架と夢叶が大夢の自宅に乗り込んで怒って(というか向こうを怒らせて)帰ってきた後、宮田工務店に対する昭和建設側の攻撃は苛烈を極めた。銀行の貸し剥がしも始まり、それが致命傷となった。十月末、ついに給料遅配そして不渡り。人員整理する暇さえなかった。十一月十日、宮田工務店は全社員に向けて営業停止を通知した。翌日、社長の宮田一郎は助手席に妻の秋子を乗せて車を運転し、ガードレールを突き破り、崖から転落し二人とも即死した。不慮の事故か故意の自死か警察の調査でも結論は出なかった。
夏海の両親の大石雅彦と妻の笙子は大夢からの援助だけを頼りにして窮乏生活にずっと耐えて来たが、宮田工務店倒産の報を聞いて心が折れたのだろう。夏海がパートに行って不在のとき、雅彦は笙子を刺殺、自身も首を吊って死んでいるのを、帰宅した夏海に発見された。
夏海は葬儀を行うだけの蓄えがなく火葬式だけで二人を見送った。僕ら父子四人は火葬式に出向いた。参列者は僕ら以外に誰もいなかった。父が二十万円の現金を包んだ香典を差し出すと夏海は土下座して、長年に渡る家族への裏切りを泣きながら謝罪した。夏海が心から謝罪したのはそれが初めてだった。
父は夏海の手を取り立ち上がらせた。
「今さら改心しないで下さい。あなたにできることは僕に恨まれたまま惨めに生きることだけです」
お骨上げのときまで待たず、僕らは火葬場をあとにした。夏海が身も心も捧げた宮田大夢は火葬式の知らせをLINEのトーク画面で見て既読をつけたが、結局訪れなかったようだ。その日以来、自身の下腹部を撮影した画像を大夢に送信するという長年の日課を、夏海は取りやめた。
僕らは数日後に執り行われた故宮田一郎夫妻の家族葬にも参列した。大夢とその妻子が勢揃いしていた。父が喪主の大夢に直接二十万円入りの香典を差し出すと、食ってかかられた。
「おれは金も家も仕事も失った。その上両親まで。残ったのは莫大な借金だけ。それでもおれは許されないのか? おれが死ぬまで復讐をやめないつもりか?」
相変わらず自分のことばかり。少しは家族のことも心配したらどうだと思った。借金は大夢名義のものだけでなく樹理名義のものもある。金額はそれぞれ八桁。雫は高校を中退して就職するそうだ。中学三年生の有希も中卒で就職予定。ただし今住んでる家を追い出されたあとの行き先はまだ決まっていない。
困っているのは大夢一家だけではなかった。樹理の実家の古賀家もひどいことになっていた。やはり借金返済のめどが立たず担保として自宅を失った。自宅を処分しても負債が残るのは宮田家と同様。樹理の弟二人が宮田工務店の社員だったから失職し、彼らの妻子ともども途方に暮れていた。
「あなたが死んでくれればうれしいですけどね」
父は大夢にそう答えて、和解案(実質は宮田家と古賀家の救済案)を書面とともに示した。
1 宮田樹理と古賀家の負債は佐野清二が代理返済する。代理返済された同額を樹理と古賀家は清二に返済する義務を負う。その際、樹理と古賀家の子息全員を連帯保証人とすること。
2 佐野清二と宮田雫は近日婚約する。両名の婚約期間及び婚姻期間は1の義務の履行は猶予される。ただし、両名の婚約が破棄された場合、結婚後に離婚または婚姻関係が破綻した場合、後日別に定める返済計画に従って樹理と古賀家は連帯保証人とともに清二に負債を返済するものとする。
3 宮田大夢は遠洋漁船の漁師となり負債を返済する。期間は二十年。帰還次第すぐに次の船に乗ることができるように手配する。樹理との婚姻関係は継続。日本滞在中の家族との面会は自由。
4 佐野家と宮田家及び古賀家はこれからは過去の遺恨にとらわれず友好関係が継続するように協力する。
「おれの分の負債は代理返済してもらえないんですか?」
