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陽が傾き始めた頃、小さな町の商店街の喫茶店で仲間と談笑していた年配の農家の男性のスマホが音を発した。
ピコピコとけたたましく鳴るスマホを手に取り、アプリを起動する。その男性は頭をかきながら、やや若い農家仲間に尋ねた。
「なあ、これは罠が作動したって知らせか?」
30代の男がその画面をのぞき込んで、我が意を得たりという口調で答える。
「そうそう! どうです、山田さん。俺が言った通り便利でしょ?」
山田と呼ばれた年配の農家は感心した表情で言う。
「いやあ、まったく便利な世の中になったもんだ。10キロも先の罠にかかったかどうか、分かるなんてな」
「さっそく行ってみましょう。今ならギリギリ日が暮れる前に着ける。田中さん!」
若い男が中年の仲間に声をかける。
「田中さん、確か猟友会でしたよね? 念のため猟銃持って一緒に来てもらえませんか?」
田中はカウンター席から立ち上がりながらうなずく。
「おお、いいとも。途中で俺の家に寄ってくれりゃ、ライフル出すよ」
山田が上着のポケットから車のキーを取り出して立ち上がる。
「よし、俺の車で行こう。悪いな二人とも、俺の畑の事に付き合わせちまって」
田中が笑って答える。
「いいって事よ。お互い様だ。俺の畑も獣害が深刻でな。他人事じゃねえ」
そして3人は山田の四輪駆動の自動車に乗って、冬本番に差し掛かった信州高原の道を山際の農地まで走った。
頂上に雪を被った浅間山が遠くに見える、山田の畑に到着した時には、もう日は山の稜線の上に差し掛かっていた。
畑の脇に2メートル四方ほどの金属製の檻があり、畑を荒らすイノシシが中に閉じ込められている……はずだった。
だが、その大きな檻は横転しており、扉の部分はぐにゃりと曲がって破壊されていた。山田が顔をしかめて悲鳴のような口調で言う。
「壊されてんのか? 逃げられたのか?」
一番若い男、佐藤が壊れた檻を見つめながら言う。
「いや、こりゃイノシシの仕業じゃない。あの檻は熊でもそう簡単にゃ壊せねえはずだが」
檻から数十メートル離れた林の中でバキバキと枝が折れる音が響いた。猟銃を構えた田中を先頭に3人は、既に中が暗くなった林に近寄る。
何かが3人の前にドサッと落ちて来た。血まみれの肉塊だった。それをじっと見た田中が震える声で言う。
「イノシシの頭だ、こりゃ。それも潰れてる。やっぱり熊か? いや、熊にしたって、こんな真似は……」
さらに林との境に近づくと、グシャグシャと何かが肉を噛み砕くような音が響いた。田中が猟銃の銃床を肩にあて本格的に構える。
グルルルとうなり声が響く。3人の視界にギラギラと光る一対の目が入った。その目の位置は、一番背が高い佐藤の、さらにやや上にあった。
「うわあ!」
3人は一斉に怯えた声を上げ、後ずさる。その獣はくるりと向きを変え、毛皮を波打たせ、長いしっぽを振りながら林の奥に消えて行った。
「お、オオカミ? いや、あんな馬鹿でかいオオカミがいるわきゃねえ!」
田中がつぶやく。佐藤が引きつった声で言う。
「ば、化け物だ!」
その言葉が合図であったかのように、3人は競うように車に向かって走り出した。ほうほうの体で逃げていく車の後を追うかのように、遠吠えのような叫びが地を揺るがすように辺りに響いた。
二日後、6人乗りのワンボックスカーが現場近くの道の駅に停まっていた。帝都理科大学の渡教授、遠山准教授、帝都新聞記者の筒井、宮下警部補、自衛隊から出向中の松田。
渡研究室、通称「渡研」の5人が思い思いに飲み物を片手に休憩を取っていた。遠山の横に筒井がやって来て、好奇心満々の口調で尋ねた。
「遠山先生、どんな生物の仕業だと思いますか?」
遠山は熱い紅茶が入ったカップで手を温めるようにして答える。
「現場へ行ってみないと僕にも見当がつかない。少なくとも日本の固有種ではないだろうね。渡研に調査の依頼が来るぐらいだから」
「オオカミではないかと、目撃者は言っているようだが」
同じくカップを持った渡が横に来て言った。遠山は渡のカップの中をのぞいて言う。
「番茶とは渋いですね、渡先生」
「番茶じゃなく焙じ茶だ。そんな事はどうでもいい。オオカミという可能性は?」
「断言はできませんが、考えられません。目の位置の高さから計算すると、頭と胴体だけで体長5メートルはある事になります。しっぽを入れると全長6メートル。そんな巨大なオオカミは世界中どこにもいませんよ。第一、ニホンオオカミは明治時代の終わりには絶滅している。北海道のエゾオオカミも同じ頃絶滅したというのが通説です」
宮下が空になったカップをごみ箱に放り込んで言う。
「目撃者の誤認だったんじゃありませんか? 日が暮れ始めていて、薄暗かったようですから」
渡があごひげをしごきながら言う。
「そう願いたいもんだ。いくら怪奇現象専門の捜査チームになったと言っても、学者としては関わりたくないからな。ところで松田君はどこに行った?」
筒井が売店の方を指差して答えた。
「念のため食料を調達しておくとか言ってあっちに。そう言えば遅いですね」
「ちょっと様子を見に行くか」
渡がそう言って、4人は売店の方へ歩いて行った。
売店スペースの中の、野菜、果物、山菜などが並んでいる場所で、松田は中年の女性と熱心に話し込んでいた。
渡が売り物の棚を見て首を傾げた。
「やけに物が少ないな。しかも高い。今年は不作なのか?」
その声に気づいた松田が振り返った。
「ああ、渡先生。ちょうど今その事をこちらの方にお聞きしておりました。食害のせいだそうです」
「野生動物に農地を荒らされたという事かね?」
松田と話していた女性は、勢いよく話始めた。
「そうなんですよ! この辺りの山には、鹿もイノシシも猿もいますんでね。うちの畑もほら、これ見てよ」
女性はタブレットを後ろから取り出し、次々と写真を見せた。そこには一面掘り返された畑の地表が映っていた。野菜や果物の無残な破片が一面に散らばっている。渡が顔をしかめて言う。
「こりゃひどいな。農家の損害もバカにならんでしょうね」
「いやもう大損害だよ」
店の女性はため息をつきながら言う。
「温室の壁を突き破られたとこもあるんですよ。害獣よけの電流フェンスとか張り巡らしてる農家もあるんだけどね、もうお金がかかってしょうがないんですよ」
