テラーノベル
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若井の心臓は、喉元までせり上がるほど激しく脈打っていた。恐怖だった。自分の放った一言がきっかけで、元貴が自分自身の心を、存在を、これほどまでに無惨に切り刻み始めてしまった。ここで元貴を止められなければ、今まで二人で少しずつ積み上げてきた信頼も、何かも全てが音を立てて崩れ去ってしまう。そんな予感に、全身の血が凍りつくようだった。
「……っ」
若井が何かを伝えようと、口を開く。
その瞬間だった。静まり返った玄関に、間抜けなほど明るいインターホンの音が鳴り響いた。
こんな時に、一体誰だ。
若井の脳内に一瞬の空白が生まれた。苛立ちと混乱が混ざり合う中、数日前に大学の講義で必要だと言われ、ネットで注文した教材のことを思い出す。よりによって、今このタイミングで届くなんて。
その一瞬意識を逸らした隙に、元貴が握られている手を振り払い、魂の抜けたような足取りで、フラフラと歩いていく。
「あ、元貴……!」
呼び止めようと手が動いたが、インターホンは無慈悲に二度目を告げる。若井は、遠ざかる元貴の背中と玄関を何度も見比べ、苦渋の決断でドアへと向かった。
対応を終え、受け取った段ボールの重みを腕に感じながらリビングへ向かうと、そこに元貴の姿はなかった。
リビングにいなければ、おそらく寝室にいるだろう。分かっているのに、若井はその場に立ち尽くしたまま、動けなくなった。
寝室に行って無理やり扉を開けるべきなのか。それとも、今は一人にしておくべきなのか。
一度途切れてしまった糸をどう結び直せばいいのか分からない。 元貴が「嘘だよ」と自分を殺して笑ったあの顔が、網膜の裏側に焼き付いて離れなかった。
さっきまでの、あのヒリヒリとした空気。あの一分一秒を争うような熱量は、霧散してしまっている。まるで最初から何もなかったかのように、家の中は冷え切った日常の顔を取り戻そうとしていた。手の中に残る、元貴の指先の冷たい感触だけが、先ほどの出来事が現実であったことを辛うじて証明していた。
そして正解が見えないまま、本当の気持ちを伝えきれないまま、二人は元の日常に戻っていった。
それでも何度か、勇気を出して寝室のドアを叩こうとしたことはある。けれど、そのたびに「今寝ていたら悪いから」「疲れているだろうから」と、もっともらしい理由を並べては手を下ろした。大学の講義やレポートの忙しさを盾にして、夜遅くに帰宅し、朝早くに家を出る。
(俺、逃げてるだけじゃねえか……)
そう自覚するたびに、胃の奥が焼けるように痛んだ。何よりも許せなかったのは、元貴の顔を見ずに済んだ一日の終わりに、心のどこかで「今日も何も起きなくてよかった」と安堵している自分だった。元貴を謝りたいとあれほど願っていたはずなのに、今の自分は元貴と向き合うことから必死に逃げ回っている。わざと遠回りをして帰り、家の電気が消えていることに安堵する。そんな自分が許せなかった。
元貴が自殺未遂を繰り返していた頃は、必死に彼を繋ぎ止めていればよかった。体が傷つけば看病し、心が折れれば寄り添う。そこには明確な「救い」があった。
けれど今は違う。
元貴を傷つけたのは、外の世界でも過去のトラウマでもなく、他でもない若井自身なのだ。
暗い自室で、若井は顔を覆う。
自分が逃げれば逃げるほど、隣の部屋にいる元貴の孤独を深めていることは分かっている。元貴もまた、若井が避けていることに気づいているはずだ。気づきながら、何も言わずに「普通」を演じてくれている。その元貴の静かな優しさが、若井にとってはどんな罵倒よりも残酷な罰のように感じられた。
(このままじゃダメだ…わかってる。わかってるのに…)
一日の終わりに感じるあの情けない安堵感が、若井の自尊心をじわじわと削り取っていく。
このままじゃいけないと分かっていても、元貴に触れる勇気がどうしても持てない。
自分を守るために元貴を避け、元貴を避けることで自分を呪う。
そのループの中で、若井の精神は磨り減り、今にも音を立てて千切れてしまいそうだった。
ある日の深夜、若井はリビングのテーブルで大学の資料を広げていた。頭痛がひどく、文字が読めない。ペンを握りしめたまま、テーブルに突っ伏した。
その瞬間、全身から力が抜け、そのまま椅子から崩れ落ちた。
ドスン、という鈍い音がリビングに響く。
その頃、偶然、飲み物を飲もうと廊下を歩いていた元貴は、床を伝ってきた微かな振動に気づいた。耳は聞こえなくても、肌に伝わる衝撃には敏感だった。心臓が嫌な予感で早鐘を打つ。
(わかい…?)