書面を見て、大夢の最初の感想がこれ。やはりどんなときでも自分のことが一番の男だ。不倫で身を滅ぼした男の思考回路などこの程度のものかと父は思わず苦笑したが、こんな男に愛する妻を奪われたのかと思うと複雑な気持ちになった。
「わが家に入り浸り私の妻との不貞行為に耽っていたあなたと、あなたの管理を怠り傍若無人な振る舞いを許した宮田工務店、そして会社の責任者でもあった亡くなったあなたのご両親の負債の肩代わりは、断固お断りします」
「ですよね……」
大夢はあっさりと引き下がった。ダメもとでちょっと聞いてみただけらしい。
九月に架が提案して樹理や雫本人の猛反対に遭って廃案となった清二と雫の結婚話は、数日前に急浮上していた。
話は宮田工務店の営業停止が発表された日の三日前に遡る。その日は土曜日だった。大夢のうちに乗り込むが歩夢も来るかと架から誘われ、行くと即答した。大夢と妻の樹理は社長の一郎に呼ばれて不在。アポなしで押しかけるという。
大夢の三人の子どもは土下座して、突然来訪した僕らを出迎えた。僕は僕より二歳年下の長男の和弥と庭で話すことにした。架は家に上がり込み姉妹と話し合いするそうだ。
架と姉妹はリビングに移動した。まだ土下座を続けようとする姉妹に、話しにくいからとソファーに座らせた。一息ついたところで、架は向かい合って座る二人に話しかけた。
「なんでそんなに土下座したがるんだ?」
「君は私たちが屈服する姿を見たいんでしょ。見たければいくらでも見せてあげるよ。それで君が満足するのなら」
土下座してたかと思えば口調は喧嘩腰。結局こいつはずっとそうやっておれを馬鹿にしていたんだろうな。おれに抱かれていたときもきっと。架は自分に反発する雫を見ながらそんなことを思った。
「それでどう? 引っ越し先は見つかったか?」
「知ってるくせに! アパートに入居しようとしても、必ずあとから大家さんからよく分からない理由で断られる。住む家がなくなる私たちに同情してしばらく居候させてくれると言ってくれた人もいたけど、ある日突然無理だと言ってきた。その人も会社を経営していたのだけど、うちの家族を居候させると決めたとたんにお得意様がいっぺんに離れていったんだって。どうせ全部君たちの差し金でしょ?」
「話し合いたいというから話を聞こうとしてるのに、一方的に文句言われるだけなら帰るわ」
「ごめんなさい! 私たちはもう君にすがるしかないんだ!」
〈頼る〉ではなく〈すがる〉。こんなところからも現在の宮田家の苦境が窺い知れた。
「架君、九月に君にいただいたお話だけど、よく考えてお受けしたいと君のお父さんに伝えていただきたくて……」
「九月の話って、父さんと雫の結婚話?」
「そう」
「だって雫はあのとき、〈結婚はやっぱり好きな人とするべきだ〉と言って断ったよな。知ってのとおり、おれの父さんの前の結婚相手はおまえらの父親の愛人だった。夫を愛したことは一度もなかったと何度も言ってやがったぜ、あの女。その上再婚相手まで父さんを愛するつもりのない金目当ての女? 冗談じゃない! 言っとくけど、若くて子どもの産める女なら誰でもいいんだったら、父さんの財力ならいくらでも候補が見つかるんだ。難破船から逃げ出したいだけの雫との再婚なんてこっちから願い下げだ!」
「努力する! 確かにまったくお金目当てじゃないと言ったら嘘になる。でも私は君のお父さんがひどい結婚生活を送らされたのをよく知ってる。私と結婚してよかったと思ってもらえるように全力を尽くします! だからどうか――」
雫は床に座り直して、結局また土下座した。
「どうするかな……」
今までずっとおし黙っていた雫の妹の有希が、ここで口を開いた。
