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「あ」

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「あ」

1 - 「あ」

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2023年07月01日

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泉。


1917年にマルセル・デュシャンが発表した作品で、これまでの芸術世界に衝撃を与え、多大な影響を及ぼした。物騒な代物だ。


よく作品は読者に影響を与えると言うけれど、いちばんに影響を受けるのは他ならぬ作者だろう。


作者は作者であるが故にその影響から逃れることはできない。


作品を誰にも見せず、闇に葬ることができれば。また、その上で作品そのものを忘却できれば別だが、そんなことは無理だろう。


作家という生き物は、思いついたものを人に見せずにはいられないのだから。



そう、作家。

わたしは作家だった。


作家になった経緯は単純だ。

物語を書くのが好きで、それを仕事にしたかった。


仕事にしたいのなら売れるものでなければならない。

わたしが純文学を諦め、流行に手を出したのはそんなありきたりな理由だった。


幸い、小説投稿サイトでランキングを覗けばいくらでも時流は読める。出版業界全体から見ればごく小さな箱の中の出来事であっても、書籍化のチャンスがある以上、試さずにはいられなかった。


作品を読み、流行を掴み、書く。

ただそれだけを繰り返すうちに、作品の精度は上がり、サイト内ランキングの順位も上昇を続けた。


ファンタジージャンルなのにセンス・オブ・ワンダーの欠片もない、単に読者の欲望を満たすことのみを目的として量産される物語に醜悪さを覚えたのは最初だけ。


わたしが本来書きたいものではなかったが、書き続けるうちに娯楽作品の必要性をひしひしと感じるようになった。


むしろ、重要だったのはメンタル管理の方だ。

自分より遙かにポイントを稼ぐ人々が上位を埋め尽くしていれば、気にならない筈も無い。


そこでわたしは、他人ではなく自作をライバルに見立てることにした。

過去の自分が書いたものより面白いものを書けばいい。


人間は自然に上達していくものだから、書き続ければいつか勝てるだろう。勝てるかどうかもわからぬ他人を目標にするより、ずっと健全なように思えた。


心の問題が解決すれば、あとは繰り返すだけだ。

作品を読み、流行を掴み、書く。


それだけでいい。


そんなことを繰り返すうちに書籍化の打診をいただき、出版社からライトノベルを二冊出し。


三冊目は出なかった。


ここでようやく気づいたのだ。


燦然と並ぶ書籍達は歴戦の猛者で、本屋は戦場で。

適性にない話を無理に書いてどうにかできる領域ではなかった。


こうしてわたしは当然に商業の壁にぶつかり、当然に敗北した。


ここまではいい。

そう、ここまでは何の問題もなかった。


売れない作家として扱われ、次作がなかなか出なくても、まだ何とかなる可能性が残されていた。


問題はここからだ。


勝手に絶望し、悲観的になっていたわたしは、出来心から悪ふざけをした。

小説を投稿したのだ。



タイトルは「あ」。

本文は白紙だ。


正確には空白文字を入力しているのだが、読者からすれば何も見えない。


悪ふざけにしてもつまらない。

感想が来るとすれば、ふざけてないでちゃんと書けという罵倒くらいだろう。


そんなことを思い、眠り、夜が明けると。世界が一変していた。




なんだ、これは。

「あ」に膨大な感想がついている。


100や200ではない、まだ伸びている。閲覧数は見たこともない数値をたたき出し、ポイントは増え続ける。


ランキングの順位はジャンル総合で1位だった。

意味がわからない。


だって、何も書いてないんだぞ。タイトルだって「あ」だ。一体全体、どういう理由で評価されているのだ?


