テラーノベル
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藤澤の背中をさすっていた若井の耳に、後ろから異様な音が届いた。
「ひゅっ…ヒッ……ヒッ…」
短く、ひきつった音。
若井は思わず手を止め、反対側に座る大森を振り返った。 大森は反対側のドアに寄りかかり、背中を丸めていた。顔を背けているので、表情は分からない。肩は激しく上下し、明らかにまともな呼吸ができていない。 だらんと脱力した腕、そして指先が細かく震えているのが見て取れた。
「……元貴?」
異変を感じた若井が声をかけるが、返事はない。不安に駆られた若井は、藤澤からそっと離れ、大森の方に移動した。
「元貴、どうしたの。大丈夫?」
そう言いながら、若井は肩を軽くトントンと叩いた。それでも彼は顔を上げようとしない。若井は覗き込むようにして大森の顔を確認した。
その瞬間、言葉を失った。先ほどまで吐き気に苦しんでいた藤澤よりもさらに顔色が悪く、まるで幽霊のように真っ白だった。
「…え、元貴?…元貴!?おい!!」
瞳は焦点が定まっておらず、大量の冷や汗が顔中を覆っている。若井はそのただならぬ様子に、背筋が凍るような感覚を覚えた。力強く肩を揺さぶる。
「ッ山本さん、やばい元貴が」
若井は半ばパニックになりながら、マネージャーに助けを求めようと運転席を向いた。けれど、そこに山本の姿はなかった。いつの間にか、藤澤のために水や着替えを買ってこようと、すでに車を降りて店内に駆け込んでしまった後だったのだ。
「…まじか、どうしよう」
若井は目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。
「…っ、元貴、分かる!?俺の声聞こえる?」
若井の声は、焦りで少し上ずっていた。隣で震える大森に何とか反応してほしくて、もう一度肩をしっかりと叩き、氷のように冷たくなった手を力いっぱい握りしめた。
「やばい、救急車かこれ、」
何度も呼びかける若井の声が、パニックの霧の中にいた大森の耳に、ようやく微かな音として届き始める。大森は焦点の合わない瞳をゆっくりと動かし、若井の姿を捉えようとした。
「……ゎか、ぃ…」
視界の端に、助手席に手を伸ばしスマホを手繰り寄せる若井の姿が見えた。
「ッ元貴!?大丈夫!?」
声に気づいた若井がこちらを振り向き、傍に寄ってきた。目を開けるのも辛そうな大森の手を握り、肩に手をあてる。
「…だ、だいじょ…ぶ…」
途切れ途切れに、ようやく絞り出された声。それは今にも消えてしまいそうなほど弱々しく、お世辞にも大丈夫と言えるような状態ではなかった。若井は顔を歪める。この短時間で何があったのか。
「どっか痛いとこある?呼吸が苦しいとかある?」
若井の頭には、大森の様子から、真っ先に心筋梗塞などの突発性の病の可能性が浮かんだ。しかし、大森は青ざめた顔のまま、小さく首を横に振った。
違う。そう伝えようとしたが、言葉を発する気力がない。車内にはどうしても消えないあの匂いが漂っている。それを意識するだけで、喉の奥が引き攣り、言葉がせき止められてしまう。
若井は原因が分からず、さらに困惑した表情を浮かべた。しかし、力なく首を振る大森を見て、話すことすら体力を必要とするくらい体調が悪いことを察する。とにかく目の前で苦しんでいる大森をどうにかしてあげたくて、必死に原因を考える。
もう一度大森の表情をよく観察する。そしてさっきまでの状況を踏まえると…。
「…気持ち悪い?吐きそう?」
若井は、大森も藤澤と同様、車酔いをしたのかと考えた。しかし、その問いかけに、大森は怯えたような、何かに追い詰められたような表情で、勢いよく何度も首を振る。けれど若井には、それが「気持ち悪くない」という返事ではなく、自分の不調を必死に隠そうとする頑なな拒絶に見えた。
