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[注意]
嘔吐恐怖症に関する記載があります。
作者は恐怖症に関する知識はありません。そのことをご理解の上、お読みください。
この世で一番嫌いな音がした。
次の収録現場へと向かう車の中は、和やかな空気が流れていた。運転席でハンドルを握るマネージャー、山本に対し、助手席に座る若井が、最近あった面白い出来事を身振り手振りを交えて話している。後部座席の大森も、若井の話にツッコミを入れながら楽しそうに笑っていた。しかし、ふと隣に座っている藤澤に目を向けると、彼はいつになく静かだった。
いつもなら楽しげに笑い声を上げ、場を和ましているはずの藤澤が、膝の上で手を組んだままじっと俯いている。大森はその様子をしばらく伺っていたが、あまりの口数の少なさに心配になって声をかけた。
「涼ちゃん、なんか体調悪い?」
その言葉に、藤澤の体がわずかに震えた。 彼は、どこか焦ったように俯いていた顔をパッと上げ、大森の方を向いてにこやかに笑ってみせた。
「…ううん、大丈夫」
その笑顔はいつもの優しい藤澤のそれだったが、大森の目は誤魔化せなかった。 大森は顔をじっと覗き込み、眉をひそめる。
「…顔色悪いよ」
実際、藤澤の頬からは血の気が引いており、唇の色も少し薄くなっているように見えた。助手席の若井も異変に気づいたのか、体を捻って後ろを振り返り、心配そうな視線を送っている。
それでも、藤澤は二人を安心させるように、首を振って言葉を重ねた。
「ううん、大丈夫だから。」
一向に弱音を吐こうとせず、頑なに自分の体調不良を認めない藤澤。その強がりが余計に心配を煽ることを分かっているのかいないのか、彼は必死に笑顔を保ち続けようとしていた。
二人のやり取りを黙って聞いていたマネージャーの山本が、ルームミラー越しに後部座席の様子を確認し、静かに口を開いた。
「次のコンビニで一回停まろうか」
その提案に、藤澤は弾かれたように首を横に振った。
「いや、時間に余裕ないですし。大丈夫です。」
絞り出すようなその声は硬かった。
明らかに余裕を失っている様子に、車内の空気はさらに張り詰める。
藤澤の額には、いつの間にかじっとりと冷や汗が浮かび、前髪が肌に張り付いていた。 膝の上に乗せた両手は白くなるほど固く握りしめられていて、何かを必死に抑え込んでいるようにみえる。
大森は、これ以上言葉で問い詰めても藤澤が素直にならないことを察した。そこで、そっと手を伸ばし、その固く結ばれた拳を包み込むように握った。
その瞬間、思わず息を呑む。掌から伝わってきた藤澤の肌は、まるで氷のように冷たくなっていた。
「……めっちゃ冷たいじゃん」
その呟きに、藤澤は目を逸らしたが、それでも繋がれた手を振り払うことはしなかった。
三人の心配をよそに、藤澤がどこまでも大丈夫だと言い張るものだから、車内の会話は無理やり別の話題へと移っていった。
若井が次の現場のスケジュールの確認を始め、マネージャーの山本がそれに淡々と答える。大森も時折相槌を打ちながら、徐々に繋いでいた藤澤の手を離した。
それでも意識の半分は隣の様子に割いたままで、どうか自分の嫌な予感が当たらないでくれと、心のどこかで強く祈っていた。
しかし、その願いは最悪な形で打ち砕かれることになる。
「ッおぇ、」
だんだん賑やかになってきた車内で、短く、けれど湿り気を帯びた嘔吐くような音が隣から聞こえてきた。大森の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
この世で一番嫌いな音が 聞こえたような気がした。
全身の血の気が一気に引いていく。恐る恐る隣へと視線を向けると、そこには、先ほどまでの穏やかな微笑みなどはなく、藤澤は両手で必死に口元を覆い、苦しそうに背中を丸めて前かがみになっている。
