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「いやぁ〜、悪かったってば、アヤネちゃ〜ん。ラーメン奢ってあげるからさ、怒らないで、ねっ?」
「怒ってません……」
「はい、お口拭いて。はい、よくできましたねー☆」
「赤ちゃんじゃありませんから」
現在、私たちは『柴関ラーメン』というラーメン屋で昼食をとっている。もちろん、私はみんなが美味しそうにラーメンをすする姿を、ただただ眺めることしかできないのが辛いが。
「ん、そういえばダンテは……そっか、口がないんだったね」
シロコが、ラーメンを啜る手を止めてこちらを見る。
〈はは、気遣いありがとう〉
私はタブレットにそう表示させて、苦笑いするしかなかった。
席を一つ潰してしまうのも悪いので、私はこの店のアルバイトであるセリカと一緒に、テーブルの隅から彼らを見守っている。その時だった。
ーーガラッ……ガタッ。
来訪を告げる、古びたドアの開く音が店内に響いた。その方向へ目をやると、一人の生徒が、おずおずとこちらを覗き込んでいる。軍服に似た特徴的な衣装に、紫がかった髪……アビドスでは見かけない制服だ。セリカがその音にすぐに気づき、ぱっとテーブルから離れ出入り口へと向かった。
「あ……あのう……」
「いらっしゃいませ!何名様ですか?」
「……こ、ここで一番安いメニューって、お、おいくらですか?」
「一番安いのは……580円の柴関ラーメンです!看板メニューなんで、美味しいですよ!」
「あ、ありがとうございます!」
セリカの元気な返答に、その生徒は深々と頭を下げて感謝を述べると、なぜかそのまま踵を返し、一度店の外へと出て行ってしまった。その不可解な行動に、私たちは首を傾げるしかなかった。そうしていると再び扉が開き、先ほどの生徒に加えて、新たに三人の生徒がぞろぞろと店内へ入ってきた。
一人は、床に届きそうなほど長いマントを着た、角のある生徒。
一人は、ダウナーな雰囲気のジャケットを着た、同じく角のある生徒。
そしてもう一人は、花形のアクセサリーで髪を結んだ、耳の尖った生徒。
どの生徒も、アビドスでは見かけない、特徴的な服装をしていた。
「えへへっ、やっと見つけた、600円以下のメニュー!」
「ふふふ。ほら、何事にも解決策はあるのよ。全部想定内だわ」
「そ、そうでしたか、さすが社長。何でもご存知ですね……」
「はぁ……」
四人だけで会話を完結させている中、今まで彼女たちを眺めていたロージャがぽつりと呟いた。
「……あの子たち、見た目に反して、なんだか貧乏そうじゃない?」
「あー、どこの学園にも所属してねぇ生徒、とかじゃねぇか?」
“いや、確かあの子たちは……”
先生が彼女らを見て何かを思い出しそうだったが、結論には至っていないようだ。それにしても、どの世界に行っても、必ず貧困層というものは存在する。ここでも、都市でも、技術は目覚ましく進歩し、膨大な資源が生み出される。だが、それが全ての民に行き渡るわけではなく、やがて埋めようのない格差が生まれてしまう。これが進歩の代償であり、社会という樹木がより高く成長するための、暗黙のルールなのだ。
四人全員が店内に入り終わると、セリカが声をかける。
「4名様ですか?お席に案内しますね」
「んーん、どうせ1杯しか頼まないし大丈夫」
「1杯だけ……?でも、どうせならごゆっくりお席へどうぞ。今は暇な時間なので、空いている席も多いですし」
「おー、親切な店員さんだね!ありがとう、それじゃあお言葉に甘えて……あ、わがままのついでに、箸は4膳でよろしく。優しいバイトちゃん」
「えっ?4膳ですか?ま、まさか1杯を4人で分け合うつもり?」
なんと、花形のアクセサリーをつけた生徒は、ラーメン一杯を四人で分けて食べると言い出したのだ。どれほど金に困窮しているのだろうと、心の中で心配してしまった。
「ご、ご、ごめんなさいっ!貧乏ですみません!!お金がなくてすみません!!」
「あ、いや……!その、別にそう謝らなくても……」
「いいえ!お金がないのは首がないのも同じ!生きる資格なんてないんです!虫けらにも劣る存在なのです!虫けら以下ですみません……!」
「はぁ……ちょっと声がデカいよ、ハルカ。周りに迷惑……」
軍服の生徒が突然感傷的になってしまったらしく、己への罵倒を叫びながら、何度も頭を下げている。これに観念したのか、ダウナーな雰囲気の生徒が止めに入った。その騒ぎを、セリカは困惑しながらも、力強い言葉で制した。
「そんな!お金がないのは罪じゃないのよ!胸を張って!」
「へ……?はい!?」
「お金は天下の回りもの、ってね。そもそもまだ学生だし!それでも、小銭かき集めて食べに来てくれたんでしょ?そういうのが大事なんだから!もう少し待っててね。すぐ持ってくるから」
その真っ直ぐな言葉に、4人の生徒たちはただ呆気にとられるしかなかった。
「……何か妙な勘違いされてるみたいけど?」
「まぁ、私たちもいつもそんなに貧乏じゃないんだけどね。強いて言えば、金遣いの荒いアルちゃんのせいだし」
流れるように席に着いた彼女たちは、別に困窮しているわけではないと主張する。確かに、その装飾の多い服装や、物騒な銃器を見れば、一目でそれなりの資産があることは窺える。だが、それならばなぜ、所持金が600円にも満たない状況に陥っているのだろうか。
まあ、他人の懐事情を探るのも無粋か。そんな疑念は一旦胸の内にしまい、私はアビドスの一行へと視線を戻す。すると、ラーメンをある程度食べ終えた彼らは、ある一つの話題で持ちきりになっていた。
「『お金がないのは罪じゃない』ねぇ……。結構いいこと言ったじゃんね」
「セリカちゃんは、ああいうところがとっても素敵なんですよ~☆」
「あいつにも偶に真面目な事言うんだな……ズズッ」
「ふふっ、おじさんの可愛いセリカちゃんを、もっと称賛したまえ~」
「まぁ、その内、私なりの評価はつけておきますよ……」
先ほどのセリカの真っ直ぐな言葉が、こちら側の心にも強く響いたらしい。何人かは目を輝かせながら、あるいは感心しながら談笑している。
そうしてラーメンもあらかた食べ終わり、そろそろ店を出ようかと腰を上げかけた、その時だった。
「お、おいしい!」
