さないまま,ジェミマに向き直った。
[行くぞ,ジェミマ。]
ギュッと,ジェミマは改めてレイに抱きついた。レイも,ジェミマを安心させるようにギュッと抱き締め返す。
そして,ぶっつけ本番だとは思えないような,綺麗なフォームで下降していった。
対岸につくと,既に渡り終えていたアリシア達に囲まれる。
アリシアがジェミマにニッと笑いかけると,ジェミマは目尻に涙を溜めたまま微笑んで,改めてレイに抱きついた。
レイは,それを目を細めて微笑んで受け入れながら,改めて決意した。
〚どんなに呪っても,変えられない運命…明かせない,救えない,一人きりの闘い…。できないことは諦めるしかない。下手に望めば全てを失う。──怖かった。ただ現実(そこ)に立つことに必死で…理想なんて追いたくても追ってこられなかった…。けど……追っていいのか?望んでもいいのか?誰一人死なないなんて,夢のような未来を──〛
ジェミマを抱き込んで,ジェミマも,自分自身も,安心できるようにレイは小さく,小さく,呟いた。
[わかったよ,ありがとう。──俺の負けだ,ノーマン…。]
映像内のレイがそう呟いた瞬間,現実のノーマンが大きく動揺した。
「えっ…レイが………あのレイが……負けず嫌いのあのレイが……負けを…認めた!?うっそ……めちゃくちゃ嬉しい!!!」
一人歓喜に打ち震えるノーマンの頭に,レイは真っ直ぐ右手を落とした。
「って!ちょっ……レイ!何するの…。」
「……なんか腹立つ。」
ニコニコと微笑むノーマンは,確実に確信犯だろう。
レイはチッと舌打ちを漏らして映像に向き直った。
映像では,トーマとラニオンが下降の準備をしているところだった。
レイは自分とジェミマを固定したロープを解いてもらいながら,塀を見上げていた。
〚死ぬのはまだ先でいい。俺はこいつらと逃げる。──足掻く…守るよ。次は誰一人死なせない。『外』で生き延びてみせる……。やるからには勝つ!!〛
レイがそう決意したと同時に,エマは二人の背を押して,先に対岸に渡らせた。
[[わああああぁぁ!!!]]
大声を上げながらも,無事渡り切ったのを確認してから,エマは自身のハンガーを手に取った。
[ラスト一人!頼むぞ,エマ!!]
対岸の向こうからドンが声を上げるのを聞き流しながら,エマはハンガーをロープにかけた。
そこで,エマの右側から猛スピードで走って来る大人が見えた。
エマは反射的にそちらに顔を向けて,ビクリと体を強張らせた。
対岸の無効にいる子供達も,勿論レイも,身を乗り出して塀の上を見上げた。
エマの横に立って立ち止まり,息を切らしている大人──イザベラに,エマは2ヶ月ぶりに意思のこもった瞳を向けた。
[はぁ…はぁ…はぁ……]
肩で息をしながら,イザベラは,風が吹き付けて来たのにも構わず,エマを見つめた。
エマも,暫くその瞳を見返していたが,ふと,燃え盛る炎がここまで見えている自分達のハウスを振り返った。
[さよなら,GFハウス……さよなら,私達の,大好きだった家──]
そしてもう一度イザベラを振り返って小さく,でも,ハッキリと聞き取れる声量で,呟いた。
[さよなら,ママ……。]
その声をハッキリと聞き取れたイザベラは,力無く首を左右に振った。
[行かないで,エマ。私の可愛い子供達……。]
イザベラのその願いを聞き入れることはなく,エマは対岸へと渡って行った。
エマが渡り切った直後に,3本,渡されていたロープは解かれ,子供達は次々に森の奥へと去って行った。
その様子を見下ろしたイザベラは,髪ゴムを解き,その長い髪を風で揺らした。
ふと,前方──丁度エマが立っていた場所──を見ると,一人の女の子が崖を見て絶句していた。
〚……そういえば………ここに上るのは今日で2回目だったわね……。〛
そう思いながら,イザベラは,ポケットから一冊の手帳を取り出した。
[レスリー……。]
祈るようにその名を口にしたイザベラは,過去のことを思い出した。
「はい,ちょっと待って!!」
そこで,イザベラから待ったがかかった。
「どうしたの,ママ。」
「見ない,なんて選択肢はないからね?」
「いいえ,あるわよ。」
そう言って,イザベラはちらりとレイを見た。
レイは一瞬,イザベラと視線を合わせたが,スッと目を逸らすと,映像を指差した。
「見ようぜ。」
と言って。
無論,イザベラは驚愕に目を見開いた。
「ちょっと待って,レイ。あなた,見る必要ないって言ったわよね?裏切ったのね?」
「だって………ノーマンとエマが……」
「よく流されるわね,あなた。」
はぁ…と溜息をついたイザベラを無視して,ノーマンとエマがニッコリと笑うと,映像が再生された。