「架さんが姉をお父さんの再婚相手にしたいと思ったのは、私たちの父に復讐するためですか?」
「当然それもある。夏海や大夢にやられっぱなしじゃ、おれたちは前に進めないんだ」
「九月に架さんがうちに来たとき、姉の部屋で姉とセックスしてましたよね。私見ました。あとで姉に聞いたら、五月からずっと復讐の一環とやらで架さんの性処理の道具として扱われていたって姉は認めました。あなたは私の大好きなお姉ちゃんになんてことを! 佐野清二さんはあなたがお姉ちゃんに何をしたか知ってるんですか? それともあなたがお姉ちゃんを傷つけたのは、そもそも佐野清二さんが指示したことだったんですか?」
「おれが独断でしたことで、父さんは何も知らない……」
「つまり架さんは自分の愛人を何も知らない清二さんに押しつけようとしただけですか? 復讐というには幼稚で、宮田大夢がやったこととまるで同じに見えるんですけど!」
「おれを大夢みたいな鬼畜といっしょにするな!」
自分が大夢と同じ。兄が一番言われたくない言葉だった。なぜ有希はわざわざ兄を怒らせるような言い方をしたのか? それは自分が兄の復讐の標的になるためだった。
まんまと有希の企みに引っかかった架は、激怒して彼女につかみかかった。兄に肩をつかまれた瞬間、有希は思いきり履いていたスカートをまくり上げた。有希は下着を履いていなかった。有希の下腹部の毛は薄くて剃る必要もなかったようだ。そこにマジックで〈架専用〉と書いてあった。兄も雫も目を丸くした。
「これで満足ですか?」
兄は何も答えられず、有希の肩から手を離した。
「あなたが姉にしたことと同じことを私にもして下さい。そうすればあなたは、あなたが殺したいほど憎んだ宮田大夢の愛する娘を二人とも性欲解消のおもちゃにして傷つけたことになります。それでこんな馬鹿げた復讐劇は終わりにして下さい」
有希は架の手首をつかんで架を自分の部屋に連れ込んだ。架の理性がこの女を抱いてはいけないと叫んでいたが、沸騰した兄の劣情がそれを許さなかった。兄は中学生の有希に襲いかかり、架が彼女の服を脱がせる時間や性器を愛撫する時間を惜しみ、また彼女がまったく無抵抗で下着を履いていなかったこともあって、ベッドに押し倒した十秒後には、未熟でかつ未使用だった有希の女性器は大夢譲りの架の巨大な男性器によって貫かれていた。
次に兄の理性が回復したのは、有希のベッドで何度も彼女を抱いたあとだった。最初の結合のあと有希はすべての衣服を剥ぎ取られ、今は架に見下ろされながら肩で息をして全裸でベッドに横たわっている。全体的に未成熟で肉付きの薄い体型だが、胸の膨らみの豊かさだけは高校生で二歳年上の雫に負けていないようだ。
どうしていいか分からなくなった兄は、勘当されるのを覚悟で父にすべてを打ち明けた。数ヶ月に渡り姉の雫を弄んでいたこと、雫を父の再婚相手にしようと画策していたこと、そして今妹の有希まで性のはけ口にしてしまったことも。
父は兄に、おまえはもう何もするなと謹慎を言い渡した。そして電話を有希に、続いて雫に代わるように言い、兄の行為がたとえ強制ではなかったとしても到底許される行為ではないと謝罪した。父が姉妹にそれぞれの希望を尋ねると、雫は父との結婚を前提とした交際を、有希は架との真剣な交際を望むと答えた。父は了承したが、兄は戸惑った。
「どうして父さんにあんなこと言ったんだ? おま……有希さんはおれのことなんて好きじゃない、というかむしろ大嫌いだろう?」
「そうですね。私が好きだったのは架さんの弟の歩夢君だった。彼は覚えてないだろうけど、小学生のときに私の失敗をかばってくれたことがあって、そのときから彼を好きになった。だから今年久しぶりに彼と同じクラスになれて本当にうれしかった」