「なかなかイケるじゃん?こんな辺鄙な場所なのに、このクオリティなんて」
私たちの隣の席、先ほどの四人組が、いつの間にか運ばれてきた超大盛りのラーメンを前に、賞賛の声を上げていたのだ。
「ん、セリカ。特別サービス?」
「いやぁ、それがね?たまたま大将が、手が滑っちゃったらしくて……」
表向きにはそう言っているが、大方、大将の心意気だろう。見ただけでも、とても「手が滑った」だけで済まされるような量ではない。
彼女たちが本当に美味しそうにラーメンを啜っているのを見て、自分たちが通っている店が褒められることに嬉しくなってしまったのか、ノノミがすっと立ち上がり、彼女たちの席へと近寄っていった。
「でしょう、でしょう?美味しいでしょう?」
「あれ?隣の席の」
「うんうん、ここのラーメンは本当に最高なんです。遠くからわざわざ来るお客さんもいるんですよ」
「ええ、分かるわ。色んな所で色んなのを食べてきたけど、このレベルのラーメンは中々お目にかかれないもの」
それまで不気味な笑みを浮かべていたマントの生徒が、今は満面の笑みでそう答える。余程美味しかったのだろう。食べられない私にとって、これは新手の飯テロではないかと、内心で妬んでしまった。
「えへへ……私たち、ここの常連なんです。他の学校の皆さんに食べていただけるなんて、なんか嬉しいです」
「その制服、ゲヘナ?遠くから来たんだね」
“ゲヘナ……あっ、そうか”
シロコの言葉に、先生が何かを思い出したようだ。
ゲヘナ。その名前は、一度シャーレで耳にしたことがある。暴力沙汰が日常茶飯事で、キヴォトスでも特に治安の悪い巨大な学園。そこに所属する生徒は、角が生えていることが多いとか……。確かに、目の前の生徒たちにも同様の身体的特徴が見られる。私が先生と同格の立場になった以上、いずれはそのゲヘナ学園にも訪れることになるかもしれない。
そう考え事をしていると、どうやらゲヘナとアビドスという珍しい組み合わせの会話は終わったらしく、例の四人組は満足そうに席を立ち、入り口へと向かっていた。
「それじゃあ、気を付けてね!」
「お仕事、上手くいきますように!」
「あははっ!了解!あなた達も学校の復興、頑張ってね!私も応援してるから!じゃあね!」
アビドスの生徒たちは手を振り、彼女たちを見送る。あちら側も、負けじと満面の笑みで手を振り返し、そのまま賑やかなアビドスの街へと消えていった。
このラーメン屋にも、もう思い残すことはない。一行は満足げに店を出て、再びアビドス高等学校へと戻る道を歩き始めた。その道中、私は先ほどから頭に引っかかっていた疑問を解決するため、今は優しく冷静な口調に戻っている先生に声をかけた。
〈先生。ちょっといいかい?〉
“なんだい?”
〈さっきいた4人の生徒がゲヘナの生徒だということは分かったんだが……彼女たちの所属はどこになるんだ?〉
“所属? ああ、あの子たちか”
先生は私の質問を受け、少し顎に指を当てて記憶を探るようにすると、すぐに答えてくれた。
“生徒が運営する企業、『便利屋68』だね。確か売り文句に、『金さえ貰えば何でもする何でも屋』って書いてあったかな”
〈『便利屋』……?〉
まさか、この世界でその言葉を聞くことになるとは。思わず思考が停止し、時計の音が不規則に乱れる。
“ダンテ、大丈夫かい?”
〈あ、あぁ……いや、こっちの問題だから、気にしないでくれ〉
“……そう”
先生は腑に落ちないような顔を見せたものの、私の事情を気遣ってか、それ以上は詮索してこなかった。
『便利屋』……『都市』では、別名を『フィクサー』という。金さえ貰えれば、子猫探しのような些細な依頼から、暗殺や戦戦闘代行といった血生臭い汚れ仕事まで、文字通り何でもこなす、都市で最も知名度の高い職業。その存在が、まさかこんな透き通った世界にもあるとは、夢にも思わなかった。 彼女たちが本当に、都市のフィクサーと同じような存在だとしたら? 先ほどの、ラーメン一杯を四人で分け合うような微笑ましい光景とは裏腹に、彼女たちもまた、この世界の『裏側』を生きているということなのだろうか。
「金さえ貰えば、何でもする」
その言葉の重みを、私は誰よりも知っている。それは時に、自らの信念を曲げ、魂をすり減らすことと同義だ。
ふと、先ほどの彼女たちの言葉が脳裏をよぎる。
『お仕事、上手くいきますように!』
『私も応援してるから!』
あの屈託のない笑顔の裏に、一体どんな『仕事』が隠されているのだろうか。
アビドスとゲヘナ。そして、リンバス・カンパニーと便利屋68。 今はまだ、ただすれ違っただけの関係。だが、このキヴォトスという予測不可能な舞台の上で、私たちの道が再び交差するまでに、そう時間はかからないだろう。
そんな予感をただの勘違いだと納得させながら、私は砂漠の乾いた風の中に感じていた。
舞台は再び、アビドス高等学校の一室。
あの後、定例会議の続きをするかと思いきや、アヤネがすっかり諦めてしまったらしく、会議は中止となった。今は、各々が自由に過ごす時間となっている。
囚人たちはというと、生徒たちと一緒にシャーレから支給された銃の試し撃ちをしたり、ポーカーに興じたり、あるいは高校の備品整理を手伝ったりと、それぞれがこの世界での時間を潰していた。私はというと、彼らのような腕力もなく、シッテムの箱がなければ意思疎通もままならないので、この誰もいない教室で、ただなんとなく時間をやり過ごしている。
〈はぁー、囚人たちは楽しそうだな……〉
一人寂しく、ぽつりとそんな音を漏らした、その時。扉が開いて誰かが入ってきた。
「時計ヅラか。こんなとこで何してんだ?」
来訪者に気づいて振り向くと、そこに立っていたのはヒースクリフとシロコ、そして先生だった。
〈やあ。水道の整備、大変だったかい?〉
「ん、そこそこかな。でも、結構余計な泥がついちゃったかも」
“暇だったなら、ダンテも来ればよかったのに”
〈うーん……〉
彼らの言葉と、その生き生きとした様子を見て、ふと感じることがあった。 あの時、私は先生と『同格』の役職、つまり同じ『先生』という立場を与えられた。それからの自分の行動を振り返ってみると、生徒と積極的に交流したわけでもなく、囚人たちの成長を促すようなことも、何一つしてこなかったように思う。一方の先生は、常に生徒と交流し、どんな問題にも真剣に、同じ目線で取り組んでいる……。その差を間近で見るたびに、私は自分の『無力さ』を痛感させられていた。