松田は林檎を一袋買って、5人は店を後にして車に向かった。車に乗る直前、渡は他の4人に指示した。
「そろそろ防寒着を着用しておこう。昼間はまだしも、陽が落ちると寒いぞ、この辺りは」
あの一件の現場に着いた5人は、口から白い息を吐きながら地元の警察官から状況の説明を聞いた。
制服の上にスキーウェアの上着を羽織った警官は宮下に言う。
「どうにも原因が分かりません。鉄格子の檻をここまで壊せるもんでしょうか? 専門家が言うには、上から押しつぶされたらしいんです」
警察官である宮下が代表して話を聞き、質問した。
「上から、ですか?」
「はい、鉄棒が縦方向に曲がっていたそうで。横からぶつかって壊したのなら、横向きに曲がるはずです。どっちにしても、イノシシの力で壊せるような強度の檻ではないはずなんです」
地面を調べて歩き回っていた遠山がふと足を止めた。そこから警官に大声で訊く。
「この辺には馬を飼っている牧場とかがありますか?」
警官はすぐに首を横に振った。
「いえ、馬はいませんね、この辺りには。ちょっと離れた軽井沢なら観光地ですから、いるかもしれませんが」
渡が遠山の側に来て訊く。
「何かあるのか?」
「見て下さい、この足跡を」
遠山が指差した地面には、いくつかの足跡らしき窪みがあった。渡も首を傾げる。
「これは、蹄の跡か?」
「ええ、この大きさだと馬だとしか思えないんですが。しかし、馬が肉食なわけはないし」
「死んでいたイノシシの頭部はどうなんだ?」
「頭全体が噛みつぶされた感じですね。オオカミのような肉食獣なら喉笛に噛みついて獲物を仕留めるはずです。一体どんな動物なのか、ますます分からなくなりました」
それから5人はワンボックスカーで山道を登り、その巨大生物の行動圏とおぼしき一帯を見て回った。
森に面した付近で道が途絶え、手分けして入れそうな場所が無いか探してみる。10分ほど経ってまた車の側へ集合した。森の一番奥まで入ってきた松田が首を振りながら言った。
「ダメですね。これ以上車は奥に進めません」
渡が腕組みをして言う。
「では、ここからは歩いて行くしかないな」
遠山が泣きそうな顔で異を唱えた。
「ええ! いや、歩くとしても地図ぐらいないと危ないんじゃないですか?」
筒井が少し離れた場所を指差して言った。
「あそこに大きな家が見えますよ。地元の人なら、地形図ぐらい見せてもらえるかもしれません」
車でその家に向かう途中で風が強まり、雪がちらついて来た。雪はだんだん激しくなり、視界を遮るようになった。
到着したその家は、西洋風石造りの重厚な外観だった。サッカーが出来そうな広い庭の奥にそびえ立つ3階建ての家屋の天井には、やはりレンガ作りの大きな煙突まであった。
「こりゃ家と言うより、お屋敷だな」
渡が建物を見上げながらつぶやいた。遠慮がちに柵も何も無い庭に足を進めたところで、建物の横から人影が現れた。
上品な古風な深緑色のワンピースだった。厚いスカートの裾はくるぶしまである。まるで昔の貴族の令嬢のような服装の若い女性だ。
彼女は背中の肩甲骨あたりまで長く垂らした髪を風に揺らしながら、小さく頭を下げて渡たちに問いかけた。
「何か御用でしょうか?」
渡が名刺を取り出しながら彼女に近寄る。
「突然申し訳ありません。私たちは大学の研究室の者でして。あちらの森の奥に行きたいのですが、地図とか地形図とか、そういった物をお持ちでしたら拝借できないかと思いまして」
彼女は名刺を受けとって目を落とし、愛想よい口調で言う。
「もしかして、最近騒がれているオオカミのような動物とやらの調査に来た方々ですか?」
「はい、その通りですが、どうしてご存じで?」
「この辺りは田舎ですから、そういう話はあっという間に広まりますのよ。でも、この天候で森に入るのは危険すぎます。今の時期の吹雪なら一時的な物で1,2時間でやむでしょうが、町へ戻るにしても雪が小降りになってからの方がよろしいでしょう。もし良ければ、うちで休んでいかれませんか? 大したおもてなしは出来ませんが」
渡は振り返って周囲を見渡す。雪はますます勢いを増し、視界一面が白く見えた。渡は彼女に向き直り頭を下げて言った。
「ではお言葉に甘えてそうさせていただけますか? 私は渡と申します。この4人は、まあ私の助手のようなもので」
彼女はにっこり笑って会釈を返した。
「申し遅れました。私は山際麗子と申します。では、どうぞこちらへ」
麗子に促され、5人は屋敷の玄関に向かった。
屋敷の中はアンティークという言葉がこれほど似合う場所も滅多にないだろうという壮麗な内装だった。
客間の10人用はあろうかという大きなテーブルの椅子に腰かけていると、麗子が銀色の盆に乗った大きな紅茶のポットと、人数分のティーカップを運んで来た。
松田が手伝って熱い紅茶が入ったカップを各自に配る。カップを手に取った筒井が思わず声を上げた。
「わあ、ずいぶん高級そうなカップですね。なんかヨーロッパの貴族のお屋敷みたい」
麗子がクスクスと笑いながら答えた。
「そんな大層な物じゃありませんよ。この家は大正時代に外国の貿易商の別荘として建てられた物だそうです。私の父が10年ほど前に買い取って、改装しながらだましだまし使ってますの」
渡が紅茶を一口飲んで麗子に言う。
「長い間ここに住んでいらっしゃるんですか? もしそうであれば、お尋ねしたい事があるんですが」
「10年前に父と一緒に引っ越して来ました。でも大学に行っている間は家を離れていましたので、実質6年ですね」
「この地方に、何か言い伝えのような物があるとお聞きになった事は? たとえば巨大なオオカミの伝説とか?」
麗子は小首をかしげて数秒考え込んだ後、優雅に首を横に振った。
「聞いた事はないですね。父は理系の科学者でしたから、そういった話には興味がない人ですし」
突然客間の入り口から声が響いた。
「そして娘もそんな非科学的な事に興味はない。天気が回復したら、さっさと出て行ってもらおうか」
毛皮の登山服のような恰好の、渡と同じ年齢ぐらいの背の高い男が、不機嫌そうな表情を隠そうともせず、テーブルの近くへ歩いて来た。
すっかり白くなった髪をボサボサに首筋まで伸ばし、同じく白いヒゲを頬からあごにかけて伸ばした、その顔を見て遠山が驚いて椅子から立ち上がった。
ポケットから名刺を取り出しその人物の側へ駆け寄る。
「もしかして、山際優作博士でいらっしゃいますか? 元京都先端技術大学の教授をなさっていた」