リビングの扉を勢いよく開けると、そこには力なく横たわる若井の姿があった。元貴の顔から血の気が引いた。なりふり構わず傍らに駆け寄り、その肩を強く揺する。しかし、どれだけ強く揺さぶっても、若井の体はぐったりとしたまま、ただ重力に従って揺れるだけだ。
元貴の視界が、恐怖でぐにゃりと歪んだ。
(やだ。わかい、おきて。おねがい、おきてよ……!)
それは、元貴にとってこの世の終わりを告げる光景に他ならなかった。
震える手で、若井の胸元に耳を押し当てる。微かに、本当に微かに聞こえる心音。
生きている。でも、いつ止まってもおかしくないほど弱々しく感じられた。パニックになりそうな頭を必死に抑えつける。足がもつれつつも寝室に戻って、自分の スマホを掴んだ。リビングに戻りながら操作しようとするが、手が震えてパスコードがなかなか解除できない。指が滑り、冷や汗が画面を濡らす。
(だれか、だれか、っ……)
救急車を呼ぼうとしたが、119番通報をしても、自分は話せない。 若井の顔は土色に変色し、額には脂汗がびっしりと浮いている。元貴は若井の冷えた手を自分の両手で包み込み、必死に温めようとした。
「……あ、……ぁぁ……っ!」
声にならない叫びが、元貴の喉を焼く。
もし、このまま若井が目を覚まさなかったら。もし、最後に交わした言葉が、あの日のまま終わってしまったら。
元貴は若井の胸に顔を埋め、激しく体を震わせる。元貴には、自分の嗚咽さえも聞こえない。それでもまるで聞こえているような感覚になるほど、慟哭した。若井の命が、今にも指の間から砂のように零れ落ちてしまう。
その時、元貴の脳裏に、霧が晴れるように一人の男の顔が浮かんだ。 這いずるような動きでテーブルに向かい、若井のスマホをひっつかむ。パスコードは知っていた。震える指で画面を叩き、ロックを解除する。
若井がいつも大学のノートを見せてもらっているらしい友人で、自分も何度か会ったことのある人。元貴は迷わずLINEのトーク画面を開き、一番上にある名前をタップする。
『涼架』
右上の受話器のマークを、祈るように、叩き潰すような勢いでタップした。
耳が聞こえない元貴にとって、「電話をかける」という行為は、暗闇の海に石を投げるようなものだ。相手が何と言っているか分からない。自分の声が届いているかも分からない。それでも、今の元貴にはこれしか道がなかった。
発信している振動がスマホを通じて手のひらに伝わる。その振動が途切れた瞬間、画面の表示が「通話中」に変わった。
「……っ、……ぁ、あ、……っ!」
元貴は、喉を掻きむしるようにして声を絞り出した。言葉にはならない。けれど、受話器の向こうにいるはずの彼に、この絶望的な状況を、若井の命が危機に瀕していることを、魂を削るような叫びで伝えようとした。口にスマホを近づけ、必死で声を出す。
「ゎ、ぁい、が、っ、…た、ぉ、ぇ、あ!」
しかしその声は、混乱と恐怖で震え、発音は極めて不明瞭だった。相手が電話口で何を話しているのか、どれほど驚いているのかは全く分からない。それでも元貴は、壊れた機械のように、必死に自分の喉を震わせ続けた。
「わ、ぁ、い、がっ…わ、ぁい、が、」
うまく音になっているのかも怪しいその言葉を、暗闇に向かって放り投げ続ける。画面に表示されている通話時間が、相手と繋がっていることの唯一の証だった。
突然、スマホが短く震えた。
元貴は弾かれたように画面を見つめた。通知欄に、メッセージが躍り出る。
『元貴くん?』
その四文字を見た瞬間、元貴の全身から一気に力が抜けた。自分の声が、届いた。自分が誰であるかが伝わった。安堵で視界がさらに激しく滲む。元貴は震える指で、LINEのキーボードを叩きつけた。