〈……ヒースクリフ〉
「なんだ?」
私は、少しだけヒースクリフにしか聞こえないように、時計の音を鳴らしながら私の意思を送った。
〈私に、『先生』という立場は、あまりにも重すぎるんじゃないだろうか?〉
「……何言ってんだ、お前。どっかの歯車でもイカれたか?」
私の切実な問いは、ヒースクリフにとってはおかしなものにしか聞こえなかったようだ。
「イシュメールに言われただろ。『うるさい羅針盤』だってな」
〈羅針盤……〉
ああ、覚えている。あの白鯨の腹の中で、イシュメールが、いつの間にか自分の船の舵を握っていた何者かに言い放った、私の代名詞。
「お前が必要とされる時は、いつか必ず来る。オレたちの時も、あいつら生徒たちの時もだ。だから、その時が来たら、お前はしっかりと正しい方向を示せばいい。それだけで充分なんだよ」
その不器用だが、驚くほど的確な指摘に、私は妙な感動を覚えた。うぅ……ヒースクリフ……お前がこんなに成長してくれて、私は嬉しいよ……。
そうだ。焦る必要はないんだ。いつか、私たちが本当に危機に瀕した時、私が『羅針盤』となって、彼らの行き先を示し、道を照らせばいい。たった一度の活躍だとしても、それが『先生』として役目を果たした証として、みんなの記憶に残るだろう。
……いや、精神論だけではダメな時はダメか。今度、先生にこの意思疎通の方法の改善を頼んでみようかな。
そう思考を切り替え、再び前向きな時計へと成り変わった、その瞬間だった。
廊下から、誰かが駆けてくる音が響く。その音はどんどん私たちがいる部屋へと近づき……そして、ガラッと、勢いよく扉が開かれた。
“あ、アヤネ?”
「ん、緊急事態?」
息を切らして駆け込んできたのは、アヤネだった。彼女はぜえぜえと肩で息をしながらも、メガネの位置を直し、開口一番、とんでもないことを叫んだ。
「校舎より南15km地点付近で、大規模な兵力を確認しました!」
「なんだと!?」
ヒースクリフが即座に反応する。
「ん、ヘルメット団?」
「ち、違います!ヘルメット団ではありません!……おそらく、日雇いの傭兵です!」
アビドス高等学校付近に、正体不明の傭兵部隊が迫っているらしい。ヘルメット団ではないとすると……まさか、あの『便利屋』か? 思っていたよりも、ずいぶんと早い再会になりそうだ。
“みんな!出動だ!”
突然の戦闘に備えるべく、先生の掛け声でシロコ、ヒースクリフ、そして私も急いで外へと駆け出した。
私たちが校門へ辿り着くと、そこには他のアビドス生徒と囚人たちが既に集まっていた。そして、砂塵の向こうには、数えきれないほどの傭兵と……やはり、先ほどラーメン屋で会ったばかりの『便利屋68』の4人が立っていた。
「あっ、来ましたねダンテ。何やら前方から傭兵を率いる集団が迫って来ているようです!」
イシュメールが状況を報告してくれる。
「あれっ、ラーメン屋さんの……?」
ノノミが戸惑いの声を上げた。
「ぐっ、ぐぐっ……!」
そして、相手方である便利屋のリーダー格……マントを着た生徒もまた、何やら非常に申し訳なさそうな、気まずい顔で立ち尽くしていた。どうやら、彼女にとってもこのエンカウントは全くの予想外だったようだ。
「誰かと思えばあんたたちだったのね! ラーメンも無料で特盛にしてあげたのに、この恩知らず!!」
「あっははっ!その件はありがと。でも、それはそれ、これはこれ。こっちも仕事だからさ」
「残念だけど、公私はハッキリ区別しないと。受けた仕事はきっちりこなす」
……いや、リーダー格の生徒以外のメンバーは、この状況を理解していたかのように冷静だ。……ということは、あのリーダーは、これから戦う相手と和やかに交流してしまっていたことに、今気づいた……ということか!? この瞬間、私の頭の中にあった『便利屋』イコール『都市のフィクサー』という説は、音を立てて崩れ去った。杞憂で、本当によかった。
「なるほど。その仕事っていうのが、便利屋だったんだ」
シロコが納得したように呟く。
「べ、べ、便利屋!? どうしてその名を!?」
便利屋という名前をシロコが口にした途端、リーダーの少女は、言われるとは夢にも思っていなかったようで、豆鉄砲を食らった鳩のような顔を見せた。
「あー、この後ろの時計頭に教えてもらったの。ね、ダンテ?」
〈うん。それにしても驚いたよ、便利屋という名前を聞いて……〉
「ええ、先程教えてもらったばかりですが……とりあえず、フィクサーとは別物と考えて大丈夫そうですね」
イシュメールも安堵したように言う。
「まあ!便利屋という仕事ですか……。もう!学生なら、他にもっと健全なアルバイトとかあるでしょう?それなのに便利屋だなんて」
「ちょっ、アルバイトじゃないわ!れっきとしたビジネスなの!肩書きだってあるんだから!私が社長で、あっちが室長、こっちが課長で……」
「はぁ……社長。ここでそういう風に言っちゃうと、余計に薄っぺらさが際立つ……」
リーダーの生徒が必死に弁明するも、ダウナーな雰囲気の生徒に冷静にツッコまれ、そのやり取りが、これから始まるであろう戦闘の緊張感を、奇妙なほどに削いでいくのであった。
「誰の差し金?……答えるわけないか……なら力尽くで口を割らせるしか」
シロコがそう呟くと、迷いなく銃を構える。そしてその殺気に反応して敵味方両方次々と戦闘態勢へと入っていく。
「ふふふ、それはもちろん企業秘密よ?」
先程の狼狽えていた様子はどこへやら……リーダーの生徒が、不気味に笑い、同じく銃を構える。砂が舞うこの戦場の中で、一瞬だけ静寂が流れる。そんな静寂を破ったのはリーダーの甲高い号令だった。
「総員!攻撃!」
彼女の合図で、相手が一斉に引き金を引く。こうしてラーメン屋で奇妙な出会いを経て、すれ違ってしまった『アビドス対策委員会』と『便利屋68』の戦いの火蓋が切って落とされた……。
さて、戦闘が始まってから数時間が経過したが、どうやらこちらの状況は芳しくないようだ。
まず、圧倒的に不利なのは人数差。こちら側がアビドス生徒4人、囚人3人の計7人なのに対し、敵方は便利屋メンバー4人に加え、後方から次々と現れる傭兵が、ざっと数えても10人以上はいる。