「なぜそれを知っている? 君は何だ?」
「はい、私も生物学の研究者なんです」
遠山が差し出した名刺を、山際博士はちらりと見ただけで受け取ろうとはしなかった。
「ふん、帝都理科大学か」
「はい、生物学の分野の研究者で博士の名前を知らない者はいません。お会いできて光栄です」
「昔の話だ。今はもう俗世間の事に興味はない。勝手に押しかけて来られても迷惑だ!」
「お父様!」
麗子が立ち上がって大声を出す。
「この方々は私が家にお招きしました。お客様です。失礼ですよ」
山際博士は顔をしかめたまま皆に背を向け、屋敷の奥に向かって大股で歩き去りながら言う。
「私は書斎にこもる。夜まで誰も通すな」
客間の扉がバタンと音を立てて閉まり、麗子が5人に頭を下げた。
「大変失礼な事を。父は、何と言うか、人間嫌いでして」
渡が笑いながら答えた。
「いえ、気にしないで下さい。確かに突然押しかけて来た見知らぬ連中だ」
麗子はふと何かを思い出したという表情で言った。
「お役に立つかどうかは分かりませんが、古い資料がひとつあります。しばらくこのままお待ち下さい」
麗子が客間を出て行くと、筒井が興味津々という口調で遠山に訊いた。
「さっきの男性、お知り合いなんですか?」
「いや、僕ら生物学者の間では有名というだけで面識はないよ」
「どういう方なんです?」
「遺伝子研究の天才だよ。医学とも連携して画期的な医薬品をいくつも開発して若くして億万長者になったという噂なんだ。10年ほど前に突然大学を辞職して、それ以来姿を消した伝説的な科学者ってとこだね」
そこへ麗子が戻って来た。手には小さな封筒のような物を持っている。それをテーブル越しに渡された渡が、開けて中身を取り出す。ボール紙に縁取りされた2センチ四方ほどのフィルムが出て来た。
「マイクロフィルムか。これは懐かしい物が出て来たな。お借りして行ってよろしいんですか?」
麗子がうなずいて言う。
「はい、お役に立てればいいのですが」
渡が窓ガラス越しに外の様子を見て言う。
「だいぶ雪が収まってきたようだ。じゃあ、そろそろおいとまするとしよう」
その夜、宿を取った旅館の一部屋に集まった渡たちは、マイクロフィルムを読み取り装置にかけ、ノートパソコンの画面に移し出した。
薄く灰色がかった紙の表面に、インクでびっしりとアルファベットの文字が並んでいる。渡がそれを見て言う。
「欧文文字だな、何語だ?」
横から筒井が口をはさむ。
「フランス語だと思います。あたし大学で第二外国語はフランス語でしたから」
「何と書いてある?」
「ううん……あたしが習ったフランス語と文法が微妙に違いますね。単語も見覚えがない物も多くて。多分すごく古いフランス語の方言なんじゃ」
「だったらさっさとやらんか」
「ひええ、ごめんなさい、ごめんなさい。何の事だか分からないけど、すみません、すみません」
「何の事だか、それぐらい分かれ! 君のとこの新聞社なら文系の学者とコネはたくさんあるだろうが。フランス語の専門家と連絡を取って、これを画像にして送って、解読してもらえと言っとるんだ!」
翌日午前中に筒井のパソコンにメールが来た。あのマイクロフィルムの文章を西日本の言語学者が日本語に翻訳してくれたその内容だった。
渡たち男性陣が停まっている部屋に集まり、筒井がそのメールを他の4人のノートパソコンに転送し、それぞれに中を見る。
メールの冒頭に、あの文章は18世紀の中盤頃にフランスのロゼール県で使われていたフランス語であるらしいと書かれていた。
内容を読み終わった一同は一斉に首をひねった。宮下が沈黙を破る。
「ロシア貴族からフランスの貴族への手紙という事ですよね。何かを送ったという内容ですね」
筒井が応じる。
「だとしたらフランス革命の前の時代ですね。その荷物はもともとはモンゴルで手に入れたともあります」
松田が言う。
「その送った物は、生き物じゃないでしょうか? それも生きたまま。給仕というのはエサやりの事だと思います」
遠山が自分のノートパソコンを手早く操作しながらつぶやいた。
「もしかして、ジェヴォーダンの獣と関係が?」
渡が視線を向けて遠山に訊く。
「何の事かね、それは?」
「1764年から1767年にかけて、フランスのジェヴォーダンと呼ばれていた農村地帯で100人以上の被害者を出した事件があったんです。巨大なオオカミのような姿の怪物が次々に人を襲ったという。俗にジェヴォーダンの獣と呼ばれている事件ですよ」
渡があごひげをしごきながら言う。
「似ているな、今回の件に。まあ、幸いこちらでは人的被害は出ていないが」
松田が遠山に訊く。
「いったいどんな怪物だったのでありますか?」
「牛ほどの大きさの、オオカミのような姿としか記録に残っていない。その顔はまるで怪物のようだったという描写もあるが、何がどういう風に異様だったのかは伝わっていない」
宮下が遠山に言う。
「その怪物は結局どうなったんですか?」
「それも曖昧なんだ。時のフランス国王までが興味を示してハンターを派遣して大きなオオカミを仕留めた。だが、その後も怪物の襲撃は続いた。その怪物が本当にオオカミだったのか、他の何かだったのか、今でも謎のままなんだよ」
筒井が誰にともなくつぶやく。
「今回の事件は、そのジェヴォーダンの獣が、日本のこの地方に再び現れた、そういう事になるんでしょうか」
その日の正午過ぎ、町のはずれの県道を若い女性がオートバイで走っていた。全身をライダースーツで多い、長距離ツーリングを楽しんでいる途中、道を間違えて迷い込んでしまっていた。
道案内図のある場所でバイクを降り、元の道路に戻るルートを探していると、妙にエンジン音が大きなスポーツカーが2台、彼女を取り囲むようにして停まった。
車の中から、髪を派手な金髪に染め、ピアスをあちこちに着けた男が3人、降りて来た。男の一人がなれなれしく女性に話しかける。
「へい、カノジョ。こんなとこで何やってんの? 俺たちと楽しい事しねえ?」
とっさに危険を感じた女性はすぐにバイクにまたがって立ち去ろうとしたが、バイクの後方に回り込んだ別の男が、後ろの車輪を蹴り飛ばしてバイクを横転させた。
「何すんのよ! 近寄るな!」
男たちはニヤニヤと笑いながら、女性の体を舐めまわすように見る。互いに目配せしながら下品な口調で言う。
「この辺誰もいねえみたいだぜ」