『若井が倒れてて』
『助けてください』
『助けて』
一秒でも早く、一文字でも多く伝えたくて、元貴は文字を連投し続けた。予測変換を打つ指が、自分の涙で滑る。画面にポタポタと落ちる大粒の涙が、液晶の光を乱反射させ、文字を歪ませる。
その間も、目の前の若井は動かない。
少し前まで自分を避けていた若井。自分を「嘘つき」だと責めた若井。
でも、そんなことはもうどうでもよかった。
(ごめんね、若井。俺のせいで、俺がこんなに弱くて、若井に全部押し付けちゃったから……)
画面がまた震える。
『今すぐそっち行くね』
『救急車も呼んでおく。鍵開けて待ってて』
返信が来るたびに、元貴は嗚咽を漏らした。
若井を救ってくれるかもしれない光が、画面の向こう側から手を伸ばしてくれている。元貴は「あけます」「おねがいします」と、必死に打ち返しながら、若井の冷え切った頬に触れた。
(若井……助けてくれるって…もうすぐ、来てくれるからね、)
画面は涙で濡れて反応が悪くなり、元貴の視界もぼやけていく。元貴は、若井の体温がこれ以上逃げてしまわないように、細い腕で若井を必死に、必死に抱きしめ続けた。
時間が止まったような静寂。
元貴はただ若井の指先の冷たさだけを感じていた。 こうして待っている間にも、若井の状態はどんどん悪くなっていく。
もしこのまま、若井がいなくなってしまったら。
(おれも、はやくいかなきゃ……)
思考が黒く濁っていく。元貴は虚ろな瞳のまま、フラフラと立ち上がった。若井のいない世界なんて、耐えられない。吸い寄せられるようにキッチンの方へ足を踏み出す。
その時だった。
背後から、砕け散りそうな肩を強く、痛いほどに叩かれた。
「っ!?」
弾かれたように振り向くと、そこには、息を切らし、肩で激しく呼吸をする藤澤が立っていた。 パジャマ姿のまま、額からは大粒の汗が流れ落ち、必死にここまで走ってきたことが痛いほど伝わってくる。藤澤の目は、動揺しながらも、親友を救おうとする強い光を失っていなかった。
藤澤は元貴に一瞬だけ深く頷くと、すぐに床に横たわる若井のそばへ膝をついた。迷いのない動きで若井の肩を叩き、意識を確認する。そして、若井の体をゆっくりと横向きにし、窒息を防ぐための回復体位を取らせた。
(……あ)
元貴は、その光景をただ呆然と見つめていた。
自分一人の世界では、もう死の影しか見えなかった。若井を失う結末しか想像できなかった。でも、藤澤の迷いのない手つき、若井に呼びかける必死な横顔、その「生」への執着を目の当たりにして、元貴の中に巣食いかけていた暗い諦めが、音を立てて剥がれ落ちていく。
(たすけて……くれるんだ)
元貴の瞳に、再び光が宿る。
自分一人が背負い込もうとして、潰れかけていた若井の命。それを、藤澤が今、力強く引き戻そうとしてくれている。
そう考えていると、藤澤が突然立ち上がり玄関の方へ向かう。救急車がやってきたのだろう。あっという間に二人の救急隊員が部屋に飛び込んできた。隊員たちはすぐに若井の元へ向かい、容態の確認を始める。
いつも過ごしているリビングに、見慣れない制服の人間と、騒々しい空気が溢れる。元貴は立ち尽くしたまま、状況を説明しているであろう藤澤と隊員の顔を交互に見つめていた。
すると、救急隊員たちはストレッチャーに用意し始める。青白い顔でそれに乗せられる若井の姿を見て、元貴は突き動かされるように駆け寄った。意識のない若井が、このまま自分たちの手の届かない遠い場所へ連れ去られてしまうような気がして、たまらなくなった。
(……っ、わかい……!)
