奈緒子は長井の部屋の前にいた。
手には二つ市を超えたところからわざわざ買ってきた老舗のどら焼きの袋がぶら下がっている。
インターフォンを押すと、意外にも長井は迷わずにドアを開けた。
奈緒子を見ても驚いたり気まずそう顔はしなかった。
そして、どら焼きの袋を渡しながら謝罪する奈緒子よりも深く頭を下げた。
「奈緒子さんが悪かったわけじゃありません。私には向いてなかった、それだけなんです。逃げるような真似をしてすみません」
招き入れられたアパートの部屋で長井は頭を下げた。
「今は、お弁当屋さんでアルバイトをしてまして。これ、もしよかったら」
言いながらコーヒーとどら焼きが並んだテーブルにコロッケが出てくる。
「ぷっ」
奈緒子は思わず吹き出した。
「すごい組み合わせですね」
言うと長井も微笑んだ。
「奈緒子さんて、笑うとそんなに可愛らしいんですね」
十も年上の女性にそんなことを言われ、奈緒子は恐縮して顔を赤らめた。
そして勧められるまま割り箸を割ると、コロッケを一口分切って、口に入れた。
「……おいしい」
呟くと、長井は嬉しそうにシミだらけの顔で笑った。
「お似合いですね」
嫌味のない、心からの言葉だった。
その言葉を聞いて、長井はまた、コロッケのような丸い顔で笑った。
「奈緒子さん、バイタルさんからの発注書、FAX来てます」
新しく入った、ブロッコリーのような髪型の若い男性スタッフが奈緒子に紙を渡す。
(上司に机を挟んで正面からモノを渡すなよ)
思いながらも笑顔で「サンキュー」と言いながらそれを受け取る。
入社して3ヶ月。時崎のように吸収は早くないし、機転は利かないし、ミスも多いが……。
(これから茹でたり炒めたり焼いたり蒸かしたり。いろんな調理法があるわよね)
思いながら彼のもこもこした髪の毛を見つめ、心の中で笑う。
「奈緒子さん」
受話器を取ったその男がこちらを見る。
「KAMO医療機器さんからお電話です」
「わかった」
「外線です」
「了解」
わかってるわという言葉を飲み込んで受話器を取る。
「お電話代わりました。門脇です」
言うと、電話の向こう側にいるはずの高岡は、黙りこくっていた。
「もしもし?」言うと、
「声、変わりましたね。奈緒子さん」
その声が耳の奥に響いたような気がして、思わず受話器を落としてしまう。
ブロッコリーがこっちを見て眉をひそめている。
誤魔化し笑いを浮かべながら、もう一度受話器を握り直す。
「久しぶりね」
言うと、時崎は張りのある声で言った。
「お忙しいところすみませんけど、電子体温計非接触タイプ、20個を急遽頼みたいんですけど、お願いできますか?」
「はい、もちろん大丈夫です。ご注文有難うございます」
極めて愛想よく、しかし事務的に言うと、時崎は笑った。
「……結果的に良かったですね。KAMO医療機器にも太いパイプが出来て」
「そうかもしれませんね」
まだこちらを心配そうに見ているブロッコリーに首を振りながら奈緒子は発注書を書き始めた。
「でも俺のパイプはまだ試してないですけどね」
再度受話器を落としそうになり、持ち直すと奈緒子は咳ばらいをした。
「20本、確かに承りました」
言うと、電話の向こうの時崎は高らかに笑った。
「20個、お願いしますね。非接触タイプですから」
そう言うと、時崎は声を低くして続けた。
「20本の方も賜りました。いずれまた近いうちに」
「っ!!」
奈緒子はそれには答えず慌てて受話器を置いた。
ブロッコリーはもう違う電話対応に必死にメモを取っている。
息をつきながら発注書を書く。
『ペイドクター 赤外線体温計 非接触型20本』
「………20個だっつーの」
奈緒子は自分で突っ込みながら、慌てて引き出しから修正テープを取り出した。
【イタイ女 ~奈緒子の場合~ 完】