「へへ、じゃあ、ここで一発やっちゃう?」
「いいね、おい、その辺の茂みに引っ張り込め」
男3人がかりで体をつかまれた女性は悲鳴を上げた。男の一人が彼女のみぞおちに手加減もないパンチをっくらわせ、女性は息がつまって声を出せなくなる。
道の横の茂みに押し倒され、男たちの手がライダースーツのジッパーにかかる。その時、一番後ろに立っていた男の体全体が上に持ち上げられた。足が地面から10センチほど浮き上がる。
スイカが叩き割られたような音がして、その男の首から下だけの体がドサッと地面に落ちた。その音に気付いた残り二人の男が振り向くと、大きな犬歯が二本突き出した巨大な獣のあごが目の前にあった。
その口からさっきの男の、ぐしゃりと噛みつぶされた頭部が吐き出され、ごろんと地面に転がる。
男二人は悲鳴を上げて逃げ出すが、その後ろから巨大な獣は追いすがり、さらに一人の頭部をガブリとくわえ込み、そのまま噛みつぶす。
残った男は完全に腰を抜かし、道の上に尻もちをついた格好でへたり込む。女性ライダーも這って道に戻る。
それは巨大な猟犬のように見えた。だが、あごがイヌ科の動物のどれより横に平たく、全身を覆う毛皮はうっすらと青い。
獣が這いつくばったまま動けない女性に鼻面を寄せる。女性は死を覚悟して全身を硬直させた。だが、獣は女性の匂いを嗅ぐと、何もせず鼻面を離し、残った男の方に顔を向けた。
その時、ピーという甲高い音がその場に響き渡った。笛の高音をさらに何杯も甲高くしたような音で、女性は思わず両手で耳を覆った。
すると突然、その青い獣は二人から視線を離し、首を曲げて後ろを振り返り、低くグルルと唸った。
地面に座り込んだ男と女性を残して、その青い巨大な獣はくるりと向きを変え、森の斜面を駆け上がって行った。
一時間後、宮下と遠山は軽井沢警察署にいた。女性ライダーを襲おうとして噛み殺された男二人の遺体はそこに運ばれ、生き残った男もそこに収容されていたからだ。
係長とおぼしき制服警官は顔をしかめて宮下に、ぞんざいな口調で言う。
「警視庁の刑事が何の権限があって首を突っ込むんだね? ここは長野県警の管轄だ。帰った、帰った」
宮下は渡研の名刺を差し出して食い下がった。
「県警本部に問い合わせていただけませんか。ワタリケンと言って下さい。そうですね、公安委員会補佐室長あたりに」
警官はこれ見よがしにチッと舌打ちして名刺をひったくるようにして受け取り、奥に一旦去って行った。
数分後、制服警官は全力疾走で戻って来て、宮下に向かって敬礼した。
「た、大変失礼いたしました! 可能な限り便宜を図れとの、指示を拝命いたしました!」
宮下は遠山を指差しながら警官に言った。
「では、こちらの先生を司法解剖に立ち会わせて下さい。それから被害者の女性の入院先を教えていただけますか?」
一時間後、宮下と筒井はあの女性ライダーが入院している病室にいた。幸い暴行は未遂で、目立った外傷はなかった。
精神的にも安定したと判断した主治医が宮下の面会を許可した。宮下はベッドの脇に座って、なるべく彼女を刺激しないように話を聞き、筒井がその後ろに立ってメモを取る。宮下が出来るだけ柔らかい口調で訊く。
「もし思い出せれば、でかまいません。防犯カメラの録画を見ましたが、あの大きな獣はあなたを襲おうとしなかったように見えましたが?」
女性はベッドの上に上半身を起こして答える。
「ええ、あたしの匂いを嗅いでそのまま顔を離したみたいで」
「その時、何か特殊な香りのする物を身に付けていましたか? たとえば香水とか」
女性は首を横に振る。宮下は質問を変えた。
「3人目の男性が襲われそうになった時、あなたは耳をふさいだように見えました。何かが聞こえたのですか?」
「音が、それも耳の奥まで突き刺さるような甲高い音がしました」
「最後の質問です。その大きな獣の色は青かった。間違いありませんか?」
女性は無言でうなずく。宮下と筒井は女性に礼を言って病室を後にした。
その夜、旅館の男性陣の部屋に集まった5人は収集した情報を整理した。渡が口火を切る。
「最も恐れていた事態になったな。とうとう死人が出たか。襲われた連中は地元の人間か?」
宮下が答える。
「3人とも関西方面からの旅行者です。以前から素行が良くない若者だったみたいですね」
「遠山君、遺体の状態は?」
遠山が思い出したくもないという表情で説明する。
「頭部を噛み砕かれて即死というところだそうです。ですが、体の肉を食われた形跡はありませんでした。食うために襲ったわけではないようですね」
筒井が遠慮がちに右手を上げ、渡が発言をうながす。筒井は手帳を開いて話し始めた。
「本社に頼んで、山際博士の事を調べてもらいました。今から11年前、奥さんが亡くなっています。麗子さんのお母さんですね」
「どういう亡くなり方だったんだ?」
渡の問いに答えて筒井が言葉を続ける。
「自動車事故なんですが、山道を走行中に道に飛び出して来た鹿と車が衝突して、ハンドルを取られて崖から転落。即死だったようです。当時はまだ珍しいタイプの事故だったので、うちの新聞の地方版に記事が載ってました」
松田が右手をあごにかけてつぶやく。
「獣害もバカにできませんね。温暖化で生態系が狂ってきてるんでしょうか?」
渡がそれに応える。
「日本列島の生態系はとっくに壊れているんだ。1世紀以上も前にな」
「どういう事でありますか?」
「遅くとも1910年代にはニホンオオカミが絶滅した。何千年あるいは何万年にも渡って日本列島の山岳森林地帯で食物連鎖の頂点に立っていた捕食者がいなくなった事で、鹿やイノシシなどの草食獣が増えすぎたんだ。昭和の終り頃には既に野生動物が農業に与える食害は始まっていたが、最近になってより深刻になっている」
「なぜ1世紀も経ってから、なのでありますか?」
「天敵がいなくなったからと言って、翌年から急激に草食獣の数が増えるわけでもない。ある程度の回数、世代交代を繰り返し、限界を超えて増えすぎたのが今なのかもしれん」
「渡先生」
宮下があらたまった口調で言う。
「この件に山際博士が関係があると、どうして分かったんですか?」
渡は考え事をしている時の癖であごひげをしきりとしごきながら答えた。
「分かったわけじゃない、単なる勘だ。謎の巨大生物と天才生物学者。勘ぐってみる方が普通だろう?」
宮下が言葉を続ける。