幸い、傭兵一人ひとりの練度は低い。しかし、まるで百鬼夜行のように、倒しても倒しても新たな兵が押し寄せてくるため、キリがない。 無論、問題はそれだけではなかった。便利屋68のメンバー、その一人ひとりが、予想を遥かに超える実力者だったのだ。
リーダーの生徒による、こちらの視界の外からの正確無比な狙撃。
ダウナーな雰囲気の生徒による、冷静かつ的確な追撃。
そして、花形のアクセサリーをつけた生徒と、軍服の生徒による、地形ごと吹き飛ばすかのような苛烈な爆破攻撃……。
4人の絶妙な連携攻撃の前に、こちらの戦線は徐々に、しかし確実に押し込まれていた。
囚人たちは、都市での戦闘経験を活かし、銃弾の雨を紙一重で躱しながら応戦している。だが、このままでは、再び誰かが致命傷を受け、私が時間を巻き戻さざるを得ない状況に陥るかもしれない。
先生が禁止した、あの力を。 この状況を、それ以外の方法でひっくり返せる案は……。私の頭の中で、時計の針が焦りとともに速まっていく。
〈……あっ!そうだ、PDA端末があるじゃないか!〉
そうだ、すっかり忘れていた。昨日までは持っていなかった、この切り札の存在を。 私が愛用する――囚人たちに、異なる世界の可能性、すなわち『人格』を同期させることができる、この特殊なタブレット。今朝、ファウストから「万が一のために」と渡されたばかりだった。
私は懐からPDA端末を取り出し、即座に起動させる。画面に表示されるのは、馴染みのある囚人たちの顔写真と、それに紐づけられた無数の『人格』データ。
さて、どの人格に同期させるか。
敵は銃火器を主体とした集団だ。ならば、目には目を、銃弾には銃弾を。同じく銃を扱う人格がいいだろう。
『終止符事務所』のフィクサーであるヒースクリフは、扱いが雑でも安定して高い戦闘力を発揮するし、『LCCB』係長のイシュメールは、敵の弱体化を得意とする優秀なデバッファーだ。 ……しまった、ロージャに対応する銃火器系の人格がない。どうする。
〈……ええい、ままよ! ここは連携力と制圧力に長けた『黒雲会』でいくか! なんか上手いことやってくれ!〉
ここで長考していても状況は悪化する一方だ。私は意を決し、自らの直感を信じて、三人の囚人に『黒雲会』の人格データを同期させることにした。画面をタップすると、何処かからかガラスが割れる音が響いた。
人格《黒雲会若衆 ヒースクリフ》
人格《黒雲会副組長 イシュメール》
人格《黒雲会若衆 ロージャ》
「……あれ、いつの間にか服装が変わってますね」
「……どうしたの――って、ええぇ!?」
イシュメールとセリカは、敵の絶え間ない銃撃から逃れるべく、ビルの壁にその身を隠していた。その時、どこかでガラスが割れるような甲高い音が鳴ったかと思うと、次の瞬間、イシュメールの服装が全く別のものへと変わっていた。
黒い和服。そして、胸元に彫られた刺青を見せつけるかのように、大胆にはだけさせられた胸元。手元には、いつも携えている盾と銛の代わりに、鞘に収められた一振りの黒い刀が握られていた。これは……紛れもなく『黒雲会』の衣装だ。
この場にあまりにも不釣り合いで、かつ肌の露出が多い服装に、イシュメールの呟きに反応して振り向いたセリカは、驚きのあまり顔を真っ赤にした。
「ちょっ!気でも狂ったの!?そんな破廉恥な格好を着て……」
「立派な正装ですが?そのドタマと体を切り離してあげましょうか?」
「ひえっ!?なんか言葉も荒くなってない!?」
「……冗談です」
(……これは、ダンテの仕業でしょう。戦闘中に、急にこんな服装にさせるなんて……後で一発、いや、二、三発はぶん殴っておきましょう。……ですが、これは好都合でもありますね。いつもの銛と盾だけでは、この膠着した戦況を打開するのは難しかった。この未知の力ならば、相手に『初見殺し』を喰らわせることもできるはず。私が黒雲会の人格を同期させられたのなら……ヒースクリフさんも、ロージャさんも、同様に……)
イシュメールはそう冷静に思考を巡らせると、壁から顔をわずかに覗かせ、前線の状況を改めて確認した。その瞳には、反撃の機会を窺う鋭い光が宿っていた。
敵は5人。前面に展開している4人は、先ほどから数を減らしても補充され続けている傭兵。そして、その後方で冷静に戦況を見つめているのは……便利屋68の、ハンドガンを構えたダウナーな雰囲気の生徒だ。
(銃火器を扱う敵にしては、数が随分と多いですね……。ですが、周囲の壁に残る銃痕の甘さと、私が未だに傷一つ負っていない事実を見るに……傭兵たちの練度はそこまで高くない。このまま全員のドタマを斬り飛ばす方がよほど楽ですが、あの先生との『制約』がそれを許さない。……実に、むず痒い状況です)
イシュメールは、刀の柄に手をかけながら、内心ではすでに勝利を確信していた。
対して、イシュメールたちを壁際に追い詰めているはずの便利屋の生徒――カヨコは、戦況の優位とは裏腹に、ある説明のつかない違和感を察知していた。
(……雰囲気が変わった? さっきまでとは違う……何ていうか、殺意の質が……。嫌な予感がする)
それは、ただの敵意ではない。明確に命を刈り取ることだけを目的とした、純粋で、濃密な殺意。その肌を刺すような感覚に、彼女の額を冷たい汗が伝う。
「私にその銃口を向けるのは、些か気分が良くないですね」
「!?」
その声と同時に、前方の壁から、黒い影が躍り出た。
先ほどまで隠れていたはずの、『副先生』の女性。しかしその姿は、まるで別人のように変貌していた。場違いな和装に、抜き身の刀を携えて。
殺気の正体。妙な違和感の発生源。カヨコは即座に危険を察知した。
「生身の人間が飛び出してきたぞ! 殺さずに、制圧しろ!」
「待って! 後ろに――」
しかし、優位な状況に浮かれていた傭兵の一人が、功を焦って命令を下す。カヨコは即座に攻撃を中止させようとしたが、その声が傭兵たちの耳に届くよりも、傭兵たちが引き金を引くよりも、そして、彼女たちが放つであろう銃弾よりも速く、イシュメールは動いた。
彼女は、一直線に並んでいる傭兵たちの列を断ち切るように、地面を力強く蹴った。
ダッ!……ダダダダダッ!
