コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その背景は人の行き交う気配で騒々しかった。
「大智、お疲れ様」
「なにが」
「お仕事だったんでしょ?」
電話の向こうで一呼吸の間。
「ちげぇよ、新幹線の中だったんだよ」
「何処か出張に行くの?」
「おまえの頭は虫湧いてんのか」
「ひ、酷っ!」
大智は佐倉法律事務所を退職し金沢市のとある法律事務所に転職が決まったのだと言った。現在は残りの有給休暇を取得中、自由の身で吉高の悪事を詳《つまび》らかにするのだと息巻いている。
「今、金沢駅に着いたところ、なんか有ったんだな?」
「ーーーうん」
「情けねぇ声出すなって。で、今、実家か」
「なんで分かるの!」
「分からない方がおかしいだろ、今から帰るおばさんに言っといて」
「なにを」
「腹減ってるんだよ!飯食わせろよ!」
大智のこの暴君ぶりは明穂が落ち込まない様に、塞ぎ込まない様にと敢えてぶっきら棒に接してくれる優しさだった。
「分かったわ」
「おう!タクシー使うから15分くらいで宜しく!」
呆れてため息を吐いた明穂だったがその優しさが有り難かった。
「はぁ〜、食った食った!おばさんの飯は美味い!」
「そんな褒めてもなにも出ないわよ」
「て、メロン持ってんじゃん」
「相変わらず目敏《めざと》いわね」
やはり大智が来ると明るく場が和む。吉高は明穂と結婚し田辺家と縁付いても何処か余所余所しく堅苦しい。生来の性格とはいえこれ程までに正反対の兄弟も珍しいのではないだろうか。
「ほら、飲みなさい」
「あ、すんません」
「いや、良いね良い飲みっぷりだね」
「お父さん、あんまり飲ませないで」
明穂の父親は明穂と大智が結婚し大智が義理の息子になるものだと思っていた。ところが大智がなんの相談もなく突然渡航してしまい田辺家と仙石家が仲違いしていた時期も有った。そこで吉高との縁談が持ち上がり両家は和解した。
「いやぁ、大智くんが婿ならなぁ」
「お父さん!」
「おじさん、今からでも遅くないっすよ!」
「大智!」
父親は酔いに任せてビール瓶を傾けるのだが大智はかなり真剣な表情でグラスの泡を啜《すす》っている。
「ねぇ、大智くんが金沢に戻ってまでしたい事ってなんなの?」
メロンに包丁を入れながら母親が振り返ると大智は右の眉を吊り上げ悪戯めいた笑みを浮かべ明穂を見た。
「そりゃあ、明穂と」
「ーーーーー!」
明穂はその背中を思い切り叩いた。
グホッ
グラスのビールが机に溢れ大智は激しく咽《む》せた。大智の「おまえを奪いに行く」宣言はかなり本気のようだ。
「大智、あんたまさか」
「東京から戻る理由なんかひとつしかねぇじゃん」
「本気なの」
「吉高がーーー」
「しっ!まだお母さんにも言ってないのよ!」
「おっせぇなぁ」
オレンジ色のメロンが食卓に並んだ。
「なに、メロン出すの遅かった?」
ビールとメロンを平らげ水腹になった大智はデジタルカメラを手に明穂の部屋で大の字になって寝転んでいた。仙石家の軒先で風鈴の舌
ぜつ
が涼やかな音でクルクルと回った。
リーリー リーリー
「大丈夫?お腹壊さない?」
「そんときゃそん時だよ」
鈴虫やコオロギの鳴き声を聴きながら明穂が撮り溜めたデジタルカメラの画像をコマ送りしていた大智は感嘆の声を挙げた。
「おまえこんな所まで出掛けるのか」
「うん、結構遠くまで1人で歩いて行ける様になったの」
「県立美術館か、久々に行ってみるかな」
「行ってみて、建て直した部分もあるから」
大智は眉間に皺を寄せた。
「馬鹿か、おまえも一緒に行くんだよ。美術館の中にケーキ屋あるだろ」
「あ、あるね」
「デートだデート」
「人妻とデートは弁護士さんとしていかがなものでしょうか」
「幼馴染が並んで歩くぐらいなんでもねぇよ」
そこで大智はおもむろに起き上がりその画面を凝視した。
「吉高」
眼鏡を外した大智の顔色が変わった。
「この画像はいつ撮ったんだ」
「今日の夕方」
「何処で、まさか」
「うん、私の家の寝室で」
「マジか」
「うん」
「なにやってくれてんだよ」
大智は後ろに撫で付けた髪を掻きむしると胡座
あぐら
をかいて数枚の淫らな画像をズームアップして見た。
「間違いない吉高だ」
「大丈夫?写真ボケてない?」
「何枚かは使える、女の顔は分かんねぇが吉高の顔は分かる」
「そう、なら良かった」
大智はその大きな手で明穂の頭を撫でた。
「頑張ったな」
「証拠として使えそう?」
「使える。おまえ、目が見えなくて良かったよ」
「どうして」
「こんなに酷い絵は見た事がねぇ」
SDカードに記録された画像は結合した陰部が鮮明に映る言い逃れの出来ない不倫現場の証拠写真だった。あとはこの吉高の下半身に跨り喘いでいる女の正体を突き止めるだけだった。
(これが、これが俺の実の兄貴かよ)
大智はこの争い事の大凡
おおよそ
