明穂は思い悩んだ挙句実家に泊まる事にした。
「ただいま」
「あら!吉高さんはどうしたの、今日は一緒じゃないの?」
「うん、いつもより出勤時間が早いんだって」
「なら電話してくれれば迎えに行ったのに」
明穂がタクシーで実家の玄関先に乗り付けると母親は「吉高さんに送って貰えば良かったのに」と不思議そうな顔をした。確かにこれまで出勤退勤の道すがら送迎をしてくれたのだが今朝はその事について一言も触れなかった。もしかしたら紗央里の件で実家や田辺の家に顔を出し辛いのかもしれない。
(ーーー吉高さんも馬鹿ね)
「なんや明穂、疲れた顔して」
「そうかな」
「|家《うち》ん中にずっとおるからや、出掛けるぞ」
「う、うん」
定年退職を迎えた父親は娘の帰りを喜び「鮎でも食べに行こう」と金沢市郊外まで明穂を連れ出した。
「吉高くんも誘った方が良かったかな」
「吉高さんは忙しいから」
「やり手の医者らしいな、近所でも有名や」
「そうなの?」
「そうや、仙石の家も家《うち》も自慢の息子やって鼻高々や」
「大袈裟」
「いや、ほんとやぞ」
満面の笑みで娘婿の自慢話をする父親に吉高の不倫や離婚を考えている事など到底切り出せる雰囲気では無かった。そこで大智の話題が上った。
「大智くんも偉い立派になっとって驚いたわ」
「本当にそうね」
「私もびっくりしたわ」
「ありゃ、明穂はもう会ったんか?」
「あ、あぁ、うん」
大智が勤務する佐倉法律事務所は東京都に事務所を構えており大智は東京のマンションに帰っていた。なんでも金沢市に戻って《《やりたい事があるから》》こちらでの勤務先を探しているのだと言った。
「Uターンてやつね」
「勿体無い、東京の方が楽しいやろ」
「まぁ大智くんが帰って来たいって言うんだから良いんじゃない?」
「ところで、田舎に戻ってまでやりたい事ってなに?」
「わからん」
「なんだろ」
「若い人の考えている事は分からないわぁ」
そこで明穂は大智の名刺を母親に預けておこうと考えた。
「ねぇお母さん、忘れ物を取りに戻りたいの」
ところが母親は婦人会の会合に出席しなければならず父親は既にビールを呑んで赤い顔をしていた。
「今日じゃないと駄目なの?」
「大智の連絡先なの、大事な物だからお母さんに持っていて貰いたいの」
「分かったわ、明穂は言い出すと聞かないから」
「頑固なところは母ちゃんに似たんや」
明穂がそこまで拘《こだわ》った理由はもうひとつ有った。結局大智は吉高に会いに来なかった。そこにはなんらかの理由があるからだと考えた明穂は大智の名刺を吉高に見られてはならないと思った。
「10分で戻りますから待っていて下さいますか?」
「あぁ、料金メーター止めておきますわ」
「ありがとうございます」
明穂がタクシーを降りると玄関先に柑橘系の香りが漂っていた。それは玄関扉のドアノブ辺りから匂い立ち、鼻先を近付けるとシャネルのチャンス オー ヴィーヴ が(私は此処にいるわ)と自己主張した。
(ーーーまさか)
明穂の心臓は昂り呼吸が乱れた。音を立てないようにゆっくりと鍵を回して解錠し玄関扉を開いた。白いダウンライトの下には自分の物ではない白いサンダルが揃えられていた。こめかみが脈打ち全身の血が逆流するのを感じた。
(そんな、まさか)
明穂はリビングのチェストからデジタルカメラと大智の名刺を取り出した。名刺はショルダーバッグのポケットに入れ、指先は自然とデジタルカメラの電源ボタンを押していた。微かな起動音に口腔内が乾いた。
(オートフォーカス、フラッシュはーーー無し)
もし、もしその場所に誰かが居たとして、それがどんなに衝撃的な場面であっても迷わず撮影ボタンを押す。けれど相手に悟られてはならない。明穂の手のひらには汗が滲み、手摺りから指先が滑り落ちそうになった。裸足の足裏が階段に貼り付いて気持ちが悪かった。
(あぁ)
寝室の扉は僅かに開いていた。
(あぁ、やっぱり)
明穂は膝《ひざ》から崩れて行きそうな感覚に捕らわれた。肘《ひじ》が落ち着かず手首が小刻みに震えた。薄暗い部屋のカーテンの隙間から伸びる夕暮れに2人の姿が浮かび上がった。
「あっ、あっ」
荒い息遣いに熱気が篭る寝室。吉高はベッドに脚を投げ出し豊かな乳房に手を伸ばしていた。紗央里は吉高の下半身に跨り激しく腰を上下させている。明穂は自宅で繰り広げられる痴態に顔を背けた。然し乍らこれは決定的な不倫の証拠になる。
(見つかってもいいわ!)
