テラーノベル
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元貴の胸の中は、濁流に飲み込まれていた。
一人で外に出るのが、どれほど恐ろしかったか。駅の喧騒、知らない人の視線。音のない世界で感じる、あの刺すような孤独。それらすべてを押し殺してまで、若井の疲れを癒したいと思った。若井が笑ってくれるなら、自分はどうなってもいいとさえ思っていた。
それなのに、一番信じてほしかった人、自分の世界のすべてであるはずの若井から放たれたのは「嘘」という、魂を切り刻むような拒絶だった。
自分の気持ちを嘘と言われた悲しみ。信じてもらえなかった悲しみ。そして何より、大好きな人をこんなにも怒らせ、追い詰めてしまった自分への嫌悪感。それらが混ざり合い、元貴の思考を極限まで歪めていく。
(若井が信じてくれないなら……俺の気持ちなんて、もう、最初からなかったことにしたほうがいい)
このままでは若井を「自分を傷つけた人」として認識しなくてはならなくなる。それは、元貴にとって死ぬよりも耐えがたいことだった。
若井は、いつだって正しくて、優しくて、自分を救ってくれる神様のような存在でなければならない。
若井が間違っていると思いたくない。若井が俺の心を分かってくれないなんて。
そんな現実、見たくない。
(だったら、俺が嘘つきになればいいんだ。若井の言う通り、俺が、全部嘘をついてたことにすれば……)
そうすれば、若井が怒ったことにも、冷たい言葉を投げたことにも、すべて正当な理由ができる。若井は間違っていない。俺が、最低な嘘つきだったから。俺が若井を試すようなことをしたから。
そう自分に言い聞かせた瞬間、心の一部が、パキリと乾いた音を立てて壊れた。
数十分か、数時間にも感じられた時間が過ぎた。
元貴は少しだけ、本当に少しだけ、細く目を開けた。まるで捨て猫が薄汚れたダンボールの隙間から、外にまだ天敵がいるかを確認するような、あまりにも弱々しい仕草だった。自分の身にこれ以上の痛みが降りかからないかを確認するように、腕の隙間から辺りを見渡す。
すると、目の前で自分と同じ高さまで腰を落とし、蹲っている若井と目が合った。突然のことに目を見開いた若井が、思わず前に乗り出すと、元貴は再びクロスさせていた腕に力を込め、固く目を閉じてしまう。
「…あ、ごめ…」
怯えながらも心を開いてくれたかのような反応が嬉しくて、あまりにも大きすぎるリアクションをしてしまった。
また間違えた。
若井の心に先ほどまでとは種類の異なる後悔が押し寄せる。 それでも、また目を開けて欲しくて、届かないと分かっていても「元貴」と名前を呼ぶ。喉が締め付けられ、自分でも驚くほど声が出ない。震える手で元貴の膝をトントン、と羽が触れるような優しさで叩いた。出来るだけ触れる時間を短くしようと、すぐに手を離す。
すると、元貴は再びゆっくりと目を開けた。もうそれだけで、若井は何故か自分が許されたような気持ちになった。
謝罪すればきっと元通りになる。大丈夫だ。
その期待を胸に、元貴と目を合わせる。しかし、そこにあったのは底の見えない、真っ黒な穴のような瞳だった。言うなれば虚無。
若井は、元貴は当然泣いているだろうと想像していた。しかし、泣いているどころか涙一つ零れていない。悲しみとか、怒りといった感情をぶつけられた方がまだ納得が出来た。
泣くべき場面で泣いていない、その不自然な静けさに、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
そんな違和感を感じながらも、若井は一つ一つの言葉をしっかりと伝えられるように、丁寧に手話を紡ぎ始めた。
「…ごめん、元貴。本当にごめん。手をあげたのもそうだけど、怒ったこととか…本当にごめん」
元貴が目を開くまでの間、謝罪の言葉をあれほど考えたはずなのに、いざとなったら形が整った綺麗な言葉は全く出てこなかった。それでも、自分が持っているありったけの気持ちを込めて謝罪した。
しかし、元貴はそれを現実の出来事として受けとめていない様子で、ただぼーっと若井を見つめていた。まるで、目の前の若井が幻か何かであるかのように。
やがて、元貴はゆっくりと、強張っていた腕を下ろした。若井は微かにそれに安堵し、口元に僅かな笑みを浮かべた。だが、目線を合わせようとすると、無表情のまますぐにそれを逸らしてしまう。
「もう絶対あんなことしない。ごめんな。ほんとにごめん」
若井は何度も、何度も、呪文のように謝罪を繰り返した。だが、元貴は依然として呆然としたままだった。自分の言葉が伝わっているのかいないのか。若井は、返ってこない反応に不安を募らせ、次第に口を閉ざした。