「警察庁を通じて調べてもらいました。山際博士は一時期、日本オオカミ振興会の会員でもありました。奥さんが事故死された直後から、オオカミの再導入を強行に主張し、慎重派の会員と激しく対立。起訴はされませんでしたが、反対派の会員を殴って会を除名されています」
筒井が訊く。
「オオカミの再導入? 何ですか、それ?」
遠山が代わりに答えた。
「中国大陸にもオオカミはいる。それを捕獲して日本の山岳森林地帯に放して、オオカミがいるかつての生態系を再生しようという計画があるんだよ。実行された事はまだないんだが」
「それって危なくないんですか? オオカミは人を襲って食べるんじゃ?」
「西洋の童話などで、そういうイメージが強いけど、実はヨーロッパでもオオカミが人を襲ったという記録は歴史的にはそれほど多くないんだ。人口が増えて森を切り開き、農地を拡張したためオオカミの生息域に人間の方が侵入したと見る方が正しい。オオカミによる家畜や人間へ被害が目立つようになったのはそれ以降なんだ」
「ああ、言われてみれば、あたしもオオカミって赤ずきんとかからのイメージしかないかも」
「特にニホンオオカミが人を食い殺したという記録は極端に少ないんだ。まあ、肉食獣である以上、その危険はゼロではないがね。だから日本でのオオカミの再導入は慎重論が根強くて、未だに実行されていないわけさ」
宮下が口をはさむ。
「今回の獣なんですが、目撃者は青い毛皮だったと証言しています。遠山先生、毛皮が青いオオカミってどこかにいますか?」
遠山は首を横に振り、それから「アッ」と声を上げ、自分のノートパソコンで何かを検索し始めた。
キーボードを叩きながら、遠山は独り言をつぶやき続けた。
「元はモンゴルから……蹄の足跡……肉食……哺乳類……あった!」
遠山がパソコンの画面を皆に見せる。そこに映っているイラストを見て、他の4人は息を呑んだ。渡が低い声でつぶやく。
「蒼き狼、白き鹿……そういう事か」
「何ですか、それは」
筒井が訊く。渡は画面に見入ったまま答えた。
「モンゴル民族の古い神話だ。太古の昔、草原の東と西の果てから青い狼と白い鹿がやって来て、出会い、子どもを作った。それが人間の先祖だという神話だ」
「え? 人間が動物から生まれた?」
「一種のトーテミズムだな。大きな動物や力強い動物を神聖視する神話は世界中にある。そして、始新世という時代に今のモンゴルに棲息していたのが」
渡はそこで言葉を止めて遠山に視線を送る。遠山はかすかにうなずいて話を続ける。
「この地球の生物史上、肉食で陸棲の哺乳類としては最大とされている、アンドリューサルクスという種だ。それがこれなんだよ。約4,500万から約3,600万年前までの時代に棲息していた。逆に言えば絶滅したはずなんだが」
松田がパソコンの画面をのぞき込んで遠山に言う。
「しかし遠山先生。このイラストの生物は青くありませんが」
「アンドリューサルクスの化石は頭蓋骨と歯が数点見つかっているだけで、どんな生物だったのかは推測の域を出ない部分が多いんだ。特に毛皮の色は化石からは知りようがない」
「太古の狼というわけですか?」
「いや、オオカミとは全く別の進化系統だよ。近縁種との比較で、偶蹄目と言って足には蹄があるとされている。強いて言えば牛の遠い親戚だね」
「牛とオオカミでは全然違う姿かと思いますが?」
「収斂(しゅうれん)進化と言ってね。全く違う進化系統の生物でも、生きていた環境や食性が似ていると、似たような姿になる事があるんだ。一番分かりやすい例は、サメ、恐竜時代の魚竜、それにイルカだ。それぞれ魚類、爬虫類、哺乳類なのに似たような姿かたちだろう?」
渡がまたあごひげをしごきながら言う。
「モンゴル高原の辺境にアンドリューサルクスが生き残っていた。偶然それを捕らえたロシア貴族が生け捕りにしたそれをフランス貴族に売った。あのマイクロフィルムはその記録というところか」
また松田が訊く。
「ですが渡先生、何のためにそんな取引を? あの生物がそれだとしたら危険過ぎるかと思いますが」
「単に珍獣を飼いたいという物好きだったかもしれん。だが兵器として輸入したという可能性もあるだろうな」
「兵器ですか?」
「あれほど巨大な肉食獣なら、18世紀のフランスでは敵にとっては十分に脅威足り得ただろう。政治家や軍人の考える事など、いつの時代も似たようなもんだ」
宮下がつぶやく。
「フランスに渡ったアンドリューサルクスが逃げ出し、ジェヴォーダンの獣になった。そう言えば、山際博士は20年以上前から度々フランスを含むヨーロッパへの渡航歴があります。どこかでアンドリューサルクスの子どもでも手に入れたのかしら?」
遠山が応じる。
「別に生きているサンプルである必要はないかもしれないよ。18世紀に密かにはく製にでもされていたのなら保存状態は化石より格段に良好だ。現代の遺伝子解析技術ならDNAを再現する事は可能だ」
宮下がさらに言う。
「暴漢に襲われた女性の証言では、甲高い音がして、あの青い獣が突然その場を去ったそうです。犬笛のような物だとしたら、あの怪物を操っている人間がいる可能性があります」
渡が最後に言う。
「あのマイクロフィルムを返しに行かなきゃならんしな、どのみち。敵だとしても、その懐に飛び込んでみるか」
その次の日は丸々準備にあてた。松田は群馬県の陸上自衛隊相馬原(そうまがはら)駐屯地までヘリで往復し、重火器を調達した。
遠山が松田を通じて頼んだある物質は、防衛医科大学校から別のヘリで空輸されてきた。
筒井と宮下はマスコミと警察のネットワークを通じて、山際博士のここ10年の行動履歴を追った。その結果、山際博士があの屋敷に大量の実験機材を運び入れてきたらしいと判明した。
渡と遠山は、アンドリューサルクスが出現した場所の地面を地面を舐めるようにして再調査して回った。
そしてさらに翌日、5人は山際博士の屋敷へ車で向かった。屋敷の少し手前で車を停め、松田と宮下は周りの森の縁から密かに屋敷に近づき、外から屋敷を偵察する事にした。
一行が別れようとしたその時に、近くの森から枝を揺らす音が次々に響き、グルルといううなり声と共に、巨大な一対の目が至近距離に現れた。
松田は肩にかけたゴルフバッグを開き、機関銃を取り出す。ドラム型の弾丸マガジンを装填し、逆V字型の脚を車の屋根に置いて構える。
遠山が自分と渡と松田の体一面に突然液体をかけた。渡が顔を真っ赤にして文句を言おうとした瞬間、青い毛皮をまとった巨大な獣が森から走り出て、5人に向かって突進して来た。