「それなら歩夢とつきあった方がいい。今日のことはおれが全部悪かったと歩夢に謝る。歩夢ならきっと分かってくれると思う」
「いや、きっと彼は私を嫌ってるから、つきあうなんてありえない。私の父が歩夢君のお母さんと不倫していて歩夢君の家で逮捕されたと聞いたときも、歩夢君の兄妹が私の父に托卵されて生まれた子どもだったと聞いたときも、私は何も知らない振りして彼に話しかけもしなかった。みんなの前で罵倒されるかもしれないと想像するだけでどこかへ逃げたい気持ちになった。歩夢君の苦しみより自分のちっぽけな見栄の方が私には大事だった。歩夢君はそんな私の心を見透かしたように、ときおりすごい顔でにらみつけてきた。私は自分が罰せられなければいけない人間なんだって強く自覚した。大事な初体験をこんな形で済ませてしまったけど、ようやく罰せられたという意味では正直ホッとしている」
自身の罪の深さを知った兄はまた有希の気持ちを僕に向けさせようと、何かにつけて僕の自慢話を彼女に聞かせたようだ。だけど翌月、有希の妊娠が発覚し、兄の計画は頓挫した。
「姉がだんだん清二さんを好きになっているように、私も架さんのことを時間をかけて好きになっていくので、架さんも私のことを少しずつかわいがって下さいね」
プロポーズは有希の方から。意外とヘタレな兄はハイとしか答えられず、有希に笑われたそうだ。翌年の夏、有希は男の子を出産。〈歩希〉と名づけられた。さっぱり読み方が分からなかったが、〈ほまれ〉と読むんだよと元クラスメートの兄嫁が教えてくれて、なるほどと思った。
架が僕を連れて宮田大夢の自宅に乗り込んだ日。
夕方、大夢と樹理が帰宅して、庭で僕に暴行されてボロボロにされた和弥に肩を貸しながら、家の中に入った。姉妹と架が玄関で出迎えた。
「架さんでしたっけ? どうしてあなたがここにいるの?」
「お二人にお話があって待ってました」
「お話? 借金なら返せませんよ」
「そうじゃなくて、雫さんがおれの父と結婚を前提とした交際を始めることに決まりました。佐野家にとって宮田家は今までずっと復讐の対象でしたけど、これからは家族同士ということで、禍根は残さず共存共栄の関係を築きたいと考えています」
その場にいなかった僕はそのあと大夢の家から出てきた架からそう聞かされて驚愕した。家族同士? 禍根は残さず? 共存共栄? そんな話になっていたなら僕にも教えてほしかった。僕はほんのさっきまで大夢の長男の和弥にずっと凄惨な暴行を続けていたんだから。そのことを架に指摘したら、忘れてたと頭をかかれた。兄と二人で和弥に謝罪しようと近づいたら、彼はひっと声を出して一目散に走り去った。
「決まりましたって、私たちは認めていませんよ!」
樹理が再び発狂した。
「五十過ぎのバツイチ男が十七歳の雫と? 恥を知りなさい!」
「お母さん、恥って言いましたけど、おれの父はあなたの夫と違って慰謝料や迷惑料を払わなくちゃいけないようなことは何もしてませんよ」
「なんで私があなたに〈お母さん〉なんて呼ばれなくちゃいけないの?」
「お話するのが遅れましたが、有希さんがおれと交際することも決まりました。これからはお母さんと呼んでもいいですか?」
「嘘でしょ?」
思わずそう聞いてみたものの、それが本当であることはだいたい分かっていた。ただし、それを現実だと受け入れる心の余裕がなかっただけだ。
「本当だよ、お母さん」
「きゃあああああああ……」
樹理の断末魔のような悲鳴がその場にいる全員の耳をつんざいた。大夢はそれを文字通り、宮田家の断末魔として聞いた。金も自宅も会社も失った挙げ句、最愛の二人の娘まで奪われた。戦いに負けるとはこういうことなんだなと大夢は力なく笑うことしかできなかった。
