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ぼんやりしているうちに、家に着いていたらしい。玄関先の靴の数を見る限り、三男の真之介の靴しかない。
真之介はおせっかい焼きだが、詮索もしないし何より首を突っ込んでこない。言い過ぎることはあるが、真也ほど純ではない。
気兼ねなく、普段たむろするリビングではなく、二階の寝室まで真夜を運んだ。敷布団を弾いて、真夜を寝かせる。血の気の引いた彼の額を、なるべく優しく撫でた。
お姫様は王子の口づけで目覚めるというが、兄弟だったらどうだろう。弟が寝ている間に、キスしたら?
もっと過激なことをしているくせに、いざ真夜が寝ていると下手な真似ができない。恋を覚えたばかりの童貞みたいに、心臓がはしゃぐ。
良く見れば、彼は兄弟のなかで一番肌が白い。青白いとも言える。手の甲を頬に擦り付けた。真夜が心地よさそうにすり寄せてきた。
「まよ……」
身を屈めて唇を寄せようとした。
「やっぱり、兄さん帰ってた」
がらりと背後の扉が開いて、雑誌を手にした真之介が立っていた。勝手に人の部屋に入るなよという怒りを抑えて、自然な動作で身を起こす。無意識に真夜を視界から隠した。
「負けたんだよ、パチンコ。真之介は?どこへ行くって言ってたっけ?」
「本屋。……そこで寝ているのだれ?」
覗きこんで、真夜の姿を見つけた途端。真之介の顔が歪む。苦虫を噛み潰した表情のまま、慎司に向き直った。
「いい加減にしてあげたら」
「何が?」
「こういうことだよ。真夜のこと、競馬とかに連れまわしてるんでしょ」
「ま、兄貴が教えてやらなくちゃならないこともあるじゃん。特に真夜は……俺じゃないと駄目だから」
彼が分かりやすく顔をしかめた。少しばかり、怒りに触れたかもしれない。
「俺はあんまり二人の関係に口出ししたくないけど、真夜は元から積極的に人と関わる人間じゃない。口は悪いかもしれないけど、慎司兄さんに言われたら断りにくいんじゃないかな。そういうところ、汲んであげてよ」
何でも知ったように諭す真之介を見るのは初めてでないが、今日はやけに苛立つ。
「その本、何?」
話題を逸らすために彼の手元の雑誌を見やった。気分を害した風もなく、雑誌を差し出してきた。
「これ?真夜が欲しがっていた本。本屋に行ったからついでに」
「ふうん」
月刊catと書かれた雑誌の表紙には、猫の写真がコラージュされている。特に見たかったわけではないが、ページをめくっていくうち、真之介が部屋から出て行った。かすかに慎司の機嫌の悪さを感じとったのだろう。
世界各国の猫の特集や、猫カフェの一覧など。猫づくしの一冊だ。なるほど猫好きの真夜なら欲しがるだろう。
だが慎司は、紙の中の猫に興味は無い。どちらかといえば生きている猫のほうがいい。
雑誌を端へ追いやり、真夜の傍らに寝転んだ。汗ばんだ髪を指で外し、肘をついた。
「俺がどうして、お前を選んだか分かる?」
返答の代わりに寝息が聞こえる。
ズボンのポケットから煙草を取り出した。ここで吸う気はない。ただ口さみしいだけだ。
「他の兄弟もいるのに、お前を選んだのには理由があんだよ」
声を潜めて囁く。
「真夜だけが、あの日俺を連れて行ってくれたからだ」
煙草の煙の代わりに吐息を吐き出した。彼の前髪がふわふわとそよぐ。
肘を崩して寝そべり、窓の外に視線を流す。曇天が立ち込め、その下の晴天を覆い隠してしまっている。
あの日は逆だった。空に雲一つ無く晴れ渡り、秋の訪れを感じさせる柔らかな寒さが訪れていた。握り返した掌も今よりずっとふくよかだった。
真夜と、二人で駆け落ちまがいの行為をしたことがある。あの日の俺たちは兄弟以外の何かだった。
それに名前をつけてしまうことが、どうしようもなく恐ろしくてならなかった。
細めた眼を瞼で隠す。ととんととん、と車輪の音が耳たぶに響いた。