元貴は、若井の指先に触れようと必死に手を伸ばした。けれど、その指が届く前に、目の前に隊員の逞しい腕が入り込む。
「すみません、今から運びますので。少し離れてください」
隊員は元貴を傷つけないよう、けれど毅然とした態度で穏やかに制した。けれど、元貴にはその声は届かない。制止されていることさえ気づかず、ただ若井だけを見つめて、何度も何度も手を伸ばそうとする。その姿は、まるで荒波にさらわれる大切なものを必死に掴もうとする子供のようだった。
その時、横から温かい手が元貴の肩をしっかりと叩いた。
「っ……」
元貴がハッとして振り向くと、そこには藤澤がいた。 藤澤は、不安で今にも壊れてしまいそうな元貴の瞳を真正面から見つめ、ゆっくりと、そして力強く、唇を動かした。
『だ・い・じょ・う・ぶ』
音は聞こえなくても、その確信に満ちた口の動きは、元貴の心に直接響いた。視界に溜まっていた涙が、一気に頬を伝って零れ落ちた。
病院の長い廊下は、深夜のせいか不気味なほど静まり返っていた。
天井の蛍光灯が放つ青白い光が、硬いプラスチックの椅子に座る二人を無機質に照らし出している。元貴は、自分の膝の上で組んだ両手を、指が白くなるほど強く握りしめていた。若井の温もりを求めていた手のひらは、今はもう冷え切っている。
ふと、隣に座っていた藤澤が、そっと元貴の腕を軽く叩いた。音声認識アプリを立ち上げ、ゆっくりと話し始める。
「大丈夫。絶対助かる」
画面に浮かび上がる優しく包み込むような言葉に、元貴の張り詰めていた心がわずかに緩んだ。静かに頷いて返す。そして自分のスマホのメモに文字を打ち込み、藤澤に見せた。
『来てくれてありがとうございます』
藤澤は画面を覗き込むと、穏やかな笑顔を見せた。そして、アプリに話しかける。
「ううん。連絡してくれてありがとね」
そう言って、峠を過ぎたかのように、ゆっくりと息を吐いた。少し間を置いたあと、さらに続けた。
「元貴くんの話、よく若井から聞いてる」
画面に浮かび上がった文字を読んだ元貴は、目を見開いた。
若井が、自分のことを誰かに話している。
その事実が、元貴には信じられなかった。元貴にとって、二人の生活は二人だけの世界であるからだ。
元貴は、メモに打ち込んだ。
『悪いことですか』
自分に対する不満ばかりが、若井の口から語られているのではないかと、元貴は恐れた。藤澤 は、その問いを見て少し笑った。そしてゆっくりと首を振った。
「違うよ。『元貴が今日ご飯を半分も食べてくれた』とか、そういう嬉しいことばっかり」
画面に表示されたその言葉を見て、まるで時間が止まったように感じた。
若井が、自分の知らない場所で、そんなにも些細なことで喜んでくれていた。
外の世界に怯え、閉じこもっている自分を、若井は「重荷」としてではなく、一人の愛おしい存在として語ってくれていた。
藤澤から目を逸らし、俯いて考える。
もし、あの時。インターホンが鳴る前、あるいは鳴った後でも、若井の目をもっとちゃんと見ていたら。若井が必死に何かを伝えようとした時、その言葉から逃げずにいたら。
そう思うと、胸の奥が鋭いナイフで抉られるように疼いた。
若井が自分に注いでくれていた愛情の深さを知れば知るほど、それを拒絶し、あざ笑うような真似をした今までの自分の愚かさが際立っていく。この涙は間違いなく喜びという感情から溢れているのに、それと同じくらい、取り返しのつかないことをしたという激しい後悔が全身を駆け巡っていた。けれど、その痛み以上に、元貴の心を満たしたのは、じわじわと広がる確かな温かさだった。
自分のいない場所で、自分のことを大切に語り、自分が生きていることを、食べていることを、笑っていることを、何よりも幸せだと感じてくれていた人がいた。その事実が、凍りついていた元貴の魂を、ゆっくりと解かしていく。
痛くて、苦しくて、情けない。
それでも、世界で一番大好きな人が自分を愛してくれていたという事実は、何物にも代えがたい救いだった。
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ようやく!!ようやく!!!!
前々から密かに伏線として張っていた、授業プリントを渡してくれたり何かと理解が深い友人の正体を明らかにすることが出来ました!
涼ちゃんのLINEの名前設定は迷いましたが、自分で「涼ちゃん」とは設定しなさそうだし、かといって「藤澤」も硬いしなぁ…と考えた末、「涼架」になりました笑
是非また見にきてください🎶
コメント
25件
はじめまして。コメント失礼いたします。物語の世界観に強く引き込まれ、気づけばここまで一気に読み進めてしまいました。繊細な心理描写や2人のやり取りがとても魅力的で、これからの展開を楽しみにしております。素晴らしい作品をありがとうございます🙇
涼ちゃん暖かいなぁ!若井さん頑張りすぎちゃったんだよね!きっと若井さんと大森さんが幸せになるのを願ってる