大森にとって、この状況は単なる「友人の体調不良」では済まされないものだった。大森は、自分が吐くことも、他人が吐くところを見ることも、その音を聞くことすらも激しく拒絶してしまう、強い嘔吐恐怖症を抱えていた。けれど、そのことはメンバーにもマネージャーの山本にも打ち明けたことはない。 藤澤の喉が再びヒクッと鳴るたびに、大森の脳内には恐怖が広がっていった。
助けてあげなきゃいけない、背中をさすってあげなきゃいけない。
頭ではそう分かっているのに、体が激しい拒絶反応を起こしていた。指先はガタガタと震え、呼吸は浅くなり、視界がチカチカと点滅し始める。 隣から聞こえてくる、今にも決壊してしまいそうな生々しい呼吸音。それが耳に届くたび、大森は無意識に藤澤から距離を取るように、車のドアの方へと体を押し付けた。
「……っ」
声を出そうとしても、喉が引き攣って何も出てこない。 藤澤を心配する気持ちと、この場から今すぐ逃げ出したいという、本能に近い恐怖心が激しくぶつかり合う。
車の窓には、助けを求めるように自分の方を向いた藤澤の横顔が映っていたが、彼はそれを見て見ぬフリをすることしか出来なかった。
前方では、まだ何も知らない若井と山本が楽しげに会話を続けていた。その明るいトーンが、今の大森にとってはひどく遠く、どこか別の世界の出来事のように感じられる。
(大丈夫?って言わなきゃ、でも言えない。どうしよう、怖い、見たくない、逃げたいっ……)
頭の中はその強烈な恐怖心で埋め尽くされていた。
「っ…ぅえ…」
隣から、再び重苦しい音が漏れる。大森は反射的に、自身の体をさらにドアに押し付けた。窓の反射をチラッとみると、藤澤はもう、顔を上げることすらできない様子で、ドアに寄りかかりながら前かがみになっている。
必死に口を突き上げるものを飲み込もうとしているのか、その喉元がヒクヒクと痙攣するように動いていた。けれど、それももう限界だった。
「…ぉえっ…ゲボっ…ぅえ…」
嫌な音が車内に響き、藤澤の指の間から、隠しきれなかったものが溢れ出した。クリーム色の吐瀉物が、藤澤のズボンにボトボトと音を立ててこぼれ落ちていく。大森の視界にその色が入り込んだ瞬間、彼はたまらず目を逸らした。心臓が早鐘を打ち、肺の空気がうまく交換できない。ヒッ、ヒッ、と大森の呼吸は目に見えて荒くなっていく。
異様な音と、車内に漂い始めた微かな匂いに、ようやく若井が異変を察知した。
「…涼ちゃん!?吐いちゃった!?大丈夫!?」
若井がバッと勢いよく後ろを振り向き、惨状を見て声を上げた。その声に反応して、山本もバックミラーを覗き込み、顔色を変える。
「え、まじか。大丈夫?ちょっと停めようか」
山本が慌てて車を近くのコンビニに停めようとする中、元貴はただ一人、恐怖に陥っていた。顔面は蒼白で、目元は涙で潤んでいる。
けれど、藤澤に必死な若井には、そんな大森の様子は目に入らなかった。それどころか、一番近くにいながら何もせず、ただ固まっているだけの大森に、焦りからくる怒りが湧き上がった。
「ちょっと元貴さ!隣にいるんだから分かるじゃん。もっと早く教えてよ!」
鋭い声が、パニック状態の大森の耳に突き刺さる。若井は助手席から身を乗り出しながら、動かない大森に苛立ちをぶつけるように言い放った。
「ぅ、ぁ…ごめ…」
言い終わらないうちに、車がコンビニに停まったので若井が勢いよく外に出て、ぐるっと回って大森側のドアを開けた。
「元貴、ちょっとどいて」
若井の焦りを含んだ鋭い声が、狭い車内に響いた。介抱するためにスペースを空けてほしいというだけの意図だったが、パニック状態の大森にはそれがひどく冷たく、自分を突き放す言葉のように聞こえてしまった。
大森は、体を縮こませるだけで精一杯だった。動きたくても動けない。若井が、身バレ防止のためにドアを閉める。そしてかがみながら、藤澤と大森の間に座った。