感想欄を見ると、罵詈雑言の嵐だった。

これは詐欺であるとか、早く作品を消せとか、作者の身元を特定しろといった治安の悪い言葉が並んでいた。


幸い身元は特定されていなかったが、出版済みの書籍は特定されていた。読んでみたがつまらない、最悪だった。と書き込まれている。


「こんなものが作品であるわけがない。」

「こんなゴミクズで1位になるなんて許せない。」

「こんなものでいいのなら俺にだって書ける。」

「白紙なんだから書いてねえだろw」


といった言葉が書き込まれては流れていく。

なぜこんなに評価されているのか、みんなもわからないらしい。


さらに感想を読んでいく。


「おそらくタイトルの「あ」は唖(あ)のことだろう。障害によって声を失った者の苦しみが表現されている。476文字の空白文字によってな。」

「いや、逆じゃないか? 音が聞こえない状態を表していると考えることもできる。」

「根拠は?」

「井蛙(せいあ)の蛙(あ)じゃないか? 井戸の中でおぼえる孤独を表現しているのかもしれない。なかなか文学的じゃないか。」

「476の空白文字は暗号だ。何らかの意味があるんだ。」


待って、待ってくれ。


「無、か。ジョン・ケージの4分33秒を彷彿とさせるな。」

「あれは観客の出す音を音楽にするやつだろ。」

「感想欄をよく見てみろ。観客が騒がしいじゃないか。」

「なるほど。これは芸術かもしれない。」


いや、その。考えすぎだぞ。

みんな目を覚ませ、それはただの「あ」だぞ! 本文なんて白紙だ!


作者の思惑とはまったく異なる形で、読者の想像が広がっていく。

わたしはふと、マルセル・デュシャンの泉という作品を思い出した。


ニューヨーク・アンデパンダン展で名を馳せたその作品は既製品の小便器を逆さまにし、サインをしたもので、芸術的な技巧は皆無だった。


作ろうと思えば、誰でも同じ物を作れただろう。


小説投稿サイトのトップページに行くと、大量の「あ」が並んでいた。二匹目のどじょうを狙った人々によって幾千と投稿され続ける「あ」「あ」「あ」。もちろん中身は白紙だった。


しかし、わたし以外の「あ」は閲覧数の伸びが悪い。


当然だろう。似たようなものが大量にあれば、大元を探しに行く。


そして行き着くのは本家の「あ」だ。


さらにポイントが入り、2位との差が開いていく。総合2位の作品はもう何年も続いているシリーズ物で、書籍化もしているのに。「あ」に抜かされてしまった。


この時、わたしが感じていたのは喜びではなく、恐れだった。


何かとてつもなく取り返しのつかないことが起こっているのに、それが一体どういうことなのか、自分でもわからないのだ。


デュシャンの泉はその時代の芸術概念を混乱させるほどの衝撃を持っていた。


なぜなら、泉はただの便器で。その便器が芸術として認知されたのは、人々がそれを芸術として扱ったからだ。


だとするなら、芸術とは何なのだ。

作り手の技倆も、努力も、意味はないのか?


重要なのはポジションで。

素晴らしい物だと認知されれば、中身はなんだっていいのか?


じゃ、じゃあ。

わたしたちは一体、何の為に書くのだ。


膨大に量産される「あ」の奔流を眺めながら、そんなことを思う。

今思えば、わたしはこの時点でデュシャンの人生を思い出し、速やかに「あ」を消すべきだったが、そんなことは土台無理だった。


2巻打ち切りの憂き目にあったわたしが、どんな理由であれ人に注目されている。その一点がある限り「あ」を消すことなどできるはずもなかった。


何をしてでも作家でいたいという欲が、わたしの思考を曇らせた。


それから数日も経たないうちにニュースに取り上げられ、社会現象として扱われた。テレビの取材もあったが、何かとても恐ろしいことになる気がしたのですべて断った。


結果、「あ」の謎めいた雰囲気が強化されたのは言うまでもない。




「先生。「あ」って何なんですか!? 教えてくださいよ!」


もう何年も音沙汰なかった担当編集から電話がかかってくる。「あ」の人気によって、以前書いた2冊の本に重版がかかっていた。


この人気は泡だ。


デュシャンは泉によって芸術とは何かを問い返したが、わたしの「あ」には何もない。本当に、何もないのだ。そんな無に何が出来る。最後には弾けて消えるだけだ。


空虚な自己が肥大化し、手の付けられない怪物になっていくような恐ろしさが、総身を震わせる。


どこかで地に足をつけなければ。



「先生。あのですね。別にみんなは先生の続巻とか求めてないんですよ。必要なのは新刊です。」


新刊。はい、新しい話ならすぐに。


「違いますよ。読者が求めているのは。新しい話じゃあないですって。」


「あ」の出版が決まった。

白紙の本を売る?