元貴の目は確かに開いている。しかし、その瞳には光がなく、まるで魂が抜けてしまったかのようだった。瞬きをするにも異様なほど動きが遅く、目の前で手を振って、生きているか確認したくなるほどの生気のなさに、ますます底知れぬ不安に飲み込まれていった。
若井は、自分が無視されているのだと思った。外に出たことを激しく責め立てた自分への、無言の抗議なのだと。
「……元貴」
若井は、自分がやってしまったことを直視する気まずさを感じながらも、廊下の隅に転がっているコーヒーカップを両手で丁寧に拾い上げた。中身はほとんど溢れ、無惨な姿になっていたが、若井にとっては今やどんな高価な贈り物よりも大切なものに変わっていた。
「…これ、買ってきてく」
若井が、喉の奥から絞り出すように感謝を言いかけた、その時だった。
「わかい」
不意に元貴の手が動いた。その唐突な動きに、若井は固まった。ようやく手話をし始めた、その事実に驚き、淡い期待を抱く。
しかし。
「わかい、ごめんね、ごめん」
元貴は、先ほどの謝罪など存在しなかったかのように、ただ自分自身を責める言葉だけを紡ぎ出した。まるで壊れた機械が一定のフレーズを繰り返すように。
「それは違うよ。俺が」
「おれが、わるかったから」
「違うから。元貴はなんも」
「ごめんね、ごめん…ごめん…」
その手話は、普段とは似ても似つかないものだった。まるで何かに追い立てられているかのように速く、刺々しい。 元貴の視線は、若井の目ではなく、いつの間にかその少し下の空間を虚ろに彷徨っている。
若井は焦った。
このままでは元貴が完全にどこか遠い場所へ行ってしまう。その恐怖に突き動かされ、思わず身を乗り出す。
「元貴、こっち見て、」
力任せに、元貴の両肩を掴んで揺さぶった。ガクガクと動くその肩の感触が、手のひらを通じて記憶を呼び起こさせる。
(あ、また……またやっちゃった)
刺激に敏感になっている今の元貴に、極力触れないよう気をつけていたのに。若井は即座に手を離し、血の気が引くのを感じながら、謝罪をしようとした。
しかし、元貴の反応は若井の予想を遥かに超えていた。
「ちがうよ、わかい」
元貴が、ゆっくりと顔を上げた。 そして、逃げ場のないほど真っ直ぐに、若井の瞳を射抜いた。
その瞬間、若井は息を呑んだ。
元貴の顔には、今まで見たこともないような、不気味なほどに歪んだ笑みが浮かんでいたのだ。 口角が吊り上がり、三日月のように弧を描いている。だが、その目は笑っていない。光のない漆黒の瞳は、まるで見開かれたまま凍りついたかのように固定され、濡れたような光沢だけを放っている。
「……元貴?」
若井の背筋に、生理的な恐怖が駆け抜けた。
目の前にいるのは、自分の知っている元貴ではない。玄関の 冷え切った空気の中で、元貴の指先だけが、まるで別の時間軸を生きているかのように、ゆったりと、滑らかに動き始めた。
「わかいはね、わるくないんだよ」
それは、幼い子供が眠りにつく前、今日あった出来事を親にのんびりと語りかけるような、穏やかで無垢な響きを帯びていた。若井の背筋に、粘りつくような悪寒が走る。まるで、元貴の精神が耐えきれないほどの苦痛から逃れるために、正常な思考回路を強制的に切り離してしまった証拠のように見えた。
「違うよ元貴、俺が……!」
若井は、込み上げる嗚咽を抑えながら必死に否定した。俺が悪かったんだ、俺が傷つけたんだと。しかし、元貴はその謝罪さえも、ふわりと掌でかわすように遮った。
「わかい」
「俺があんなこと」
「わかい、きいて」
元貴の目は、相変わらず光を反射しない黒い硝子玉のようだったが、そこには抗いがたい強制力があった。若井は、胸を掻きむしりたくなるような焦燥感に駆られながらも、口を閉じた。
「……なに」
諦めたように若井が呟くと、元貴の顔から、先ほどまでの不気味な笑みが陽炎のようにスッと消えた。
「おれが、そとに、でたから……そとにでたから、だめなんだよ。ごめんね」
次に浮かんだのは、見る者の胸を刺し貫くような、あまりにも無防備で、寄る辺ない寂しさを湛えた表情だった。 元貴が自分を責めれば責めるほど、若井の喉の奥には、一人でぐるぐると考えていた時よりも濃度の高いドロドロとした後悔がせり上がってくる。
「でも、それは俺のために」
若井は、その表情を打ち消したくて、すがるように言葉を重ねた。 しかし、元貴は若井の焦りを見透かしたように、小さく首を振った。
「わかい、ちがうの」
「……え?」
「うそだよ」
元貴のその時の表情を、若井は生涯忘れることができないだろう。そこには、怒りも、悲しみも、もはや怯えさえもなかった。ただ、深い霧の底から若井を見つめているような、遠い、遠い眼差し。
「……え?」
「うそだよ。おれがさっきいったの、ぜんぶ」