実際、それから数日後、宮田工務店は営業停止を発表。宮田一郎社長夫妻の壮絶な死という結末を迎えた。
宮田一郎夫妻の家族葬の場で父に突きつけられた宮田家と古賀家の救済案を宮田大夢は飲んだ。父のそばには屈強そうな三人の男たち。彼らは社長の守のボディーガード。いつか宮田雫がナンパ男たちに絡まれたとき、架の要請で車に連れ込まれそうになった雫を救い出した男たちでもあった。今は当然、逆上した大夢に父が危害を加えられないように目を光らせているわけである。
「この書面では分からないんですが、おれの家族はこれからどこに住むんですか? 今の家はもう人手に渡ってるし、あなたの家に居候するにしてはあの家はちょっと狭いんじゃないですか?」
「それなら大丈夫です。人手に渡ったあなたの家と土地はすでに僕が買い取りました。あなたの奥さんと三人の子どもたち、僕とうちの三人の子どもたち、計八人の同居となりますが、あなたの家なら狭く感じることはなさそうですね。二十年後にあなたが戻ってくる頃には建て替えてもっと広くなってるはずなので、戻っても自分の居場所があるんだろうかって心配する必要もありませんよ」
「雫と有希と和弥は行きたい学校に行かせてもらえるんですか」
「もちろん。学費も全部僕が持ちますよ。雫さんは医学部志望でしたね。ぜひ合格してほしいと思ってますよ」
「この辺から通える医大なんてないはず。あなたが雫と結婚した場合、六年間も離れ離れになるがいいんですか」
「雫さんが週末だけ帰ってくる形でもいいし、彼女の大学のある県の支店に僕が異動して二人で住む形にしてもいい。いずれにしてもなんとかなります」
「なるほど。ところで樹理の実家の古賀家も家と仕事を失って困ってるんですが、そちらもなんとかなりそうですか」
「古賀家の自宅の権利も僕の方で買い戻しました。家賃不要で今まで通り住み続けて下さいと伝えてあります。失業した奥さんの弟二人も昭和建設で雇用することで話が進んでいます」
大夢が呆れ果てたと言わんばかりの笑顔になった。実際、笑いたいから笑顔になったのではなく、笑うしかないから笑顔になっただけだった。
「これだけ一方的にボコボコにやられると涙も出ないもんなんだな。おれ、あなたのことを夏海とさんざん笑い物にしてきた。身の程知らずなアリ二匹がゾウを笑って踏み潰された。陳腐な笑い話みたいな人生だった……」
「でももう一匹のアリのことを僕は心から愛していたんですよ」
そう言ったときの父は少し遠い目をしていた。
宮田大夢が遠洋漁船に乗り込む日は十二月二十六日に決まった。せめてクリスマスまでは家族と過ごさせてやろうという武士の情けだった。翌二十七日に大夢と入れ替わりで佐野家の父子四人が父の買い取った大夢不在の自宅に移り住み、宮田樹理たち母子四人との計八人での同居生活を開始させる予定だった。ところが、船に乗り込む前日のクリスマスの日の真夜中、大夢は大量の睡眠薬を服用し、明日乗り込む船が停泊する港から海に飛び込み、そのまま帰らぬ人となった。
あれだけ待ち望んだ宮田大夢の死の知らせを聞いてもそれほどうれしいと思えなかったのが不思議だった。それは僕だけでなく、父も架も夢叶も同様に見えた。死ねばすべてが許される。きっとそういうことなのだろう。
かえって雫や有希の方が大夢の死にホッとしているように見えた。いや、一番喜んでいたのは妻の樹理か。こんなふうに言って笑っていた。
「天罰だよ。死に場所を家の外にしてくれたことだけは褒めてあげたい」
佐野家の転居は大夢の四十九日の法要が済むまで延期された。死因が自死だったこともあり、大夢の葬儀は家族のみでひっそりと執り行われた。喪主は妻の樹理。そこへ大夢の愛人の大石夏海が現れた。斎場の入口付近の死角になる場所で手を合わせているのを夢叶に発見された。