地面が抉れるような踏み込みの音に続き、無数の発砲音が戦場に鳴り響く。銃口から放たれた火花と硝煙が視界を覆い尽くし、やがて晴れた時……そこに、イシュメールの姿はなかった。
傭兵たちとカヨコは、忽然と消えた標的を見つけるため、慌てて周囲を見渡す。その中で、カヨコだけが、信じられないものを見る目で、イシュメールの姿を捉えていた。
(いつの間に……傭兵たちの列の、反対側に……!?)
その瞬間、凄まじい絶叫が、戦場に木霊した。
「「「ぎゃああああああっ!!」」」
先ほどまで銃を構えていた傭兵たちが、次々とその場に崩れ落ちる。彼らの両足からは夥しい量の血が流れ出し、その全員が、まるで示し合わせたかのように足首を押さえて悶絶していた。
イシュメールの刀が、一瞬で彼ら全員の両足のアキレス腱を、正確に断ち切っていたのだ。そのあまりにも手際が良すぎる、非人道的な制圧方法に、カヨコは戦慄を覚えるしかなかった。
「足首ごと両断したつもりでしたが……キヴォトスの人間は、随分と頑丈なのですね。流石に、この程度の出血量では死にはしないでしょう」
イシュメールは、刀身に付着した血糊を眺めながら、淡々と、どこか感心したように呟いた。その視線は、まだ立っているカヨコには目もくれず、ただ眼下で悶える傭兵たちに注がれている。
「ちょっ……仮にも先生でしょ、あんた……」
「別に、この間の戦闘でも攻撃はしたじゃないですか」
「そ、それはそうだけど……! これは、やり過ぎよ……!」
壁際から今までの光景を呆然と眺めていたセリカが、おどおどと身を乗り出し、戦慄した顔でイシュメールに抗議した。
(今……あの先生、地面を蹴ったのとほぼ同時に抜刀して、流れるような一振りで、あの傭兵全員のアキレス腱を斬った……? 普通、生徒を相手に、そこまで躊躇いなく……)
カヨコは恐怖を感じながらも、冷静に状況を分析しようと努める。だが、その思考は、イシュメールから放たれた、獣のように鋭く黄色い視線――純粋な殺意を向けられたことで、強制的に断ち切られてしまった。
「!」
「……まずい!」
傭兵たちの二の舞になる。そう直感したカヨコは、即座にハンドガンを構え直し、躊躇なく引き金を引こうとした。しかし、その刹那。彼女の眼前に、べちゃり、と何かが付着し、その視界を完全に奪い去った。
(な、なに、これ……!? 生温かい……。待って、この感触と匂いは……!)
視界を覆う粘着質な液体が、鉄錆の臭いを放っていることに気づいた時、カヨコはそれが何であるかを悟り、全身の血の気が引くのを感じた。
「血っ……!」
言うまでもない。それは、先ほどイシュメールが斬りつけた傭兵たちの、刀身に付着していた生々しい血糊だった。カヨコは恐怖と嫌悪に顔を歪めながらも、必死に顔についたそれを手で拭う。
視界が晴れた、その瞬間。ふと正面に視線を戻すと――。
イシュメールが、すでにカヨコの眼前にまで肉薄していた。
その獣のように鋭い黄色の瞳をまっすぐにこちらへ向け、彼女が握る刀の切っ先は、すでにカヨコの首元へと到達しかけていた。
「ぐっ……!?」
殺される――!
死への恐怖が、カヨコの身体を反射的に動かす。彼女はありったけの力で上体を反らし、間一髪、首元を狙った斬撃を空に切らせた。
(相手に躊躇いがないのなら、こっちも……!)
死線を潜り抜けたことで、カヨコの恐怖は純粋な殺意へと転化する。彼女はその無理な姿勢のまま、再びハンドガンをイシュメールへと向けた。
しかし、反撃の隙を許すほど、目の前の女は甘くはない。
イシュメールは、空振りした刀を即座に翻すと、今度はがら空きになったカヨコの胴体を薙ぎ払うべく、淀みない動きで横薙ぎの一閃を放った。
横薙ぎの一閃。それを見て取ったカヨコは、咄嗟に地面を転がり、辛うじてその凶刃を回避する。土煙を上げながら体勢を立て直した彼女の頬を、一筋の赤い線が伝った。浅いが、確かに斬られていた。
「……ッ!」
休む暇はない。イシュメールは即座に追撃に移り、上段から、下段から、あるいは突きと、多彩かつ一切の無駄がない剣戟を繰り出す。カヨコは、もはや反撃など考える余裕もなく、ただ必死にその斬撃の嵐を避け続けるしかなかった。
地面を転がり、身を屈め、飛び退く。 その度に、肩が、腕が、太ももが、浅く、しかし確実に斬りつけられていく。制服は裂け、無数のかすり傷から滲み出た血が、彼女の体力を少しずつ、だが着実に奪っていく。
(速い……!重い……!まるで、殺すことだけに特化した動き……!)
これが、先生と呼ばれる人間の戦い方なのか。カヨコの中の常識が、目の前の現実によって破壊されていく。
それでも、彼女は諦めなかった。このままでは嬲り殺しにされるだけだ。一瞬の隙、ほんの一瞬でいい。反撃の機会さえあれば――!