若井の思考は、その瞬間完全に停止した。
部屋の隅で唸りを上げる冷蔵庫の音も、自分の荒い呼吸も、すべてが遠のき、世界から音が消えた。視界の中心にいる元貴の姿だけが、残酷なほど鮮明に網膜に焼き付いている。 元貴の指先が紡いだその言葉が、若井の脳内に冷たく響き渡った。
嘘。
それは、つい数十分前、若井自身が怒りに任せて元貴に投げつけた言葉だった。 若井の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。目の前の元貴の真意を読み取ろうと、必死にその瞳を覗き込む。だが元貴の瞳は相変わらず虚無を湛えたままで、そこには何の感情も、何の答えも映っていない。
背中に嫌な汗が伝い落ちた。
「うそ?なにが…?」
元貴の唇が、またあの歪な形に吊り上がった。上手く騙せた、とでも言いたげな様子で笑う。
「おれが、わかいのためにってとこ」
若井が疲れていたから、若井のためにコーヒーを買うために外に出た。
それが、若井の気を引くための、あるいは若井を騙すための嘘に過ぎなかったのだと、元貴は笑いながら告げている。 若井は、自分の心臓がドロリと溶けて落ちるような衝撃を受けた。
まさか。そんなはずない。
あんなに必死に握りしめていた袋、そして自分の発言に傷ついた表情。あれがすべて演技だったなんて、到底信じられるはずがなかった。
「…違うよね。なんでそんな嘘つくの」
若井は、掠れた声でそう問いかけた。 だが、元貴は視線を外すことなく、ただ静かに、断定するように話し続ける。
「………ううん。うそだよ」
若井の頭の中は、激しい濁流に飲み込まれたように混乱した。
もしこれが本当に嘘だとしたら、俺がさっきまで死ぬほどの思いで抱えていた後悔は何だったんだ?
あの無惨に散らばったコーヒーを見て、自分の身勝手さを呪ったあの時間は?
しかし若井は、目の前の元貴が鏡のように自分を映し出していることに気づいた。
「お前、まだそんな嘘通じると思ってんの」
そう言ったのは、自分だ。
元貴の真心を「嘘」だと断じ、踏みにじったのは、自分自身だ。
……ああ、そうか。俺が言わせてるんだ。
若井は、喉の奥に熱い塊がせり上がってくるのを感じた。 自分の吐いた毒が、元貴の中に深く、深く染み付いて猛毒に変わり、彼の心そのものを腐食させていく。
「嘘だった」というその言葉こそが、元貴が自分を守るために放った、最大で最後の「嘘」に聞こえてならなかった。
若井は、肺の空気がすべて抜けてしまったかのような脱力感に襲われた。足元の床から冷気が這い上がり、指先が感覚を失っていく。
謝れば許される。心のどこかでそう信じていた傲慢さが、木っ端微塵に砕け散る。
…それでも。それでも、自分が否定しなかったら誰が否定するのか。
「俺、元貴が嘘ついてるなんて思ってないよ」
若井が振り絞るように出したその言葉に、元貴の指先がピクリと跳ねた。
その瞳の奥に、ほんの、ほんの僅かだけ、光が灯ったように見えた。それは暗闇の底で、ありもしない救いの糸を見つけたような、切実な光だった。だが、若井がそれに手を伸ばそうとした刹那、その光は残酷なほど速く、元の虚無へと吸い込まれて消えた。
「なにいってんの、うそだっていってんじゃん」
元貴は、なおも軽快に手を動かし続けた。しかし、その指先が描く軌跡とは裏腹に、元貴の顔は今にも崩れ落ちそうなほどに歪んでいた。
若井に向けられているはずの言葉は、その実、元貴自身の心に何度もナイフを突き立てている。自分の心を自分の手で踏みにじるなんて、どれほどの痛みなのか。そんな自傷行為のようなことを自分がさせているということに、えぐられるような痛みを感じた。
「元貴。もういいから」
「まだしんじてんの」
「元貴」
「ばかだね」
若井は、激しく動く元貴の両手を自分の両手で包み込むようにして力強く抑え込んだ。
「……っ!」
元貴の指先の動きが、強制的に止められる。
若井の手のひらを通じて伝わってくるのは、尋常ではない元貴の体の震えと、逃げ場を失った心臓の鼓動だった。冷え切った元貴の指先に、若井の熱い体温が混ざり合う。自分の指先が、元貴の肌に食い込んでいるのが分かった。
「…もうやめて」
若井の声は、自分でも驚くほど震え、掠れていた。
指先を抑えられた元貴は、抵抗することもなく、ただ呼吸の音だけを漏らしていた。床に広がった冷えたコーヒーの匂いが、今さらながら鼻の奥をツンと突いた。
コメント
18件
元貴何考えてるんですか...読み取れない🙃でも、それがまたいい味を出してて好きです

表現の仕方が毎回とても素敵で…!次も楽しみにしてます!

ずっと楽しみにしてました!互いがすれ違って、このまま終わってしまうのかわからないけど、幸せになってほしいな〜