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篠原愛紀
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今日は土曜日
週末——
夫はまだソファで寝ている
昨夜の夫の横暴に耐えられず
朝から家を飛び出してしまった
夫と顔を合わせたくなかった
昨晩作った夕飯二人前が
ラップして冷蔵庫にある
夫が
最悪食事に困る事はないだろう
あんな事があって尚
夫の事を気に掛ける
この感情は何なのだろう
ルーティンによる癖?
強いられ続けた躾?
まさかこれが愛情なんて事は……
そんな悶々とした気持ちで
心を曇らせながら
朝の街を闊歩する
心情を映すかのような
淀んだ曇り空に
心が晴れない
職場環境の変化
多忙な日々
何かが変わった気になっていた
でも
そう思い込んでいただけ
よくよく考えれば
変わったのはオフィスでの一幕のみ
現実という大枠は
何ら変わってはいなかった
自宅から
夫から
離れて頭に浮かぶのは
今月の支払いと
母親への仕送り
フラフラと銀行へ立ち寄り
課せられた責務を果たす
何かが変わったと思い込み
変わって見えた街並みも
実際は何も変わっておらず
私が
下を向いて歩いたか
前を向いて歩いたか
その違いでしかなかった
私の人生は自宅と会社の往復
与えられ
義務付けられた
タスクをこなす日々の継続
思えば趣味なんて崇高なものも
持ち合わせていなかった
持ち合わせているのは
背負わされた責務ばかり
街を彷徨い
電車に乗ってみる
電車に乗ってはみたものの
降りたのは会社の最寄り駅
私には
する事も
したい事も
行きたい場所も
行く当ても無かった
気付けば昼時
ふと
どこにでもあるファミレスが目に留まった
——あの日社長と来た店だ
記憶の片隅にある
甘美な哀愁に惹かれ
私はフラフラと入店した
「いらっしゃいませ!お好きな席へどうぞ」
休日のオフィス街の店舗は
ガラガラだった
あの日社長と座った席は
奥の窓際の席
その
奥の窓際の席には
既に人が座っていた
見覚えのある
既視感のある
あの日と同じ人——
血液が沸き立ち
血流が逆流する
途端に高鳴る鼓動
途端に高まる気持ち
色弱の私の見間違いではと
幾度も瞬きし
幾度も確認し
その一人
その一点を凝視する
その気配に気付いてか
顔を上げたその人は
こちらへ振り向き
——目が合った
見間違いじゃなかった
「おう、水川さん!どうしたの?休日出勤?」
そう言って
声を掛ける社長に
小走りで歩み寄る
「いえ、そういうわけじゃなくて……たまたまです」
そう言って
社長の顔を拝んだ私は
現実から夢へと回帰する
現実の陰鬱な事などすっかり忘れ
あの日と同じ時間が再び流れだす
淀んだ曇り空には
いつしか晴れ間が差し込んでいた
「そう……まあ座って座って」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
ちゃっかり同席させて貰い
ランチを注文する
「社長は注文されましたか?」
コーヒーを啜る社長に尋ねる
「頼んだよ、ランチセット」
「……社長って、意外と庶民的ですよね」
「そうかな……そうかも」
社外で見る社長には
社内で受けるような威圧感は無い
あの日と同じ
穏やかな社長
その穏やかな笑顔につられ
いつしか私も笑っていた
その私の笑顔を見て
「……大丈夫?話聞こうか?」
社長は心配した
私は少し驚いた
心の奥底を見透かされている気がした
私の顔に出てた?
いや
自然に零れた笑顔だ
そんな事は無かったはず
なのに社長は——
「大丈夫ですよ!社長こそ今日はどうしたんですか?」
「ちょっと片付けなきゃならない仕事があってね……」
「どうせ家に居ても寝れないし」
「休日までお仕事大変ですね……ご苦労様です」
「ありがとう。でも休日は自分一人だし周り気にせずマイペースで仕事出来るから気楽なもんだよ」
聞いた事はある
特に欧米系の会社では
上へ行けば行くほど激務
社長ともなれば
その責任に比例して
どの社員よりも多忙になる
私には知り得ない領域だ
運ばれてきたランチセットを食べつつ
世間話に談笑する
多忙な素振りなど全く見せない社長
(ちゃんと睡眠とってるのかな……)
(いつもこんな外食してるのかな……)
私は
社長の食生活が少し心配になった
「言いたくなければ言わなくていいけど、何かあったら臆せず何でも言ってね」
社長は
自分よりも私の心配をした
今まで相談できる人など居なかったし
した事もなかった
そう諦め
閉ざされていた心の扉
開けるのは容易ではない
私の人生の長さだけ
閉ざされ続けてきた扉
でも
社長になら……
私の人生で初めて
微かにそう思えた
社長の目は
じっと
私の目を見つめ
私を
受け止めようとしている