意を決し腋《わき》に力を込めてデジタルカメラの撮影ボタンを押した。
「ああっ」
「んっ!んっ!」
絶頂が近い2人はデジタルカメラのシャッター音にも気付かず腰を振り続けた。俯き加減の紗央里の表情は見えないが、仰向けになり性行為に無我夢中の吉高の顔はSDカードの中に収められた筈だ。
ぎしっぎしっぎしっ
「ああっ」
「さお、紗央里!」
「あっ、あっ、あっ」
激しく軋むベッドのスプリング音、2人の汗の臭いに絡み付くチャンス オー ヴィーヴ に吐き気を催した。胃から込み上げる悲しさや憎しみ、悍《おぞ》ましさを堪えて階段を降りた。
「ああっつ!ああっ!」
「で、出る!」
「出して!出して!ああ!」
明穂はサンダルに足を入れようとしたが足首が震えて上手く履けなかった。埒《らち》が明かずサンダルを手に持ち素足で玄関ポーチを飛び出し慌てて玄関扉を施錠した。
(早く、早く此処から!早く!)
タクシー乗務員は運転席のシートを倒し一休みしていた。後部座席の窓を小刻みに叩くとその音に気付きドアがゆっくりと開いた。
「お客さん、大丈夫ですか、顔色悪いですよ」
「あ、ありがとう、早く、早く行って下さい」
「あ、はぁ」
「早く!」
明穂の手には辛い現実だけが残った。
タクシーの後部座席で明穂はデジタルカメラのモニターを見た。近距離で撮影した吉高の顔は写っていた。ただし、その面立ちが鮮明かどうかは大智に確認して貰わなければ分からない。
(画像がぼやけてなければ良いけど)
流れる車窓に虚な自分の顔が映った。
(この目が見えていたら、こんな事にはならなかったのかも)
一筋の熱いものが頬を伝う。
(もうあの家には帰りたくない)
明穂はなにか理由を付け実家に身を寄せようと考えた。
(逆に吉高さんは喜ぶわね)
自虐的な笑みが溢れた。
(あぁ、荷物、障害者手帳も保険証書も着替えも欲しいわ)
吉高の出勤時間にあわせて自宅に一旦戻る事を考えた。
(ーーーーあ!段ボール箱!)