若井は、少し黙って様子をみることにした。大森は、硬いドアの凹凸に無理やり体を預けている。けれど、全身の力が抜けてしまっているせいか、体はズルズルと力なく下の方へ滑り落ちていく。そしてまた、グイとドアの方に寄りかかる。その繰り返し。
その様子は、見ているだけでも痛々しく、呼吸のしづらさを助長しているように見えた。
「…ごめん。気づかなくて。ずっとしんどかったんだな」
若井の声は、さっきまでの焦りや苛立ちが嘘のように、静かで優しかった。大森の手を握りながら、若井の胸の中には強い後悔の念が渦巻いていた。藤澤がえずき始め、パニックになっていた車内で、自分は大森に対して突き放すような言葉を投げかけてしまった。
あの時、元貴は藤澤と同じように、あるいはそれ以上に、どうしようもない体調の悪さと闘っていたのかもしれない。それなのに自分は、ただ固まっているだけの元貴を非協力的だと誤解して、焦りのままに怒りをぶつけてしまった。
大森は顔を伏せたまま、何も答えない。けれど、その震える指先が服の裾をぎゅっと掴んだのが分かった。
悶々と考えを巡らせていると、若井はハッと気づいた。大森のことで手一杯になっていたけれど、涼ちゃんも相当しんどいはずだ。そう思った矢先、後ろから心配そうな声が聞こえてきた。
「元貴、大丈夫……?」
若井が振り返ると、そこには顔色の悪さは残っているものの、少しだけ表情の和らいだ藤澤がいた。
「ちょっと体調悪いみたい。涼ちゃんこそ、もう大丈夫なの?」
「一回吐いたらスッキリした。ごめん、車の中汚しちゃって……」
「ううん、そんなのいいって。とりあえず、楽になったなら良かった……」
若井は胸を撫で下ろした。藤澤は申し訳なさそうにしながらも、吐瀉物で汚れてしまった上着を器用に脱ぎ、ビニール袋にまとめ始めている。
その様子を見て、若井は少しだけ肩の荷が下りるのを感じた。涼ちゃんは、とりあえず大丈夫そうだ。そう判断した若井は、再びドアにもたれかかっている大森の方へと向き直った。
苦しげな吸気音の合間に、ゴクン、ゴクンと、何度も唾を飲み込む音が聞こえてくる。吐き気を必死に、文字通り喉元で押しとどめているのが伝わってきて、若井は胸が痛んだ。
「……元貴、お水飲む?」
自分に何か出来ることは、と考え提案するも、大森は、少し間が空いたあと、ただ首を振るだけだった。胃を刺激したくないのか、あるいは口を開くことすら体力を使うのか。
本格的に体がだるくなってきたのか、大森は靴を脱いでさらにドアによりかかった。その様子を見て、若井は心配する思いが強すぎるあまり、言葉の端々に焦燥感が混じり始める。
「吐きそうなら、吐いちゃった方が楽だよ。袋もあるし、大丈夫だから」
しかし、大森は苛立ったように激しく首を振った。若井は眉間に皺を寄せる。何故嫌がっているのかも分からない。それとも吐くような気持ち悪さではないのか。
「…元貴」
「……」
「自分で吐けない?」
「…ぃい…」
「吐く感じじゃないの?気持ち悪さは」
「…ぃから、いい…」
「え?なんて言った?」
しかし、その聞き返しがギリギリで保っていた大森の糸を、ぷつりと切ってしまった。
「〜〜っ、うるさいな、ほっといてよッ!…こわいって言ってんじゃん、!」
大森が勢いよく顔を上げ、弾かれたように叫んだ。その瞳には大粒の涙が溜まっていて、叫んだ拍子にボロボロと頬を伝ってこぼれ落ちる。震える声でそう言い放つと、再び拒絶するようにドアの方へと顔を背け、小さく丸まってしまった。
若井はその場に凍りついたように、呆気に取られてしまった。普段、こんなふうに子供のように感情を爆発させて泣く姿なんて、一度も見たことがなかった。それに、そもそも泣いていたなんて気づかなかった。