の青写真は既に思い描いていた。今回は身内の不祥事という事もあり明穂への慰謝料は家庭裁判所ではなく公証役場の公正証書で請求、ただし吉高とこの女にはそれなりの制裁を弁護士ではなく一個人として与えると決めていた。
「どうしたの、怖い顔して」
「もう一度聞く、真剣に答えろ」
「う、うん」
「おまえ、俺と結婚しろ」
「しろ、しろって命令形なの!?」
「どうなんだよ、するのか、しねぇのか」
「ーーーえっと」
「吉高とは離婚で良いんだな」
「うん」
「俺と結婚で良いんだな」
「うんって、ず、ずるい!」
明穂の顔は真っ赤に色付いた。
「よし、決まりだな!婚約指輪は1.5ct
カラット
くらいで良いか!」
「ちょ、ちょっと」
「結婚式は鞍月
くらつき
の教会で決まりだな!」
「そ、それは」
「100日間の再婚禁止期間か」
大智は手のひらを広げると指折り数えた。
「くそ面倒だな」
「あの」
携帯電話を取り出すとカレンダーアプリを立ち上げた。
「クリスマスイブに挙式な!」
「い、イブ」
「さっさと片つけて教会の予約だな」
吉高への復讐劇に前のめり気味の大智、取り残された感が否めない明穂だったがその横顔は頼もしく心強かった。
「吉高、落とし前はきっちり付けて貰うからな!」
「が、頑張って!」
「おう!」
大智は不倫の証拠となるSDカードをスーツの胸ポケットに仕舞うと「明日、新しいカードを持って来るから待ってろよ!」と言い残して階段を下りて行った。
「ご馳走さんでした」
「また来てね」
「明日も来るわ」
「あ、そう。お素麺で良い?」
「卵宜しく、細っそくて薄っすいの」
「はいはいはい」
そんな遣り取りが階下から聞こえて来た。ふと笑みが溢れ、それが壁に立て掛けた姿見に映った。明穂の面差しは柔らかな輪郭をしていた。
(大智が居てくれてーーー良かった)
そして当然の事だが吉高から「泊まるのか」「いつまで実家に居るんだ」そんな電話は無かった。もしかしたら紗央里があの家の台所で|自分《明穂》のエプロンを身に付けて素麺を茹でているのかもしれないと思うと身の毛がよだった。
(もう2度とあの家では暮らさない)
吉高との暮らしがほんの数ヶ月の不倫で音を立てて崩れてしまった。世間では浮気は男の甲斐性と堪える女性もいると大智は言った。けれど妻を実家に追い遣り愛人を自宅に招き入れるなど言語道断。この先、子どもを授かり里帰りしようものなら好き放題するに違いなかった。
(紗央里と別れても吉高さんは同じ事を繰り返す、そんな気がする)
明穂は深呼吸をして夜の空気を吸い込んだ。すると仙石家の中が何やら賑やかしい、義父母と大智が言い争っているようにも聞こえた。
(ーーーーえ、まさか!)
直情型の大智の事だ。もしかしたら吉高の不倫の件を口にしたのかもしれないと明穂は耳をそば立てた。それは不要な心配だったが大智はとんでもない事を言い出した。
「なんで東京の事務所を辞めたんだ!」
「そうよ、やっと採用されたんでしょう、勿体ないわ」
「もう辞めた!再就職先も決まった!問題ねぇだろ!」
それはそうだ。いつもの思い付きでUターン再就職したと叱責されてもおかしく無い。
「やりたい事があって帰ったらしいな!」
「チッ、あいつ口が軽いな!」
まさか大智が両親に相談も無く金沢に戻って来るとは思ってもみなかったので明穂はその事を大智の|母親《義母》に漏らしてしまった。
「大智、やりたい事ってなんなの?」
「まさか失敗して逃げてきたんじゃないだろうな!」
「俺がそんな下手するかよ!」
机を叩く音がして明穂は飛び上がった。「この騒ぎはなんだどうした」と明穂の両親も様子を見に2階に上がって来た。
「どうしたの?」
「なんだかお義父さんとお義母さんが大智と喧嘩してるみたい」
「あらまぁ、珍しいわね」
3人で顔を見合わせて居ると大智は《《例の事》》について言及した。
「結婚してぇ女が居るんだよ!」
「そうなのか」
「遠距離恋愛?でもあなたアメリカに居たんじゃ」
「金沢に居たんだよ!」
「なら紹介しなさい!」
「未だ出来ねぇんだよ!」
「如何して!」
「旦那が居るんだよ!」
「はぁーーーーーーーー!?」
明穂を除く両家の大人たちは驚きの声を挙げた。そこで烈火の如く大智の|父親《義父》が「不倫か!おまえ、不倫なのか!」と騒ぎ出した。
「そんなんじゃねぇよ、手も握ってねぇ(昔はキスしたけどな)」
「手っ、てっ、てててっつ!」
「親父、落ち着けよ」
「大智、弁護士が他所の奥さんと不倫なんて世間様が知ったら如何するの!」
「だーかーらー不倫じゃねぇから」
「どっ、どこの女だ!」
「心配するなって、近々紹介するから」
「大智!」
階段を上る音がして大智の部屋に明かりが点いた。カーテンが開き大智と田辺一家がご対面である。大智はなにも言わずにVサインをするとカーテンを閉めた。
「な、なんだ」
「大智くん、如何したの」
「さ、さぁ」
大智は着々とその日に向けて準備を始め、明穂は脇に汗をかいた。