紗央里と思わしき人物からの気味の悪い荷物の存在を大智に伝えなければならない。実家に帰宅した明穂は婦人会の会合から戻った母親に頼み大智へ電話を掛けた。
「もしもし、大智?」
=この電話はお繋ぎする事は出来ません、電波の=
大智の携帯電話は繋がらなかった。
「あら、繋がらなかったの」
「うん忙しいのかな」
「そうね、まだ17:00だもの、弁護士さんは忙しいのよ」
「ーーー17:00」
吉高はこんな早い時間から《《妻不在の自宅で》》愚かな行為に耽っていた。父親が自慢げに話す優秀な外科医は何処にもいない。
(私、そんな医者《ひと》に手術されたくないわ)
「どうする?大智くんにもう一度電話してみる?」
「発信履歴で掛け直すから大丈夫、ありがとう」
「で、これからしばらく実家《うち》に帰るなんて如何したの」
明穂は母親に痛い所を突かれたが吉高の不倫行為を匂わせる良い機会ではないかと考えた。大きく息を吸い、深く吐いて戸惑う振りをした。母親は明穂の思惑通りに訝《いぶか》しげな顔をした。
「如何したの、なにかあるの」
「それが」
「それが如何したの、喧嘩でもしたの?」
「吉高さんが最近冷たくて」
「冷たいって」
「仕事が忙しいのかなぁ、外出も多くて会話が少なくて寂しいの」
母親は安堵の表情を見せた。
「なんだ、そんな事!28歳、働き盛り仕方ないわよ!」
「でも、お泊まりも多いのよ」
「そりゃあ緊急の手術もあるでしょ、お医者さんの奥さんなんだから明穂が支えてあげなきゃ」
「でも変なの」
そこで若き日の父親に話題が飛び火し良い具合に収まった。
「あんたのお父さんも若い時は接待だとかなんとか家に居たためしがないわよ、ね、お父さん!」
「あ、あぁ。そんな事もあったかなぁ」
「浮気かと思って心配したのよ!」
「そ、そんな筈ないだろう!」
「浮気、如何しよう」
母親は明穂の肩を軽く叩いた。
「あんな真面目な吉高さんに限って浮気なんてない無いない!」
「そうかな」
「そうよ!」
これで実家の父親と母親には《《浮気の布石》》を打つ事が出来た。後は仙石の義父母だが此処は様子見で大智と話し合おう。
「じゃ、ちょっと休むね」
「夕ご飯には降りて来なさいね」
「分かった」
明穂は階段を上り2階の自室へと向かった。現在《いま》の新築の手摺りはまだ硬く手のひらに馴染まず他人顔をしている。然し乍ら幼い頃から掴まって上った実家の木製の手摺りの表面は滑らかで心が落ち着いた。
(ーーーーふぅ)
自室の扉を開けると懐かしい匂いが明穂を包んだ。家具の配置は今も変わらずそのままだった。窓ガラスを開けると夏の湿気を含んだ夜風がカーテンを揺らした。
ぎしっ
明穂は窓際のベッドに腰掛け大智との無邪気な時間を思い出した。
<ほら!受け取れ!>
<な、なに>
<そこだよ、左ひだり!>
ベッドの上には紙コップが落ちていた。
<引っ張るぞ、離すなよ!>
<こ、こう?>
明穂の自室の向かいが大智の部屋だった。椿の垣根を挟んだだけの距離は糸電話で2人を繋いだ。
<耳、耳に当てろ>
<うん>
大智の息遣いが聞こえ、それは木綿糸を伝って明穂の耳に届いた。
<付き合ってくれ>
<え!>
<でけぇ声出すなよ、ばばぁが起きるだろ>
<ばばぁって口悪すぎ>
<明穂、好きだ。付き合ってくれ>
それは明穂が高等学校に上がり大智が電子機器の会社に入社した春、沈丁花《じんちょうげ》の花の香りに咽《む》せ返る深夜の逢瀬だった。ただその恋は5年で終わりを告げ大智は渡航し行方知れずとなった。
「明穂ちゃん、僕と結婚してくれないかな」
その後明穂は吉高と結婚したが、実はその間も大智は明穂に手紙を送り続けた。然し乍らそれらは吉高の手で封印された。
(大智の手紙を隠してまで吉高さんが守ろうとしたものはなに?)
処女を捧げた吉高はたった2年で明穂を裏切った。この結婚に元より愛情はあったのだろうかと目頭が熱くなった。
(大智の事、嫌っていたよね)
比較され続けた双子の兄弟は明穂を真ん中に微妙なバランスを保っていた。それが大智と明穂が交際を始めた事で脆く崩れてしまった。吉高は大智が大切にしていた明穂を奪う事で優位に立ちたかったのかもしれない。
(それなら良き夫であり続けて欲しかった)
まるで自身を景品の如く扱われた事に明穂は悲嘆に暮れ、次第に腹の底から沸々と激しい怒りが湧き出すのを感じた。
(吉高さんと紗央里さんには相応の屈辱を味わって貰おう)
そこで明穂の携帯電話が大智からの着信を知らせた。
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