若井の頭の中は疑問符で埋め尽くされた。 良かれと思って声をかけ続けていたのに、どうしてここまで激しい拒絶が返ってくるのか。ただ「吐けば楽になる」とアドバイスしただけなのに、どうして大森はあんなに泣いているのか。そもそも何が怖いのか。
少し離れた席で様子を見ていた藤澤も、驚きで目を見開いたまま固まっている。
「グズっ…ぅう”…ヒグッ…ヒッ…」
車内には、嗚咽だけが響いていた。
若井は、困ったように藤澤と顔を見合わせる。その瞳には戸惑いと罪悪感が色が濃く浮かんでいた。
藤澤は、今までのやり取りを一つひとつ頭の中で整理していた。元貴がさっきから必死に吐き気を我慢していた様子、若井が「気持ち悪い?」「吐けば楽になる」と言うたびに激しく取り乱したこと。それらを繋ぎ合わせ、一つの答えに辿り着く。
「…元貴」
藤澤が、まるで壊れそうな物を扱うような、優しく落ち着いた声で呟いた。
「もしかして吐くのが怖い?吐きたくない?」
その問いかけに、元貴の肩がびくりと揺れた。しばらくの間があった後、膝を抱えて顔を伏せたまま、元貴は小さく頷いた。
若井はその頷きを見て、ようやく得体の知れない違和感の正体が分かったような、納得した表情を浮かべた。自分にとっての楽になる手段が、元貴にとっては恐怖の対象だったのだと、ようやく点と線が繋がった。
「苦しくなるから怖いの?」
藤澤がさらに踏み込んで聞く。大森は顔を伏せたまま、しばらく迷うように沈黙していたが、やがてくぐもった震える声で答えた。
「…それも、だし……汚いじゃん……」
その言葉には、自分自身がそんな「汚いもの」になってしまうことへの嫌悪感と、その「汚いもの」を自分の体から出す底知れない恐怖が混じっているようだった。
「汚くないよ」
若井が、食い気味に、けれど力強い声で答えた。
「誰も汚いなんて思わないよ。涼ちゃんだって、俺だって、そんなこと一ミリも思わないから」
それでも、大森は俯いて黙ったままだった。
「アレだったら、俺たち外に出てようか?一人の方がいいとかある?」
藤澤が気を利かせて提案した。けれど、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、大森は首を振った。恐怖と戦っている今、たった一人にされるのは、それ以上に耐え難いことだったのだろう。
「あ、それはいいのね笑」
二人は顔を見合わせ、この状況下で不謹慎ながらも少しだけ笑みがこぼれた。それほどまでに大森が自分たちを頼っているのだと感じたからだ。
「ちょっと換気しようか」
藤澤がそう言って、静かに窓を開けた。外の冷たい空気が車内に流れ込み、淀んでいた空気が少しだけ動く。
「カーテンは閉めっぱだけど、ちょっとは変わるはず」
外からの視線を遮りつつ、匂いだけでも逃がそうとする藤澤の気遣いに、若井も小さく頷いた。
「……薬買ってきてもらう? 山本さんに」
「あぁ〜、そうするか」
吐くのがどうしても怖いのであれば、薬で胃の動きを抑えるしかない。二人は大森をこれ以上怯えさせないよう、他の解決策を必死に捻り出した。
「自分で吐くのは難しいよな……」
若井がそう呟いたが、大森は依然として顔を伏せたまま、震える呼吸を繰り返すだけで何も答えない。
「……あーでも、薬飲めるかなぁ」
「うーん……」
胃が受け付けるかどうか。吐くのを恐れる大森のために、二人は策を考え続けた。
………………
次でいよいよラストです!
今日中に投稿しようと思うのでお楽しみに…!!✨
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楽しみ🥰