一体全体どういうことだ。

そんなものノートと何が違う。


そんなものどこの誰が買うのだ。

絶対に売れるわけ……!



「いやぁ、まさかこんなに売れるとは。また重版ですよ。先生にはまいっちゃうな。装丁に全振りした甲斐があります。ハードカバーの革表紙本に、紙もこだわりましたからね。手触りいいでしょ? 辞書とか聖書で使うやつで、実は印刷所に知り合いが」


小説投稿サイトで「あ」は殿堂入りになっていた。


ネット上では書籍版「あ」に使われた空白文字の数と頁数を新たなヒントにして「あ」の真実に近づこうという狂気的な試みがなされ、様々な仮説が立てられている。


ここまで来ると、わたしが「あ」に意味はないと言っても誰も信じない。

実際にテレビで言っても、誰にも信じてもらえなかった。


「あ」という作品はすでに作者であるわたしの手を離れ、どこまでも肥大化していくのだ。




「先生、「あ」の映画化の話がきましたよ! おめでとうございます。主演は人気事務所の……。いやぁ、あちこち駆けずり回りましたよ!」


ちょっと待ってください。本文がないのにどうやって映画を作るんですか。


「それはそれ、脚本家がいますからね。先生のお手をわずらわせる必要はありませんよ。ミステリアスな雰囲気を大事にしましょう。」


どうやら、都市伝説化しつつある「あ」の情報を収集し、そこから逆算する形で「あ」の真実に迫る、らしい。


確かにそれなら面白くもなるだろう。

わたしがヘタに「あ」の話を作るより、ずっと面白そうだった。


ふと、穴が空いたようは気持ちになる。


わたしは何者なのだろう。

わたしは作家ではなかったか。


そう思い、何事か書いてみても凡作にしかならない。

わたしはこれまで過去の自分、過去の作品を超え続けることで心を保ってきた。


でも、今回は相手が悪すぎる。


どうしようもなく強すぎるのだ。

これほどまでに人々を熱狂させる本をわたしは書けるのか?


何を書いても「あ」と較べられ、「あ」の方がよかったね。と言われてしまうのではないか?


そう思うと、恐ろしくなる。


「あ」の人気だって、永遠ではない。ブームが去ればそれまでだろう。

だが、「あ」の呪いは永劫だ。


たとえ書いたものを誰にも見せなくても、わたし自身が「あ」ほどではないと思ってしまう。こればかりは避けようがない。


「あ」の存在はあまりにも鮮烈で、衝撃的で、忘れることなどできそうもなかった。


デュシャンは。

泉のデュシャンはどうしたのだったか。


ああ、そうだった。

彼は幾つかの作品を作った後、芸術家らしい活動もせずに、チェスに没頭したのだ。


はは、ははは。

無理だ。わたしが「あ」に勝てるわけがない。


読者の期待は既にわたしの実力を超えている。

何を作っても、作者の手をから離れ、肥大化した虚無の怪物にひねり潰されるだけだろう。


おお、ならば「あ」よ。

虚無と誤解に育まれた無貌の王よ。


せめて最後に、お前を最高の怪物にしてやる。




こうして、一人の作家が死んだ。

有り金すべてを寄付してから、映画公開初日に目立つ場所で首を吊って死んだのだ。


原作者死亡のニュースに人々は色めき立ち、もちろん映画は大盛況。

弁護士が開封した遺書は難解で、難解であるが故に議論は白熱し。


家族や友人には馬鹿野郎、自意識が過剰過ぎるんだよ馬鹿。と罵られた。


若き担当編集は「他人の評価ばかり気にして己を見失った馬鹿は虚無に食い殺されるのがお似合いだ。」とむせび泣き。最後に「なんで、だよ。」と溢した。





作家は最後まで思い出せなかったが、デュシャンにはひそかに制作されていた遺作があり。泉ほどの衝撃を世界に与えることはできずとも、作品は確かに存在する。


なお、デュシャンがそれを作りたかったのか、作らずにはいられなかったのかは定かではない。

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