若井が藤澤の背中をさすり、山本がビニール袋やウェットティッシュを運転席から若井に渡した。二人が必死に藤澤の世話を焼く中、大森だけがその輪から完全に取り残されていた。
視界の端には、苦しげに肩を震わせる藤澤の背中と、汚れてしまったシートが映る。大森は必死に目を閉じ、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。けれど、車という密閉された空間からは逃げ場がない。鼻をつく特有の酸っぱい匂いが、彼の肺の奥まで入り込んでくる感覚に、全身の毛穴が逆立つような嫌悪感が襲う。
(こわい、にげたい、たすけて、いやだ)
呼吸がうまくできない。酸素を吸い込んでいるはずなのに、まるで溺れているかのように胸が苦しい。指先は氷のように冷たくなり、自分の意志とは関係なくガタガタと震え続けている。
藤澤が再び低くえずく音が聞こえるたびに、大森の心臓は激しく跳ね上がり、喉の奥がキュッと締まった。助けてあげたいという理性は、得体の知れない強烈な恐怖に塗りつぶされていく。
隣で繰り広げられる光景が、まるで悪夢のワンシーンのように非現実的に感じられた。懸命に藤澤を支える若井の背中。「大丈夫だよ、ゆっくり吐きな」と声をかけるマネージャー。その誰もが、すぐ隣で大森が呼吸を荒らげ、今にも倒れそうなほどパニックに陥っていることに気づいていない。
その時、大森の胃の奥が、ぎゅるりと嫌な音を立てて激しく波打った。
(……やっぱりきたか)
大森にとって、吐くという行為は単なる生理現象ではない。それは幼い頃刻み込まれた、トラウマそのものだった。一度そのスイッチが入ってしまえば、吐き気が止まらなくなる。
こみ上げてくる熱い塊を無理やり喉の奥へと押し戻そうと、奥歯をガチガチと噛み締めた。顎のあたりが痛むほど力を入れているのに、胃の不快感は一向に収まる気配を見せない。
しかし、皮肉なことに「自分も吐いてしまうかもしれない」という予測は、さらなるパニックを引き起こした。そのパニックが自律神経をかき乱し、さらに吐き気を増幅させていくという、逃げ場のない負のループに陥っていった。
(考えちゃだめだ。意識を逸らせ…でも、気持ち悪い、くるしい……)
逃げ場のない密閉された車内。すぐ隣で繰り返される藤澤の苦しげな吐息。
視界がぐらりと大きく歪み、大森の顔からは完全に血の気が引いて土気色に変わっていった。冷や汗が滝のように流れ落ち、首筋を伝って服を湿らせていく。
大森は自分の胸元を強く掴み、必死に「その時」が来ないように祈り続けていた。けれど、隣から聞こえてくる嘔吐く音が引き金になり、大森の喉もまた、自身の意志に反して大きく跳ね上がった。
__to be continued…
…………………
リクエストありがとうございました。
多くの方からリクエストをいただいたため、2つあったリクエストの片方のみとさせていただきます。
1人でも多くの方のリクエストに応えたく、また私の筆が遅いため、このような形となり、申し訳ありません。
またのリクエストがあれば、もう一度コメントしていただけると嬉しいです🙏
…………………
皆さんリクエスト沢山くださって、ありがとうございます!!嬉しいです!
誰からも来なかったら凄い恥ずかしいなと思っていたので安心しました…笑
本当にありがとうございます!!
※今後1コメントにつき、1リクエストとさせていただきます。
たくさんリクエストしたいという素敵な方は、複数回に分けてリクエストしてくださると嬉しいです。
何卒よろしくお願い致します。
コメント
12件
更新ありがとうございます✨✨嘔吐恐怖症はあんまり見たことなかったんですが…言い出したくても恐怖に飲み込まれて何もできない❤️がもうそれはそれはリアルでお話に一気に引き込まれてしまいました…。次回の更新も楽しみにしています
めっちゃくちゃ最高です!!!!! このパターンの嘔吐恐怖症あまりみないけれど私はこちらの方がとてつもなく大好きです!
これの続きがみたい!