夢叶に聞き、喪主の樹理自ら夏海のいる場所に出向いた。夏海は病人のように青白い顔をしながら、目を閉じて一心に手を合わせていた。彼女を見た誰もが、お金がなくて三食きちんと食べれてないんだろうなと思った。
「夏海、久しぶりね。高校のとき以来かしら?」
「樹理さん!」
そういえば大夢も含めてこの三人は高校のクラスメートだったなと僕は思い出した。
「すいません。私、帰ります」
「いいのよ。ぜひご焼香していって。だって、自分が死んだことを悲しんでくれる人が一人くらいはいないと、あの人も浮かばれないでしょ」
「はあ……」
夏海は焼香を済ませ、故人と対面させてもらえたことの謝意を樹理に伝えた。
「いいのよ。それからお香典いただいたけど返すね。生活が大変だって聞いてるから」
夏海はそれだけは受け取れないと断固固辞した。
「夏海がそこまで言うなら受け取っておくよ。じゃあ、お香典いただいたお礼にいいこと教えてあげる。高校生のときあなたをいじめてた黒幕って誰か知ってる?」
「黒幕?」
樹理が突然そんな話をしだした意図が分からず、夏海は困惑した。
「大夢だよ。友達がいなくて誰からも助けてもらえない夏海へのいじめを止めようとすることで恩を売ろうとしたんだよ。あなたを何でも言うこと聞いてくれる都合のいい女に仕立てあげるためにね。大夢に指示されてあなたをいじめてた男子がそう言ってたよ。見返り目当てにみんな大夢の指示に従ったってさ。見返りって何か分かる? あなたの行為を記録したビデオテープ。特にあなたの処女喪失のテープは大人気で、当時百人以上の男子がお宝として持ってたみたいよ」
「嘘! 今になってそんなふうに彼を悪く言うのは樹理さんが私を憎んでるからですよね?」
「私が夏海を憎んでる? とんでもない!」
樹理は故人の妻なのに満面の笑顔になって夏海に言い放った。
「あなたと離婚した佐野清二さんがゼネコン最大手の昭和建設の社長の弟だったということを夏海は離婚するまで聞かされてなかったみたいね。彼の父親が――つまり先代社長が亡くなったとき、彼が総額いくらの遺産を受け取ったか知ってる? 自社株や不動産も含めればざっと三百億円ですって! 身内同士を争わせないという先代社長の方針で跡継ぎの座はお兄さんに譲ったけど、その分清二さんにはより多くの遺産が割り当てられた。ありがとう、夏海! 清二さんと離婚してくれて! 私の長女がね、清二さんと結婚を前提に今おつきあいさせてもらってる。長女はね、〈年の差なんて関係ない、こんなに優しくて包容力のある人ならお金がなくても結婚したい〉って言ってる。そんな人を裏切って大夢みたいなドクズを選ぶなんてね。あなたに男を見る目がなくて、こっちは万々歳。お礼に大夢と不倫した慰謝料は、私からは請求しないでおいてあげる。それから一応言っとくけど、相続した遺産は離婚の財産分与の対象外だから、その分はあなたは一円も受け取る資格がないからね」
「三百億円……」
夏海は亡霊のようにゆらゆらと斎場から出ていった。その後、夏海は元日の朝、家政婦として使ってほしいと佐野家に現れた。夏海が闇金から借金して返済が滞っていることを知っていた父はそのまま闇金の関係者に連絡して、夏海は男たちに取り押さえられて、どこかへ連れ去られていった。
余談だが、宮田樹理は夫の自死を理由に自分と子どもたちの改姓を役所に請求し認められ、四人とも樹理の旧姓の古賀を名乗ることになった。これで宮田一郎の血筋で宮田を名字として名乗る者は一人もいなくなった。それから雫が父と結婚し、さらに有希が兄と結婚し、それぞれ佐野に改姓した。
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