とっさの事に立ちすくんでしまった5人の目の前、自分の頭よりやや高い位置にアンドリューサルクスの鼻面が迫る。
アンドリューサルクスは5人の体の匂いを順番に嗅ぎ、まず筒井、宮下の体から顔を離した。それから松田、渡、遠山の匂いを嗅ぎ、そのまま背を向けてまた森の中へ走り去った。
機関銃を発射すべきかどうか迷っている松田を渡が制した。
「今はまだ撃つな。事の真相を完全に確かめるまでは、下手に手を出さん方がいい」
渡は自分の服の匂いを嗅ぎながら遠山に、噛みつきそうな表情で尋ねた。
「おい、何だこれは? 何を振りかけた?」
遠山はプラスチック製の薬剤のボトルを手に掲げて答える。
「エストロゲンですよ。人工的に合成した物ですけどね」
「エストロゲン?」
「俗に言う女性ホルモンです。奴は人間の、女性を特に、襲わないように思えたもんで」
宮下がハッとした表情になった。
「だからあのオートバイの女性だけから、あの生物はすぐに離れた。そういう事ですか、遠山先生?」
「人間の女性に育てられたのかもしれないね。だから同じ匂いがする女性は襲わない。まあ、イチかバチかの賭けだったが、当たりを引いたようだ」
渡が両手をパンと叩いて皆に指示する。
「よし手筈通り乗り込むぞ」
松田は機関銃を背負い、宮下は拳銃を片手に持ち、走って屋敷の裏手から敷地内に潜入する。
渡、遠山、筒井はそのまま車で正面から山際博士の屋敷を訪問した。
玄関のインターホンで来意を告げると、すぐに麗子が出迎え、3人を客間に招き入れた。紅茶を持ってくると言って麗子が一旦部屋を出ると、筒井が渡と遠山に耳打ちする。
「もし山際博士が今回の事件の黒幕なら、麗子さんも共犯である可能性が高いですよね。でも事件のカギになったマイクロフィルムをあたしたちに貸したのも彼女。何か行動が矛盾していませんか?」
渡は客間のドアを横目で見つめながら、小声で答える。
「ま、そこを探りに来たんだ。そのうち分かるさ」
やがて麗子が紅茶のポットとカップを運んで来て、テーブルの片側に渡たち、反対側にロングワンピース姿の麗子が座って会話を交わした。
渡がマイクロフィルムの入った封筒をテーブル越しに渡しながら言う。
「貴重な物をありがとうございました。おかげでいろいろ分かってきたようです」
「何が分かりましたか?」
「面白い形のペンダントをしていらっしゃいますね。その胸元に下がっているその飾り、なかなか興味深い」
「あら、これがどうかしましたか?」
「まるで笛のような形だ。犬笛ですかな? 例えば……」
一向に穏やかに微笑む表情を変えない麗子に、渡は低い声で告げる。
「青いオオカミをそれで操っているとか?」
「ふふふ、さすが一流の研究者ですね。どこまで突き止めていらっしゃるの?」
「あなたのお父上、つまり山際博士はここで何らかの秘密の実験を行っている。何のためにアンドリューサルクスを現代に蘇らせる必要が?」
「それは本人からお答えしよう」
突然壁の一部が横にスライドし、隠し扉から山際博士が現れた。
「この国の生態系を救うためだ。オオカミを乱獲で絶滅させてしまった我々日本人には、オオカミの代わりを務める義務がある。だが、いくら私でもオオカミを勝手に再導入する事は不可能だ」
遠山が珍しく怒りを顔に表して言った。
「だからと言って絶滅したはずの生物を蘇らせる事は、許されるという理屈にはならない!」
山際博士は意に介さないという口調で言葉を続ける。
「日本人がオオカミを絶滅させてから1世紀以上経った。今この国の生態系は崩れ、野生動物が農家にどれほどの損害を与えているか、それは君たちも知っているはずだ。オオカミを再導入するとしても、数百頭の群れが必要だ。そして大陸のハイイロオオカミが人間を襲わないという保証はない」
「それでアンドリューサルクスですか?」
「あの生物なら、1頭でオオカミ数十頭分の草食獣を駆除する。数が少なければ人間がコントロールする事も可能だ。まず人間に慣れさせる。今いる1頭はこの麗子が子どものうちから育てた。だから奴は人間の女性は襲わない。さて、男性も襲わないようにするにはどうすべきか? アルコール依存症の治療に使われていた、抗酒薬という物を知っているかね?」
「酒を飲むと逆に気分が悪くなるようにする効果がある薬剤ですね? それと何の関係が?」
「人間の肉を食べると不快感を発生させる薬品を混ぜてアンドリューサルクスに食べさせる。自然と奴らは人間を、少なくとも食うためには、襲わなくなる。日本には毎年結構な数の行方不明者の死体が出るのでね」
「机上の空論だ! そんな都合のいい薬が作れるんですか?」
「もう完成しておるよ。君たちの体内に既に回っている」
「何!」
立ち上がろうとした遠山の膝がぐにゃりと崩れ落ちた。次に立ち上がろうとした渡と筒井もそのままテーブルの縁に手をかけて床にへたり込む。渡がいまいましげにうめいた。
「しまった、あの紅茶に……」
山際博士が初めて人間らしい感情、うすら笑いを浮かべながら3人に告げた。
「人間への毒性は軽く一時的な物だ。30分ほど足腰が立たんだろうが、すぐに治るよ。その上でアンドリューサルクスの餌になっていただこう」
山際博士と麗子が、渡、遠山、筒井の3人の体を時代物のエレベーターで屋敷の半地下のスペースへ順に台車に乗せて運んでいる間、宮下と松田は屋敷の周辺を見て回っていた。
屋敷の裏手には地下室に通じているらしい大きなシャッター付きの出入り口があり、その手前の地面だけが枯草も苔もなく、踏み均された感じに見えた。それを見て宮下が言った。
「長い事大型の車がここを何度も通ったみたいね」
松田は機関銃を両手で持って周りを見渡しながら応じる。
「何を運んだんでしょうか? あのナントカ言う巨大な獣一匹だけのための物なら、それほど大量の資材は必要ないように思えますが」
「渡先生たちにメッセージを送信してみましょう。山際博士とある程度話が進んでいる頃だわ」
数分待ってみたが、3人の誰からも返信がない。通話に出られなくとも、ポケットの中で画面をタップすれば、受信したという信号は送れるようにしてあったはずなのに、であった。
宮下と松戸は顔を見合わせた。宮下が言う。
「何かあったと考えた方がいいようね。松田さん、いざという時には、あのシャッターを突き破って突入できる?」
