テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
玄関の扉が静かに閉まった瞬間、菊の全身から力が抜けた。
靴も脱がず、その場に崩れ落ちる。
外では、笑顔を保った。
穏やかな声で会話を終えた。
だが、胸の奥で押し殺していた何かが、もう耐えきれずに溢れ出す。
「……あ……ぁ……」
小さな嗚咽が、やがて大きな叫びに変わった。
「嫌だ……っ! そんなの……っ!」
手が震え、床を叩く。
涙と嗚咽が止まらない。
アーサーの言葉が耳にこびりつき、何度も繰り返される。
――「それはできない」
「どうして……どうして私じゃ……っ」
声がかすれ、呼吸が乱れる。
胸の奥が焼けるように痛い。
気づけば、両手で顔を覆い、子どものように泣き叫んでいた。
静かな部屋に、自分の声だけが反響する。
理性も、誇りも、今は何の役にも立たない。
「……私だけを……見てほしいのに……」
その願いは、涙と共に床に零れ落ち、やがて形を失っていった。
だが、愛は消えなかった。
むしろ、燃え残った執着だけが、さらに濃く、深く、静かに息を潜めていく。
あの夜、涙が乾いたあと、菊は鏡の前に座っていた。
瞳は赤く腫れているが、その奥にはもう迷いはなかった。
(……拒絶されないようにすればいい。
離れられないようにすればいい)
声に出さず、その言葉だけを胸に刻む。
翌日、菊は以前よりも自然にアーサーの予定を把握し始めた。
何時にどこへ行くのか、誰と会うのか、何を話すのか。
直接聞くこともあれば、ふとした会話から巧みに引き出すこともある。
気づけば、アーサーの週の半分以上は菊と過ごす予定で埋まっていた。
誘いは断れないほど自然で、しかも礼儀正しい。
そのため、アーサーも初めのうちは不審に思わなかった。
ある日、アーサーが出かけようとすると、玄関に菊が立っていた。
「今日は私と過ごす日ですよね?」
「あ、いや……ちょっと予定が――」
「……予定、変更していただけませんか?」
穏やかな笑みのまま、瞳だけが揺れずにアーサーを見つめる。
その視線に、アーサーは言葉を詰まらせた。
「……わかったよ」
「ありがとうございます」
それから、アーサーが他国と長く話すと、必ずそのあと菊からの連絡が入るようになった。
「体調はいかがですか」「無事に帰れましたか」――言葉は優しいが、その裏にある意図は一つだけ。
(あなたの視線も時間も……もう全部、私だけのものに)
その思いは、静かに、だが確実に、アーサーを囲い込んでいった。