カヨコは、イシュメールが大きく振りかぶった瞬間を見逃さなかった。好機! 彼女はその隙を突き、ハンドガンを構え直す。
しかし、それはイシュメールが意図的に作り出した、あまりにも甘い『罠』だった。
カヨコが引き金に指をかけようとした、その瞬間。イシュメールの刀が、それまでのどの攻撃よりも速く、鋭く閃いた。
「――っ!?」
カヨコの手に、焼けるような激痛が走る。 彼女の視線の先で、ハンドガンを握っていたはずの自らの右手首から、鮮血が噴き出した。そして、主を失ったハンドガンが、カラン、と乾いた音を立てて地面に転がった。
「やっと捕まえましたよ、すばしっこいネズミさん」
夥しい血を流す手首を必死に押さえ、痛みと屈辱に濡れた顔で膝をつくカヨコ。その無防備な喉元に、イシュメールは冷たい刃を突きつけ、淡々と、まるで虫けらを見下すかのように言った。彼女の額には汗一つなく、その瞳には、獲物を仕留めた捕食者のような、鋭い光だけが宿っていた。
「……まったく、あんたたちも酷いことをするね。まさか、生徒相手にここまでやるなんて……」
カヨコは、ぜえぜえと荒い息をつきながら、かろうじて言葉を絞り出す。
「こっちだって、生きるのに必死なんですよ」
イシュメールは、その悲痛な響きすらも意に介さず、ただ冷ややかに返す。その声には、何の感情も込められていなかった。
「降参しますか? それとも、ここでその首を落とされたいですか。どちらか、選びなさい」
イシュメールは、カヨコの命を完全に掌握した上で、慈悲など一切感じさせない声で最終通告を突きつける。カヨコが絶望に目を見開いた、その時だった。
「もう、やめなさい!!」
甲高い声が、二人の間に割って入った。セリカだ。彼女は、恐怖を振り絞るようにしてイシュメールとカヨコの間に立ち塞がる。
「いくら敵だからって、やりすぎよ! もう彼女、戦えないじゃない! それ以上やるっていうなら、私が相手になるから!」
「……邪魔をしないでいただけますか。これは、ただの『制圧』です」
「これがただの制圧ですって!? あんた、それでも先生なの!?」
セリカは一歩も引かず、イシュメールを睨みつける。その真っ直ぐな瞳に、一瞬、イシュメールの眉がぴくりと動いた。
その、ほんのわずかな膠着。 戦場の誰もが、そのやり取りに固唾を飲んで見守っていた、その時。
頭上から、場違いなほど明るく、芝居がかった声が響き渡った。
「そこまでよ、アビドス対策委員会! そして、私の可愛い部下をいじめる悪い先生!」
全員がはっとして空を見上げると、近くのビルの屋上、その縁に、一人の生徒が仁王立ちしていた。太陽 を背に、そのマントを勇ましく翻しているのは、間違いなく――。
「しゃ、社長!?」
カヨコが驚きの声を上げる。
「ふふふ……遅くなってごめんなさいね、カヨコ。でも、もう大丈夫。この便利屋68社長、陸八魔アルが来たからには、形勢は逆転したも同然よ!」
そう高らかに宣言するアルの姿は、まるでヒーロー映画のワンシーンのようだった。 ……ただ、彼女が立っているビルの屋上が、ほんの少しだけ低く見えたことを除けば。
「カヨコ課長、これは社長命令よ。今すぐ、そこから逃げなさい!」
アルの凛とした声が、戦場に響き渡る。
「けど……社長!」
「いいから、早く!」
その有無を言わさぬ命令に、カヨコは一瞬躊躇したが、すぐに唇を噛み締めると、負傷した腕を押さえながら後方へと駆け出した。
「逃しません!」
イシュメールは即座にカヨコを追おうとする。だが、その一歩を踏み出すよりも速く、甲高い発砲音が空気を切り裂いた。
ヒュンッ!
一発の銃弾が、ビルの屋上から、寸分の狂いもなくイシュメールの眉間へと向かって飛んでくる。アルが構えるスナイパーライフルの、必殺の一撃。
誰もが、イシュメールの死を確信した。 しかし、その凶弾が彼女の額を貫く、まさにその刹那。
「うおおおおっ!!」
雄叫びと共に、黒い影がイシュメールの前に躍り出た。ヒースクリフだ。 彼は、まるで盾になるかのようにイシュメールの前に立ちはだかり、その身一つでスナイパーライフルの一撃を受け止めた。
ドゴォン!という鈍い音が響き、ヒースクリフの体が大きく揺らぐ。
「ヒースクリフさん!?」
イシュメールが驚きの声を上げる。
「いっ……てぇぇぇーーーっ!!」
しかし、ヒースクリフは倒れない。彼は悪態をつきながらも、その場にしっかりと踏みとどまっていた。彼の胸元、銃弾が着弾したであろう箇所には、黒雲会の刺青がまるで生き物のように蠢き、その部分だけが鋼鉄のように黒く硬質化していた。銃弾は、その強靭な皮膚に阻まれ、力なく地面へと落下した。
「なっ!? 私の狙撃を、体で受け止めたですって!?」
ビルの屋上から、アルの信じられないといった声が聞こえる。
「ちっ……。お前、とんでもねぇ威力じゃねぇか……。少しでもズレてたら、腹に風穴が空いてたぜ……」
ヒースクリフは、胸元をさすりながら悪態をつく。その額には脂汗が浮かんでいたが、その瞳は、まだ闘志を失ってはいなかった。
「はぁ……。あなたは、そんな肉壁になるような方法でしか役に立たないのですか?」
「はぁー? ったく、少しぐれぇ『ありがとう』の一言があってもいいだろうが」
イシュメールが、いつもの調子で毒づきながらも、ふらつくヒースクリフの体を少しだけ支えた。
「えっ、えっ? な、なんで平気なの!?」
あまりにも一瞬で、あまりにも常識外の出来事が起きたことで、セリカの頭は完全に混乱していた。 そんな状態ながらも、彼女が開口一番に叫んだのは、ヒースクリフの安否についてだった。
「は? んなもん、これのおかげに決まってんだろ」
ヒースクリフは、さも当たり前のように、自らの胸元を指さして答えた。そこには、禍々しい黒雲の刺青が描かれている。
「そんなこと言われたって、分かるわけないでしょ!? えいっ……いったぁ!? 何これ、カッチカチじゃない!」
セリカは、信じられないといった様子で、ヒースクリフの胸を恐る恐る指で突いてみる。しかし、その指先に返ってきたのは、人間の肌とは思えない、まるで鋼鉄を叩いたかのような硬い感触と、鈍い痛みだった。
「これで、分かっただろ?……さぁて、便利屋の親分さんよぉ!いつまでもそんなとこにいないで、さっさと降りてきたらどうだ!」
ヒースクリフは、セリカの手を払いながら、ビルの屋上にいるアルに向かって挑発的に叫んだ。
その言葉を聞いたアルの心は、二つの全く異なる感情によって、激しく揺さぶられていた。
(な、なんですって……!? 銃弾を体で受け止めるなんて……! あと服装がまるで、映画に出てくる昔気質のヤクザみたいじゃない! なんてアウトローなの! なんてハードボイルドなの! かっこいい……!)