「任せて下さい。この機関銃なら人が通れる程度の穴は開けられます」
屋敷の半地下室は100平方メートルほどの広い空間だった。その石畳の床の上に、渡、遠山、筒井は転がされていた。
手足が痺れて体を起こす事も出来なかったが、呼吸に不自由はない。一時的に筋肉に軽い麻痺を起こす薬物のようだ。
散弾銃を片手でぶら下げた山際博士が3人を見下ろす位置に立ち、その後ろにライフルを構えた麗子が立っていた。
渡が横にした体を必死でねじらせ、頭を上げて山際博士に叫ぶ。
「なぜだ、博士。こんな事までしてアンドリューサルクスを蘇らせて何になる? あの個体が永遠に生きるわけじゃあるまい?」
山際博士は地下室の隅にある大きなカーテンを横に滑らせた。その奥には、高さ1メートルほどの円筒形の装置が5個並んでいる。
その装置の表面の一部は透明になっていて、内部の様子がのぞけた。透明な液体の中に四足動物の胎児らしき物がうごめいていた。
床に寝転がったまま体の向きをやっと変えた遠山が、その装置を見て驚きの声を上げた。
「人工子宮! そんな物まで!」
山際博士は勝ち誇った笑いを浮かべて言う。
「もちろん、今の個体にもいずれ寿命は来る。だがその後を継ぐアンドリューサルクスは次々に生まれる。人間が壊してしまった日本列島の生態系を再生させるのだ。私の妻のような犠牲者を二度と出さないためにも」
遠山は顔を真っ赤にして言い返した。
「あなたは間違っている。アンドリューサルクスはニホンオオカミじゃない、まったく別種の生物だ。日本の自然が元に戻るわけじゃない」
山際博士は怒りを露わにして叫ぶ。
「お前たちのような愚かな大衆の反対のおかげでオオカミの再導入が実現しなかった。その結果この国の生態系はどうなっている? 農業が被る野生動物の食害は深刻化する一方だ。食料不足で熊も人里に頻繁に現れ、人が襲われる事態も増えている。これを解決せずして、何のための科学だ?」
山際博士は麗子の方を振り返り、命じた。
「麗子、アンドリューサルクスを呼べ」
麗子は躊躇した。山際博士が叱りつける。
「何をしている? 早くしろ!」
麗子は首に掛けている細い銀の鎖の先に付いている、小さな棒状の物を手に取った。小さな穴が3個開いている。うち2個の穴を指でふさぎ、先端を唇に当て、大きく息を吐く。
ピーという鋭い甲高い音が響き渡った。山際博士が壁のレバーを操作すると、シャッターがきしんだ音を立てて上に上がり始めた。
「お父様、考え直して下さい」
麗子が突然、山際博士に言う。
「あの子はもう二人、一般人を殺してしまっています。古代の動物が現代の人間と共存できるかどうか、もっと検討すべきだったのではないの?」
山際博士は聞く耳を持たぬという口調で言う。
「これは千載一遇のチャンスなのだ。フランスで密かに保管されていたアンドリューサルクスのはく製を私が発見したのは、神の導きとも言える奇跡だ。この機会を逃せば、この国の生態系はいずれ破滅する。私がその危機から日本を救うのだ!」
ダンダンという振動が外から地下室の床に伝わって来た。グルルといううなり声が少しずつ大きくなりながら近づいて来た。
シャッターが上がり切った四角い入り口から青い毛皮に包まれた、巨大な獣の頭が入って来る。口の両端から下にはみ出た鋭い牙が白く光る。
「マッドサイエンティストが!」
渡が右手を床についてかろうじて上半身を起こし、山際博士に怒鳴る。山際博士は少し感心した様子で言う。
「ほう! もう毒が抜け始めたか。年の割に大した体力だな。では、こいつが生餌と死肉、どっちを好むか試してみるか」
山際博士は散弾銃の銃口を渡に向けた。パーンと、鋭い銃声が地下室にこだました。
思わず目を閉じた遠山と筒井がおそるおそるまぶたをあげた時、床に転がっていたのは山際博士だった。その左胸からゆっくりと血が床に広がって行く。後ろから心臓を撃ち抜かれたようだった。
麗子のライフルの銃身の先から薄く煙が立ち上っている。アンドリューサルクスの体の両脇を駆け抜けて、宮下と松田が地下室に飛び込んで来た。
宮下は周りを見ますと瞬時に事態を把握し、拳銃を両手で構えて麗子と対峙する。松田は機関銃をアンドリューサルクスの頭に向け、掃射した。
機関銃の弾丸はアンドリューサルクスの右目あたりに命中し、青い獣は咆哮を上げながら後ずさり、地下室から逃げ出した。
渡が体を起こし、床にあぐらをかいた格好で座って麗子に問いかける。
「なぜだ、麗子さん? 我々を助けたのか?」
麗子はライフルを構えて宮下の動きをけん制しながら、冷静な口調で答えた。
「もっと早く父を止めるべきでした。それが出来なかった私の責任です。母をあの事故で失くしてから、父は人が変わってしまった。オオカミを再導入してこの国の生態系を取り戻すという執念に取り付かれてしまった」
松田が遠山と筒井の体を抱えて渡の側に置く。二人の体の痺れもだいぶ薄れていた。麗子が言葉を続ける。
「でも父は理系の科学者だったので、一番大事な事を理解していませんでした。人間もまた、生態系の一部なのだ、という事を。もし近年多発する獣害が、大自然が人間に与える罰なのだとしたら、私たちはそれを甘んじて受けるべきなのです。オオカミを絶滅させてしまった民族の末裔として」
麗子はライフルを構えたまま後ずさり、くるっと踵を返して上の階に抜けるドアの向こうに走り去った。閉まったドアが施錠されるガチャリという音がした。
宮下はその後を追って走ったが、閉まったドアはびくともせず、それ以上の追跡は出来なかった。松田が大声で宮下を呼ぶ。
「先生たちをここから脱出させる方が先です。宮下さん、手伝って下さい」
機関銃を体の前に下げた松田が筒井を背負い、遠山の体を左腕で支えながら地下室を出る。渡は宮下に背中を支えてもらって、ふらつく足取りで後に続く。
玄関前の広い庭を通り抜けようとしたあたりで、宮下が鼻をひくひくさせて顔をしかめた。
「何、この臭い? まさかガソリン?」
玄関のドアが開き、ライフルを構えたまま麗子が庭に降り立った。胸元の銀色の筒を口にあて、ピーと鳴らす。
渡たちの横手の森からアンドリューサルクスがゆっくりとした足取りで現れた。渡たちには目もくれず、ややよたよたした足取りで麗子に近づいて行く。
目の前まで来たアンドリューサルクスの、血で濡れて右目が潰れた頭部のあごのあたりを麗子は手で撫でた。青い獣は子犬が甘えるような、クーンクーンという声を立てた。
庭の敷地と道を隔てる境目に渡たちが差し掛かったところで、麗子が声を上げた。
「みなさん、もう一つ、お伝えしておく事があります。いくら父が資産家でも、一人だけでこんな実験を行えたわけではありません。父は、ある秘密結社のような団体のメンバーだったようです」
渡が必死に両足を踏ん張って、麗子の方に顔を向けて言った。
「秘密結社? どんな物なんだ、それは?」
「私にも詳しい事は話してくれませんでした。名前を一度聞いた事があるだけです。その名は、ノーヴェル・ルネッサンス」
庭の敷地から出たところで、宮下は渡の体を離し、拳銃を構えて麗子の方に向き直った。
「あなたはこれからどうするつもり? 警察の手からは逃げられないわよ」
麗子は顔を寄せて来る青い獣の鼻面を愛おしそうに撫でながら答える。
「逃げるつもりはありません。結局この子は人を殺してしまった。私はその罪を償わなければなりません」
麗子がライフルを構え、庭の隅に向けて引き金を引いた。乾いた銃声と火花の直後、庭の縁に沿ってオレンジ色の炎が立ち上り、屋敷全体を囲んで燃え広がり始めた。
「おいで、ブリュウ」
麗子は炎に驚いた青い獣を撫でてなだめながら、屋敷の建物に向かってゆっくり歩き始めた。
「あなたが本来いるべき場所へ帰るのよ。私も一緒に行ってあげる」
蒼い獣は死期を悟ったかのように、麗子の横を歩いて行く。炎の壁の向こうで、麗子とアンドリューサルクスが、火に包まれ始めた屋敷の建物も中に消えて行くのを、渡たちは黙って見つめている事しか出来なかった。
あちこちにガソリンが撒いてあったのだろう。屋敷はあっという間に炎に包まれ、屋根から焼け落ち始めた。その高々と立ち昇る炎の中から、ウォーンという遠吠えのような声が一瞬響いた。
翌々日、念のため渡、遠山、筒井の3人は地元の病院で検査を受けた後、車で帰途についていた。
途中の農村で小さな商店を見つけ、昼食のパンでも買っておこうと、車を停めて中に入る。
いかにも田舎の雑貨屋という感じの店だった。店番の高齢の女性にとっては珍客だったらしく、あれこれと世間話に付き合わされている時、渡が少し離れた場所にあるビニールハウスの様子に気づいて女性に尋ねた。
「あのビニールハウス、あちこち壁に穴が開いているようですね」
「ああ、イチゴの栽培をしてるんだけどね。熊に荒らされたらしいんだよ」
「熊ですか?」
「今年は山のドングリが不作だそうでね。露地栽培の野菜や果物は鹿やイノシシに荒らされるし、もう踏んだり蹴ったりだよ、この辺の農家は」
「猟友会が駆除とかは?」
「やっちゃいるんだけどね。でも、あんた、この辺の猟友会の平均年齢知ってるかい? 確か63超えてるよ。今の若いもんは狩猟免許なんか取りたがらないしねえ。しょせんイタチごっこだねえ」
車を停めた場所に戻った時、渡が遠山の肩を叩いて訊いた。
「さて、生物学者の先生。増大する一方の獣害は自然が人間に与える罰だという説、専門家としてどう思う? やはり甘んじて受け入れるべきかね?」
遠山は苦笑いをして答えた。
「意地の悪い質問をしないで下さいよ、渡先生。生物学もまた、人間のために行われている学問に過ぎません。その意味では、僕だって、渡先生だって、しょせんはあの山際博士の同類でしかありませんよ」
遠山は山の方を見つめながら、珍しく真剣な表情と口調で言った。
「その質問に答えるのは科学者の仕事じゃない。哲学者か、宗教家の仕事ですよ」
同じ日の朝、東京六本木の高層マンションの最上階。フロア全体が一つのユニットになっている住居兼事務所の居住アリアのダイニングルームで、一人の少女が朝食を取っていた。
テーブルの上には大画面のパソコンのモニターが3台並び、英語、フランス語、中国語の情報が次々と上にスクロールされて行く。
10歳ぐらいの年齢とおぼしき少女は、ロールパン、ベーコンエッグ、サラダと紅茶を順番に口に運びながら、モニターの文章を時々ちらちらと眺める。
背中まで伸びた真っすぐの長い黒髪、平均的な日本人の肌の色、背格好も年相応。着ているのは子供用のワンピース。どこにでもいそうな普通の少女に見えた。
ただ、その両目の瞳だけは、透き通った青だった。その瞳だけは年齢不相応な、冷徹な知性を感じさせた。
食事を終え、側に控えているメイド服姿の30代ぐらいの女性が紅茶をつぎ足す。少女はスマホを手に取り、素早く通話モードにする。3回目の呼び出し音で相手が出ると、少女は子供らしい高い声で早口で要件を告げた。
「ニューヨークの投資銀行のあたしの口座から、東京の証券会社の口座に送金しておいて。東京市場が開いたらすぐに買い付けるから。金額は、そうねえ、1億円、いえ、念のため1億2千万円にして。あと弁護士の先生たちに、今夜8時に来てもらって。うん、じゃ、よろしくね」
通話が終わったところで、メイド服の女性が幅広の封筒を少女に差し出す。
「先日仰せつかった調査報告です、会長」
「ああ、渡研とかいう所のあれね」
「珍しいですね、会長が全て紙ベースでと注文なさるのは」
「電子媒体は消去してもどこかに痕跡が残るもんね。念のためよ」
少女は封筒を開け中の5枚の書類を取り出し、上から順に目を通して行く。
「あら、渋いおじ様。ちょっと好みかも。こっちはなんか軽薄そうなおじさんね。え? 警視庁の刑事、それもテロ対策専門。こっちは全国新聞の社会部記者。それに、自衛隊!」
少女は椅子から子供らしい動きで飛び降り、隣の部屋のドアに向かう。ドアを開きながらメイド姿の女性に言う。
「仕事に集中するから、ランチの時間まで誰も入れないで」
メイド姿の女性は深々と頭を下げて応える。
「承知いたしました、会長」
少女が入った部屋には豪華な調度の作業机があり、壁の一面は天井までガラス張りになっていて、東京の街を見下ろす風景が見えていた。
少女は窓の外を見ながら独り言を言う。
「渡研、ちょっと甘く見てたかもね。あれは裏で内閣官房が動いているわね」
少女が机に座り、3面のモニターがある高性能パソコンを起動する。彼女が座っている椅子の後ろには飾りではあるが暖炉があった。
その暖炉の上の壁には金属製の大きなプレートが架かっており、ヨーロッパの貴族の紋章のような模様と文字が刻まれていた。金色で刻印されたその文字はこう書かれていた。
Novel Renaissance (ノーヴェル・ルネッサンス)。