その常識外れの光景は、アルが心の底から憧れてやまない「アウトロー」の理想像そのものだった。彼女の瞳はキラキラと輝き、頬は興奮で紅潮する。
しかし、その興奮は、次の瞬間、全く別の感情によって上書きされた。 視線の先には、先ほどまで絶体絶命の危機に陥っていた、自分の大切な部下――カヨコの姿。そして、目の前には、その原因を作った張本人たちがいる。
(……でも! でもでも! この人たちのせいで、カヨコが……! かわいいカヨコが、あんなにボロボロにされて……!)
アルの中で、憧れと怒りが、嵐のようにせめぎ合う。 ハードボイルドな生き様への憧憬。そして、仲間を傷つけられたことへの、腹の底から湧き上がるような、純粋な怒り。
しばらくの間、彼女は唇を噛み締め、葛藤に身を震わせていた。 やがて、彼女は一つの結論に至る。キラキラと輝いていた瞳から憧れの色は消え失せ、代わりに、燃えるような怒りの炎が宿っていた。
「……やっぱり、あなたたちだけは……絶対に許さないっ!」
アルは、スナイパーライフルのスコープを再び覗き込む。その表情に、もはや一切の迷いはなかった。
「たとえ、どれだけアウトローでカッコよくても! 私の、便利屋68の、大切な社員を傷つけた罪は、万死に値するわ!」
アルはそうカッコよくセリフを決め、怒りに燃える瞳でスコープを覗き込み、今度こそ、と引き金に指をかけた、その瞬間。
「ん、見つけた」
「へ?」
背後から、自分のものではない、静かで淡々とした声が聞こえた。アルが、間抜けな声と共に弾かれたように後ろを振り向くと――。 そこには、いつの間にか屋上に到達していた、アビドス対策委員会の切り込み隊長、砂狼シロコの姿があった。
「さっきからちょこまかと逃げて……。そんなに鬼ごっこがしたかったの?」
シロコは、全く感情の読めないオッドアイで、ただ静かにアルを見つめている。
「えっ、えっ? いや、そんなつもりじゃ……! い、いつの間にここまで……!?」
「さっさと決着、つけようか」
シロコは、その小柄な体には不釣り合いなアサルトライフルを、静かに、だが一切の迷いなくアルへと向けた。
「………流石に、タイマンは無理よぉーーーーっ!?」
アルの情けない悲鳴と、アサルトライフルの無慈悲な連射音が、ビルの屋上に木霊した。 一方、その騒ぎを地上で見上げていたイシュメールたちは……。
「……なんか、上で騒いでない?」
セリカがそう言いながら、首を傾げる。
「誰かと接敵したのでしょう。どうやら、私たちの出る幕はなさそうですね」
イシュメールが、刀の血糊を払いながら冷静に分析する。
「だったら、他のところ行って合流するぞ」
ヒースクリフが、もう面倒はごめんだとばかりに歩き出す。
「ちょっと、あんたたち!! 次こそは、絶対にやり過ぎないでよね!?」
セリカが、釘を刺すように叫んだ。
「……オレは、特になんもしてねぇだろ?」
「何回同じことを言うんですか。流石に、耳にタコができますよ」
「本当になんなのよ、あんたたちってば!?」
セリカのツッコミが、ひと時の戦いの終わりを告げるゴングのように、砂漠の空に虚しく響き渡るのであった。
〈……うん〉
傾き始めた太陽が、砂漠を茜色に染め上げる頃、この戦いもそろそろ終盤へと向かっていた。私は、これまでずっと遮蔽物に隠れ、この戦闘の全てをこの目で見ていたのだが……。
えっと、確かに人格の選定をした私の裁量にも問題があったとは思うが……イシュメールさん? その返り血と、べっとりと血糊がついたその刀は、一体何なんだい? 先生との『制約』の話、聞いてましたかな?
だって……同じく刀を手にしているヒースクリフとロージャだって、ちゃんと峰打ちで、相手を極力傷つけないように制圧しているというのに……。なんで? なんで君だけ、そんなに躊躇いがないのかな、イシュメール……。そんなに鬱憤が溜まっていたのかい? それとも、本質的に手加減ができないタイプだったりする?
……まあ、そのお説教は後回しにするとして、現在の戦況は、それなりに有利に進んでいる。
屋上では、シロコが便利屋のリーダーと一対一で応戦しているようだ。地上では、残りのアビドスの生徒達 とイシュメール、ヒースクリフが残りの傭兵たちを掃討中。 そして、何より目覚ましいのはロージャだ。彼女はなんと、あの爆弾魔である花形アクセサリーの生徒と、大柄(160なので比較的)な軍服の生徒、その二人をたった一人で相手取り、互角以上に渡り合っているのだ。
戦いの終わりは、もうすぐそこまで来ているように思えた。しかし、その終戦を告げるゴングは、なんとも意外な形で鳴り響いた。
キーンコーンカーンコーン――
どこからか、学校のチャイムの音が砂漠に響き渡る。
「あっ、定時だ」
「今日の日当だとここまでだね。あとは自分たちで何とかして。みんな、帰るわよー」
先ほどまでの切羽詰まった雰囲気はどこへやら、傭兵たちは「仕事終わり」とでも言いたげな、気の抜けた雰囲気で次々と武器を収め、帰路につき始めた。
「は、はぁ!?ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!」
「終わったってさー」
「帰りにそばでも寄ってくー?」
「こらー!!ちょっとどういう事よ!?ちょっと!!帰っちゃダメ!!」
便利屋のリーダーである生徒の、悲鳴に近い引き留めの声も虚しく、傭兵たちは雑談をしながら帰っていく。……何人かが担架で運ばれていったのは、今は一旦無視しておこう。うん。
「こりゃヤバいね。まさかこの時間まで決着つかないなんて……。アルちゃん?どうする?逃げる?」
花形のアクセサリーをつけた生徒がにやにやしながら唆す。
「あ……うぅ……」
リーダーの少女は、完全に孤立無援となった状況に、涙が溢れそうな顔でしばらく考え込み……。
「こ、これで終わったと思わないでよね!アビドス!!」
「あはは、アルちゃん、完全に三流悪役のセリフじゃん、それ」
「うるさい!逃げ……じゃなくて撤退よ!」
そんな、どこかで聞いたことのあるセリフを吐き捨てながら、便利屋の三人は夕陽に向かって走り去っていった。
「待って!……あ、行っちゃいましたね」
「うへ〜、あの子たちも逃げ足だけは早いね〜」
「……詳しいことは分かりませんが、敵勢力の退勤、いえ、退却を確認しました。それにしても困りましたね……妙な便利屋にまで狙われるとは。先が思いやられます……。一体、何が起きているのでしょうか」
逃げていく便利屋の背中を見送りながら、アヤネが憂鬱そうに呟く。その言葉が、この奇妙な戦いの終わりを告げた。
「さて、やる事も終わったことですし……さっさと帰りましょうか」
黒雲会の和装から、いつものシャーレ支給の服装へ戻ったイシュメールが、何事もなかったかのようにそう言った。しかし。
「……あっははっ。悪いけどイシュ、ちょっと後ろ、振り向いてごらん?」
同様に人格を解除したロージャが、どこか気まずそうに、苦笑しながらイシュメールに告げる。
「……なんですか?」
イシュメールは、どうせ碌でもないことだろうと、心底面倒くさそうにしながらも、ゆっくりと後ろに視線を向けた。 その先には……。
“……”
「……」
〈……〉
にこやかに微笑む先生。しかし、その目は全く笑っておらず、こめかみにはピキピキと青筋が浮かび上がっていた。私とイシュメールは、互いの顔を一度だけ見合わせる。理由は、十中八九あれだろう。
〈先生、これには深い訳がーー〉
“あんたら、説教だ”
〈……〉
私の弁明は、一言のもとに、無慈悲に切り捨てられた。そうして私とイシュメールは先生に乱暴に引きずられながらどこかへ行ってしまった。
「……どこにいくんでしょうか」
「時間かかりそうだし、先帰るか」
これは後日談。アビドスと便利屋の戦いから一晩が明け、場所はここ、柴関ラーメン。奇妙なことに、テーブルを囲んでいるのは便利屋68の面々と、ダンテ、イシュメール、そして先生だった。
便利屋の3人とダンテ、先生は、ラーメンを啜りながら、和やかに会話を弾ませている。もちろん、貴重な情報をタダで聞き出せるはずもなく、先生が便利屋の「経営顧問」にも担当するという取引が成立した上でのことだが。
しかし、その賑やかなテーブルとは対照的に、とある事情により、カヨコとイシュメールだけはカウンターで二人きり、黙々とラーメンを啜っていた。二人の間には、昨日までの殺伐とした雰囲気とはまた違う、重く気まずい空気が漂っている。
「……あの時は、すみませんでした、カヨコさん」
その静寂を最初に破ったのは、イシュメールだった。彼女は箸を止め、静かに、しかしはっきりとそう謝罪した。その言葉を聞いたカヨコは、絆創膏だらけの横顔のまま、一度だけイシュメールを一瞥する。そして、麺を啜りきると、ぽつりと言った。
「……いいよ。気にしてないし」
「……えっ? 気にしてない、のですか?」
カヨコの予想外にあっさりとした返事に、今度はイシュメールの方が驚きを隠せない。
「そう。今回のことは『お互い様』ってことでしょ。こっちが先に襲撃したのは事実だし、あんただって、あの状況じゃ力の加減も分からなかっただろうし」
「お互い様……。ですが、そのような言葉で片付けていいことでは……」
一番の被害者である彼女がそう言うのだから、そうなのだろう。だが、あまりに淡々としたその態度に、イシュメールはまだ納得がいかない。どこか彼女の真意を掴みきれず、何とも言えない表情でカヨコを見つめていると、彼女はふいと視線を逸らしながら、付け足した。
「まあ、確かにあの時は恐怖を覚えたけど……。でも、よくよく考えたら、『あの時』よりかは、全然怖くないなって、今さら思っちゃって……」
「あの時……?」
「ふふ、それは言えないかな」
イシュメールは問い返したが、カヨコは悪戯っぽく笑うだけで、それ以上は教えてくれない。
「……やっぱり、根に持ってますか?」
「いや? まだ、心の準備ができてないだけ」
そんな、どこか核心に触れない、些細な言葉を交わしながら、二人は黙々と目の前の料理を平らげていく。
「……あっ、いつの間にか餃子がなくなってますね」
ふと、イシュメールが自分の小皿を見て、少しだけ不満そうに呟いた。箸で掴もうとした先には、もう何もない。 すると、それを見ていたカヨコが、自分の皿に残っていた餃子を、一つ、箸でつまみ上げる。
「……いる?」
「え、いいんですか?」
「……ちょっと、量が多かったから」
「ありがとうございます」
カヨコはぶっきらぼうにそう言うと、イシュメールの小皿に、ことり、と餃子を一つ置いてやった。その素っ気ない優しさに、イシュメールは少しだけ、目を見開くのだった。そんな、不器用で優しい時間もありながら、それぞれのペースで、テーブルの上の料理は綺麗に平らげられていった。
“はい、これでお願いします”
先生が、例の大人のカードを店主に手渡す。
「あいよっ!」
威勢のいい声と共に、支払いが済む。
“じゃあ、私たちはこれで”
「ごちそうさまでした」
大人たちが席を立ち、店の出口へと向かう。その、別れ際。 イシュメールはふと足を止め、ゆっくりと振り返ると、まだ席に残っている便利屋の面々に向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……何かあったら、頼ってくださいね」
それは、昨日までの彼女からは考えられないような、穏やかで、温かい響きを持った言葉だった。
この奇妙な学園都市で、また一つ。不器用な魂が、ささやかな成長を遂げた瞬間……海から拾い上げたかつてのコンパスはまだ彼女を正しい方向へと導いていた。